第三章6 『重なる姿』
パーティーを終えた後の車内には、ただ静けさのみがあった。
行きはあれやこれやと騒いでいた姉妹や梨佳達も疲れたのだろう、穏やかな寝息だけが奏太の耳に届いて。
それは傍らで眠る芽空もまた同様に。
「…………葵、起きてるよな?」
「……ええ。どうしました?」
楕円状の車内の向かい側、姉妹に挟まれて閉じていた瞼を開き、こちらを見つめる葵の表情はどこか重い。
奏太の心境が彼をそう見せるのか、あるいは彼もまた奏太同様に憂う何かがあるのか。
ともあれ、自身のクリーム色の髪を撫でつけつつこちらを見つめる葵が話を聞く体制になったので、
「葵は、あの会場にいた人たちが『獣人』——いや、『トランサー』を差別しないって知ってたのか?」
「……ええ、知ってました。ユズカとユキナが好きに振る舞える場所なのだと。そんな場所があったなんて、奏太さんは意外でしたか?」
「意外……うん、そうだな。今まで人と『獣人』——じゃない、『トランサー』は相容れない関係だと思ってたからさ」
「もう『獣人』で構いませんよ。前にも言った通り、子どもの意地のようなものですし、それに……奏太さんは差別をしない人ですからね」
油断するとつい忘れてしまう『獣人』と『トランサー』の使い分け。
元々は目の前でくすりと笑っている葵から聞いたものだ。
『獣人』は差別用語であり、気に入らないもの達が『トランサー』を自称しているのだと。
「……そんな簡単にいいのかよ」
「ええ。奏太さんですから」
ヨーハンにしても、葵にしてもそうだが、あまりに評価が過大過ぎて本心から言われているのか不安になってしまう。
しかし紛れも無い本音なのだと、信じたくなる奏太もいて。
多分それは、あの日自分を肯定してくれた少女のおかげなのだろう。
「じゃあそれはお言葉に甘えるとして、続きだ。……葵は人と『獣人』が分かり合えると思うか?」
「無理に近いです」
「即答かよ」
「当然です。あの人達は理解のある方々というだけであって、この都内の人達全員がそうであるかと言われれば、違いますからね」
「…………そうだよな」
会場にいる時から抱いてきた希望が一瞬にして砕かれる。
そのダメージは決して軽いものでは無い。
何故なら、
「奏太さんが蓮さんの意思を継いでいるのは分かっています。ですが、あの人が愛した世界、つまりは人も『獣人』も全てを幸せにする——それは並大抵のことで叶うことではありません」
葵の言う通り、奏太には成したいと願うものがあった。
蓮と約束を交わし、誓った願い。
それを叶えるには、どれだけの手を尽くしても長い時間がかかることをこの数ヶ月ではっきりと知らされた。
だからこそ会場で目にしたものに喜びを覚えたのだが、
「難しいな」
「ええ。家族ならまだしも赤の他人ですからね」
結論は依然として変わらないままだった。
当然のことだと言われ、自分でも自覚していることだが、それでも悔しさがこみ上げてくるのが分かった。
しかしそれも、
「————すぅ」
葵の傍ら、寝返りを打ちつつ彼に抱きついたユズカの寝息に停止させられ、代わりに平穏が訪れる。
一見和やかな風景なのだが、彼女はその穏やかな表情とは裏腹に、腕は掴んだ獲物だと主張するかのように必死なのだ。それに思わず笑みをこぼしてしまうのも仕方があるまい。
運転の最中であるがために時々揺れるというのに、行儀の良い姿勢のまま寝ているユキナとは大違いだ。
「…………辛そうだな」
「辛いなんてとんでもありませんよ。嬉しいです」
歳で考えれば姉妹は小学生であり、『トランス』を使用していないユズカであれば命に関わる程の力にはならないであろうが、それでもあれだけ力を込められていれば苦しいはずで。
嬉しいと正直に述べる葵も、照れだけで説明がつかない程度には顔が赤くなってきている。茹でダコ状態である。
「…………んん」
しかしそれも満足げに笑むユズカが力を緩めたことで、何とか治る。
「大丈夫か?」
「ええ、何とか。強くなければ嬉しいだけで済むんですがね」
そう言ってため息を吐く葵。
しかしその表情には苦痛や怒りといった類の感情は浮かんでおらず、
「…………なあ」
「なんです?」
「————葵ってユズカのこと好きだよな?」
「——!?」
なんだかんだで聞いたことのなかった問いをしてみる。
反応を見れば答えは一目瞭然で、
「…………ええ、そうですけど」
再び茹でダコの完成である。
ハクアとの一戦以降というもの、やたら感情を表に出すようになった葵だが、ユズカに対しては誰の目から見てもはっきりと分かるくらいには恋愛感情を向けていた。
そう、主要メンバーの中で最年少であり妹のユキナでも分かる程度には。
そんなこともあって、ユキナと同盟を組みつつ、さりげなく二人の時間を作ってあげたりと気を遣っていたのだが——、改まって問うのはこれが初めてなのである。
「いつから気がついていたんです?」
「えーと……俺がHMAの本部から帰ってきてから、かな?」
「————っ!」
彼は上手く隠し通せていたつもりなのかもしれない。
口をパクパクと開いて何かを言おうとしているが、驚きのあまり言葉になっていなかった。
「いや、うん。大丈夫だ。言いふらしたりとかしないし」
言いふらす以前に梨佳達を含め全員が知っているが、恐らくそれを口にしたら男心が傷つくだろう。
さすがに恋愛感情までもを弄りの対象にしない辺り、梨佳達も限度は分かっているのだが、それを言ったところで傷つくことに変わりはないのだから。
「本当ですか? 内緒ですよ、絶対ですよ?」
とはいえ、弄る弄られない以前に広められるのは純粋に恥ずかしい。そう思ってしまったことは過去の奏太にもあった。
だからこそ食ってかかってきそうなくらい必死な葵に対し、親指を立てて、
「本当だって。本当のマジ。男だけの秘密だ」
男のみに許される契りを交わす。
もっとも、男だけというにはあのまま屋敷に残ったフェルソナがいない気もするのだが、それはさておき。
「……そう、ですか。良かった」
葵は奏太の言葉に安堵の息を吐くと、眠る少女へ視線を向ける。
以前はドライな面や感情を意図的に抑えたりといった大人びた内面が目立っていたが、こうして恋愛感情に一喜一憂するあたり、彼も根っこの部分は年相応——中学生の感性に近いのだろう。
もっとも、彼が中学生だと知ったのはつい最近で、その時になってようやく色々なことに納得がいったわけだが。主にドクロの服とか偉そうな口調とか。
「…………葵」
「……なんです?」
何度目かも分からない呼びかけに、葵は嫌な顔一つせずに応じる。
感情表現が豊かになったとはいえ、時折思い出したかのように平静を装う彼の表情に浮かんでいたもの、それは奏太も覚えのあるものだった。
あの少女のことを考える時、あの少女といた時に自分も浮かべていた表情。
胸の奥が絞められるように苦しくなって、しかし溶けるように甘く心地良い恋心からくるそれに、悩み、喜び……楽しんだ時期があった。
今のそれに変化はなく、ただ胸を焦がすだけの日々であるが構わない。もう彼女のいない日常の苦痛は、乗り越えたのだから。
彼女の望んだ幸せの景色を垣間見た時、その場に彼女もいればと思うことがないわけではないけれど。
そう思うから、なのだろうか。
「——葵は今、幸せか?」
分かり切ったことを問いかける。
「ええ、心の底から……幸せです」
彼が頷き、その中性的な顔に笑みを浮かべることも知っていた。
「じゃあ、ユズカから手を離さないようにな」
「手を、ですか?」
きょとんとした彼に顎を引き、奏太は自身の手を見つめる。
金色のブレスレットを——そして、あの時までは温もりのあった右手を。
動物園でハクアに遭遇したユキナを救うため、蓮は奏太の手を振りほどいて駆けていった。
あの時の感覚を、今でも奏太は覚えている。
時が止まっているようだった。
別れなのだと直感し、叫んでも、手を伸ばしても、届きはしない。
ただ遠くへ行ってしまう彼女を求めることしか出来なくて。見つめて願っても、彼女がどうするのかは分かっていたのに。
「手を、だ。ずっと繋いでるとかそういうのじゃなくてさ。何て言うのかな、見守る……って言うのも何か違うな」
思い返せば複雑な感情の波が押し寄せてくるというのに、上手く言葉にすることが出来ない。
それがひどくもどかしくて、けれど彼には同じ経験を味わって欲しくないと思い、必死に思考を巡らせる。
「————」
奏太が蓮に託されたもの、抱いた感情、彼女の言動、状況——それらを片っ端から覗き込んでいき、やがて一つの言葉に当たる。
『ここで、待ってて』
奏太の手が振りほどかれる直前、蓮が口にした言葉だ。
奏太を巻き込まないように、ただ一人で決着をつけるのだとそう告げるように。
「————ああ、そうか」
その言葉を反芻し、ようやく考えが纏まり始める。
あの日感じたものも、彼女を失って気がついたことも。
失ったことに苦しみ、嘆いて乗り越えた先、奏太が得たものも。
全部が全部、収束して。
「…………怒ると思うけど、出来れば堪えてくれ」
「内容によります」
彼の了承を得、すぅっと息を吸い込んで覚悟を決めるように葵を見据える。
そして、
「——。葵はさ、弱いよな」
「————っ」
「ごめん。傷つくってのは分かってるし、否定したいとは思うんだ。弱いって言われれば誰だって反発する。……分かるよ」
奏太は自分の弱さを知っている。
かつて葵に言われたことであるし、身を以て経験、理解とともに自覚しているからだ。
だからこそこうして口に出して告げることが、どれだけ苦しいか。
「前に話したと思うけど俺は記憶を失っててさ、蓮を失くして……その時、ようやく『獣人』に目覚めたんだよ」
それは遅すぎる覚醒だ。
「もしもっと早かったら、蓮は死なずに済んだかもしれない」
土壇場で偶然の制御ができたとはいえ、目覚めたばかりだった奏太に『トランス』を扱うことは困難を極めた。
不安定な心に不恰好な姿。
それは見るものに不安を、不穏な影を感じさせずにいられなかっただろう。
だが、たとえそんな状態であったとしても、ハクアの気を引いて囮になることだって出来たかもしれない。
「いや、何も『獣人』として動かなくても良かったんだろうな。自分は人だから何も出来ないって、そう思い込んで。悩む時間があったら駆けつければ良かったんだ」
「————」
後悔の記憶は並々ならぬ感情とともに奏太の中を流れている。
無力で無知だった自分に腹が立って、そんな奏太を巻き込まないように一人立ち向かって行った蓮が、ひどく遠い存在となって。
「——でも、俺は蓮の隣にいたいって、そう思った」
あの時ああしていれば良かった……そう悩み苦しんで悲嘆の果てに愚行を重ねる。
確かにそんな時期はあった。
確かに覆すことの出来ない事実と痛みが自分の中には残っている。
確かに、悔しさだけが際限無く溢れ出す記憶だったと言えよう。
だが、
「隣にいることが世界から認められなくても、対等な立場になれるほどの強さなんてなくて弱くても、簡単に崩れて散ってしまっても……俺は蓮の隣にいたい。好きだから、好きだからそばにいたいって、そう思ったんだよ」
今となっては、後悔するだけの記憶ではないのだ。
彼女がしてくれたことが全部、奏太の糧になっている。
奏太に力をくれる。
彼女を好きになった気がついたこと、触れ合って求めて知ったことを、今度は別の誰かに——目の前の少年に伝える事が出来る。
「…………葵」
だからこそ、再度奏太は彼の名を呼ぶ。
「……なんです」
ひょっとすると彼はもう辿り着いているのかもしれない。
中学生だというのに既に高校の勉強を始めていたりと、何かと秀才な面の目立つ葵だ。
奏太が言うよりずっと前に、悩み苦しんだその果てに……奏太と同じ結論に至ったかもしれない。
そう考えかけ、
「葵はさ、弱いよな」
——違う。彼は奏太と同じ結論には至っていないのだ。
先と同じ言葉を口にする事で、それが分かった。
自分は強いのだと言い張っていた以前の彼は傲慢でしかなかったのだから。
確かに何も知らなかった奏太からすれば彼は強かった。だがラインヴァントを、周りを見渡してみれば、奏太も彼も弱者に過ぎなくて。
もっとも、そんな彼もハクアと交戦したからなのか、直後からは自身の強さを疑うような発言を日常の中で漏らすようになっていたのだが、変化の程は先の会話の中で明らかになっていたのだ。
一度目の問いかけに、彼は何と答えただろうか。
「……葵は、この質問にまだ答えてないよな」
そう、何も言っていないのだ。
怒るでもなく、かといって認めるわけでもなく。
ならばこそ求められる結論は、
「葵はまだ、迷ってるんじゃないか?」
「ボクが、迷ってる? ……いえ、確かにそうかもしれませんね」
簡単な話だ。
自分が強くないと知り、しかしだからと言って弱いのだと認めてしまえば、これまで積み上げてきたものも、奮起するための心も、全ては崩壊してしまう。
自分の力が求める相手に及ばないことを認める、それはきっと彼にとって耐えがたい屈辱だから。
「…………どうしたらいいか、分からないんですよ。ユズカを守りたい。ユキナを守りたい。そう思うのに、自分が弱いと認めてしまえば守れないんじゃないかって、不安で」
葵は自身の内面を吐露すると同時、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべ拳を固める。
彼の抱える苦悩は、奏太がかつて悩んだそれと近しいものがある。
全く一緒ではないのだ。
一緒であるならばすぐに答えは出て解決……となるのかもしれないが、それは数式で答えを導くことと変わらない。
前例があろうとなかろうと、誰かに与えられたものじゃなく、自分で答えを出さなければならないのだ。
ならば奏太に出来ることは何か、それは多分、
「——じゃあ、葵はユズカとユキナ二人のうち一人しか助け出せないって時、どうするんだ?」
「……っ! それは……選べません」
「だろうな。俺だって選べない。一人じゃどうあがいたって足りないんだ。だったら、どうすればいいと思う?」
「…………」
答えを直接教えるんじゃなくて、ある程度道を示してやればいい。
それを踏み外す程彼も愚かではないし、いずれは到達し得る考えの近道になったというだけだ。
「————」
眼前、わずかな変化があった。
決して並みのものではない複数の重く複雑に絡み合った感情。それを全て飲み込んで巡らせた思考の先、何かを見つけたのだろう。
ゆっくりと顔を上げた彼は、やけに晴れやかで柔らかな笑みを浮かべて奏太に答える。
「皆さんの——ラインヴァントの力を借ります」
「それは甘えにならないのか?」
「はい。力を借りると言っても、それはこのボクが力を尽くさないわけではありませんから。……それに」
「——そうか。って、それに……なんだ?」
「かつてはボクよりも弱かったのに、対等の立場に立ち、実力を上げて。そうやって今ではボクの憧れとなった人が、目の前にいるんです。その人から何も学ばないわけではありませんよ」
「————」
「その人は好きな人のため、ひたすらに強くあろうとした。…………今は、驚いている真っ最中ですがね」
予想外というべきか何というか。
一度はまだ辿り着いていないのだと判断したというのに、きっかけを与えてしまえばすぐに答えに辿り着いてしまった。
だがしっかりと見られていたことに驚く反面、嬉しさもあって。
それはさながら、出来の良い弟に感動するような。
梨佳も、いつもこんな気持ちを抱いているのだろうか。
何とも心地の良い感覚で、しばらく浸っていたい。そう思う心がないわけではないが、
「……ユズカの手離すなよ」
言葉を紡ぐ。
そうでなければきっと、押し寄せてくる感情にいずれ耐えきれなくなってしまうだろうから。
「役に立つか分からなくて、自分が隣にいてもいいのかも分からなくなっても、それでも抗うんだ」
「…………奏太さん?」
「相手がどうとか、世界がどうとか、そんなものはどうだっていい。自分が手を伸ばして掴みたい。好きだから隣にいたい。そう思うんだったら疑うな。迷うな。強くあれば……いずれは、追いつけるから」
奏太に訪れた別れの瞬間が、彼にもあるのか。そんなことは分からない。
なければいいのにと心から思うし、嘘偽りなんかじゃない。
けれど、もしあるのなら——彼が手遅れだったなどと悔恨に打たれる姿を見るのはごめんだ。
今そこにある温もりを、忘れないでほしい。手離さないでほしい。
そんな強欲な奏太の願いは、
「…………約束します。たとえ離れそうになっても、ボクはユズカを求め続けると」
葵にもまた、受け継がれるのだった。
*** *** *** *** *** *** *** *** ***
それがきっかけだった。
今にして考えれば奏太自身は別に何も悪くないし、言ったことを悔やむはずもない。
ただ偶然に偶然が重なって、誤解を生んでしまったというだけで。
「なー、奏太」
食堂の扉を開ける寸前、梨佳が後ろから奏太の肩に手をかけた。
体勢的には梨佳が体重の半分ほどを奏太に預ける形となり、自然と彼女の豊満な物体が背中に当たる。
「————」
彼女が奏太の耳元で呟いた言葉は、紛れもなく衝撃の事実だったと言えよう。
だが、
「——てめぇこらァ! オッレのアネキに気安く触るとかふざけんじゃねえぞこらァアアアアッ!!」
扉を開けた直後、見知らぬ茶金の男に吹き飛ばされたことの衝撃には勝てない。
それも当然である。
「…………だ」
壁に受け身一つ取れず叩きつけられ、体が酷く軋んで痛むが、それを堪え起こして前方を見据える。
そして、
「ふざけんなはこっちのセリフだコラァァアア!!」
反射的に、茶金に向けてそう叫ぶのだった。




