第三章25 『憤怒の結末』
以前のことだ。
奏太がまだ『トランス』に慣れておらず、『部分纏い』はおろか、『纏い』すら満足に発動出来なかった頃。
戦闘スタイルに関して、葵に尋ねたことがある。
角が邪魔にならない戦い方はないのか、と。
奏太の能力は『ユニコーン』。
文献等で確認してみたところ、再現出来ているのは真っ白な毛、強靭な手足、額から生えた角。
たったのこれだけである。髪は何故か真っ赤だし、蹄もなければユズカやオダマキのような動物らしい爪も牙もなく、角以外は打撃しか出来ないという何ともアンバランス、あるいはピーキーな性能。
それでも複数の動物が混ざっているが故の戦闘力は高く、ラインヴァントの中ではユズカに次ぐ強さだと自他共に認めているのだが、『ユニコーン』たらんとする能力の本質はそれとは別のところにある。
——角だ。
元々の幻獣『ユニコーン』の角は、どんな怪我や病気であれたちまちに治してしまうとのことだが、これは奏太の能力でも同様だ。
発動していればすぐに怪我は治るし、フェルソナが以前蓮に提供してもらったのだという『トランス』による毒もあまり効かなかった。
そんな桁外れの回復力は、戦闘継続能力、という点で見ればラインヴァントの中でも一番だと言っていいだろう。
また、人の身ではありえない程の硬さを誇ったハクアの体さえも貫いた威力もある。蓮もそうだが、奏太が以前の姿のまま攻撃しても致命傷と呼べる傷が一つも入らなかったというのに。
だかしかし、それが奏太の角の強さを証明していると言ってもいい。
奏太自身の強さはどうあれ、『ユニコーン』の角はそれだけのポテンシャルを秘めいているのだ、と。
ならば常時発動させておきたい、と考えるのが自然ではあるが、残念ながらそう上手くはいかず。
理由は至極簡単で、角が刺さるから。
……具体的に言えば、戦闘時にしゃがんだ時、あるいは回避が間に合わず壁に正面から激突した時。他の者ならばおでこや鼻といった顔面をぶつける場面において、奏太だけは角がぶつかり、そのまま刺さるのだ。
一見笑い話にも思えるし、稽古中にそれが起きてしばらくは梨佳や芽空、さらには希美にまでからかわれるという事件があったのだが、有事の際にそんなことが続いたら冗談では済まされない。
だからこそ奏太は『部分纏い』を覚える傍ら、葵を監督として自分なりの戦闘スタイルを確立した。
そしてそれは、
「ぼーっとしてんじゃねぇぞクソガキが!」
「————っと!」
体に馴染んだ感覚、その始まりを思い返していたところで、筋肉質な坊主頭の蹴りに邪魔される。
それを身を引いて避けつつ、周りを見渡すと、
「……結構倒したつもりだけど、多いな」
一体どれだけ湧いてくるというのか。人、人、人。人の嵐だ。
工場内からに限らず、コンテナ裏、廃棄されたのであろう粗大ゴミの影から、あるいは人に隠れて人が。もはや何でもありだ。ゾンビか。
数もそうだが、現在戦闘を行なっている場所が敷地内の小さな倉庫であるがために、なおさらタチが悪い。奏太の戦闘スタイルがあまり発揮出来ず、ひたすらに囲まれているのだから。
しかし何も、数に圧倒され苦戦しているわけではない。奏太は必要な時のみ『部分纏い』を使用することで消費を抑え、角を隠しているため刺さる心配もなく戦闘を行なっている。
それに、襲ってくる多くが『獣人』でもないただの素人で、喧嘩慣れしている者もちらほらと見られるが、歴史は浅くとも『獣人』の奏太に叶うはずもなく、おおよそ一撃ぶつけるだけでその場に沈むのだ。
たまに紛れている『獣人』や、違法ファイルを使用していると思われる者達も、彼らと比べて速さはあるが落ち着いて対処すれば特に問題はなく。
だから最初は要領よく一人、また一人と各個撃破していたのだが、五分程経った今も全滅どころか半数も減った気がしない。二十人ばかりならばそれこそ五分で片がついたはずなのだが。ブリガンテは相当チンピラを抱えているらしい。
——とはいえ、そればかりに時間を取られていては本来の目的を果たせない。
奏太の目的はユキナを救うことであり、ブリガンテの構成員皆を全滅させるわけではないのだから。
「だから——」
改めて確認しただけで倉庫の中と外、合わせて五十程だろうか。彼らの目を引き付けつつ、入口へ向けて高く跳躍し、そのまま駆けて倉庫を離れる。
「逃げんのかクソガキィ!」
「卑怯だぞ『獣人』が!」
後方——というよりは周り一帯から柄の悪い声が飛んでくるが、それを顔をしかめるだけで受け流す。
逃げれば当然、奏太を捕まえようと躍起になって建物や廃棄物の影から飛び出してくる者、飛び込んでくる者もいるが、それもまた跳ぶか蹴るかで回避。
そろそろ見るのも嫌になってきたチンピラの間を避け、途中狭い通路を搔い潜った先で出たのは——、
「————」
だだっ広い、アスファルトの空間。
元々何かを保管しておく場所なのだろうか、工場と隣接しているものの、隠れる場所一つなく清々しいくらいに真っさらな場所だ。
……奏太を待ち伏せ、あるいは追ってきたであろうチンピラの群衆が奏太を囲んでいなければ、だが。
「もう逃げらんねーぞ『獣人』!」
「本当うるさいなお前ら……」
群衆が口を揃えて奏太に罵詈雑言を浴びせてくるのに対し、奏太は冷や汗を流しつつも虚勢を張って、このくらい何てことないのだと振舞って見せる。
黒や茶、赤青緑黄、長髪短髪、デコ出し男、メッシュ男、ピアス男、様々な頭髪に、痩身恵体筋肉ダルマ、下は中学生から大学生とおぼしき者まで、多種多様な者達が奏太を睨み、捕らえんとする——映画ならまだしも、それを実際に目にし、さらにはその対象に自分がなっているなど誰が想像するだろうか。少なくとも奏太は想像しない。
しかし現実はどうか。
今か今かと彼らは警戒し、奏太を圧迫して抑えるようにジリジリと囲いを狭めてくる。
あまり時間はない。そう判断して、全ては見渡し切れなくとも辺り一帯を背伸びで確認し、他に余りはいないかを確認。そして、
「…………正直、使いたくはなかったけどな」
絶対に、消えることのない抵抗。
それを状況にそぐわぬふざけた思考で誤魔化そうと思っていたのだが、当然ながらそんなことで誤魔化し切れる程奏太の中の激情は軽いものではないし、仮に出来たとて時間は奏太を許してくれない。
だからこそ奏太は耐えるように瞼を閉じてすぅっと、深呼吸。
たくさんの酸素を取り込み、全身に行き渡らせつつ、意識を体の奥底——いやもっと下だ。自身の足へと向ける。
「————」
視界が暗闇でも、分かる。
先程まで言葉の暴力を奏太にぶつけてきていた者達が、囲う群衆が、奏太の近くにいる。射程距離の、範囲内にいる。
ならば奏太のやることは一つだ。
憎きあの男が、奏太に、蓮に使ったあの技を。
「……………ぁ?」
ただ、すっと右足を上げるだけ。
それに群衆から間の抜けた声が上がった。
彼らは今も瞼を閉じたままの奏太の行動に目を止め、疑問したのだろう。
奏太が、何をしようとしているのか。
だからこそ奏太は答える。口ではなく、動きで。
形式ばった行進をするように、腰下まで上げていた右足を地面に勢いよく下ろし——、
「————ッ!?」
直後、発生したのは衝撃波。
奏太が足を下ろした場所を起点に、地面に亀裂が走って割れ、猛烈な爆風と共に割れた破片が周囲へ飛び散った。だが奏太は瞳を開いてそれを確認すると、舌打ち。
一度じゃ足りない。もっとだ。何度も、何度も何度も何度も。
至近にしか当たらなかったものを広範囲へ、威力を上げ、量を増やし、地面を崩す。
————それはハクアが使っていた『地崩し』のように。かの男が防御として使っていた技を、今ここで奏太は再現したのだ。
彼と同じ名前をつけるのは抵抗があるので、『崩壊』と改名するが。
「これで、どうだ……?」
ハクアのものに比べれば威力は落ちるが、それでも一般人に向けて放てばまず回避は不可能で、下手をすれば重傷になりかねない。……だが、邪魔をするというのなら致し方ないことなのだ。そう自分に言い聞かせ、意識を再度周囲に向ける。
崩れた地面に立ち上がる白煙。
そこかしこから聞こえる呻き声に決意したばかりの意思が揺らぎそうになり——、
「あぶ、なっ!」
煙の向こうから腕が伸びてきて、顔面すれすれで横に逸れて回避。
自分でやったこととはいえいくら何でも視界が悪過ぎるので、煙から逃げるように地を駆けて、
「……さすがにやり過ぎたな、これ」
抜けた先で見えたのはまさしく地獄絵図。
奏太の『崩壊』を受けた者達がそれぞれの反応を見せていた。
怯え、痛み、懐疑、あるいは這い蹲りながら涙を流して。それらは全て並々ならぬ感情ではなく、普段の奏太なら今すぐにでも後悔をして、謝罪の言葉を述べる決断をしてもおかしくないくらいの光景だ。
それでも立ち上がろうとする者や、奏太の攻撃を受けてもなおダメージの無かった者、彼らから『怒り』が発せられていなければ。
「なんで、お前らは……」
だから奏太は、疑問する。
奏太がいくら攻撃しても数が減らないと感じていたのは、そのためだったからだ。
気絶させ、吹き飛ばし、重傷を負って悲痛めいた声を出しても、彼らは向かってくる。消えることのない確かな『怒り』を携えて、奏太を——否、奏太のその向こう側を憎んでいた。世間やHMA、自分達を否定した世界全てに。
そのありようは洗脳されている、と言われてもなんら違和感はなく、狂気の域に達する。
確かに『獣人』もいるが、大半は人。つまりはただの下っ端、雑用扱いであるというのに。だというのに、どうして。
——だがしかし、そう考えたとて答えは出ず、敵もまた奏太が答えを出すのを待ってくれるはずもなく。
「——ァァアア!!」
「くそっ!」
咆哮とともに『纏い』を宿し、全身を茶の毛皮で染め上げた『獣人』の男が奏太に襲いかかってくる。
その姿が完全な『纏い』ではなく、まだらになっている部分があるのが気になるところであるが、ひとまずは彼を倒すのが優先だと疑問を後回しにし、奏太は迫ってくる彼の動きを見つめる。
彼はやや大柄で頑丈な見た目をしているが、動きは奏太程早くはない。『崩壊』による傷がないことや、『纏い』が使えること。これらから考えるに恐らくは正式メンバーのいずれかであろうことは分かるが、
「とりあえず、だ!」
奏太は頭の中である少女を思い浮かべつつ、地面を這うように駆ける。そして茶毛皮の男の足元に来ると、そのまま彼の顎に掌底をぶつけようと跳躍。が、
「————!」
「これを避けるのかよ……っ!」
当たる寸前、顔を逸らされ不発に終わる。
空中で体を浮かした奏太を狙い、彼が両腕で潰そうとしてくるので、これを彼の体を蹴って宙返りする形で回避。
そのまま着地し、距離を置いて再び対面する形になるが、敵は目の前だけにあらず。
「ひゃはぁ! 気分がハイになってきた!」
「うるせェ!!」
度重なる驚愕に何かが外れたのだろうか、血走った目をした痩身の男が、地に足をつけたばかりの奏太に向けて横から回し蹴りを放ってくる。
それを怒声で一蹴し、足を掴むと、元々の回し蹴りの勢いを利用して彼を茶毛皮の男に投げた。
「——お、おおおおお!?」
まさか投げられるとは思っていなかったのか、やたら高音な驚愕の声が上がるが、奏太も何も考えなしで投げたわけではない。
投げた先にいるのはブリガンテの中で下っ端ではない、名有りの立場に属しているであろう茶毛皮の男だ。
今奏太が投げたような下っ端を率いることもある……というか、この状況がまさにそうだろう。
他に彼と同等の実力者が見られないあたり救いである反面、急に出てこられた場合対処しきれるか不安なところなのだが、ともあれ。
そんな立場の彼が、飛ばされて来た痩身の男を避けられるはずもなく、当たるか受け止めるかで終わり、隙ができると思ったのだが——、
「ぅ、がァ!」
しかしこの投げを、人情があるはずだと信じたからこその奏太の投げを、茶毛皮の男は回避することもなく、受け止めることもなく、当たることもせず、ただはたき落とす。
無慈悲に、非情に、当然のように。
「————」
そこには邪魔だからどけた、という温情の一つすら感じられない機械的……いや、本能的動作があり、奏太は絶句。
再度、確認する。
彼の立場は下っ端ではないはずだ。
一瞬の攻防とはいえ、奏太には劣るもののそれなりの実力があったことは明白で、トランプから名を取っているのだという『カルテ・ダ・ジョーコ』——ブリガンテの正式メンバーに与えられるナンバリングのいずれかに該当していても、おかしくはない。いや、むしろそうでなければおかしい。
これがまだジョーカーを含めて十三もあるのだと考えると末恐ろしいところではあるのだが、今彼に向けるべきは別の疑い。
「て、めェ……今何やったのか分かってんのか?」
「————」
体の奥底から湧いてくる『怒り』、それは先ほどはたき落とされた彼に放った怒声とは一線を画す、明確な敵意を持った激情。
これまではふわふわと曖昧なまま、現状をどうにかしようと散漫していた集中が研ぎ澄まされていくのが分かる。
奏太が投げたとはいえ、何の躊躇いもなく同じ組織の仲間を攻撃するなどと誰が思えようか。何かしら理由があるというのなら聞かせてみろと熱を孕む視線で睨んでみるが、
「————」
なおも、彼は何も答えない。
ただ獣のように息を荒くし、奏太の出方を見ているのみ。戦闘以上のものを求めず、欺瞞も弁明も謝罪も、いずれも口にしなかった。
直前の一切を気に留めず、ましてや下で気絶している男に目も向けず。
——その光景を目の当たりにして、奏太の中である一つの結論が出た。
彼を含めた正式メンバー……この場合、幹部とでもいうべき『カルテ・ダ・ジョーコ』は、葵やオダマキ達から聞いていたリーダーの男の思想そのものだ。
同じ組織に属していても、同じ『怒り』を共有する者であっても。種族も立場も性別も年齢も、少女も姉妹も。いずれも、目的を達するためならば人情も温情も向ける価値などないただの道具。今この瞬間、奏太という同じ標的を狙っていたとしても、邪魔ならば躊躇なく排除する。犠牲など一切厭わず淡々と、本能のままに。
奏太の『きっと』など、甘えなど、許しはしない。
「……っ、そっちが、その気だっていうなら!!」
だから奏太は、許せない。
甘えを嘲笑うそのやり方が、奏太の性根を否定するそのやり方が、気に食わない。見逃せないし、認めてたまるものか。
だから奏太は、ここに来てようやく自身の戦闘スタイルをさらけ出す。
『部分纏い』を『纏い』に切り替え、常時のものとすることで、手加減も躊躇もなしの、『崩壊』を使わないやり方に切り替えて。
角を生やしていても気にすることのない、奏太の戦闘スタイルを。
「————」
奏太の変化を雰囲気で感じ取ったのだろうか、茶毛皮の男が動いたと同時、『崩壊』の被害からの立て直しを終え黙視していた群衆も一斉に向かってくる。偶然にもそれは先と同じ状況——奏太を、囲うように。
至近に迫るそれらに対し、奏太は迷うことなく身を沈め、
「う、らァアッ!」
両手を地面につけたまま逆立ち状態になると、足を鞭のようにしならせて群衆をなぎ払い、弾き飛ばした。一切の手加減など、無しに。
残った数名が奏太のそれに怯んだのか、一瞬動きが固まったので、隙を逃さず駆けていく。
「…………ぁ」
一人目、動けないでいる強面の男の横っ面に、空中で体をひねりつつ右足による飛び蹴りを放って意識を奪う。
次に二人目、男ばかりの景色に珍しい女の姿だったが血気は盛んなようで、『トランス』に近い速さから『獣人』であると思われるが、横から飛んでくるビンタを避け、目潰しを避け、膝蹴りを避けたタイミングで足を払い、転倒させた。
——これらは葵が以前口にしていた戦闘技術、カポエイラを真似たものだ。バランス感覚はもちろん、全身の筋肉を鍛え直した上で修練を積み、たった数ヶ月ではあるが、葵はもちろんユズカにも認められる程のものには仕上がった。
それを改めて肯定するように奏太は敵を次々と沈めていくが、
「————っし」
まだ終わらない。
視線を右に、左に素早く動かし、残存する敵を確認する。
残る人数は茶毛皮の男を含めて四人——いや、戦意を喪失したらしい者を除けば三人だ。
多人数を相手にする場合、多数対一ではなく一対一を複数回、そう考えると良いと葵に習ったが……確かに彼の言う通りかもしれない。
事実ここまで奏太は目立った傷を負わず、今も戦闘を続けられているのだから。
それ込みで彼に感謝の句を述べようと決意し、
「てめェは後回しだ!」
迫ってきていた茶毛皮の男のラリアットをしゃがんで避け、再び地を蹴る。
向かう先は彼の向こう側、残る二人の男だ。
どうやら小さなナイフを二人共が持っているらしく、『獣人』と言えども当たれば致命傷は免れないが——、
「……そんなことで躊躇しねェよ!」
手前のピアス男の両腕で掴まれたナイフ。それによる刺突を半身になって回避、すると奥のデコ出し男がやたらめったらナイフを乱暴に振り回し、襲いかかって来る。
なので、先ほど奏太が避けたことで体勢を崩したピアス男の背中を蹴り、奏太は宙を跳ぶ。そして重力のまま落下し、デコ出し男の頭に踵をぶつけ、
「————あと、一人」
残るは睨んだ先、茶毛皮の男ただ一人になった。
工場内に行けば他のメンバーとの交戦は避けられないだろうが、少なくともあとは彼を片付けるだけでこの場は離れられる。
気絶した者達はいずれ意識を取り戻すだろうが、それまでには片がつく。いや、つけてみせる。
ユキナを早く助けたい。
ユズカと一緒に、幸せな日々を送ってほしい。こんな連中に身柄を渡したままなど、絶対に嫌だ。
吹っ切れてからただひたすらに溢れて来る『怒り』を全身に行き渡る力に変えて、奏太は茶毛皮の男に持てる限りの全てを尽くし、早々に目的地へと足を向ける————ことは叶わない。
何故なら、
「————ッ!?」
跳躍し、茶毛皮の男に飛びかかろうとした奏太は行動をキャンセルせざるを得なくなったからだ。
鼻先を掠める、獣。
どこからともなく凄まじい速度で飛んできて、奏太を食わんとする何か。それが茶毛皮の男と奏太の間に割って入り、この戦闘に終止符を打った。
「…………お前は」
————銀。
それは凍てつくように冷たく、悪寒が背筋を駆け抜ける。
月光を浴びて妖しく光るそれは、見るものがたちまち全てを忘れて眺め、息を呑むような魔力を孕んでいて。
しかしそれは違う。
奏太にとっては、見惚れることのない存在であり、見惚れてはならないのだと粟立つ肌が感じ取っている存在。
「————こんばんは、と挨拶をしておこうか。赤髪の君」
銀の長髪をざっとかき上げ、両の金の瞳で奏太を見据えるそれは——、
「——俺の名前はアザミ。ブリガンテのリーダーだ」
*** *** *** *** *** *** *** *** ***
——熱があった。
全身から迸る、熱。
芽空達と離れてからほとんど休むことなく『トランス』を使い続け、それでもまだ疲れを知らないこの体にも、当然発熱はある。
『怒り』によって頭にも血が上っていたし、なおさらだ。
しかしそれとは比較にならないほどの熱量が、奏太の中から噴き出してきていた。
「……てめェが」
「ん、どうした? 言ってみな、俺で答えられることなら答えるぞ。これでも勉強は出来る方だから、そういう相談でも構わない。ああ、賭けでもするのならなおさら——」
「とぼけてんじゃねェよッ!」
状況にそぐわぬ落ち着いた物腰で、両手を開いて親切そうに振る舞う銀の男、アザミ。
彼は奏太の叫びに対し、首を傾げて知らない調子で言葉を続けようとするので、奏太は強く踏み出し、言う。
「ユキナを攫ったのも、一年前まであの子達を利用してたのも、全部が全部、てめェだろうが!」
「——ああ、なんだ。そんなことか」
「そんなこと…………だと?」
それに対し返ってきたのは、呆れによるため息。
問題とするべきはそこにないのだと、そもそも意識すらしていなかったのだという態度だ。
……ふざけている。
目を剥き、睨みつける奏太に彼は苦笑。そして、
「そもそも、気にすることでもないだろう? 確かにあいつらの……いや、片割れは重要で価値ある存在だ。だが、それはモノとしての価値に過ぎない」
「————」
「何かの才能を持って生まれたのであれば、その才能は鍛え上げ、余すことなく発揮されるべきだ。性質が善であれ悪であれ、才能は等しく与えられるものではない。そうだろう? 勉強もスポーツも、人を惹きつける魅力も強さも適性も、何もかも。君はこれまで生きてきてそう感じなかったか? 感じてきただろう?」
彼の問いかけに肯定するでも否定するでもなく。ただ奏太はじっと彼を見つめるのみ。
だというのに彼は続ける。息をするように、何てことないのだという調子で言葉を止めない。
——いつの間にか、燃える程だった奏太の体の熱が引いているくらいには、長く。
「努力をすれば、なんていう奴がいるが、それじゃダメなんだ。分かっちゃいない。意思がなんだ? 協力がなんだ? 願いがなんだ? 手を伸ばして届かせようと努力をする。でもそれで届かないものだってある、そうだろう? そうなんだよ。世界は理不尽だ。生まれ持った才能で全てが決まり、人生が決まるし救われるし狂わされる。自分の意思じゃ届かないものも、あるんだ」
「…………そんなこと」
「ないと、言い切れるか? だとしたら、綺麗事だな。もちろんそれも悪くはないが……まあ、そうだな。戯言だ、そんなものは。どんな美辞麗句を口にしたって、誤魔化せない悪意はある。悪行も、悪事も。見えてるものはいい。だけど、自分の意思とは無関係のところで自分にとっての理不尽を作られていたのだとしたら? ……だとしたら、簡単な話だ」
理解など出来ない。したくもない。主義主張が相反する彼の言葉に、奏太は体がふらつくような感覚を覚える。
瞬きをしてもそれは、消えない。
「——あらゆる才を使って、理不尽を覆す。全てを壊す。奪われた全てを、略奪する。その為のブリガンテだ。その為の、あいつだ。俺はあの魔女に————」
頭の中に、反響する彼の声。
『それ』に気がついた時、既に奏太の視界は左右に揺れ、抵抗力が吸い取られたように失われていて。
驚きで目を丸くするアザミがこちらを見つめ、しばらくして何かに気がついて舌打ちをする。
だが、彼の言葉はもう奏太の耳に届かない。奏太の口からも届かない。
——意識が、暗転する感覚があった。
実際に口に出していたのかは分からない。音になったのか、否か。
けれど奏太は呟いた。
真っ黒に染まった視界の中で、小さく一言。
「————ユキナ」
これまでに何度かあった、『トランスキャンセラー』の感覚を味わいながら。
深く、深く、暗い水底へ。




