優しさに包まれて
…………ん?
何か……音が……。
部屋が暗い。
どのくらい眠ったんだろう? 帰ったときは、まだ明るかった……。
ドアの隙間から明かりが……ああ、児玉さんが来てくれたのか。
氷枕だ……。気持ちがいい。
持って来てくれたのかな……。
なんだか、自分が熱い。
堀内先生にもらった解熱剤を飲んだけど、時間が経ったから、また上がっちゃったのかも知れない……。
児玉さんを呼びたい。けど……、声を出すのも億劫だな。
そのうち様子を見に来てくれるだろうから……。
時計は……? いいや、もう。
目を閉じていると気持ちがいい。
体がふわふわして……、氷枕が冷たくて……、児玉さんの気配がして……。
合い鍵を渡しておいてよかった……。
「雪見さん?」
……児玉さん?
優しい声。そっと額に触れる手。
児玉さん以外、あり得ない。
目を開けると、電灯の明かりの中で、心配そうに俺をのぞきこむ児玉さんの顔。
ほらね、やっぱり。
俺の児玉さん。
「気分はどう?」
「……ふわふわします。」
「お医者さんには行ったの?」
「いいえ……。雀野駅からタクシーで帰って来て……そのまま。」
熱が高いせいで、いつもよりも呼吸が荒くなっている。
力も入らなくて、一息に話すことができない。
「ああ……、体がつらいのね? お薬は?」
「帰る前に……、堀内先生から、解熱剤を……。」
「帰る前だと……もう6時間くらい経ってるね。また熱いみたい。」
「はい……。」
「息が苦しそう。おかゆを作ったけど、食べられそう?」
おかゆ……。
児玉さんの手作りの……。
「大丈夫だと思います……。気持ちは悪くないので……。」
「そう。それじゃあ、持ってくるね。」
「はい。」
児玉さんの笑顔を見られるだけで安心する……。
のどが少し痛いものの、お腹の調子は悪くなかったので、児玉さんが作ってくれたおかゆは全部食べられた。
熱いタオルで体を拭いて着替えると、さっぱりして気分が良くなった。
けれど、熱を測ってみると、39度近くある。
「風邪かな?」
再びベッドに横になった俺の髪を手で梳きながら、児玉さんが尋ねる。
ベッド脇の床に座って、心配そうな表情で。
彼女をずっと見ていたいけど、今は目を閉じた方が体が楽だ。
「湯冷め、したんです……。今朝……、シャワーのときに、寒かったのに……我慢して……。」
「ああ、そうだったの……。」
目を閉じていると、児玉さんの手の感触がはっきりと感じ取れる。
頭をさわられることが、こんなに気持ちがいいものだと初めて知った。
「最近、朝の気温が下がってきているものね。」
「はい……。なのに、面倒くさがって……。」
「うっかりしちゃうこともあるよね。それに、雪見さん、疲れがたまっていたのかも。」
「そんなこと……。」
「ううん。わたし、もっと気を付けてあげればよかった。雪見さんは仕事が忙しくなっているのに、マラソンのトレーニングまでしてるんだもの。」
児玉さん……。
目を開けたら、児玉さんの悲しげな顔があった。
「児玉さんは、悪くありません。」
頭に乗せられていた手に俺の手を重ねる。
「仕事も……、マラソンも、引き受けたのは、……俺の勝手です。」
児玉さんは重なった手を引き抜いて、俺の手を引き寄せると両手で包んでくれた。
少しひんやりと感じるのは、俺の手が熱いから?
「それに……、児玉さんは、たくさん……手伝ってくれてます……。」
「でも、わたしがいなければ、そんなに頑張る必要はなかったよ。」
「違います……。」
児玉さんにちゃんと分かってもらわなくちゃ。
そんなに悲しい顔をする必要はないんだって。
「児玉さんは……受ける必要はないって……言ってくれました……。」
お父さんのときも。
黒川さんのときも。
「でも……。」
「それに……、どっちも、やってみて、よかったです……。」
「どうして……?」
「いろんなことが……、変わったり、分かったり、したからです……。」
「そうなの……?」
「はい。今は……頭が整理できなくて、上手く説明できませんけど……。」
「ああ……、苦しい? 手が熱いものね。」
その言葉と一緒に児玉さんから悲しげな表情が消えたのを確認して目を閉じる。
彼女の手がまた髪を撫でてくれて、その心地良さにほっとした。
念のためにと児玉さんが買って来てくれていた風邪薬を飲んで、もう一度横になる。
中身を入れ替えてもらった氷枕が立てるゴリゴリという音がなんだか面白くて、頭を動かしてみた。
「ふ……くく。」
ふよふよとした弾力も楽しくて、笑いがもれてしまう。
一人で遊んでいたら、コップを片付けに行っていた児玉さんが戻って来て笑った。
こんな子どもっぽいところを見られても、ただ楽しいだけ。
児玉さんの前では、ありのままの姿でいられる。
「来てくれて、ありがとう、ございます……。」
児玉さんはまたベッドの脇に座って、髪を撫でてくれた。
今度は悲しい顔をしないで、優しく微笑んで。
「いいよ、そんなこと。……ふふ、今日ね、坂口先生に叱られちゃった。」
あ……。
「5倍のこと、もっと早く相談してくれればよかったのにって。無理なことを、自分たちだけで抱え込んでちゃダメだって。」
「すみません。俺……、話してしまったんです……。」
「うん、いいよ、それで。坂口先生の言うとおりだもの。」
「はい……。」
「『もしも達成できなかったらどうするんだ!』って、叱るんだよ。まるでお父さんみたいだよね。でね、わたしが『できなくても結婚します。』って言ったら、『それじゃあ雪見さんが可哀そうじゃないか!』って。『あんなに頑張っているんだから、なんとか達成させてあげないと。』って。」
俺が可哀そう?
ああ……、男の意地を分かってくれたんだ、きっと。
「何か、協力できることを考えてくれるって言ってくれたよ。とりあえず、明日のブックトークはやってくれる先生を確保したから、仕事を休むように言いなさいって。」
「はい……。」
坂口先生が優しくて面倒見のよい人だということも、お父さんとの約束を果たそうとしなければ、気付かないままだったな……。
「マラソンの勝負のことも話しちゃった。」
それもですか……?
「坂口先生、生徒のウワサを聞いたみたいで、雪見さんが黒川さんと勝負するっていう話を知っていたの。そっちは片が付いてるのかって訊かれて……。」
そう訊かれたら、言わないわけにはいかないですよね……。
「呆れられちゃった。仕方ないよね……。」
「そうですね……。」
「ふふ。でもね、そのあと、ニヤニヤしながら、『絆が深まっていいねえ。』なんて言うんだよ。恥ずかしかった〜。」
「くく……、児玉さんでも、ですか……?」
「なにそれ? わたしだって、恥ずかしいときくらいあるよ。」
抗議をしながらでも、彼女の顔には満足そうな微笑みが浮かんでいて、とても幸せな気分。
児玉さんは、仕事の帰りに直接来てくれていた。
駅前のスーパーで買い物をして、バスに乗って。
「そろそろ帰るね。」
と彼女が言いに来たのは9時半。
もう上着を着て、手には荷物を持っている。
分かっていたけれど、淋しい。
「途中でお化けが出るかも知れませんよ。」
「うふふ、大丈夫よ。まだ早いもの。」
そうですね。
これ以上遅くなると、俺の方が彼女が無事に帰れるかどうか心配することになってしまう。
「一人じゃ、心細い?」
はい……と言ったら、ずっと一緒にいてくれるんですか?
「……大丈夫です。児玉さんに、風邪をうつしたりしたら……悪いし。」
「お利口ね。」
優しく額に触れる手。
「明日は早く来て、朝ご飯とお昼を作るから。」
そう言いながらも、彼女はベッドの横からなかなか立ち上がらなかった。
その様子を見ていたら、児玉さんの愛情が周囲に立ちこめている気がして、深々と息を吸い込んでみる。
「児玉さん、おやすみなさい……。帰ったら、メールをください。」
「うん、そうする。おやすみなさい、雪見さん。替えのパジャマはここに置くね。」
最後に頬を一撫でして、児玉さんは立ち上がった。
電気を消して、そっと部屋を出て行く。
「ここのドアは開けておくからね。」
玄関の鍵が閉まる音を聞いてから、目を閉じて……、夢の中で、児玉さんと一緒に道をたどった。




