第三章17 『嫌いな相手』
静寂の場で、奏太は眼前の女性と視線を交えていた。
薄赤の髪を軽くすき、笑みを浮かべる麗人。
彼女は黒椅子に腰掛けたまま、静寂を破ることに何の躊躇いも抱かず、言った。
「——元気だったかしら、奏太君」
一声。ただそれを聞いただけで、吸い込まれそうになるような妖しい魅力のある声。
たとえ死ぬ間際であれ、飢餓状態からようやく食事にありつけた時であれ、自然と耳を傾けてしまうもの。それはもはや魔力、と称しても何ら遜色はないはずだ。
しかし、だからこそそれがひどく憎たらしい。
彼女からそれが発せられていることが。
——奏太にとって最愛の少女、美水蓮。
今でも蓮に向ける愛は一切の嘘偽りなく変わらないし、変わることもない。
水のように透き通った薄青の髪も、淀みのない綺麗な桃色の瞳も。ただでさえ可憐な少女なのに、笑みをこぼした時には、咲き誇る花々のような純朴で優雅な愛らしさを見せてくれて。
誰かに好意を隠さず、世界を愛し世界の幸せを望む。そんな彼女が、奏太は好きだ。
一言一句、彼女が話すその全てが色鮮やかで、交わした約束に手を引かれ——救われた。
いつだって、彼女には心を踊らされた。容姿も、人柄も、言動も。全てが全て。
考えるだけで胸がいっぱいなのに、彼女に名前を呼ばれた、その時は。
「おかげさまでな、藤咲華」
「あら、皺が寄ってるわよ? よほど怒りを抱く事象でもあったのかしら。ねえ、奏太君?」
「————っ」
蓮の声は、鈴のように涼やかで綺麗なものだ。彼女を構成する他のものと比べたって、見劣りなどしない。
何をしていたって惹かれるその声は、奏太にとってかけがえのない最愛なのだ。
だが、
「————俺はお前が嫌いだ、華」
「何を言い出すのかと思ったら。知っているわ、そのくらい。奏太君を見ていて分からないはずがないじゃない。まさか貴方、私が気がついていなかったとでも? ——幸せね。そして失礼だわ。自分にとって都合の良い現実ばかりを見て、見るべきものを直視しない。奏太君、あなたはあまりに醜く滑稽ね」
華は違う。
奏太を、世界を嘲笑うように、自分の都合の良いように進め操り愚弄し翻弄し、騙して殺す。壊す、何もかもを。
奏太の守りたいと思う全てを、彼女は。
魅力のある声も、蓮とは大違いだ。
「…………華。その辺りにしておけ」
「あら、軽い挨拶よ。貴方が——ああ。彼、貴方のお気に入りだものね」
煉瓦髪の男ソウゴ。華は隣に立ち、沈黙を守っていた彼に言動を制止されるが、その視線の根源を理解し艶やかに笑む。
そしてそれを味わうように数秒瞑目したかと思えば、薄赤の髪を指ですくって後ろへ流しつつ、紅眼を細めて言った。
「————それじゃあ、話をしましょうか。ねえ、奏太君?」
*** *** *** *** *** *** *** *** ***
ソウゴに勧められるがままソファに座り、出されたコーヒーを幾度か口にする。
それは胸中にある怒りを抑え、頭を話し合いの場に集中させるために。
「趣味の悪い部屋だな」
「お気に召さなかったかしら。それは残念ね」
「いや真っ黒の部屋なんて趣味、俺には理解できねぇよ……」
ぐるりと部屋中を見渡してみると、ありとあらゆる家具が黒一色で構成されており、はっきり言って暗い。彼女の本性そのものを具現化した部屋とでも言うべきか。
普段から目がチカチカするほどの芽空の部屋に慣れきっているため、気分が悪くなりそうなくらいだ。
とはいえ、内装だけで言えば黒だけのこの景色は、黒髪で景色に同化してしまっている奏太はともかくとして、この場に会したいずれものメンバーの存在を一層のこと際立たせている。
「芽空。分かってるとは思うけど」
「ええ。分かっています。ワタクシが——いえ、私はそーたの補助に回るから」
「ああ。よろしく頼んだ」
異なる声色、一人称。
以前ここへ来た時に見せたその言動は、後になって聞いてみたところ演技のようなものだったのだとか。
古里芽空ではなく、プルメリア・フォン・ルクセンとしての彼女の姿。その一部と華を良く思わない感情、それらを混ぜて完成するという仮の人格だ。
一切の違和感を抱かなかったのは、彼女が昔から様々な経験を積んでいるからなのか。あるいは、一時期自分という存在の価値を見失っていた彼女だからこそ、なのか。
いずれにしても、奏太には出来ない類のことであるのは間違いなく、今回はそれに頼りたい……と考えていても、奏太の根っこの部分が許さないのもまた事実なのだ。
華を前にして気を抜けないのであろう芽空。彼女から過去を話してもらうと約束を持ち掛けられたからこそ、素直な彼女のままでいて欲しい。
そう考えてしまうのが、奏太の強欲で甘い心根なのだから。
故に奏太は芽空に素のままでいて欲しいと頼み、承諾されるに至った。
いくらかの抵抗があったものの、今こうして彼女が切り替えてくれたことがその証明と言えよう。
……ただし服装に関しては、以前に見せたドレスと鶯色のポニーテールだが、こればかりは強制のしようがあるまい。ありのままのネグリジェ姿でこの場に臨むのは色々と問題があるし、集中など出来るはずもなく。
そんな彼女を想像してしまい、思わず緩みかけた頭を引き締めるように慌てて首を振る。
そう、気を抜いてはいけないのだ。
芽空や奏太だけではなく、もう一人もそれを分かっていた。
——全身から迸るような闘気を放ち、一切の警戒を緩めないユズカも。
「ユズカ、気持ちは分かるけど……今は落ち着け」
「でも、ソウタおにーさん」
「話し合いをするって言った以上は、無闇に手を出してこないはずだ。それに」
「————ソウタの言うことに間違いはない。力を緩めても構わないぞ、そこの少女よ」
「——っ!!」
奏太がユズカの心を鎮めようと言葉を紡ぎ、それでも納得がいかない様子だった彼女に届く声。
地に響き、体を鋭い刃物で裂かれるような剣の声。剣声と称すべき音だ。
「————っふ」
それを聞いたユズカの視線が、指先が、体が、頭が、本能が音の主ソウゴを睨み付け、警戒する。鍛えられた番犬が侵入者を拒み、吠えるように。獣が縄張りに入ってきた敵に襲いかかるように。
全能力を持って、ソウゴを仕留めにかかれるように。
「って、ちょっと待ったユズカ! この人は大丈夫だ、俺が保証する」
「……どうして?」
いつ一撃を食らわせ、戦闘が始まってもおかしくない状況。
それを奏太は慌てて止め、声を低くするユズカに言う。
「どうしてかって言われたら説明しづらいけど……ソウゴさんはハクアと違って問答無用で襲いかかって来る人じゃない。話だって出来るんだ。それに今回の目的は話し合い。戦う必要はないんだ」
奏太の中でもよく分からない感情だ。
差別をしない人だと分かっているからなのか、信念があって動いている人なのだと分かっているからなのか。
立場上『獣人』ならば全てを潰す、そのはずの彼と言葉を交えられたからなのか。
何にせよ、並みの者とは思えない鍛え上げられた肉体に、鋭い剣声を放つ彼は、一概にも見た目で判断して良い相手ではないことだ。
「…………分かった」
力強く唱える奏太に対し、ユズカは渋々頷く。
いつもの表情でいてほしい、と思うところではあるが、少女の背景には戦いに費やした日々がある。
それはちょっとやそっと、ましてや今この場でどうこう出来るような問題ではない。
奏太ではなく葵や梨佳あたりがこの場にいたならば、もう少し上手くユズカを抑えられたのかもしれないが、彼らは奏太と違い学校というコミュニティーに属しているのだ。
非常事とはいえ、それを切り上げてこの場に来いなどと奏太には言えるはずもなく。
せめてあと数時間、学校が終わった後ならば良かったのだが、
「もう少し待てなかったのかよ」
奏太が睨みつける相手——艶やかな笑みを絶やさない麗人は、それを許さなかった。
『不老不死の魔女』藤咲華。
様々なことがあり、頭を悩ませていた奏太のところへ電話をよこした彼女は、
『今からHMA本部へ来てもらえないかしら。お嬢様と、貴方達の中で最も強い女の子を連れて、ね』
そう要求し、奏太に拒否権がないことを告げた。
本来ならば、奏太が嫌う数少ない相手である彼女とは話もしたくないのだが、断ろうにも断れず。
何故なら、代案として出されたのがラインヴァントのアジトで話し合う、というものだったからだ。
はっきりと告げてはいなかったが、それはつまり華は当然のこと、HMAがアジトの場所を知っているということに他ならない。
恐らくは半年前の戦闘でハクア経由から漏れたのだろう。
だとしたら今になってどうして……と疑問は尽きないところだが、アジトで話し合いをすることは避けたい、というのが奏太及び芽空の判断だった。
構成が知られることもそうだが、一番にはユキナ。
彼女の存在が判断に踏み切った理由だ。
「……大丈夫だ、ユズカ。しばらくしたら葵や梨佳も帰ってくる。それに一応フェルソナだっているんだ」
「……うん。みゃおみゃおは役に立たなさそーだけど、リカおねーさんがいれば大丈夫だよね。フェルソナはアタシ知らないけど」
奏太の言葉に安堵するような言葉を述べるユズカ。
その言葉とは裏腹に、先からの警戒が解けておらず厳しい表情で奏太を見つめているが、ともあれ。
「ユズカって葵に辛辣だよな」
「んん? ソウタおにーさん、しんらつって何?」
「ああ、えーと。厳しいよなってことだ。葵もちゃんと強いだろ?」
「ううん。全然。ソウタおにーさんもまだまだ甘いけど、みゃおみゃおはもっと下だし」
一切毒気と悪気のない率直な感想。
それをユズカから引き出し、僅かに表情が緩むのを確認する。
表情の硬さにはユキナの身の心配が少なからずあったため、その不安を取り除こうと話を振ったわけだが……どうやら成功だったらしい。
——ユキナを巻き込みたくない。
そう思うのは、奏太や葵だけじゃない。
姉であるユズカもまた、同じ気持ちなのだから。
ユキナを出来る限り荒事から遠ざける。それが小さな火種であっても、少しでも可能性があるのなら、と。
「…………待たせたな、華」
「構わないわ。たかが数十分、さして支障はないもの」
そうして身体中につきまとっていた怒り、それらが取り除けて話をする態勢になる。
口出し一つせずに待っていた華に謝罪やお礼、などと言ったことを口にするのは抵抗があったのでやめておくとして。
「————」
改まって、室内を見渡す。
この場に会したのは両勢力合わせて五人だ。
「それじゃあ、初めに名乗っておきましょうか。——私の名前は藤咲華。HMAの総長よ。貴方達からは相当嫌われているけれど、世間では『英雄』と呼ばれているわ」
HMAからは二人。
総長であり『英雄』並びに『不老不死の魔女』、藤咲華。
彼女は、奏太の知りうる限りでは説明の出来ない『未知』の力で葵を一瞬のうちに気絶させ、奏太を寸前まで追い込んだ実力者だ。
ハクアと違い目に見えて分かる絶大な威力などないものの、仮にそれが誰を相手にしても行えるものであるとするのなら、『英雄』と呼ばれていることに何ら不思議はない。
「…………我の名はソウゴ。同じくHMAの幹部『トレス・ロストロ』の一人だ。よろしく頼む」
続けて名乗ったのはソウゴ。
彼はハクアと同じ『トレス・ロストロ』の一人にして、梨佳や希美を音も立てずに沈めた男だ。
声の鋭さもそうだが、奏太より一回りも二回りも大きなその巨軀は、ユズカの反応通り紛れも無い強者。
彼もまたハクアや華と同じ『未知』の力——相手を気絶させる咆哮を持っており、カラクリを突き止めようとしてフェルソナや芽空に意見を求めても、答えは出なかった。
とはいえ、彼にも何かしらの信念があるらしく、ハクアのように残酷で無慈悲、問答無用の一方的虐殺を行なったりはしない。華のように、自身の目的のためならばどれだけの嘘偽り欺瞞を重ねるわけでも、ない。
『獣人』だから悪だと一言で決めつけず、奏太の言葉を聞いた上で激励を送った。明確な敵という立場であるにもかかわらず、だ。
単純で甘い話ではあるが、そういった経緯のもと奏太は彼を信頼している。
敵対する時が来たならば——その時は、話が別だが。
「んと、アタシはユズカ。らい……何とかだと、アタシが一番強いよ。ソウタおにーさんはその次」
「ラインヴァントな」
HMAから代わり、ラインヴァントだ。
真面目な顔をして何とも締まらない自己紹介をしたユズカ。
彼女はまだ中学生にもならない歳でありながら、現在はラインヴァント一の強さを誇っている。それに悔しさがないわけではないが、現時点では埋まりようのない実力差は確かにあって。
彼女の『トランス』は『獅子王』。雄のライオンが素となっており、稽古とはいえ幾度となく拳を交えた奏太は彼女の強さを知っていた。
故にこそ。
故にこそ奏太と葵は、ユズカを今度のブリガンテとの決戦はもちろん、今後起きることが予想される荒事に巻き込まないことを決めている。
まだ小さな少女を、これ以上戦いに巻き込まないように。
「……古里芽空。立場は、ラインヴァントの最高責任者だよ」
ユズカと奏太のやりとりをどこか温かな色を宿した瞳で見ていた芽空。彼女は気分を入れ替えるようにコーヒーを口に含むと、冷静を言葉に乗せて放つ。
プルメリアと名乗らず、あくまで古里芽空としてこの場にいるのだと、そう言うように。
彼女の『トランス』であるカメレオン。周囲と溶け込み、姿形の一切が消えてしまうその能力が使う機会がないことを奏太は願う。
芽空がそれを嫌がるように、奏太もまた彼女が傷つくことに耐えられない。最高責任者であっても、今後戦いがあろうともそれは変わらない。
彼女が自身に向き合い、『トランス』を含めた全てを見れるようになるその時までは。
「…………最後は俺か」
そうして、順に行われた自己紹介。
それぞれが策略を、陰謀を、信念を、闘気を、覚悟を交え、最後に回って来たのは奏太だ。
見渡さずとも、四人の視線が自身に集まっていることが分かる。
その瞬間を、待っている。
「————」
考えてみればおかしな話だ。
半年前までは蓮と穏やかで甘やかな普通の日々を送っていたというのに、気がつけば人と『獣人』、それらの頂点たる人物とこうして会合の場を共にしているのだから。
考えてみれば、奏太には荷が重く場違いな話だ。
でも、奏太のやるべきことは変わらない。
奏太のやりたいこと、望むことは変わらない。
奏太は、
「————俺の名前は三日月奏太。『獣人』だ。……藤咲華、お前が何を言おうと、何を提案しようと、どんな策を巡らせようとも。俺は人も『獣人』も、世界の全てを幸せにする。絶対の、絶対にだ」
「————そう。身にそぐわぬ大望を抱いているのね」
蓮の声を知っている。
蓮の願いを知っている。
だから奏太は、華と向き合う。
今、この会合で。
*** *** *** *** *** *** *** *** ***
「…………飲料の追加は必要か?」
「いや、えっと……俺はいらない」
巨躯と雰囲気に似合わぬ言動で、コーヒーのおかわりの是非を問う煉瓦髪の男、ソウゴ。
以前にもその不協和に戸惑ったものだが、芽空やユズカ、華を前にしても変わらぬその態度は素のものなのだろう。
あの時は疑いを向けていたものだが、彼の人となりを知ってからは素直に親しみやすい人だと思える。
とはいえ、
「ううん、私もいらない」
「アタシはミカンジュースがいい」
その抵抗はどうやら奏太だけだったらしく、芽空やユズカは警戒はあれどある程度は受け入れていた。芽空はキッパリ断り、ユズカは自身の髪色と同じ果物のジュースを求める。
和やかなその風景に、先の奏太の発言が関係しているのか否か、それは奏太には分からないけれど。
ここにきて初めて心の底から気を緩められそうだ。
そう思い、奏太はふっと唇を緩める。
「————さて、本題に入りましょうか」
直前、甘い感情の全ては取り払われ、消え去ってしまった。
原因は麗人の声。
どこか楽しげで、しかし真剣みを帯びたその声は告げる。
「——『ブリガンテ』」
「…………は?」
耳を疑うような狂った提案を。
「————ブリガンテを滅ぼすのに、貴方達の手を貸しなさい」
ただ歪んだ笑みを、浮かべながら。




