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黒と白の世界と  作者: 夕陽ゆき
第二章 『忘却』
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第二章番外編③ 『美しき水面にて望むもの』



 長い廊下に一定の間隔で地を踏む鈍い音が響いていた。


 時間の経過と共に慣れ親しんだ豪華な装飾と赤絨毯で形成された廊下。

 およそ一般家庭では見られない景色のそれは、今やここで生活するもの達にとって当たり前の景色だ。

 愛した女性を失い、運ばれて来た少年にとっても。

 あるいは人ならざる力を持ち、しかしそれを振るうことすら満足に出来ない者たちにとっても。


「——あ、あのっ!」


 静寂を裂いて、背後から声が届いた。

 少年——奏太が聞き慣れない声にくるりと振り返って見やれば、そこにいるのはやはりと言うべきか、奏太の記憶にない人物。


「えっと……?」


「三日月奏太さん、ですよね! このアジトの中で何度か見たことはあったんですけど、なかなか声をかけづらくて…………」


 小さな子だ。

 ユズカやユキナと同年代くらいだろうか。

 背丈は奏太よりもふた回りほど小さく、顔は亜麻色の髪で隠れてしまってよく見えず、顔から上だけで見れば少年か少女か、どちらとも判断がつきにくい。

 が、指先をくるくると回してもじもじとする姿や、フリフリとした服装から考えるに、恐らくは女の子なのだろう。


「ああ、そうだけど……どうしたんだ?」


 膝を折り、身を屈めて少女と目線を合わせる。

 すると目が合ったのだろうか、少女はわずかに頭を揺らしてぱくぱくと口を開いたり閉じたりして、


「え、えぇっと、その……」


 切羽詰まった声を出す。

 そんな少女の様子がどこかおかしくて、奏太は思わず吹き出してしまう。


「え、えぇ……っ!?」


「——ごめんごめん。いきなり驚いたよな。ユキナ……って言っても分からないかもしれないけどさ、その子と出会った時みたいで懐かしくて。それで、君は?」


「あ、はい! えっと、その、三日月さんはハクアを倒してくれたんですよね」


「まあ一応。トドメは葵だったし、俺だけの力じゃないけど……倒したよ」


 実際尖った性能の奏太では、単独でハクアを撃破することなど出来なかったのだが、どうやら少女にとっては倒したと言う事実が大事だったらしく、口元を大きく開けて歓喜の声を上げた。


「ありがとうございます! 私のお兄ちゃんはハクアに殺されて、私も弟も何も出来なくて、それで……っ。——でも、三日月さんが仇をとってくれて、本当に良かった。これでお兄ちゃんも、きっと……」


 途中、少女は悲痛な声を上げ、しかしそれを無理矢理に押し込めたかと思えば明るく振舞ってみせる。


「————」


 どうして『獣人』は、皆が皆こうして抱え込んでしまうのか。


 奏太以外の主要メンバーにしたってそうだ。本来の歳を考えればもっと感情を出して当然な場面であっても、それをどうにか押し留める。

 奏太と違い、昔から人の生死に関わり、生きるには厳しい世界の目に晒され続けていたが故のものなのだろうか。


 ——そう考えてしまうのも、ここ最近の日々の積み重ねによるものである。


 というのも、少女が奏太にお礼を言ってきたように、今までは顔を見かける程度だった者たちがこうして奏太の元へやってくるようになったのだ。

 だからこうして、ハクアを倒したことでお礼を言われるのは初めてではないし、その度に精神の歪さに眉を寄せた。

 慣れないものは慣れないという点はさておくとして。


 ともあれ、こうして震えを隠し、歓喜する少女に対して奏太が出来るのは、


「——もう大丈夫だ。君も好きなことをして、好きに生きていいんだ。幸せになれるんだから」


 軽く頭を撫で優しく微笑み、これからの後押しをすること。

 それが幸せに繋がるのだと、そう思うから。


「…………うんっ!」


 僅かな沈黙の後に少女は元気な声で返事をした。

 そうして、最後に大げさなお辞儀をして少女は廊下の奥へと消える。


「…………さて」


 奏太はそれを見届け、立ち上がると深く息を吐く。


「どうしてこう、緊張するんだろうな」


 少女が去って一人になったことで、ついこれから待つ苦しい時間を頭の中で想像してしまう。

 本来、緊張する必要などないはずなのに。

 というかそもそも、このようなことを考えた時点でやり辛くなるのは当然なのだが——、


「それでも行かなきゃ、だよな」


 頭を振って余計な考えを追い払うと、頰を両手で叩いて気合いを入れる。


「————行こう」


 覚悟を決めて、奏太は進む。

 苦難必至だと分かりつつも、食堂へと歩みを止めずに、ただひたすらに。



*** *** *** *** *** *** *** *** ***



 覚悟を決めたはずだった。


「…………あ、これ、美味しい」


「……おお、そうか」


 時折差し込まれる声に耳を通して全身が反応するのが分かる。

 一字一句聞き逃さず、少しでも苦だと思わせないように明るい口調で言葉を返す。


「…………」


 たったそれだけと言うべきか。それとも、それほどの事と言うべきか。

 どちらであっても、奏太が今現在この場に流れている沈黙に対して、並々ならぬ苦しみを感じているのは否定しようのない事実だ。


 いつもなら賑やかしのメンバーが誰かしらおり、こんな沈黙が発生することなどあり得ない。

 そう、いつもなら。


「あー……おかわり、あるからな」


「……うん」


 ただただ、食器と箸が触れる音だけが食卓に響く。

 そこに、いつものメンバーはいない。

 端的に言えば希美と二人きりの食事で、かなり気まずい。


 ユズカ達姉妹と葵は遊びに出かけたし、梨佳は読モの撮影他。

 ここまではいい。姉妹と葵は以前から仲が良かったし、外に出かけるのも良い経験になる。ユズカが迷子にならなければ。

 とはいえ、この点については気にかける必要はなさそうだが。


『……今日はみゃおみゃお達と離れないよーに気をつけるねっ!」


 出かける前に彼女が奏太に対して漏らした言葉。

 それは裏など感じさせない明るい口調のものだったが、言葉内にある根拠たる想いは誤魔化せない。

 少女なりに妹を危険に晒してしまったことを気に病んでいるのだろうことは明白だった。

 

 それでも、ユキナのフォローがあるとはいえ、ユズカに振り回される葵の苦労が並大抵のものでないことは容易に想像がつくのだが、その辺りは男の意地ということで頑張ってもらうしかない。


 梨佳も梨佳で、彼女はその容姿を生かして好きなことをやっているのだから、奏太が気に止めることなど何一つないと言ってもいい。

 姉御肌……というものなのだろうか。

 この数ヶ月で度々触れてきた彼女の精神性は、およそ同年代とは思えないくらいに頼もしい。


 それに、彼女は奏太の以前と今を知っている数少ない人物でもある。

 葵の父であるケバブ屋の店主も該当する人物の一人ではあるが、 やはり距離感や接する機会のことを考えれば、奏太にとっては梨佳の方が近しい立場に位置する。

 故に彼女は気を配らずに接し、同時に対等な立場で話せる相手でもあった。

 もっとも、ここ二ヶ月は真面目に言葉を交わす機会が一度もなかったのだが。主に彼女がまともに取り合わないことが原因で。


「……しかし、まさか芽空とフェルソナまでいないなんてな」


 留守にしているメンバーの顔を思い浮かべ、たった数時間会っていないだけだというのに込み上げてくる妙な懐かしさに浸っていると、よくよく考えてみると違和感のある現状に気がつく。


 大抵は奏太と行動している芽空。奏太が何もしない場合、彼女は本を読んでいるかクッションの海を彷徨っているかのおおよそ二つの行動パターンの元動いている。

 朝方にはお菓子づくりをすることもあるが、いずれにせよ彼女単体での外出はこの二ヶ月で見たことがなかった。


「多分、芽空さんは、家元に、会いに、行ってるんだと、思う」


 奏太が漏らした呟きに対し、希美は箸を止めて情報を提供してくれる。


「家元? ——ああ、芽空のお兄さんのことか」


 知った風にお兄さんなどと口にするが、奏太が芽空の兄に会ったことは一度もない。

 たまに芽空から彼女の兄の名前が出るので、存在を知っているというだけであって。


 芽空曰く、彼女の家は『ノア計画』に深く関わっているらしく、計画まで半年を切った現在、当主である彼女の兄も当然のごとく多忙で、芽空自身が外に出ようとしないということも相まって会うことは困難を極めていた——はずだった。


 だが、このタイミングでの外出。

 それはこの二ヶ月で少しずつ彼女の内面が変化していった結果とも言えよう。

 芽空が自身の家のことを話したのも、意識的に避けていた節が見られる一人での外出も。


 ならばこそ、奏太には止める理由もない。

 単なる世間話か、それとも何か重要な話か。どちらにしても彼女は前を向いて歩き始めたのだから。


「…………あ、そういえばフェルソナは何か買いに行くって言ってたな」


「あの人が、外出する、なんて、珍しいね」


 顔を合わせる度に『纏い』を求めるような視線を奏太へ向けてくる鳥仮面。

 彼は芽空以上に外へ出ない引きこもりである。

 奏太が外出する時には付いてくる芽空と違い、まず彼は部屋から出ない。というか食事の時しか出てくるのを見たことがない。


 研究者というものを奏太はよく知らないが、あれほどまでに外出をしないとなると本当に研究をしているのかどうかすら怪しくなってくる。

 唯一証拠があるとすれば、彼の部屋に入る度、何やら訳の分からない書類やら部品薬品等々が出てくるくらいで。


 とはいえ蓮や奏太、及びラインヴァントの皆々が身につけている『獣人』の力を抑えるアクセサリーは、彼によって作られたものだ。

 原理としてはHMAで奏太が体験したのと同様のものらしく、フェルソナ一人でそれを作り出してしまうのだから、その知識量と腕は信頼できるのだが。

 加えてアジトの設備維持や強化、最近では能力的に他のメンバーに劣る葵の為に武器まで作っているのだという。その詳細までは分からないが、それなりの物を仕上げるであろうことは想像がついた。


 そして、今日も恐らくはその為に外出しているであろうことも。


「……でも、だからってわざわざ今日にしなくたっていいだろ…………」


 奏太は呟くようにぼやく。

 仕方ないこととはいえ、結果的に彼の行動によって最後の壁が取り払われ、希美と二人きりになるという事態を作ってしまったのだから。


「————」


 再び訪れる沈黙。

 心地良い沈黙など、そこにはなかった。


 だがそれは決して女性と二人だから焦るなどという甘酸っぱいものではない。

 そもそも奏太が彼女と二人きりになることを気まずいと感じるのには理由があるからだ。


 まず第一に、彼女と奏太があまり話していない。

 これは希美自身の口数が少ないことや、奏太がアジトに来た当初から大変続きであったことが起因しているのだが、一番は関わる機会の少なさだろう。

 芽空はもちろんのこと、勉強会があるために姉妹と葵、遊びに来る梨佳とは接することが多かった。フェルソナもフェルソナで、濃い出会い方や記憶の喪失という共通点からすんなりと馴染めてしまっている。


 故に、彼女だけなのだ。

 向き合って話していても、未だ感情が見えず、難しく考えてしまうのは。


 そしてそれは、もう一つの理由も無関係ではない。


 ——約束。

 蓮と交わし、ラインヴァントの面々と交わし、奏太を支え動かす契り。

 それはアジトで目覚めたあの日、希美とも交わされたものだ。


 彼女が幸せにする手伝いをする。


 今や、蓮が大事にした誰もに、何もかもへと対象を変えたそれは、元はと言えば希美が一人目なのである。

 蓮が死んだのは世界が悪いと、そう述べる彼女。だからこそハクアを倒し、幸せになる一歩を踏み出そうと約束した。


 そう約束したからこそ、彼女が蓮の肉親だからこそ、彼女を前にするとふざけた態度でいられなくなる。

 芽空達といる時にはスラスラと出てくる言葉も、ふざけた調子も。全てが打ち消されてしまうのだ。


 もっとも、二人きりでなければその限りではないのだが。


「——なあ、希美」


 故に奏太は、こうすることでしか彼女に接することが出来ないのだ。


 奏太は黙々と進めていた食事を止め、箸を置く。

 既に食事を終えかけていた希美は、その手を早めて完食、話を聞く体制になる。


 当然視線もこちらに向き、一線の感情を感じさせない瞳で見つめられ、硬直。

 息が詰まるような感覚になるが、何とかそれを振り払って青髪の少女に質問を投げかける。


「今希美は……幸せか?」


「————」


 返事はなかった。


 ただ耳に届いたのは、テーブルを挟んでわずかに聞こえる少女の息遣い。


 その表情には依然として凍りついた無表情が浮かんでいるのみで、蓮によく似たその整った容姿が、奏太にはひどく残酷に強く突き刺さる。

 梨佳の前ではちらりと顔を覗かせる彼女の感情も、姉の花が咲き誇るような笑顔も、今奏太の目の前にいる彼女からは一切感じられない。


「前に……って言っても覚えないかもしれないけどさ、蓮が死んだのは世界が裏切ったから、世界が悪いからって希美は言ってたよな」


 希美は顎を引き、肯定。

 何の疑いもなく平然とそう言ってのける彼女ははっきり言って——異常だ。

 考えがずれている、なんて生易しいものではない。


 一歩間違えれば、奏太も彼女と同じ意見に辿り着いていたかもしれないと分かっていながらも、そう思わざるを得ない。


「その原因にはあいつ——ハクアも関係してたけど、あいつはもういない。俺が……殺したから」


 奏太は自身の手に目を落とし、両の手を何度か開いたり閉じたりする。


 人を殺した。

 その実感はこうしている今にも全身にまとわりつくようにして、奏太の中にある。


 震えていた時とは違い、今となっては命を奪ったことに向き合えている。

 ハクアを殺したことが正解だったのか否か、感情を抜きにすれば未だ正しかったのかは分からない。

 事実を内に抱えて罪の意識に囚われ、苦しめられることがなかったのは良かった、などと言い切れる程吹っ切れているわけでもないのだ。


 これからも待ち受けているであろう命の奪い合い。その度に奏太は悩むのかもしれないが、きっとそれは正しいことなのだと思う。

 目の前にいる希美のように断言出来ないからこそ、奏太は踏み止まって様々な選択肢を見つめることが出来るのだから。


「それでもやっぱり、希美が幸せになるには足りないのか?」


「……うん。姉さんと、約束した、幸せな、世界じゃ、ないから」


「約束した世界……」


「そう。不純物が、たくさん、あるから」


 ——美水希美は、姉である蓮のことを溺愛している。

 それは今までの彼女の言動から分かっていた。


 言葉裏で、蓮と約束していた幸せな世界になるまでは彼女自身がどうあがいても幸せになれないことを告げており、さらにはようやく見ることの出来た彼女の感情が、服の袖を強く握ることで表されている。

 それは悔しさか、それとも憎しみか。いずれにしても蓮の話をしなければこんな彼女は見られなかっただろう。


 奏太と同じ依存心とも言えるが、同じ立場であったからといって今すぐ向き合えなどと言えるはずもない。

 だからこそ気がつく。


 だからこそ再び彼女に告げる。


「——じゃあその不純物を取り除いて、幸せになろう」


 あまりに困難で、果てしなく先の長い道のりを行こうとする彼女を支え、歩ませるために。


「その為に邪魔をする奴がいるなら、俺が倒してやる。俺だけじゃ力が足りないなら、みんなの力も借りて」


 自分が守りたいと思える全てと、蓮が愛した全てを幸せにするために奏太は奏太のやり方で世界を見つめる。


 かつてあの男に——ソウゴに対して誓った言葉だ。

 誓ったとはいえ、何の迷いもなく邪魔するものを殺す、などと口に出来るくらいの心の強さは奏太にはまだない。

 だが、それでいいのだ。


 奏太は彼女と同じ立場であったとしても、考えは全く異なるのだから。

 教えてもらったことも、託されたことも、約束したことも。

 蓮が愛した世界も奏太は幸せにしたい。

 その為なら限界まで戦ってやる。限界まで説得してやる。限界まで望んでやる。

 もし、それでもどうしようもならない相手なら——その時は。


 希美の本心は分からない。奏太のこの弱さとも言える部分を許さず、邪魔するものは徹底的に潰し、殺すと考えているかもしれない。

 いつかはそれがきっかけでぶつかることになるかもしれない。


 でも、それらをひっくるめて全部が全部終わって、彼女の望みであり希望でもある幸せな世界が訪れたのなら。

 訪れたのなら、その時はきっと彼女も笑うことが出来る。

 奏太のように、前を向くことが出来る。


 蓮のような笑顔が、浮かべられる。


「だから——約束だ」


 柔和な笑みを浮かべて、小指を差し出す。

 それを受け、希美は一瞬躊躇するように口を開きかけ、閉じる。

 瞳に浮かぶ感情に変化はなく、やはりそこには底の見えない、燃えるような朱眼があるのみ。


 しかし、口元に変化があった。


「——どうして、奏太さんが、手伝うの?」


 独特なリズムで放たれる彼女の言葉。

 後に残るのは、結ばれた唇。


 それが指す意味を奏太は知っている。以前にも問われたその質問への答えを奏太は知っている。

 故に奏太は、自分の為に答える。


「……俺は蓮と約束したから。みんなを幸せにするって。ラインヴァントのみんなも、世界も。俺がそうしたいって思うから。全部叶えた先で——俺も、幸せになれるから」


 沈黙があった。

 やはりそこには、無表情な少女がいて。

 同じ姉妹であるというのに、感情表現にこれだけの差があるなんて不思議なものだ。


 けれどそれは、蓮と違って感情が分からないということじゃない。

 確かに芽空や葵よりも分かりづらい。数える程しか奏太は彼女の感情を読み取れていない。


「…………しばらくよろしく。奏太さん」


 だからこそ、読み取れた時には思わず笑みを浮かべてしまう。

 彼女が小指を差し出し、結んだ時には。


「よろしく、希美」


 今度は忘れない。

 辿り着く幸せという約束の果てに、奏太がいることを。

 どれだけ重たい言葉であることを知っている。


 大事な人達に、それを教わったから。



*** *** *** *** *** *** *** *** ***



 それから食事を終えると、少しは交わせるようになった希美との会話も程々にして、奏太は席を立ち——、


「あ、私、洗い物、するよ」


「いいのか? それじゃあ……」


 そのまま着席する。


 奏太を制止した希美は席を立つと、食器を洗浄し始めた。

 やることがなくなってしまい、だからと言ってこのまま部屋を出るのも躊躇われたので、とりあえず机に突っ伏す。


「————」


 水が流れ、食器が擦られる音が聞こえてくる。

 その音は何故だか今この瞬間どこか心地が良く、耳に入ってくる度に体が浮くような感じがして、


「…………眠い」


 そういえば、と昼休みを終えた後の授業の感覚を思い出す。

 そう。ああいう時間は何故だか無性に眠たくて、教師の声がまるで子守唄のように聞こえてきて——、


「洗い物、終わった。……奏太さん?」


 少女の声に揺らぎが発生し、自分が本格的に寝にかかっているのだと分かる。


 瞼が重たく、体を動かすのが気怠くなってきて。

 少しずつ世界が白んで、意識が薄らいで。


 何もしない。ただただそれを行うことが心地良くて瞼を閉じる。


「奏太さん。————」


 何かを言っているのが聞こえる。

 目を覚まさなければならないと、そう分かっているのに。


「————」


 何かが奏太を呼んでいる。

 しかしそれが何かも分からなくて——、


「————ちゃーっす! 撮影終わったぞー!」


 唐突にそれは帰還した。

 一気に奏太の意識を覚醒に向かわせ、同時に驚きやら苦しみやらを発生させつつ。


「……おかえり、梨佳」


「……おかえりか、とかいいんじゃね?」


 そんな奏太を他所に、梨佳はふざけた調子で笑うのだった。

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