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黒と白の世界と  作者: 夕陽ゆき
第二章 『忘却』
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第二章24 『愚行の果てに』



「殺した、っていうのは……」


 声が震えるのを感じた。

 それは喉から発せられたと同時、頭から順に足の指先まで、一気に伝わっていく。


「言葉通りですよ。そう、あの日の僕は検閲の為に動物園に来ましてね。あなたもご存知のこととは思いますが、絶滅危惧種や希少種等の動物が見られるあの動物園ですよ。ええ。あの日は、たくさんの人で賑わっていました」


 終始明るい調子で話すハクアは、奏太の変調に気がつかない。

 こみ上げてくる感情に耐えきれなくなって、ぐっと地面を見つめる奏太の心中に、気がつかない。


「最初皆さんは僕が現れたことで動揺されていましたが、すぐに分かってくれました。僕の友達にとっても、『獣人』は死すべき罪人なのですから」


 ハクアの言葉に合わせるように、奏太の中であの日の様子が鮮明に蘇えり、場面の一つ一つが次々に現れる。

 今や消えない楔となった記憶。

 それを平然と踏みにじるように、彼は続ける。


「それから間も無く、僕の友達を脅かす存在は現れました。穏やかな少女を装った化け物が、一人。そしてそれを庇うように、もう一人」


 ————やめろ。


 内に、声にならない声が響いた。

 幸せだった頃の記憶が彼に蹂躙されるのが、たまらなく苦しい。

 身体中に血液が集まって来て、今にも沸騰しそうになる。

 自然と呼吸も荒々しいものとなり、体の中で、何かを感じる。

 久方ぶりに黒く蠢く、何かを。


「それから僕は、そのクズ達を潰してやろうと追いかけたのですよ。小さい方は卑怯にも逃げ隠れ、もう片方は無様に抗って」


「——ろ」


「酷く哀れでしたねえ。生きる価値のない罪人同士がかばい合う姿など。本当に、醜い。だから僕は、庇ったクズを僕が出せる僕の限りを尽くして潰してやりました。その命が尽きる瞬間までは見ることかないませんでしたが、あのようなクズはすぐに死にますから、何の問題もありません」


 一言話す度に上がっていく声の調子。そのハクアの声に、顔を歪める。

 夢中になって傘を手放すハクアに対して奏太は、


「——やめろ」


 今にも砕けるのではないかというくらいに奥歯を噛み締め、低く唸る。

 首元につけられたネックレスのうち、奏太の本能を妨げるものを外して、ズボンのポケットにしまう。


 そして、


「『獣人』などというクズは、最初から存在していいわけがないんです! あんな化け物に、人間として生きる道はないのですから!」


「やめろッて、言ッてンだろうがッ!!」


 叫んだ直後、拳を顔面に受けたハクアが一瞬で吹っ飛んでいく。


 激昂を露わにした奏太が、咄嗟に『憑依』を発動させたのだ。

 その効果は確かにあったようで、一度もバウンドすることなく、ハクアは数十メートル空中を舞う——はず、だった。


「な…………ッ!?」


 滑らかな曲線を描いて飛んでいたはずの彼は、真上から何かを浴びたかのように、一気に下へ墜落する。

 それはさながら、高いところから重量のある物体を起こした時のように。


「この……クズがぁぁあああああ!!」


 地面に墜落し、建物を巻き込んで地面に足をつけたハクアは、先のダメージなど一切なかったかのように勢いよく立ち上がって言った。

 そして、


「その、赤髪……! この前僕に対して不意打ちをした卑怯者だな? なあおい!」


 ただでさえ不健康な顔を血で赤く染めたハクアは、ぎらぎらとした目でこちらを見やる。

 対して奏太は、


「てめェに言われるのは心底腹が立つよ、ハクア」


 荒々しくなった口調とともに、敵意をぶつける。そこには怒りと殺意、それぞれが少なからず入り混じっており、


「クズが、クズがクズがクズがクズがクズがクズが僕の名前を気安く呼ぶああああああ!!」


 それに怒ったのか、ハクアが叫ぶと同時、彼を中心として地割れが広がっていく。

 当然、こちらにまで振動が伝わり、思わず足がふらついて——、


「しまッ————」


 一瞬。

 地を蹴るような音がしたかと思えば、すぐに空気を裂いた音が耳元を擦りかける。

 次の瞬間、先程まで奏太が立っていた場所に現れたのはハクアの魔手だ。


「!? は、や……ッ!!」


 ハクアが三十メートルは下らない距離をあの一瞬で詰めてきたのだ。

 奏太が地面の揺れによって足をすくわれていなければ、確実に今頃はあの魔手が当たって血の海が広がっていただろう。


 しかし、それだけでは彼の攻撃は終わらない。


「避けるな、避けるな避けるな避けるな避けるな避けるな、死ね! クズが、罪人が、平気で人を騙すクズが、お前を、僕が僕が僕が僕が僕が僕が僕が僕が僕が僕が僕が殺してやるッ!!」


 同じ言葉を何度も繰り返すハクアから伝わって来るのは、奏太が彼に対して抱いたものと同等の明確な殺意。

 そしてそれは彼の言動だけでなく、連続して凄まじい速度で繰り出される掌底の一つ一つにさえ宿っていた。

 彼が突き出す度に空気が裂け、つんざくような風の音が耳に届く。

 決してその貧相な体からは想像も出来ないような威力を秘めた一撃。


 右の掌底を避けるために後ろへ跳んでも、すぐさま距離を詰められ、次には左の掌底。

 『憑依』をして身体能力が向上している奏太であっても、考える間も無く魔手を避けるのが精一杯であり、


「くそッ、これじャ——ッ」


 反撃が出来ない。せめて一撃でも叩き込めれば、何か変わるかもしれないというのに。

 攻撃を当てようとして腕を掴まれた時のことを考えれば足がすくみそうになるが、他に手はなく、距離を取ろうにも彼の猛攻がそれを許さない。


 蓮は、こんな化け物を相手にしていたというのか。

 戦闘に向いた気質とは、決して言い難い性格の女の子だったというのに。

 殺意を正面から向けられ、幾度となく命が終わりそうな恐怖を感じるのに、それを飲み込んで戦ったのだ。


「————ッ」


 避ける合間に見えるハクアの顔は、不意をついて殴ったせいか、ひどくボロボロだ。骨や歯が折れたのか、彼の方からは血がこぼれ出ている。


 だが、それだけだ。

 顎にでも攻撃を当てれば、一瞬で片をつけられたのかもしれないが、既に時は遅い。

 右に左に、交互に突き出される掌底の一撃一撃に気を配らなければならない。

 一度でも食らったら、その時点で致命傷となるのだから。


「いい、加減っ! 動くなぁぁああああああ!!」


 子どもが癇癪を起こすように、再びハクアは地団駄を踏んで地割れを生む。

 避けることに精一杯だったがために、彼の単調的な攻撃に生じた変化によって一瞬の判断の遅れが生じる。


 慌てて後ろへ跳ぼうにも、いつの間にか建物の壁際に追いやられており、退路を塞がれていた。

 そして————、


「捕まえたあああ!!!」


 下卑た笑いを浮かべたハクアの魔手が、奏太を捉えた。



*** *** *** *** *** *** *** *** ***



 ハクアの一撃が奏太を軽々と飛ばし、巻き起こる爆風。

 何度もぶつかり、地面と壁と体を削って、どのくらい飛ばされたかも分からない状態で、ようやくその勢いを止める。


「…………ク、ソ」


 そこは各所に設置されている案内センターのような場所らしかった。

 何かの書類に幼児向けの絵本、それらが散らばった冷たい床に、頰が当たる。


 自分は一体こんなところで何をしているのだろう。

 ここにいるのは、愛する彼女を殺した、憎むべき男だというのに。


 全身が熱い。そこら中の皮膚が剥け、剥き出しになったピンクの肉から鮮血が溢れ出している。

 朦朧とする意識の中、それだけはひどく色鮮やかで。


 骨もいくらか折れているだろうか。右腕の肘から先の感覚がない。どこかで千切れて飛んだのか、それとも繋がりは保たれているのか、分からない。

 確かめる程の力は、今の奏太の体に残されてはいなかった。


「————」


 過度な痛みと出血による生命の危機を脳が訴える中、何かが囁くのが聞こえた。


「…………?」


 焦点すら定まらず、いつ意識が途絶えてもおかしくはない。

 そんな頭を何とか動かして周りを見るが、誰もいない。

 遠くの方で、何かが叫んでいるのが聞こえる。ああ、あれは殺したい相手だ。


 朦朧としているはずの意識が、妙なものに侵食されるのを感じた。

 かろうじて保っていた壁が判断力の低下とともに消え去って、それは全身を犯し尽くしても飽き足らず、留まり、数を増やしていく。


「————」


 再びどこかで囁き声が聞こえたかと思えば、奏太の口から言葉が漏れる。


「死ニたくない。……コロス」


 何かが、こみ上げてくる。

 みっともない本音と、体の内からこみ上げてくる何かが、同時に言葉へと姿を変える。


「蓮、俺は。…………コロス」


 痛い。熱い。苦しい。

 どうしてこんなものを抱かなければならないのだろう。

 どうして、こんなに心地良いのだろう。抱くのは苦しいことのはずなのに。

 ……ああ、でも。これに身を委ねてしまえば、今よりもずっと気持ちよくなって全てを終わらせられるはずだ。何故だか、そんな気がした。


 仮面が何か言っていた。少年が何か言っていた。……ああ、でも。そんなことはもう、どうでもいい。


「殺す、あイつを殺す。殺す。蓮ヲ殺したあいつを許さナい」


 黒く蠢く感情が、全身に行き渡り、そして脳を貫いた。


「————ユルサナイ」


 殺してやる。撲殺してやる。圧殺して、刺殺、毒殺、暗殺蹴殺爆殺惨殺薬殺轢殺抉殺銃殺扼殺溺殺噛殺。

 どんな手段だっていい、どれだけ傷ついても失っても苦しんでも、殺してやる。


 そうして、内の囁きが次々に奏太の体を、頭を、動かしていく。

 とうに限界を通り越して、死に至る直前だったはずの全身が、瓦礫を押しのけ、ゆらりと揺れて地に足をつけた。


「————」


 そこに、先までの傷は一切を残していなかった。

 風の煽りを受けて、赤黒の髪が陽炎のように揺らめく。

 それを掻き分けるように天を衝くねじれた角。赤茶の入り混じった灰色の毛皮。


 『怒り』によって発動した『纏い』。それは奏太の視界を真っ赤に染め、迷いの全てを消し去った。

 ハクアに激昂しても完全には消えなかった光が、全て閉ざされる。


 完全な黒になることをすんでのところで止めていた白は、既にそこにない。

 深く深く、沈んだ水底そのものである黒の世界が奏太の心を埋め尽くす。


「——あ、ァァァァァァア!!」


 ただそこにあるのは、怒り、憎悪。

 癒してくれる少女も、無力を伝えられた少年も、日常をくれた姉妹も、同じ境遇の仮面も、日常を思い出させてくれた男も、再び立ち上がる気力をくれた少女も、皆の中心となって楽しませてくれた少女も、ずっと隣にいると約束してくれた彼女も、今はもういない。


「……おや、おやおやおやおや? お前、まだ生きていたのか。クズのくせに随分しぶといなぁ? しかもその姿、前の」


 声がした。

 全身を濡らす雨を払ってそちらを見やれば、そこにいるのはハクア。

 既に空は暗闇に閉ざされており、全身灰色の彼の姿が強く網膜に映り込む。


「——うるさイ」


 気色悪い笑みを浮かべる彼を一瞥。

 対してハクアは奏太の瞳に宿る狂気を感じ取ったのか、再び怒鳴り散らす。


「何なんだ……なんだよ、お前は! クズが、罪人が、僕にその気持ち悪い目を向けるなっ! お前らはただ怯えていればいいんだよ。異端者が、異常者が、価値などない。生きている価値などない。そんなお前たちが生きているなど、あり得ない!!」


「…………」


 血走った目をかっ開き、汚く罵って唾を飛ばすハクアに対して、奏太は何も答えない。

 完全に元通りとなった体を、地を這うように深く沈め、ただひたすらに彼を睨みつける。


「あああああ、ムカつくな! クズがクズがクズがクズがクズがクズクズクズクズクズ! あの女もそうだ。変なものを僕の体に入れやがって。そのせいで体がおかしくなった! だから何度も何度も殴ってやった! 蹴ってやった! 本当に——ッ!?」


「うる……サいッ!!」


 突如、急加速した奏太にハクアの体が吹き飛ばされる。

 その勢いのままコンクリートの壁に衝突し、何枚も突き抜けたかと思えば、途中で勢いが弱まり、ハクアの体が落下する。

 そしてすぐにハクアは体制を直し、奏太に対して怒りの声を上げ、真っ直ぐに向かってくる。


 彼の身に纏う灰色のコートには先程までと違う変化が一つあった。

 腹部あたりにピンポン球程度の穴が空いているが、これは奏太が突いたことによるものだ。

 突き飛ばす際に額から生えている角を利用することで、その威力を強めていた。


 だが先の戦闘同様、勢いをつけて突いたとて、並の人間とは異なる肉体強度を持つハクアにほとんど効果はなかった。

 鮮血が滝のように勢いよく溢れ出ることもなく、わずかに数滴が垂れるのみ。


「生きル価値がなイのも、あり得ナいのもてめェだよ。——ハクア」


 故に、猛進してくるハクアに対して、再び身を沈める奏太。

 その戦い方は偶然にも蓮と同様のもので、近接戦を出来る限り回避した一撃離脱による地道なダメージの蓄積を狙ったものだ。


「調、子に……乗るなぁああっ!!」


 幾枚もの壁の向こうへ突き飛ばしたというのに、あっという間に戻ってくるハクア。


 彼に狙いを定められる距離になったところで、奏太は弾くように体を加速させる。

 そうすることで、地団駄による地割れを除けば、魔手の危機は接触する瞬間のみになり、奏太が先に受けたような掌底の繰り出しの対処に追われることもなくなる。

 だが、


「遅いんだよ、クズがっ!」


 ——接触する直前の魔手を避けきれるかどうかは、個人の能力に依存することになる。

 蓮の場合は元々の脚力によって避けることは容易だった。地団駄、という選択肢を彼が直前に行わなければ。

 そして奏太の場合は、


「あ、ッぐ!」


 地団駄を踏まずとも、迫り来る魔手を避けきれずに肩先に掠って仰け反る。


 たとえ能力において総合的に上回っていたとしても、速度と熟練度は彼女に劣るのだ。

 本能に身を委ねていたとしても、どうあがいてもその差は埋まりはしない。


「——ぐ、ゥゥラアア!!」


 肩の骨が軋み、体が浮いて真後ろに飛びそうになるのを何とか踏み止まって、第二撃を偶然にも反射で回避。

 至近距離に迫った彼の脇腹をそのまま身をよじって殴りつける。


「ご……っ!」


 ただし、一撃の重さは別だ。


 脇腹への一撃がハクアをよろけさせ、一瞬の隙を作る。

 蓮が速度と毒によってじわじわと敵を追い詰めるのに対し、奏太には複数の能力がある。ならば必然的にそれだけの力が備わっており、


「ォォォアアアアアアア!!」


 満足に放てない出鱈目な打撃でも、何度も放てばそれは確かな威力となってハクアに突き刺さった。

 彼はどうやら受けるので精一杯なようで、好機と見た奏太は力のままにそれをぶつける。


「————ッ」


 脇腹を中心として彼の全身を殴り、抉るように連撃を放つ。

 最初は反撃の意思が見られたハクアだったが、何度も拳をぶつけたことでその抵抗が弱まり、まさになすすべもない状態となっていた。

 そう判断し、突き上げるように下から打ち付け、


「てめェノ負けだ、ハクア。死ンで蓮に償え」


 奏太の本来の武器である角を構え、とどめの一撃と言わんばかりの勢いでハクアの心臓を貫く。

 貫いた箇所から血が次々に溢れ出し、熱くなったそれが奏太の角を伝う。


「…………カ」


 ——はず、だった。


 本来当たるはずの感触も熱もなく、違和感が生じる。

 それを確かめようとして角の先を目で追い、待ち受けていた事実に奏太は言葉を失った。


「バーカがああああああ!! 僕を倒せると思ったのか? クズごときが思い上がるなよ。あのメスクズもお前も、僕に叶いなんてしないんだよ」


 確かに、角は心臓へと真っ直ぐに向かっていた。

 だが、それは刺さる直前でハクアの手に止められており、押すにも引くにも彼の力があまりにも強過ぎて、ピクリとも動かない。


 本能のままに動いていた奏太にとって、この状況は危機そのものだ。身体中が信号を発してどうにか動こうとするも、それは間に合わない。


「————お前も、あのメスクズと同じように死ね」


 ふわり、と角ごと体が持ち上げられたかと思えば、すぐさま地面が迫ってきて——、


「——が、は……ッッ!!」


 角を掴まれたまま、全身を地面に叩きつけられる。

 そしてそれは一度に留まらず、何度も何度も何度も。

 奏太がハクアに対して突き、殴りつけた回数を軽々と超えるほど、連続して衝撃が与えられる。


「————ァ」


 それは奏太の意識が途絶えそうになっても、視界が真っ赤に染まってほとんど見えなくとも、身体中の骨と肉がボロボロになって治癒が間に合わなくても、溶け合い、混ざっていた本能が分離しつつあっても、止むことはなかった。


 あと三撃、二撃、と、次第に奏太の命の灯火が消えていく。


「じゃあな、罪人。僕の友達でなかったことを、死んで悔やめ」


 ハクアはにたりと笑んだ。

 そして高く持ち上げられ、最後の一撃が行われようとして——、


「……ッ!? これはな、あ、あああああああああああああああ!!!?」


 直前、ハクアの目を未知の液体が襲った。

 それは激痛を伴って熱を発し、次々に彼の目を侵食していく。

 ハクアは苦痛に顔を歪めて絶叫し、奏太を手放すと、その瞬間暗闇の中を人影がいくつか駆けた。


「————この……っ」


 それを見ようとハクアは必死に目を凝らそうとするが、目が慣れたとはいえ夜の暗闇で雨が降っていることと、激痛に襲われる目。

 これらによって見ることは叶わず、彼を置いて、駆けた何かはどこかへ行ってしまった。



*** *** *** *** *** *** *** *** ***



 意識が朦朧とする。


 身体中がひどく熱く、痛い。

 気持ち良い何かに身を委ねて、全てが終焉を迎えるはずだったというのに。一体、どういうことだろう。


 先程から、降りしきる雨とともに冷たい風を感じる。

 どういう、ことだろう。

 殺す相手は遠ざかり、自分の体は風を感じている。


 誰かに、抱えられている——?


「…………全く」


 横から声がした。

 知っている声だ。何度も何度も、聞いたはずの声。


 でも今は、その声が誰のものなのか、思い出せない。

 全身が痛んで、思考にノイズが走っていて、よく分からない。

 けれどどこか、安心するような声だ。


「……本当に、世話が焼ける人ですね。奏太さんは」


 意識が途切れる寸前、視界に何かが映った。クリーム色の、何か。

 その何かが僅かに微笑んでいるのを見て、奏太の意識はぷつりと途切れた。



*** *** *** *** *** *** *** *** ***



「くそ、一体何が……あのクズはどこへ」


 目に入った異物を雨で洗い流し、ようやく痛みが引いてきた。

 しかしその間に死ぬ寸前だった少年の姿が消え、直前にあった謎の人影も、どこにもない。


 打撃の数々を受けたものの、致命傷と言うほどのダメージを受けたわけではない。

 よって、治療に時間を取るよりも、先の人影を追いかけるのが先だと判断、そのまま動こうとして——、


「おや、あなたは……」


 わずか数メートルの距離に、人影があった。

 クリーム色の髪に、厚手の上着を羽織った中性的な少年だ。足音もなく近づいていたことには驚きもあったが、


「僕の友達が、こんなところで何を? あなたは、一体……?」


 ハクアにとって、罪人でない人間は友達である。故に、柔和な笑みを浮かべて、優しげに声をかける。


「——ボクですか?」


 やけに明るげな声を出し、少年は言った。


「ボクは天姫宮葵。以後お見知り置きを。ハクアさん」


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