第三章間奏 『小さな、女の子』
白煙が立ち上がっていた。
「————?」
何が起きたのだろうか。
気がつけば自分は地に伏していて、辺り一帯は白景色。
「————ぇ、あ」
近くに誰かいないか。
停止しかけている思考でも、それを確認しなければいけないということだけは分かっていた。
けれど、声は掠れて上手く出てくれない。
それどころか、体も満足に動かせない。
「…………痛、い」
本当に、何が起きたのか。
全身が焼けるように熱い。
体を起こそうにも手先がヒリヒリとして、骨が軋む。
あまり動かしてはいけない状態なのかもしれない。
でも。
「動、かなきゃ……!」
それでも立ち上がる。
「————っ!!」
瞬間、全身に電流が走ったかのような痛みに襲われるが、倒れない。
止むことのない痛み、どころか動かせば動かす程に視界が赤く染まっていくような痛みの中で、少女は——ユキナは、進んでいく。
ずるずると足を引きずり、天井も壁も見えない白の闇中を。
自分が今、どんな状態なのか。
中断せざるを得なくなった計画のこと、他の人がどこにいるのか、どうしているのか。
一体何が、起きたのか。
疑問は尽きない。けれど今の自分に、それを確認するだけの余力がない。
「おね、えちゃん…………」
でも、頼ってはダメだ。
ここで甘えて頼ってしまったら、ダメなのだ。
涙が溢れてきて、顔がぐしゃぐしゃになっても。
「お姉ちゃん……っ!」
全身を襲う苦痛と未知の状況。
熱くて、辛くて、痛くて、苦しくて、分からなくて痛くて痛くて痛くて。
助けてほしい、笑って欲しい。声をかけて欲しい。
もう大丈夫だって、側にいるって言って欲しい。
「————ううん」
けれどそれでも、頑張る。
一人前になってみせるのだと。
あの女性なら、このくらいのことで弱音を吐いたりしないだろうから。
だからユキナは——、
「…………間に合った」
声を聞いた。
以前、耳にしたことのある声だ。
あの日ハクアに襲われ、全てが終わったはずのあの瞬間に、鼓膜に響いたあの声。
見知っていて、必死に自分を守ってくれた少女の声だ。
「ど、こ……?」
一体どこから響いてきたのかと辺りを見渡してみれば、白景色の中に人影が一つ、あった。
——あぁ、良かった。
姉達に一人前の姿を見せたい、そう思うのはユキナの確かな本音であるが、人影に安堵してしまったのもまた本音。
だからユキナは膝をつき、声を漏らしてしまった。
「レンお姉さん————っ!」
「…………あ?」
その声に、耳を疑った。
だってそれは、ユキナが知っているよりもずっとずっと低い声。
だってそれは、ユキナが知っているよりもずっとずっと怖い人。
だってそれは、ユキナが知っているよりも——、
「よォうやく見つけた。あの野郎ォ、まだだァって言ってんのによォ」
ユキナの前に現れた、人影。
それは黒フードの青年だ。
声だけで彼がどういう存在であるかが分かったのは、この異様な状況だからだろうか。
肌を刺すような視線が、それによって生じる緊張感が、全身が彼を知っている。知っていた。
「————ぁ」
「忘れちまったかァもしれねえし、名乗ってやるよ」
声を失ったユキナの元へしゃがみこみ、被っていたフードを外す青年。
彼はそこから現れた銀髪をかきあげ、ギラギラとした光を放つ金眼を見開くと、
「————俺の名前はアザミ。ブリガンテのリーダーだ」
獲物を捕らえた獣のような笑みを浮かべて、そう言った。
*** *** *** *** *** *** *** *** ***
——買い出しを終えて帰ってきた、昼下がりの自室。
夕食の準備に取り掛かるにはまだまだ時間があって、かと言って勉強会をするには葵もいない。
とすると、姉と共にカメラを抱えてアジトの中を回るか、姉と一緒に絵本を読むか、あるいは勉強会の予習復習かになるが——、
「え、用事…………ですか?」
「ああ。ちょっと芽空と……ユズカも、連れて。大事な用なんだ」
そこへ現れたのはユキナの憧れの人。黒髪の少年、三日月奏太だった。
——大事な用。
それをもう一度口の中で呟いてみるけれど、いまいちそれが何なのかは分からず。
しかし、具体的なことは分からなくとも、分かっていることはあった。
しゃがんで目線を合わせてくれている彼が、先ほど買い出しへ行った時と服装が違うこと。落ち着いた色合いが彼によく似合っていて、格好良い。
扉の前に立つ彼、その後ろにいる芽空がドレスを着ているから、二人は何か難しい話をしに行くのかもしれない。
それから、いつも優しい瞳で見てくれる彼が、今日は妙にムズムズとした表情をしていること。彼のこういった顔は時々見かけていたけれど、自分の前でそれを見せたのは初めてだ。
何か、心配事があるのかもしれない。
そして最後に、もう一つ。
一番に気にかかるのは、奏太の隣にいる少女で、
「——お姉ちゃんも一緒に行かないといけないんですね」
「……うん。会いたいって言うやつがいてさ」
少女——姉のユズカが求められているということ。
それは『かもしれない』じゃなくて、本当に確かな、真実の話。
「ユキナ、一人でだいじょーぶ? リカおねーさんいないし……あとみゃおみゃおもいないけど…………」
その姉は不安がる自分を見かねてか、心配するように問いかけてくる。
ちょっと変わっているところはあっても、仮にも恩人である葵がおまけ程度に扱われているのが気になるところではあるけれど。
「私は……」
視線を向けてみる。
姉に、芽空に、それから奏太に。
「んぅ」と声を漏らしたり、微笑みかけてくれたり、真剣な眼差しでこちらを見つめていたり。
三者三様の反応が返ってきて、でもそこには全部共通して心配があって。
ユキナは姉や奏太と違って、激しい運動が出来るわけでも『トランス』が使えるわけでもない。
ただ少し、他の人より少し、短い時間強くなれるだけ。
フェルソナが以前、そう言っていた。
このアジトに住む他の『獣人』達と同じなのだと。
だから、姉や誰かに守られてばかりだ。
だからユキナは、
「——私は大丈夫。ソウタお兄さん、メソラお姉さん、お姉ちゃんのことよろしくお願いします」
ぺこりと頭を下げて、三人を送り出す。
姉がまだ悩んでいても、守ろうとしてくれていても。
ユキナはそうしたいと思うし、必要なことだと思うし、奏太達もまた望んでいるだろうから。
「…………あ」
そうして無理くりに笑顔を浮かべようとして、思わず声が漏れた。
けれどそれは、緊張や不安からくる良くない声なんかじゃなくて、もっともっと楽しげな。
梨佳あたりがよく発する声だ。
「あ、あの……ソウタお兄さん」
「どうした?」
「ぇ、っと、好きな食べ物とかってありますか?」
「唐突だな。なんで今なのか分からないけど……そうだな、強いて言うなら卵焼……じゃなくてハンバーグとかオムライスあたりかな?」
良いことを思いついた。
子どもながらに純粋で、少し背伸びした計画を。
ワクワクする。でもちょっと怖い。でも、やってみたいと。
そう思い、問いかけた結果はハンバーグとオムライス。……と、直前で言うのをやめてしまった卵焼き。
いずれも何度か葵や奏太、蓮と作ったことのあるメニューだ。
卵焼きはまだ上手く焼けないけれど、落ち着いてやれば問題ないだろうと何度か頷いて、
「…………ユキナ、どうした?」
「ぇ、へ? あ、いえ。えっ、ええと…………はい。ありがとうございます」
ユキナの態度を不審がった奏太が訝しげな視線を送ってきた。
それに動揺し、しどろもどろになりつつも、何とか口に出さず誤魔化し切り。まさかすごいことを計画しています、などと言えるはずもなく。
代わりに、
「ソウタお兄さん達、どこへ行くのは分からないですけど……頑張ってくださいねっ! フェルソナお兄さんと待ってますから」
自分のせいで止めてしまったであろう三人にもう大丈夫だと言って、別れを告げる。
聞きたいことも聞けた、言いたいこともちゃんと言えた。
ならもう、呼び止めておいたって時間がもったいないから。
「ユキナ。……行ってきます」
「は、はい! 行ってらっしゃいです、ソウタお兄さん……っ!」
別れ際に頭を撫でられ、急激に熱が登ってくるが——それを確認する間も無く三人は出て行った。
ユキナが手を振って、姉のユズカが何度も振り返って。
廊下の奥の奥、ずっと奥まで行って三人の姿が見えなくなって、ようやくユキナはため息を吐いた。
「………………ふぅ」
それをきっかけにして、熱の灯る体からゆるゆると緊張が抜けて行くのが分かり、堪えるように体重を壁に預けて思案し始める。
どこから始めるべきか、どこから進めるべきか。
三人が帰ってくるであろう時間、フェルソナの行動、勉強、それからそれから。
考えることは多い。
みんながみんな一斉に押しかけてくると、頭がパンクしてしまいそうだ。
……けれど、一つ一つ確認していけば大丈夫。
そうやって自分を励まし、元気付ける。
だって全ては——、
「……私だけで、頑張ってみよう」
その目標に、繋がっているはずだから。
誰かに守られてばかりの自分が一人前になること。
憧れの女性、美水蓮のようになること。
難しいけれど、保証してくれた人がいる。見届けると、そう言ってくれたもう一人の憧れの少年がいる。
「だから……今日は、そのための一歩」
先程少年に撫で付けられた頭にそっと触れつつ、ふっと宙を見つめる。
————小さな一歩。
一人で美味しい料理が作れるようになるための、一歩だ。
奏太に好きな食べ物を聞いたのはそのため。
一人だと緊張して、上手くいかないかもしれない。美味しく、出来ないかもしれない。
「……でも」
憧れの少年、奏太に成長を見せたい。
一人前になりたい。
奏太や蓮、梨佳、芽空。
葵にユズカ。
彼らに、姉に守ってもらっていたからこそ。守らなければいけないと思われているからこそ——早く大人になりたい。
もう一人でやれるんだって、誰かが付いていなくても大丈夫なんだって、安心して欲しい。
それが、この半年で芽生えたユキナの目標だ。
奏太に出会う前までは色んなことに怯えて、守られていた。
だからこそ、強い女性になりたい。奏太や蓮、姉のように。
「…………頑張るね、お姉ちゃん」
だからこそ、ユズカは顔を上げる。笑ってみせる。
いつも姉が、ニコニコとしているように。
歩みを止めず、進んでいくために。
*** *** *** *** *** *** *** *** ***
——姉と読んだ絵本の中に、『赤ずきん』という本があった。
赤ずきんを被った女の子が、お婆さんのところへ果物を届けるお話。
歩いて歩いて、森の奥。大好きなお婆さんの家に着いた赤ずきんが、お婆さんに変装していた狼に食べられてしまうお話。
どうして今この瞬間に、それを思い出したのか。
体が凍りついて動かない代わりに、ぼんやりとした頭がそれを理解した。
自分は今、狼を前にしているのだと。
「……っといけねェ。あァんまり怖がらせんのはよォくねえよなあ?」
両の金眼でユキナを捉えていた銀髪の青年、アザミ。
彼はすっと立ち上がり、片手で顔を覆ったかと思えば、
「————それじゃあ、行こうか。『クイーン』に会うために」
穏やかな口調に柔和な笑み。
爽やかな好青年と、そう称するにふさわしい言動となる。
目にすれば、誰もが彼を疑わず信じるだろう。
善良な一般市民。それも、目の前で倒れている女の子がいたら、迷わず手を差し伸べる善人なのだと。
だが、
「い、や…………」
ユキナの全てはそれを否定していた。拒否していた。
だけど今になって、逃げなければならない今になって、頭が重い。体が痛い。
逃げたい。でも、逃げ出せない。
「レン、お姉さん……」
せめてもの抵抗をしようと、アザミから背を向け地面を這う。
進まない。力を込めようと思っても、何も変わらない。
小さな一歩、たったそれだけがひどく遠くて、苦しくて。嫌だ。
「ソウタお兄さん……っ」
縋るように声を絞っても、体はちっとも前へ進んでくれない。
アザミはそれが分かっているのか、追って来ようとしない。
ユキナには何も出来ないのだと、結局守られるだけの小さな存在なのだと。
都合の良い奇跡も、特別な力も、願って手を伸ばしても、神様なんていない。
憧れは、いない。
「——————ぁ」
白景色に、変化が生じた。
視界が揺らぐ。ただ揺らいで、深く深く沈んでいく。
料理のことも、憧れも。
全てが闇に沈んでいって、景色は黒ずんでいく。
そうして朦朧とする意識の中で、ユキナは思う。
「————ごめんなさい」
恩人の少年に、命を助けてくれた少女に、少年。大好きな姉に。
——みんなみんな、ごめんなさい。
その一言を最後に、ユキナの意識はぷつりと途切れた。
一筋、涙を流しながら。
*** *** *** *** *** *** *** *** ***
重なる痛みとショックに倒れ、意識を失ったユキナ。
彼女を抱えるのはアザミと名乗った銀髪金眼の青年だ。
彼は白煙を手で払いつつ、ぐるりと辺りを見渡すと、
「——ジャック。目的のモノも回収したし、引き上げようか」
先程ユキナに見せた、人当たりの良い笑顔。それを白景色の向こうへ向ける。
「…………うん」
彼の声を受け、音もなく現れたのは、ひらひらとした長袖に身を包む整った顔立ちの少女。
短く切り揃えられた金髪が少女の印象を曖昧にさせており、見慣れたものでなければ性別の区別などつかない、そんな少女だ。
ジャックと呼ばれたその少女は表情を変えずに小首を傾げると、
「他の子達、逃げてるみたいだけど。……いいの?」
「別に構いはしないよ。『クイーン』を手に入れるための鍵と、アジトの襲撃。これで目的は達した。戦えない者を狙うなんて、卑怯者だからな」
アザミの言動の矛盾。
それにジャックは一切の口出しをしず、彼の歩む道に付き添う。
そしてアザミもまた、その対応を当たり前とする。
「————あァ、楽しみだな。『クイーン』」
アザミが僅かに口調を崩し、求めるものへの執着を見せたとて、それは変わらない。
ユキナをモノとして扱うアザミが、金眼をぎらつかせ、獣のようにどう猛な笑みを浮かべても。




