第五章9 『姉々諧謔曲』
青い————澄み渡った空だった。
白いキャンバスに、水気をたっぷりと含んだ絵の具を落としたような。
雲一つない春の日差しは暖かくて、始まりの季節を教える小鳥はチュンチュンとさえずり。家の前に咲いた綺麗なお花は、色んな人の気持ちを華やかにして。笑顔にして、景色を色鮮やかにさせた。
だから、なんとなく、
「……これ、なんだろう?」
そのお花の名前が気になって。
図書館で本を借りて、調べて。妹に教えてあげたらとても喜んで。優しいパパはもちろん、普段は怒りんぼなママにも物知りだと褒められて。
とても嬉しかった。
『…………あれ?』
ぱちぱち、と瞬き。
眉を寄せる。
なんというか、どこかで見た流れ。
まさか夢でも見て——いや、そんなはずはないのだ。
————私を、助けて。
思い出そうとすれば、あの煙の光景が鮮明に浮かぶ。
だから今頭の中にある現実は、確かにあったはず。結末は死亡を代償に、二人の改変者を作り出した。
だからこれは、どこかで見た流れではなく。ましてや夢でもなく。
一度通った記憶をやり直しているということになる。
その証拠に、
「貴妃——ううん、希美。練習はちゃんとできてる?」
「……姉さん」
手を繋いで外に出た二人は、両親がいないことを確認し、小声で話し始める。
——それは小学生には見えない妙な落ち着きぶりと、小さなメモ用紙に書かれたこれまでの結果が全てを示しており、そもそもこんな会話は前回にはなかった。それが答えだ。
ただ、そうすると気になってくる点が二つ。
華やソウゴの時同様、カミサマは「契約の瞬間はどんな理由であれ、誰であろうと見せられない」というルールを守っている。それについてはいいのだ。
が、蓮本人の言葉や実際に戦って確かめた妹、結局のところ彼女らの能力は「嘘を見抜く能力」と「自身と知覚するもの全てを分身させる能力」だ。
つまり現在の、「死亡時より二年以上も前に巻き戻った」この状況を説明するにはそれらで足りるはずもなく。
……と言ってもまあ、こちらについてはこれまでの記憶の中にヒントがあったし、おおよその見当はついている。
だから問題は二つ目。
『——どこから希美が出てきたんだ……?』
どうして、は以前に希美自身の口から聞いたことがある。
いつから、についても、カミサマとの契約からこの二度目の——言うなれば転生に至るまでの間にあったと考えるのが妥当だ。
だが、だからこそそこが重要なのだ。
奏太が一番に知りたいやりとりもそこに含まれているはずで、できるのならば知りたい…………
と、そういう欲求は頭の中にあるのだけれど。
こうして記憶を見せてくれるカミサマが望まないと言っている以上は、奏太も無理強いはできないし、しない。
それに多分、どちらも傍観者として見るんじゃなくて。
本人に聞かなければいけないことだと思うから。
意識を記憶の方へ戻す。
「えっと、改めて状況を確認しよっか」
美水蓮。
彼女は一度死んでいるにもかかわらず、あるいはだからこそか、表情こそ厳しいものの、前回のことを引きずって後ろ向きになっている様子は見受けられない。
中学一年生というとおおよそユズカやユキナ、絢芽あたりが該当するのだが、かなり落ち着いているようだ。見た目は小学五年生なのだから、なおのこと年不相応に。
……分かっている未来に対し、やるべきことが決まっているのもそうだが、彼女は元々責任感の強い人間だ。だから妹を守らなければいけない、その想いが彼女を支えているようにも見える。
そしてその当の妹は、
「…………」
無口、だ。
奏太の知る彼女は元々口数が少ない方ではあったが、前回の記憶からも彼女が昔からそうであった、というわけではないと知っている。
となれば蓮がこの一件で人一倍責任感を強くしたのと同様に、彼女も内心で何かしらの変化があったということだろう。
果たしてそれが良いものかは分からないが——と、ふいに瞳を覗き込み。
『——っ!?』
反射的に身構えるほどの、感情の重み。
それが血の色を思わせる赤から発せられていて、奏太は驚きの声を上げる。
彼女から発せられているのは憤怒や悲哀か、憎悪か、絶望か。
あるいは、それら全て。
初めて知ったから制御の仕方が分からず、だだ漏れになっている——そんな状態を思わせる、底なしの闇だ。
『これは……』
蓮と同じく、一度死を体験しているから、なのだろう。
未来に起こることを知っていて、やるべきことは一つだと決めている。
同じ覚悟だ。だからこそあまりにも年不相応で、歪な。
……蓮は恐らく、そのことに気がついている。
だからこそ、人一倍に幸せを願っているのだろう。
死を経験したことで、本当の意味で心を預けられる存在が一人だけになってしまった、希美だから。
『…………』
とはいえ、今の奏太がこの先の結論を出すには色々と早すぎる。
まずは目の前、彼女たちの二度目のあの日について考えていくとしよう。
蓮が小声で語る。
「私が『透世』。希美が『等生』。どっちも便利な能力だけど、二人で力を合わせても今は多分、パパをどうにもできない」
「……」
「かと言って迂闊に行動したら、もっと危険な状況になるかもしれないし……」
「……」
時折何かを探すように、視線を動かし。思いついたことがあれば、口に出し。
それは話し合う、というには一方的な情報伝達に近いのだが、まあそれはさておくとして。
蓮の言う通り、現在の彼女らが取れる行動はかなり限られている。
未来の情報という大きなメリットを持ってはいるが、盤面はこの時点で詰みに近いのだ。
まず第一に。
「ママには頼れない」
それは別に、彼女らの母親があまりにも頼りないとか、そういう意味ではなく。
前回の記憶を振り返っていくと、だ。
この時点で夫婦は喧嘩をしており、数日後には限界がきて、母が失踪する。ならばそれを防ぐために母と接触、今後の方針を固めなければいけない。
のだが、
「パパの特殊な職業。その影響力が一番に厄介だと思う」
かなりの収入がある特別な職業。消えた母。あまりに徹底した根回し。それらが意味するのは、いわゆる裏社会の処理的なアレだ。
人の親についてあまり悪くは言いたくないが、賭けにはまり、いざとなれば姉妹を質に入れようとする——そんな心構えをしていたあの最低な男ならばやりかねない。
どこかの施設に送るか、売るか、体を解体するか。いずれにしてもろくな結末ではないし、考えるだけで虫唾が走る。
だが、そんな男だからこそ、賭けにハマって仕事を辞める前だからこそ、監視の目——たとえば組織の適当な下っ端のような者——の一つや二つくらいは外に置いていてもおかしくはない。
だから下手に逃げ出したとしても、それに捕まって終わりだ。
蓮が先程から周りを確かめるように警戒しているのも、そのためだろう。
そして、もしそれが拡大妄想で、そこまで用意周到な人物でなかったとしても、母に接触するにはいくらか情報のすり合わせ、そのために数回の話し合いを必要とするので、もし見つかればそれこそ危険な状態に陥る。
デバイスのメールや電話で、という手も前回のことから、監視されている可能性すらありそうなので、あまり良い手とは言えないだろう。
「せめて誰かに相談できれば……」
だが、少なくともこの時期は、優しい父親を演じていたあの男。
彼が実は最低な人間で、賭け事に溺れていずれ妹に薬を飲ませたり、自分たちを売ろうとするんです……なんて話したところで、誰が信じるか。ましてや、二人は子どもだ。
信じてくれたとして、簡単にボロを出さない。だから、ああまで姉妹は追い込まれたのだ。
——ならば、改変者の能力だったらどうなるか。
これは蓮が最初に出した結論通りで、多少状況を変えられても、ひっくり返すには至らない。
そこまで持って行くには地力が足りず、何より、一番の決め手となる武器がない。
時期的に二人は『獣人』に目覚めてもおかしくはないのだが、二年後の段階で目覚めていない以上、今利用することも不可能。
かの麗人のように蓮が話術に長けていたら話は違っていたのかもしれないが、残念なことに二人は所詮ただの子どもでしかない。ならば危険になるが、
——。
いや、本当にそれだけか?
「…………あ」
どうやら蓮も、奏太と同タイミングで気がついたらしい。
目からウロコが落ちたような様子で、自らの——腕時計。次いで、視界を確かめる。
それは物心がつく頃には当たり前で。あまりにも簡単で、最初に気がつくべきだった単純なこと。
この世界が誰によって守られているか。そのトップには誰がいて、組織名と、その目的は。
表沙汰にはならないけれど虐げられていて、もしくは目前に結果が迫っているからどうにかしたいと思う者たちの味方。
多少の状況を変えられても、ひっくり返すには至らない。そんな少女たちの救いとなり、最大の決め手となる、最高の武器。それは、
「——HMA。異端者監視組織。そっか。私たちが子どもでも状況さえ揃えば、あの人たちならどうにかしてくれるわ!」
先ほどまでとは打って変わって。
ぱあっと、幼い容姿の通りに瞳を輝かせる蓮。
彼女は明るい声のまま、
「って言っても大変なこともあるし、まだ能力に慣れてないから、気をつけないといけないこともたくさんあるけど。二人で力を合わせて頑張ろ、希美っ!」
「……うん」
彼女の言葉に。
それまでずっと閉ざされていた口は小さく開き、途端に赤の瞳が光を宿す。
ゆっくりと、自身の感情を確かめるように言う。
「姉さんがそう言うのなら、信じる」
小さな、笑み。
その光景は、いずれ幸せへと繋がる第一歩。
同じ未来を知っているからこそ、今度こそすれ違わず、ちゃんとお互いに色んなことを話して、手を取り合って、問題へと立ち向かおう。
蓮は、そう思っていて。
「——姉さんは、私の真実だから」
そう、願っていた。
幼いと言っても。
改変者という存在は大したものだ。
蓮は『透世』の力で、どれだけ自分たちが危ない状況にいるのかを明らかにし。
それをHMAに告げることで、事態は進行し。
希美は最後の最後、『等生』の力で自分が囮になり、確かな状況証拠を揃えた上で、HMAの到着を待ち。
終わってみればあっけなく。
父親は捕まり、その裏の組織はHMAによって完膚なきまでに潰され、姉妹はお手柄だと小さなニュースになって。
少しの休養を挟んで。
姉妹と母親の、新しい生活が始まった。
————距離は、合わないまま。
*** *** *** *** *** *** *** *** ***
以前よりも、都心に近い場所に引っ越した。
『ノア計画』もあるので、それまでの仮住まいにと借りたマンションだったが、そこがまあまあ居心地が良く。
たとえばマンションの隣にはチョコクロワッサンの美味しいパン屋さんがあって、その隣には本屋さん。
少し歩けば公園があり、プールがあり。学校は都心との間にあって、行こうと思えば帰りに遊びにもいける、そんな距離にあった。
「何ジロジロ見てんだ、あぁん?」
元々学業は優秀であるよう努めてきたし、部活動についてもしっかりと取り組んだ。何をするにしても基礎体力は大切だし、特に自分たちには必要だったから。
あとは、昔以上に友達づくりにも励んだ。たくさんの人のたくさんの心を幸せにしてあげたいと願っていたから。
妹についても、……元々素直に言われたことを黙々とやる子だ。部活動で目立った成績はなかったものの、学業は優秀。友達もこちらではできているようだった。
「なんか文句あんのかよ?」
母はそんな自分たちのことを誇り、時々申し訳なさそうな表情になって、最後は笑顔を作る。
あの事件以降、彼女の理解が深まったから、分かる。母親は嘘を嫌う、正しさを行動に秘めた女性だ。
最後のだけは、いつも甘い味がしたけれど。
そんな彼女に蓮は憧れて。
「——弱いものいじめはやめなさい」
「はぁ?」
「これ以上何かするなら、私が止める。その人たちも、……あなたも、傷つけさせない」
緊張で手に汗がにじむが、構わない。
大切なのは、自分の意志を貫くこと。そして今その意志は、目の前の状況を変えることに向いている。
一人の人間が、何人かの相手を蹴散らし、ボコボコにしている。
その光景を目撃して、足を止めた瞬間から。——それに、それとは別に見逃せないこともあったから。
だから、
「私は——」
「いや、何言ってんのか知らねーけど。そもそも声かけてきたのは向こうで、あーしは正当防衛だかんな?」
「へ?」
数秒の間。
本来の目的を思い出したかのように、ぐぅとお腹が鳴らして。
「…………え?」
戦闘の一瞬、苦い味がした目つきの悪い、紺色のポニーテールの少女と。
この頃運動量が増え、やたらと催促するようになったお腹とを、交互に見て。
色々とまずい状況に、冷や汗を流す。
中学二年生の、秋のことだった。
*** *** *** *** *** *** *** *** ***
「ふーん。この辺にねぇ……」
がぶり。
呟く少女は口の中で含んだものを何度か噛んでから、咀嚼。
再びかぶりつく。八重歯がちらりとのぞいて、
「しかしこれ、うめーな。あんなとこに店あるんなら、もっと早くに知っときゃ良かった」
と、満足げに表情を綻ばせる。
少女が絶賛もぐもぐ中なのは、柔らかな生地にレタスや肉などを挟み、自家製ソースをかけた宝石箱。いわゆるケバブだ。
中枢区の端、雑居ビルの近くに店を構えるケバブ屋さんがあるのだが、蓮はそこの常連で、度々お世話になっている。
だから今日もと行こうとしていたところ、この少女と出会ったため、どういうわけか一緒に行くこととなった……そんな次第である。
ちなみに蓮は先ほど食べ終えたばかりで、ブランコを前後に揺らして彼女を待っているところで、ぼんやりと食べる様子を眺めていた。
「……」
しかし。
目つきが悪いと思ってしまったのは確かだし、申し訳ないのだけど、なんというか。女の蓮から見ても綺麗な少女だと思う。
まつげは長いし、髪は艶があって、スタイルも良い。おまけにこんな笑顔を見せられたら誰しもが可愛い、と思うのではないか。
「……腹減ってんなら食うか?」
「え」
「せっかく良い顔してんのに、腹鳴んのは恥ずかしいだろ? そりゃ、それが可愛いって言うやつもいるかもだけどさ、それと自分がどう思うかは別だし」
そう言い、蓮が否定する前に「ん」と袋ごと差し出してくる。
「え。いや、でも……」
「そもそもアレを勘違いしたお前がおごり……ってのもおかしい話だったし、いいって」
いやいやでも、と拒否。
少女は考えるように真顔を挟み、意地悪な笑みを浮かべて、
「……いらないなら捨てるけど?」
「あ、じゃあ一口だけもらいます」
さすがに捨てるのはもったいよね。うん。それなら仕方ない。
自分にそう言い聞かせ、一口だけ控えめにもらう。「まだ食え」とぐいぐいと押し付けられる。口どころか頰まで汚れるのでもう一口。
残ったケバブを少女が食べ切り、
「ごちそうさまでした」
顔を拭いてから一息をつく。
時刻はもうすぐ十八時。少し遅くなるとは言ってあるが、空は暗くなってきている。早めに帰らなきゃ、と思う。
「やー、美味かった。おごってくれてさんきゅな」
「いえいえ、こちらこそ早とちりで失礼なこと言ってごめんなさい。喜んでくれて良かった」
二人は笑う。
出会い方こそおかしなものだったが、距離のある初対面の相手でも、ちゃんと話せばこうして仲良くなれる。大切なのはその場その場の判断だ。
それを忘れ、ああやって自分の想像で怒るのはダメなんだろうな、と反省。
隣の梨佳はそんな蓮の心境を知ってか知らずか、立ち上がって、一歩、二歩、前へ進む。
「ほんとに、色々さんきゅ。…………って、素直に言いたいとこだけど」
言葉尻でピリ、と空気の質が変わる。
腰から背中を駆け上る、痺れのような感覚。冷や汗が頰を伝い、
「——あーしが『獣人』って気付いてるな?」
息を呑み、喉が鳴る。
「さっき話しかけてきた時……いや、あーしが戦ってるのを見た瞬間か。そうだな?」
「——うん、その時には気づいてた」
言葉に感じられる肌をつくような棘は、楽しげだったこれまでとは打って変わった——蓮が彼女に対して感じた第一印象そのものだ。
目つきが悪い、だけじゃない。
妹の貴妃に似た、黒くドロドロとした感情の塊。
それを彼女からも感じて、だからこそ蓮はこの少女を止めなければと思ったのだ。
「大した観察力じゃねーの。見抜ける奴なんてお前が初めてだ。そんなに強そうには見えねーのに」
「ううん。私の目はそこまで良くないよ。戦いの方も、練習はしてるけど、実践はしたことないから」
「あん?」
少し考え、蓮は適当なことを言ってはぐらかそうとした、と判断したのだろう。「チッ、なめてんのか」と舌打ちと睨みが一つずつ。
「けどま、ちょうどいーや。あーしもお前らには用があるんだ」
「…………お前、ら?」
「おう、お前はHMAの人間であーしを殺しにきた。そうだろ?」
極力感情を抑えているつもりなのだろう。声は淡々としているが、表情は今にも蓮の喉元を切り裂かんという怒りで溢れている。
決壊が来るのも時間の問題だろう。それほどまでに突き動かす何かが彼女の中には、彼女の過去にはあるということ。
だが、それを向けられるのは自分じゃない。
「ちょ、ちょっと待って! 私はHMAじゃないよ!?」
「この後に及んで、しらばっくれてんじゃねーぞ! お前らのせいであいつらは——っ!」
あいつら。
それが示すの
「うらあああっ!!」
——考える暇もなく、拳が飛んで来る。
咄嗟のことだったが、奇跡的に体が横に避け、立ち上がって、
「ま、だから! 違うってばぁ!」
前方向に向いていた体の勢いを利用し、左足を軸に、右の裏回し蹴りが飛んで来る。
慌てて避けても、さらに追撃は続く。大きな風さえ起こすほどの力のこもった一撃一撃。いずれも当たったら重傷、どころでは済まされない。
「なら、なんだよ! 今のあーしに近づいて来る奴なんて! HMAしか、いないだろ!?」
どういう意味か、分からない。
でも、黙ってやられるわけにはいかない。彼女のためにも、そうしてやらない。
「『獣人』も、人間も、あーしを————!!」
少女は強い踏み込み、からの跳躍。
「だから、もう————っ!!」
渾身の一撃だった。
刃となった風が地面を抉り、草木に切り込みを入れるほどの勢いだ。当然、それを放った——その瞬間だけなら尻尾と称するのが正しいだろうか、一つの塊に形状を変えた濃紺の——両足は、肉を泡のように簡単に削り取り、骨を粉々に砕いて命を散らせる。それだけの威力を持っていた。
そしてその攻撃は避けられた後のことを考えない、自分をも滅ぼしかねない捨て身の一撃だ。
避ければ少女が死に。
避けなければ自分が死ぬ。
美水蓮が咄嗟にとった選択肢は。
「————なっ!?」
景色が下に下に、流れていく。
反対に、体は空へと近づいていく。
つまり、今。二人は空を飛んでいた。
腕に抱えた少女は驚きの声を上げ、すぐに体を剥がそうと動くが、
「動かないで。落ちたら色んな意味で危険だよ」
少しきつめの口調で、彼女を抱える力を強くする。
近くの高い場所を探しつつ、そこに着地。すぐに地面を蹴って、再度空中へ飛ぶ。
「な。おま、なにして……」
なにして、はこっちのセリフ。
「いや、だって。さっき、あーしは…………」
飛んで、飛んで、雑居ビル群に進んで、一番高いところを選んで着地。
ゆっくりと少女を下ろした。
遅れて、風が流れる。
それは連続した運動で火照った体に心地良く、肌についていた髪を剥がし、制服の第二ボタンを外す。
彼女は——出会った時から外していた。
こんなことをやっている自分が言うのはおかしな話だけれど、もう少しきっちりとした服装を心がけてはどうかな、と思う。だって、せっかく。
「……なんで。あーしを助けた?」
「……せっかく綺麗な顔してるんだから、もっと笑って」
「は——?」
困惑に困惑を重ねる少女。
蓮は続ける。目を合わせて、言う。
「髪もツヤツヤだし、まつげ長いし、それに足も綺麗。選ぼうと思えば何だってできるの」
「だから、お前は、何を!」
倒れるように体を落とし。
温もりを知るためにその体を抱きしめ。
「——あなたは生きてるんだから、その体を壊すために使わないで」
「————っ」
抵抗は、なかった。
それがどうしてなのか、蓮には分からない。
自分にあるのは嘘を見抜く能力だけ。嘘のない相手には何も感じないし、だからやりたいことをやる。
——妹と同じ瞳で、喪失に苛まされている彼女を。あるいは、この世界を。
母親が教えてくれたように、正しくいられるかは分からないけれど。
私は私なりの方法で、誰かを笑顔にしたい。
「————約束。あなたも、あなたも。私がきっと幸せにしてみせるから」
たとえそれが人間でも、『獣人』でも、カミサマでも。
手を繋いだあの瞬間から、私の願いは変わらないから。
白い雲が混じった、赤い夕焼け。
それはどこまでもどこまでも、広がっている。
きっと世界中も、遠い未来も、ずっとずっと。
——震える体を抱きしめる腕が、白を失い、肌色を取り戻した。




