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黒と白の世界と  作者: 夕陽ゆき
第二章 『忘却』
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第二章番外編④ 『残されたモノ、望むモノ』



 果てしなく長い時間のように感じられた、希美との二人きりの昼食。

 それは梨佳の帰還によって終止符が打たれた。


 希美と約束を再度交わしたせいか、少しは会話が続くようになったものの、梨佳が帰ってきたことに安堵感を感じてしまうあたり、やはりまだ苦手意識が奏太の中にはあるのだろう。

 だが、それを理由で避けたりなどしない。むしろ、もっと彼女のことを知らなければならないと、そう思うくらいだったのだから。

 芽空や葵との一件で、何も学ばないほど奏太も馬鹿ではない。

 幸せにすると約束したのだから、なおさらだ。


 とはいえ彼女の場合は、今の奏太にとっての芽空や葵のような関係性になるにはしばらく時間がかかりそうだ。


 ひとまずそんなこともあって、途中で寝かけてしまったことを彼女に軽く謝罪しておこうかと思っていたのだが、奏太が梨佳の応対をしている間に食堂からその姿を消していた。


 だからこうして現在食堂に残っているのは、昼食を作って出す奏太と、それをガツガツと食べ進める梨佳の二人だけで。


「しかし、梨佳って本当に読モやってるんだな」


「ん、まあ。時々それで声かけられたりなー」


 はっきり言って、梨佳は希美と比べれば段違いに話しやすい相手である。

 ラインヴァントの中では、芽空の次あたりに属していると言ってもいいくらいには。


「俺はファッション雑誌とかはあんま読まない方だけど……案外近くにいるもんなんだな」


「あーしの学校だと、あーしと友達が一人くらいだけどなー。あーでも、昔蓮も誘われたことあるぞ」


 梨佳は会話の合間にも食を進め、作る側としてはこれまた嬉しいぐらいの食べっぷりを見せてくれる。

 ユズカ程ではないが、思わず感謝の限りを言葉にして告げたいところなのだが——その前に。


 今梨佳は何と言っただろうか。

 蓮が読モに誘われたことがある?


「……マジで?」


「マジマジ。本当のマジ。あいつは断ったけど」


 まさかそんなことがあったとは、と驚きつつも納得する自分がいた。

 それは常々蓮の容姿が相当に優れていると意識していたからでもあり、彼女に対して今も抱き続けている恋心が彼女を美化させているためでもある。


「ちなみに理由は? あ、蓮と梨佳のな」


「理由? あー、確か蓮は恥ずかしいって言ってたっけかな」


「……やっぱ蓮って可愛いわ」


 理由を問いかけ、返ってきた答えに惚気る奏太。

 つい脊髄反射的に発してしまったその言葉は、


「お前相変わらずベタ惚れだなー」


 けらけらと笑う梨佳によって、恥じらいを伴い自分へと返ってくる。

 もちろん発した言葉に、気持ちに嘘偽りはない。容姿だけじゃなく、蓮が蓮たらんとするその性質も含めて奏太は彼女が好きなのだから。


「……まあその時の蓮の話はまた別の時に聞くとして。梨佳はなんでやろうと思ったんだ?」


 奏太の能天気な問いかけに対し、梨佳は箸を止めて言う。


「あーしは面白そうだったからってのと、あとは…………モデルとしてのあーしを見たい奴がいるからだ」


「————」


 前者の理由に対し、わずかな沈黙を挟んで告げられた後者。

 二つの間には決して少なからぬ感情の差があった。


 いつも通り気楽で明るい調子が、一転湿り気のあるどこか遠いものを見ているような、そんな声。

 女性としての魔性を秘めたその翠眼も今はすっかりと鳴りを潜めており——、


「あー、失言。悪いけど忘れてくれ」


 しかしそれは頭を横に振る彼女自身によってかき消される。


 彼女の漏らした一言。それに疑問を感じないではなかったが、他でもない梨佳がそう言ってるのだ。

 頷き、触れないようにしようと心に決める。


「言いにくかったら悪いんだけど……それって、誰のことなんだ?」


 ——寸前、奏太はある違和感を感じて疑問を口にした。

 これでは前と同じ、触れてはいけないものに自分から進んで行ってしまう愚者の行動そのものに見えるが、そうではない。


 違和感。

 それは、彼女の言い方が触れられたくない、というよりも触れさせないようにしているような、そんな気がしたということだ。

 気がした、では根拠として薄いかもしれないが、恐らくそれは普段の彼女の言動と、ハクアとの一戦時に見た彼女の一面を奏太が知っているからだろう。


 もちろんそれが勘違いだったらと思う自分もいて、反省。

 とはいえどうやら奏太の勘は遠からず当たっていたらしく、


「あのさぁ、あーしは……や、いいや。これこそ気にすんな。まあ言ったあーしもあーしだからな」


 梨佳は奏太に対し呆れるようにため息を吐いた。

 その表情には迷惑であるとか、拒否であるとかの類の感情は見られない。

 かつて芽空や葵に向けられたそれとも、違う。どこか温かく、心地の良い視線だ。


「モデルのあーしを見たいってのは、兄弟のことだ。妹と弟、一人ずつ」


「兄弟? でもこのアジトには——」


「や、いねーよ?」


 このアジトにいるのではないか、そう尋ねようとして否定される。

 ということは彼女の妹達は『獣人』の力を持たずに生まれてきた

事になるのだろうか。


 ラインヴァントに属する兄弟姉妹といえば、希美やユズカとユキナ、それから芽空も該当する。

 また、ここしばらく奏太の元へお礼を言いにきている者たちの中にも該当者はおり、芽空の兄のような十八歳以上の兄弟を持つ例外は除き、『獣人』の兄弟は『獣人』だと、そう思っていたのだが。


 十八歳以上の『獣人』がいないことはフェルソナに断言されており、それに関しては奏太も疑ってはいなかった。

 ラインヴァントの面々がこれまでに関わってきた『獣人』。それらの中にも例外は存在しなかったというのだから。


 ただし兄弟で力を持つか持たないか、その事に関してフェルソナは言及していない。


 せいぜい、つい最近ユズカとユキナが同じ姉妹かつ同じ能力であっても、適性が天と地ほどの差があることを聞いたくらいで。

 ユキナの適性は葵よりもずっと低く、普段顔を見せない非戦闘員達と同格——つまり、まずもって『トランス』の発動自体が相当に難しいのだとか。

 一応ユキナは発動出来るようだが、それはさておき。


「ってことは力持たない例外か」


 ひとまずはそんな例外もいて、まだまだ『獣人』は分からない事だらけなのだと頷く。


 ——最悪の可能性を考えていなかったのだとも気がつかずに。


「ん? いや、そうじゃなくてさ……」


 どこか的外れだと言いたげに困った声を出す梨佳。

 分からないと首を傾げる奏太に対し、彼女は一度深く目を瞑る。


「————」


 一体、どういうことなのだろうか。

 どこかでも味わったような感覚が体に纏わりついてきて、しかし梨佳の言わんとしていることが未だ分からない。


 アジトにはいない。

 とすれば実家や下宿ではないのだろうか。

 改めて考えようとして——、


「……まさか」


「そ、今奏太が思った通りだ」


 一つの答えに至ると同時、梨佳がゆっくりと目を開いてこちらを見据える。

 そこにはやはり、いつもの彼女はいない。

 憂げを帯びた瞳が一瞬、わずかに細められ、


「————あーしの妹と弟は死んでる。それも……ハクアに、殺されてな」


 彼女は最悪の可能性を口にした。

 アジトにはいない、ではない。

 既にこの世界にいない、ということなのだ。


「——っ」


 軽率な発言だったと、奏太は自らを強く責める。

 そして同時に梨佳が触れさせないようにしたのも、こうして奏太が気に病まないための気遣いだと気がついて。


 奏太は大事な人を失う苦しみを知っている。

 こうして掘り返してしまうなど、残酷であり辱めであり苦痛の限りなのだと、知っているのに。

 何よりも憎んだ男が、彼女のことを口にした時怒りが湧いた。止めどなく溢れる憎しみとともに。


 発言の内容がどうであったか、などというのは関係ない。

 人には踏み入られたくない領域があり、それに奏太は踏み入ったのだ。

 だが、


「だから言ったろ? 忘れてくれって。お前、そうやって辛くなるだろーしさ」


 彼女は笑う。失敗した子供を元気付けるような、そんな笑顔を奏太に向ける。


「…………どうして」


「んー?」


「どうして、笑ってられんだよ」


 そもそも、今になって考えると不思議だ。

 奏太が蓮の死に苦しんでいた時、彼女はどんな顔をしていただろうか。

 彼女は、笑っていた。

 当たり前のように笑い、当たり前のように蓮がいない日々を受け入れて。


 それは彼女が薄情だから、サバサバしているから、そんな言葉では片付けられないし、的外れだ。


「本当は辛いはずなのに」


 前に梨佳は自身を優しくないと言っていたが、それはないと奏太は断言出来る。

 蓮との約束で一度きりだけ助け、それ以降は気に入ったから。

 たったそれだけの理由で助けるなど、善人も良いところだ。

 そう、人一倍に彼女は優しいのだ。


 だから、なのかもしれない。

 彼女がこうして涙を流さず、悲しむ様子すら表面に出さないのは。

 誰かが悲しんでいるというのに、自分まで泣いてしまったらと。そう、思い遣って。


「梨佳、本当は————」


「——あー、ちょっといいか?」


 彼女の内心を問おうとして、制止される。


「多分奏太は勘違いしてる」


「……勘違い?」


「そ。言っとくけどあーしは、兄弟のことも蓮のことも悲しんでた。そりゃもう、涙ポロポロ流すくらいには」


 梨佳は続ける。


「ただし、蓮に限って言うと奏太が目覚める前のことだけどな。ちゃんとあいつが死んだことも受け入れた」


 平気でそう言ってのける梨佳に、奏太は目を見開く。

 泣いたということも驚きだが、あれだけ奏太が苦しんだことに梨佳がすんなりと向き合えたこと。

 それが何よりも、不思議で、疑問で、尊敬すら抱くのが分かった。


「……なんで、そんなに簡単に受け入れられたんだ?」


 故に奏太は、疑問を口にしないではいられなかった。

 それを受け、梨佳は歯を見せて笑んだかと思えば、


「簡単、って言えるほどじゃねーけどさ。あーしはずっと前に知ったから。あいつらが——妹達が死んで、苦しんだ時に」


「……何を」


 問わずして、奏太はその答えを知っていた。

 今こうして梨佳が言わんとしていることを、奏太はもう彼女からもらっていたから。

 なのにこうして問いかけたのは、改めて彼女の口から聞きたいとそう思ったからなのかもしれない。


「……あいつらが残してくれたもの。死んだらそりゃおしまいだけどさ、想いを自分に向けてくれてた記憶は残ってる。約束だけじゃなくて、いつも話してる言葉の一つでもさ。だからそれを大事にしたいって、あーしはそう思ったんだよ」


「残してくれたもの、か」


 奏太の中に、確かにそれはある。

 一番を占めているのは約束であっても、決して少なからず奏太の中に蓮は残っている。

 彼女と話し、彼女から聞き、彼女と交わしたそれは、奏太と共にあるのだ。


 そしてそれに気がついたのは——紛れもなく、梨佳のおかげだった。


「梨佳」


「ん、どうした?」


「……ありがとう」


 だから一言、改めてお礼を伝える。


「ばーか。それならあーしもだ。……あいつらの仇を取ってくれて、ありがとう。本当に……ありがとう」


「————」


 言葉に詰まる。

 瞬き一つすら出来ないくらいに。


 梨佳が深々と頭を下げ、お礼を告げた。

 それは、およそ普段おちゃらけた言動が目立つ彼女からはありえない行動なのだ。

 そんな彼女に対し、一体どのように言葉を返せばいいのかも分からなくて。


 しかし奏太が動くより前、梨佳に動きがあった。

 彼女がゆっくりと顔を上げた先、そこには——、


「今のあーしには、お前らみたいな弟や妹がいてさ、そんな中であーしはお姉さんとしていられる。……今はそれが楽しいんだよ」


 歯を覗かせ、頬を染めて笑う梨佳がいるのだった。



*** *** *** *** *** *** *** *** ***



 それからしばらくは慌ただしい時間が続いた。


 普段の調子に戻った梨佳が完食し、部屋を出て行ったかと思えば、入れ替わりでフェルソナが帰還。

 とはいえそればかりは仕方のないことなので、梨佳に続いて彼のためにも昼食を作った。

 が、それだけでは終わらず、ユズカやユキナ、葵が帰還したことで軽食を作ったり勉強を教えたりと、もうこれでもかというくらいの忙しさで。


 ようやく部屋に戻ってきた頃には、もう夕食前である。


「…………疲れた」


 ベッドに横になり深くため息を吐く。

 あんまり休んでいない、というのもあるが、一番は精神的なものだろう。

 沈黙に恐怖し、焦って戸惑って。予想外なことに疑問し、驚いて。


 ちなみに葵に事の顛末を話してみたところ、さすがに働き過ぎだと言われた。当然だが。

 だが今日の調理当番は奏太であるため、代わると言われてもそこだけは譲らない。

 確かに大変ではあったが、こうやって一日を潰すのも悪くないと思う自分がいたから。

 それに、今日は————。


「……しかし」


 奏太が来る前には一人で回すことが多かったのだという葵の苦労が偲ばれるところである。

 もっとも、あの少年ならば格好をつけて何てことないと言ってのけるのだろう。

 それに——その頃には蓮もいただろうし、フォローにも多大な期待が出来るのだから。


 ふっと頭に浮かんだ彼女の顔。

 それは最後の瞬間まで含めて奏太が今も好きで——きっと、これからもずっと好きでい続ける女性。


「————嘘の味がする」


 カラフルな天井をぼんやりと見つめ、呟く。

 それは以前に、蓮が口にしていた言葉だ。


 嘘が分かる。悪意があれば苦く、善意ならば甘く、だったか。

 蓮がそんな不思議な能力を持っていたと梨佳に聞いたことがある。

 最近になってそれを思い出し、先もそれを詳しく聞こうと梨佳に尋ねたものの——、


『いや? あーしはそれ以上のこと知らないんだわ』


 そう言い、けらけらと笑っていた。

 恐らく、希美も知らないのだということも付け加えて。


「『獣人』の能力になるのか……?」


 改めて考えると、奏太は『獣人』という存在についてまだまだ知らないことがたくさんある。

 もちろん、誰かに聞いたとて分からないこともあるのだが。


 それが蓮の嘘を見抜く能力であったり、複数の能力を持った『トランス』、蝶そのものを出すことが出来る希美の能力。

 それから奏太の異常な回復力や、『トランス』を発動しているいないに関わらずやけに鼻が良かったり、芽空を探し出せる気配感知能力。


 いずれも蓮に出会う前ならば半信半疑、あるいは信じないようなことばかりだが、今となっては違和感なく受け入れられているあたり慣れとは怖いものだ。

 ともあれ、


「知らなきゃいけないことが山積みだな。『獣人』のこと、世界のこと、みんなのこと」


 首元のネックレスに触れると、涼やかな音が奏太の耳に届いた。

 蓮に貰ったそれは、今もこうして奏太と共にある。

 ネックレスの先に指を這わせると、薄青の花に当たる。


「……勿忘草。花言葉は、私を忘れないで。それから——」


 勿忘草の花言葉。

 それは蓮に宿題として出され、梨佳に教えて貰ったものだった。

 しかしその後アジトに帰還し、改めて調べてみたところもう一つだけ言葉があることが分かった。

 そもそも花言葉は一つだけではなく、多くが二つかそれ以上の意味を持っているらしく、勿忘草もその一つで。


 それを知った上で買ったというのだから、本当に蓮はすごい女性だと改めて思う。

 何故なら、


「——真実の愛、か」


 奏太が蓮にベタ惚れしていたように、彼女もまた同じ好意を向けていてくれた。

 それが今は何よりも誇らしいと思う。本当に良かったと、思う。


 だからこそ奏太は、彼女との約束を守ろう。

 みんなを幸せにし、奏太も幸せになるのだとそう誓ったのだから。


「————」


 と、決意を新たにしたところで扉が開いた。

 その先、のそりのそりと歩いて現れたのは、


「ただいまー」


 鶯色の髪に、間延びした声。

 同居人兼最高責任者でもある古里芽空、彼女だった。

 生地の薄いドレスの上に上着を羽織り、ワカメのように伸びきっていた髪は上の方でくくってまとめられていた。

 HMA本部でも見せたその髪型は、どうやら梨佳のセットによるものだったらしく、今回も恐らくは彼女の手によって整えられたものなのだろう。


「おかえり、芽そ……らっ!?」


 部屋に入ってくるやいなや、ベッドのすぐ側にある山積みクッションに埋もれる。

 それは一瞬の出来事であったが、


「…………疲れたのか?」


 少しずつ柔らかくなってきた彼女の表情が疲れ切っていたことや、その足取りがやけにふらついていたことは見逃さなかった。


「————」


 しかし、彼女からの返答はない。

 いくら待ってもそれは変わらず、不審に思った奏太は彼女の側に寄って、


「…………寝てるのか」


 すぅ、と寝息を立てているのを聞き、身を引く。

 それから側にあった毛布を芽空にかけてやりつつ、


「おやすみ、芽空」


 音を立てないように部屋を出た。



*** *** *** *** *** *** *** *** ***



「————ん」


 もそり、と衣の擦れる音がする。

 どうやらそれは隣の少女による音らしく、奏太は読んでいた本を閉じ、側に置く。


「おはよ、芽空」


「——んん」


 まだ寝ぼけているのか、言葉にならない声が返ってくる。

 ここ二ヶ月で何度か目にした光景だ。


「まだ寝るか?」


「——ううん」


 そしてその光景は、


「あれ、そーた?」


 目をパチクリとさせ、はっとなるまでがセットとなっている。

 それは今回も同様だったようで、


「ごめんねー、私寝てたー」


 彼女は身を起こして毛布を畳むと、まだ眠気が残っているだろうに、はっきりとそう告げる。


「いやそれはいいんだけど……疲れてたんだな」


「……そうだね。お兄様のところへ行ってきたから」


 芽空の兄。

 それはこの二ヶ月で何度か芽空の口から聞いた存在であり、芽空が会うことを出来る限り避けていた存在でもある。

 負い目を感じているのか、何かを抱えてしまっているのか。いずれにしても奏太には想像がつかない内容のもののはずで。

 今日も幾度となく迷っただろうし、困ることもあったのではないかと思う。

 その苦労が彼女の表情にも残さず刻み込まれていて——、


「……ちゃんと話せたんだな」


 だがしかしそれでも、今回は上手くいったのだということだけは分かった。


「どうして?」


「簡単な話だよ。今芽空が笑ってるから」


「————」


 確かに、芽空の表情に苦労の跡はあった。

 だがそれは、辛かったともう嫌だと吐露するような負の感情に満ちたものではない。

 ただ彼女は笑っていた。笑っていたのだから。


「私笑ってるの……?」


 ペタペタと自分の頰に触れ、むにっと引っ張ってみたりと、どうやら彼女は自分の表情に気がつけていないようだが。

 とはいえさすがに続けさせると見た目的にまずい気がするので、やめさせつつ、


「笑ってるよ。幸せそうに」


「…………そうなんだー」


 否定しないあたり、やはり上手くいったということなのだろう。

 ならばこそ、


「じゃあ、ご飯食べるか。……って言ってもみんな先に食べたから、二人だけだけどさ」


「待っててくれたのー?」


「そりゃ、芽空が頑張ってたんだから待つよ。あ、浅漬けもちゃんと作ってあるから」


「え、本当?」


「本当本当」


 葵に調理当番を代わってもらうことなく、奏太が夕食を作った。その甲斐もあるというものだ。


 クッションに埋もれていたことで乱れた芽空の髪を近くにあった櫛で直しつつ、立ち上がらせると、


「さ、行くぞ。芽空」


「うん、そーた」


 二人は歩き出す。

 

 部屋を出た先、廊下には静寂が広がっており、そこには誰の姿もない。

 ただ後方から届く微かな息遣いと控えめな足音だけが奏太以外の存在を感知させた。


「————」


 その静寂が奏太の頭を冷やし、心に熱を灯す。

 気まずさを感じないその静寂に、奏太は覚えがあるから。

 だからこそ奏太はネックレスに触れ、僅かの間瞳を閉じ、


「…………約束、守るよ」


 芽空にも届かないような小さな声で、呟く。


 ——蓮を失って傷つき、まともに立つことすら難しくなった時もあったけれど、しかしそれでも再び前を向くことが出来た。

 少しずつ、世界が変わってきた。


 みんなを幸せにする。

 

 それは途方も無い時間がかかることで、まだ小さな一歩を踏み出したばかりだけど。

 それでも、前へ進む。色は変わる。より鮮やかな光を放って。

 奏太自身の、幸せのために。

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