第五章10 『ラインヴァント』
昼と夜とが重なり、ゆったりとした雲が夕闇へと流れていく。
ここがこの近辺では一番空に近い場所だからか、気を抜けば自分たちも飲み込まれていくような気がして。けれどそれでも良いか、と思えるくらいには綺麗な街の風景。
自販機のそばの壁にもたれかかり、二人はそれを眺めながら。
「…………お前も『獣人』?」
「うん。正確には、私と私の妹が、だけど」
解けていなかった誤解を改めて解き、自身の身の上を明らかにする。
それは今の彼女にとって『獣人』、あるいは彼女に関わるもの全てに必要なことなのだろう。
抱き合っている間、少女はこう語っていた。
自分には妹と弟がいて。両親はろくでもない奴で、自分たちを家から追い出して。生活費こそ出されるものの、当然家事なんてやったことあるはずがなくて。
まあそれでも、生きていくためにはやるしかない。覚えるしかない。そう心に決めて、三人で頑張った。
最初は上手くいかないことばっかだったけど、慣れれば色んなことに手が届くようになってさ。
半年くらい前に喫茶店でアルバイトを始めて、あいつらにプレゼントを買ってやろう——なんて思ってた。あの親からじゃない、自分が稼いだ金で。
実際、それは叶ったのだそうだ。初給料も、次も、その次も。あいつらの笑顔が見たくて、頑張ったと。
……でも、二ヶ月前。
プレゼントを抱えて帰った家には、二人はいなくて。
「大事にしろよ。あーしみたいに、目離さないように」
彼女はコーヒー缶を傾け、中身を口に含む。
翠の瞳が見つめる先は空か、過去か。遠い何かであることは間違いないのだろう。
「……最近は『ノア計画』がどうたらとかで、街中で幹部連中が検査してることが多いんだよ。特にこの都内じゃな」
そしてそれに、彼女の妹たちは引っかかった。
だから殺された。殺される瞬間を見てしまった。
「ま、お前の場合そういう奴がいたら、あーしと違って立ち向かって行きそうだけどな。気をつけろよ? めっちゃつえーから」
自虐の笑いを交えてポンポンと、と蓮の肩を叩く少女。
あの危うい攻撃はきっとその感情から来ているのだろう、と思う。
「……あなたは、復讐する気なの?」
「——そうだって言ったら、どうする?」
問いかけに、間を挟まない返答。
「私はあなたに死んでほしくない」
「はっ、死ぬ前提かよ。……自慢じゃねーけど喧嘩には慣れてるし、相手が幹部だろーとどうにかなるっての。だから」
口内に広がる甘味。
「——嘘。あなたは死にに行こうとしてるだけ」
ピク、と一瞬の動揺。
「どうしてそれが分かる?」
「鏡を見れば分かるよ。あなたの綺麗な顔、台無しになってるから」
光のない瞳、生気を失った表情、乾いた笑いを浮かべる口元。探せばいくらでもある。
……もちろん、それとは別に理由はあるけれど。
「それ、さっき会ったばっかの奴に言うことじゃねーな」
「さっき会ったから、だよ。もう他人じゃないから」
「お前…………」
言い、ふふっと笑顔を浮かべると、彼女は頰をかき、やりにくいとばかりに目をそらす。
「や、いきなり襲いかかったあーしを助けてくれたようなやつだし、別に信用してねーわけじゃねーけどさ……」
ため息。
缶の中身を一気に飲み干し、
「そういやさっきさ、あーしを助けた時。あれ何やったんだよ?」
話を転換させると同時、声色を明るくさせた。
それは無理な振る舞いには見えず、というよりこちらを気遣い、雰囲気をまるっきり変える目的のものだろう。
蓮もまたそれに応じる。
「えっとー……あなたのあの尻尾? って、すごい威力でしょ?」
「まー、そうだな。あれで倒せなかったやつはまずいないし」
「私は誰かと喧嘩したこととかはないんだけど、そんな私でもこれは死んじゃうかなって思っちゃって」
「人間がまともに食らえば、間違いなく死んでたな。んで?」
「それ以上の力をぶつけて、あなたを空に連れ出す。私はそれをしたの」
瞬き。
やっぱりまつ毛長いな、羨ましい。
「は?」
「え、まつ毛長いと思うけど。今もだけど、将来は美人さんになりそう……」
「や、何の話だよ。あーしが驚いてんのはそこじゃなくて」
少女は『獣人』がどんな存在であるのか説明してくれる。
『獣人』は獣の力を宿しており。能力は一人一つの動物で、適性の高さで引き出せる割合と扱うための難度が変わるとか。
「じゃあ、私が二ヶ月くらいかかってもまだ制御できないのも……?」
「才能がないか適性が高いか、それかどっちもだろーな。あーしは一ヶ月もかかんなかったし」
それから稀に二種類以上の動物が混ざっていると、さらに難度が跳ね上がるのだという。
自分の場合はそれに当てはまるようだけど……少女と比べて倍の期間だと考えると、やはり才能がないから、なのだろう。
それで習得を諦めたりとかはしないし、むしろ燃え上がってくるところだけど。
「ちなみにあーしを止めた時は、どんなもんの力なんだ?」
「あ、咄嗟だったから全力だよ」
瞬き。
長いまつ毛が虚空を見つめ、苦笑い。
「……お前、しっかりしてんのかしてねーのか分かんねーな。使いこなせないもんを土壇場で使うとか」
確かにそれは、うん。
言い訳もできないくらい、その通りなんだけど。一歩間違えたらどっちかが死んでたんだけど。
……えと。
「ごめんなさい」
素直に、ぺこりと頭を下げる。
「——。いや、なんでお前が謝んだよ」
「だって、私はあなたに聞くまで知らないこと、たくさんあったもん。上手くいったから良かったけど、失敗してたらあなたを傷つけてたかもしれないし…………」
そもそも。
早とちりで彼女に怒ったこと。
勘違いさせるような言動で、彼女に辛い過去を思い出させてしまったこと。実戦経験もないのに力を振るおうとして。
幸せにしたいという気持ちは変わらない。でも、そのために必要なことは全然できてなかった。
反省しなければいけない。もっと学ばなければいけない。そして今、彼女に自分は怒られて、
「——あのさ。今日何度目か知らねーけど、お前何言ってんだ?」
「え?」
顔を上げる。
すっかり暗くなった空の下で、彼女はこちらを見つめていた。
体は疲れからか、ぐったりとしていて。服は先のこともあり、汚れている。
でも彼女の瞳は光を宿した。鼻を鳴らし、眉毛は困ったようにハの字に曲げ、口元は——にっと笑っている。
「むしろ謝んのはあーしの方だ」
少女は、ポツリポツリと。
「ケバブ奢らせちまったし、話も聞かずに襲いかかっちまったし。誰かと喧嘩したことない、っつーことは怖かったよな。下手に当たりゃ死んでたし。下手に止めても死んでたし。……それに。色々と、気遣わせた」
そんなことはない、と否定しようとして。
彼女はそれを否定する。
「そりゃ、色々と一人じゃ危なっかしいけど。お前の選択も判断も、間違いじゃねーよ」
困惑する蓮に、少女の両腕が伸びてきて。首に回され、強く抱きしめられる。
目を、見開く。
「————だから、ありがとう。あーしの幸せを願ってくれて」
突然こんなことをすれば、誰でも驚いてしまう。戸惑い、緊張もする。
自分はそこまで気にしていなかったけれど、二人は今日初めて出会った、ただそれだけの関係だ。
それだけの関係だから、自身の行いを肯定されて、唇の先が小さく開く。何も言えずに、モニョモニョとしてしまう。
空を見上げる。
『ゴフェルの膜』を通して見える空には、星が浮かんでいる。それぞれの輝きを放って、瞬いている。
綺麗だ、と思った。
都内は人工的な光が多いから、少し見えづらいけれど、
「……すっごく、今更なことなんだけど」
あの日の青と赤に比べれば、ずっと見える。
だからきっと、あの日よりも私は近づけているのだ。
「私の名前は美水蓮。……あなたは?」
彼女の言う通り、一人では危なっかしいし。色々と知らなきゃいけないこともあって、もっともっと強くなくちゃいけない。
伸ばしたこの手を届かせるために。
「あーしは戸松梨佳。——よろしくな、蓮」
まだ星は遠い。
これだけ高くへ来たのにまだまだ遠くだから。
「うん。——梨佳」
幸せにしたいと思う、たくさんの人を幸せにしよう。
色んな人の手を借りて。真っ直ぐ、進んで行こう。
その果てで、きっと望みは叶うから。
それからしばらくして。
どうやって降りようか悩んでいたところ、見慣れた姿が現れて。
「おう、美水ちゃんじゃねえか。いつもありがとな。……こんなところで何やってんだ?」
……色々と、あった。
*** *** *** *** *** *** *** *** ***
「……『獣人』を探す?」
翌日。学校帰りに再び都心を訪れた蓮は、梨佳を呼び出し、今後の方針を話すことに決めた。
方針、それは自分と妹が『獣人』であると理解し、どうやらHMAのトップ——幹部と総長のどちらか、あるいはどちらとも——に何かしらの『嘘』があると分かった時から、ぼんやりと考えていたこと。
昨日の梨佳の話を聞いて、ついに踏み切ったものだ。
以前助けてもらったことがあり、HMAには蓮も感謝している。だからその行いも恐らく、大多数の者にとって正しいのだろう。
だが、現在の罪の有無に関わらず、過去の行いだけで『獣人』を悪だとする。そんな非道な真似は許せないのだ。
——自分たちに被害が及ぶことを恐れて、と言われれば確かにそうかもしれないけれど。その「自分たち」には、蓮が助けたいと思うたくさんの人々が含まれるのだから。梨佳も、まだ知らない『獣人』たちも。みんなみんな。
「お人好しっつーか何つーか……や、助けられた側のあーしが言うのも変な話だけどな」
それに。
妹と弟が殺され、強力な力を持つ梨佳だけが生かされた。そこには何かしらの意図があるような気がして。……勘違いだったら、それで良いのだけど。と、
「で、アテはあんのか?」
「へ?」
「へ、じゃなくて。街中探し回ってるだけじゃ効率悪くね?」
他ごとに思考を割くのは、この辺りにしておくとして。
確かにそうだ。
『透世』は便利な能力だが、そこら中を歩いて探すのではどうしても手間がかかるし、生活スケジュール的に会えない相手もいるはずだ。
ましてや、二人は学生。学校帰りに行ったり来たりしているのでは消費もバカにならな、
「……って。私の話、信じたの?」
「あん? まー、確かに嘘を見抜ける能力とか、それで『獣人』が分かるとか、はっきり言ってピンと来ねーよ?」
——昨日梨佳が『獣人』であると見抜けた理由。それを蓮は彼女に話したのだ。
契約した段階で、むやみやたらと能力について話さない方が良い、とは彼に言われたし、話す直前にも確認はされた。
だが、その上で梨佳なら問題ないと判断し、今の状況に至るというわけだ。
「ひとまずは信じてみる、ってとこだな。嘘だったら承知しねーけど」
笑って背中を叩く梨佳だが、承知しないの部分がシャレになっていない気がする。
しかしどうやら信じてもらえているようで、蓮は内心ほっと息を吐く。
妹の貴妃は希美という名前を得て、周りに人が集まるようになった。でも今も本当の意味では孤独のままだ。
蓮以外に信じられるものがなく。
一度死んだ身で、改変者で、『獣人』。そんな妹を救えるきっかけを作れるのは、自分だけ。
だから居場所が必要なのだ。
妹にとっても、皆にとっても。
そう思って、梨佳に提案した。
嘘偽りない、本当の意味で皆が幸せになれる未来を目指して。頷いてくれて良かった、と思う。
「……で。結局あーしが言いたいのは、何かしらの手がかりがねーと、そのなんとかって力も持て余すだけってこと。アテはないんだな?」
図星を突かれ、
「……言い出したのは私なのに、情けない限りです」
肩を落とす。この頃力不足を感じている蓮だが、梨佳の言うことに何も言えないのが現状だ。
これではせっかく頷いてくれたのにがっかりさせてしまうだろう、としょんぼりして、
「言っとくけど、責めてるわけじゃねーからな?」
「……え?」
顔を上げる。
梨佳は一体どこから取り出したのか、タブレット端末を片手に、
「あーしは心当たりあんだよ。で、蓮も何かあるんだったらどっち先にすっかな、ってだけで」
……頼もしい少女である。
感謝する以外に彼女にできることがないのが、悔しいところではあるけれど。
喜びを表に出すべきか、あるいは反省で黙っておくべきか、狭間で悩む蓮の心境など知らず、梨佳は空中を指で何度もスライド——デバイスの画面を操作しているのだろう、手の動きに合わせてタブレットの画面が動く——し、やがて一枚の写真を表示する。
「……なにこれ」
そうして見せられたのは、身の毛もよだつホラー画像。
……ではなく、鳥のような仮面を被った白衣の男だ。確か歴史の教科書か何かで見たことがあるような見た目。が、可愛い女の子と街中を歩いている。
そんなものがどうして今の時代に、とは思うけれど。
「この人が『獣人』かもしれない、ってこと?」
問いかけに、梨佳は頷くとも首を振るとも取れない微妙な反応をする。
「確証のない話なんだけど」
そう切り出し、彼女は語る。
なんでも彼女のバイト先の喫茶店には、とある常連の少女がおり。
歳は自分たちと同じくらい。表情こそ薄いものの、人形のように整った容姿の女の子。店の最奥、陽の当たらない場所に席を取ることが多く、いつも一人で店を訪れ、紅茶とクッキーを片手に本を読み。その姿はあまりに幻想的で、思わず目で追ってしまうのだとか。
店員側である梨佳はその少女と何度か言葉を交わすことがあり、彼女が意外と普通の女の子で、時折影を見せることはあれど、見た目以上に可愛い少女なのだと知っている。
食べ物の好みもやや変わっているようで、紅茶とたくあんを一緒に頼もうとした時はさすがに止めた。いや、これは関係なかった。
……えっと。
その少女はどうやらそれなりどころじゃないお金持ちで。飛び級して大学に通っているくらい頭が良くて。
そんな少女が、街中で鳥仮面の男と歩いていた。カレカノの関係ではなさそうだし、普段とは違う、妙に真面目な表情をしているのが気になった。
「……それが『獣人』に関係してるかも、って?」
「可能性としてはあり得る、っつー話だ。そもそも、こんな怪しい見た目のやつと金持ちが歩くってこと自体、何かしらの事情があんだろ?」
それは何だか失礼な気がしないでもない。というか、これは盗撮にあたるのではないだろうか。
……とはいえ。
現状、それが唯一の手がかり。
真実が違うのならそれでも良いし、確かめるだけでも確かめた方が良いのではないか、と思う。
「————それに、なんつーか……」
「え?」
ぼそりと呟かれた言葉。
聞き取れず、しかし彼女も「や、なんでもねー」とはぐらかし。
その日から、二人の『獣人』探しは始まった。
まずはお嬢様あるいは鳥仮面の男に接触するために、梨佳のバイト先へ向かい。お手伝いとして少しの間そこで雇ってもらい。
やがて店を訪れた少女と出会って。『獣人』のなんたるかを知った。
想いを語り、彼女はそれを手伝うと言ってくれて。
最初は鳥仮面の男も合わせて、蓮、梨佳、その少女。合わせてたったの四人ではあったけれど。
一つの組織が作られた。
名前は——ラインヴァント。
今は色褪せ、あるいは見つけられないのだとしても。
いずれ、それぞれが輝けるように。それぞれの色を見つけられるように。
白いキャンバスに皆が混ざって。
世界が色づくようにと願って。
月日が、流れていく。




