第五章1 『三日月奏太』
お待たせしました。
本日より第五章『白黒の世界』スタートです。
…予告では24日と書いていたのですが、勘違いで1日間違えてしまっていました。申し訳ありません。
さて、最終章ということで今までの色々なことが終わりへと向かっています。最後まで奏太君たちの行き先を見届けていただけると幸いであります。
それでは、本編スタートです。
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——原点は、ほんの小さなものだった。
幼い頃に抱く夢。
成長期、妖しさに惹かれ、望む嘘。
社会の摩擦に心をすり減らし、それでも『自分』を保つために作り出す、自身だけの虚構の世界。
全てに共通するのは、たった一つのこと。
それは救いなのか、あるいは逃避なのか。
幸せなのか、不幸せなのか。
……自覚があろうとなかろうと、主観と客観は異なる。
他人から見て、どれだけ滑稽でも。立場をわきまえない、図々しく自分勝手で叶うはずもない、叶うべきではない願いでも。
それを望んだから、始まった。
「えっ、と。きみは…………?」
少年は不安げに、しかしふわふわと体が浮いてしまいそうな、妙な感覚を抱きながら問いかけた。
その視線の先、くすりと薄い笑みを浮かべて、少年を見下ろす人物がいた。
いや、正しくは。
人と称するにはあまりにも場違いな、世界の異物。別の世界からやってきたのだと言われても、すぐに信じてしまいそうなくらい説得力を持ったオブジェクト。
姿が人型なのは、表現としてそういう形を保っているだけなのだと、無意識に理解できるくらいには。
そしてそれを知ってか知らずか、少年の問いに笑みを濃くしたそれは、答えた。
「——私かい? 私は、キミがこの世界に体現させた存在。姿はこうしてここにあるけれど、実像ではない。物質を持たない現実とでもいうべきかな。……ああ、でも」
ちら、と少年に視線を向け、
「キミには、やや分かりづらい話だったね。ごめんね」
「…………あ。うん、はい」
申し訳なさそうに眉をはの字にするそれに、少年は戸惑うばかりだった。
頭に浮かぶのは、一体どうして彼——その人称が正しいとは限らないし、確かめる勇気はないけど女の子らしくないし、恐らく男の子だろう——がここに来て、こうして自分と話して、よく分からない話をしているのか。
身なりは時折見かける貴族のような感じではないけれど、かと言って自分のように薄汚れたボロボロの服装でもない。けれど街の人にしては馴染んでいないというか、一般市民と片付けるには難しい雰囲気をまとっている。
……そもそも、確か。
記憶が正しければ、彼は突然何もない場所に柔らかな光とともに出現した《、、、、》のであって————。
「——そうだ。私を言い表す、きっと君にも分かりやすい言葉が一つ、あったよ」
少年の疑問を先読みしたかのように、ぽんと手を叩く。
そしてそのまま、少年に手を差し出して、
「————私はカミサマ。キミの願いによって生まれ、キミの願いを叶えるためにここにいる。キミが望むまで、ずぅっと、ね」
屈託のない笑顔。
新たに浮かんだ疑問や、色が灯りだした感情に、名前をつける前に。
少年は、カミサマに手を引っ張られた。
——全てが、始まった。
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白んでいた空間が欠け落ちていき、徐々に現れ始める現実の光景。
それは白塗りの空。五角形に切り出された、黒の地面。
およそ正しい意味での現実とは言い難かったが、先ほどまで見えていたものと明らかな区別がつく、という意味では間違っていないだろう。
その中心に、三日月奏太はいた。
「……くっ」
立ち上がろうとするも、膝が安定せず思わずふらつく。
体に問題がある、というよりはもっと上。頭の中を、甘やかに溶かす物質が暴れ回っているような、くすぐったい感覚。
抵抗できるかはともかく、その原因については容易に理解できる。いや、できていた。
「今のはお前の記憶、か」
「——ご明察の通り。過去に現としてあった、一つの事実だよ」
頭を抑える奏太に答えるのは、いつの間にか目の前に現れていたカミサマ。
景色もそうだが、彼自身もまた白の髪に黒の布切れと、二色のみで構成される視界に目がチカチカしてきそうなところではあるが、今はそんなことよりも。
飛びつくようにして立ち上がると、
「さっきの子どもとお前は一体——じゃない。えっと、まずここはどこだ? 俺はどうなった? 早く戻らないといけないし、ここから出る方法があるのなら」
たくさんの疑問がある。
それは口から出るには渋滞を起こす程度に多くあり、だからこそつい早口で全てを問おうとしてしまう。
しかし、奏太が冷静になるよりも早く、彼は「あはっ」と笑い声を漏らして、
「キミは良くも悪くも視点が集中してしまう傾向にあるね。横幅は狭いのに、縦は主張が激しい。それが改善できれば、見えるものもたくさんあるだろうに……あぁ、いや。失礼だと感じてしまったのなら、申し訳ないんだけど」
……前に誰かにも言われた気がする。
まあ、実際にその通りではあるのだが。奏太も常々感じている弱点であり、失礼どころかむしろ言い返せないくらいだから、
「悪い。……平静を装ってるつもりだけどさ、今、かなり焦ってるんだ。カミサマっていうくらいだから、多分その理由はお見通し、なんだろうけど」
素直に謝罪し、深呼吸をすることにする。
それで落ち着くかと言われれば、どうやっても根本から鎮まる気配はない。が、多少はマシになった。
「そう、そうやってリラックスしてくれた方が私としても楽かな。一から話すと、やや難しい説明になってしまうから」
言い、奏太に座るよう勧めてくるので、それに従ってひとまずその場に腰を下ろす。
確認した彼は満足げに頷くと、人差し指を立てて、
「まず一つ目。ここがどこかという質問についてだけど——ここは『エデンの楽園』」
「エデン?」
「既にある程度キミも察しているはず。隔離された世界。生物はおろか、外界の気配を微塵も感じさせない永劫の平穏。一つの塊でありながら、無数の形のない物質で構成された空間だ」
「……難しいな」
いまいちピンと来ない話だ。
論理的、かどうかはともかくとしても、並みの高校生に付け焼き刃の知識を蓄えた程度の奏太では、理解には及ばない。
「不思議な空間、程度に思えばいいよ。理解する必要はないし、私はキミにそれを強要しない。ここはそういう場所で、それ以上にはなり得ないから」
『エデンの楽園』についての説明は打ち切り、ということだろう。
「それより」と流れを変えて、
「キミが今一番に知りたがっているであろうこと。キミ自身についてだ」
無意識のうちに、息を呑む。
「現実世界……正確には違うけれど便宜上、下の世界と称することにしよう。——その下の世界で今、キミは死に向かいつつある」
「そう、か。まあそりゃそうだよな」
思い出す。
希美がこれまで抱えてきた約束は、奏太のものとは根本的な部分から異なっていて。だから蓮を失った日から彼女の時間は止まっていて、世界を破滅に向かわせるためにハクアにラインヴァントの情報を流し、梨佳を殺し、華に復讐をした。
中途半端に奏太が約束を交わしたから、それが果たされてしまった。
そして用済みとなった自分の言葉なんて、彼女は最初から聞く気などなく。
「…………だから俺はここへきた。自分の都合を押し付けてきたことへの報いとして」
なんとなく分かったかもしれない。
ここはいわゆる、生と死の境界線。三途の川とか、そう称されるものだろう。
むろん、諦めているわけではない。下の世界に残してきたものはたくさんあって、伝えなければいけないこと、やらなければいけないこと。たくさんあったのだ。
だが、死者に改変は行えない。
その証拠に華が止めた世界は今も凍結したままなのだろうし、奏太の『ユニコーン』も発動していない。
たとえ目の前のカミサマが、世界の理を書き換える改変者の大元でも、それは変わらない。
ならば受け入れろということなのだろう。
悔しくて、嫌でも。今まで死を超えてきたこの体はもう終わりで、どうすることもできない。罪で染まってしまっている自分に、
「……先も言ったけど、キミはもう少し周りを見た方が良いかもしれない」
「え?」
降ってくる苦笑い。顔を上げる奏太に、カミサマは言った。
「——キミはまだ死んでいない。死に向かいつつある、とそう言っただろう?」
*** *** *** *** *** *** *** *** ***
——奏太はまだ死んでいない。
その言葉に嘘はないのだろう。
その言葉は真実なのだろう。
一度だけ、過去に似たような経験があった。
『パンドラの散解』——奏太たちラインヴァントと同じ『獣人』組織、ブリガンテと衝突した時のことだ。
リーダーであるアザミの強靭な攻撃を奏太は防ぎきれず、再生が間に合わないほどの致命傷を受け、一度は死にかけた。死んだと、思ったのだ。
だが、今のこの景色と似た、不思議な空間の中で自身の片割れと話して、奏太は現実世界へと舞い戻った。
あの時と似たような状態、といえば確かにそうなのだろう。所々違う点も見受けられるものの、
「根拠については理解できているはずだ。キミは改変者。命ある限り、現実を書き換えることができる」
「それに加えて原点、だったか。華の話だと現実に留まり続ける、みたいな感じらしいけど……」
彼は頷く。
「キミがあの子の『ラプラスの選定』に抗えるのもそれが理由で、その力が弱まりつつあるのが今なんだ」
首を傾げる。
奏太の『ユニコーン』は、傷ついた身体を即座に再生するというある意味不死に近い能力だ。先述の通り死にかけでも復活でき、今が似たような状況ならば弱まる、というのは疑問を抱くところである。
——いや。
「まさか、角が折れたことが……?」
可能性としてはあり得るだろう。
折られて以降、未だに再生していないということは恐らく力にも限りがあり、自分にはその終わりが近づきつつある。奏太はずっとそう考えていたのだから。
だが、
「それだと正解の半分だね、奏太君」
「半分……?」
「うん。確かにキミは、獣の力と混ざって『ユニコーン』を構成している。角は力の象徴で、能力もその部分を通して改変へと至らせる。確かにそれは正しいともさ」
指をくるくるとさせて語るカミサマ。先程から薄々感づいていたが、どうやら彼は奏太のことを含め、これまでのことに十分な理解を持っているらしい。
その証拠に、
「——だけど、華がこう言っていたことを覚えてる?」
奏太の顔を覗き込むように、彼は前屈みになって、
「————願いの終着点。それが原点だ」
願い。
口の中で小さく呟く。
「想い、と言い換えても良いかな。キミが改変者たり得たのはその始まりがあったからで、それが揺らいでしまえば当然力も弱くなる。……身に覚え、あるようだね?」
手を握ったり開いたりする。
その手が持つ力は今も変わっていないように思えるが、
「……そうだな。俺はあの日の——蓮との約束から始まったんだ。みんなを幸せにする、それが叶いつつあったんだから、弱まっていってたのもおかしくない」
「けれど、それを凌駕するほどの大きな抑制が、キミの心に生じた」
「ああ。希美とずっとすれ違いっぱなしだったこと。それで戸惑いとか動揺とかもあるけど。何より一番に、落ち込んでるんだ。……俺はあいつのことを、色んなことを知らなかったんだ、って」
だから今、奏太は動けないでいる。
『ユニコーン』を発動させるには至らず、原点を見失いかけている。
それでも自分がどうしたいのか、なんて。
そんなこと、分かってるのに。
根底が揺らいでも、奏太には。
「——やめておいた方が良い」
立ち上がろうとする奏太を、カミサマが制止する。
「今のキミが下の世界に行ったところで、結果は変わらない。今度こそ戻れなくなるよ」
「……俺には残してきたことがある。それが果たせなかったら、死んでも死に切れない。たとえ今度こそ、俺が死んだって——」
視線から逃れるように背中を向け、
「本当にそれが、キミの望む幸せかい?」
ぎり、と奥歯を噛みしめる。
「キミが死なないのは、その想いが寸前で踏みとどまらせてくれているからだよ、奏太君。この空間にあるのは限りなく停滞に近く、決して停滞ではない時間だ。それをキミはふいにするの?」
「……っ、ここにいたって何かできるわけじゃ!」
長々と思考だけ続けていたって無意味だと。抗議に振り返り、しかし思わず息を止める。
「————キミは皆の想いを蔑ろにするつもり?」
——超越しているとか、存在の差から来る目線の違いとか。
そういうものではない、肌を刺すようにピリピリとした強い感情。
それを奏太は知っている。
あの日自分が取り戻した感情で、およそ彼のような存在には似合わないもの。
空間が震えるような低く響くそれを、奏太は。
「じゃあ、どうしろっていうんだよ……」
怯むでもなく、突き動かされるわけでもない。
頭を掻いて、どうにかする方法を考えてみるけれど、どうにもならない。彼の言った通り多くの時間がここにあるのだとしても、結果は変わらない。
だってこれは、
「俺はただ知らなかった。だから何もできなかったし、これ以上先に進めない。気持ち一つでどうにかなるなら、お前の制止も振り切って下の世界に行く。でも……」
それは奏太の問題だが、奏太一人で片付けられない問題だから。
カミサマの言う通り、また体を再生できたとしても、希美に言葉は届きはしない。拳をふるえと言われても、一線を越えることは絶対にないのだ。
「あいつが今まで何を思ってきたのか。蓮とどんな約束をして、どんな出会いがあって、改変者になったとか。華や世界のことも、俺は自分のことすら何も知らないままだ」
自分なりに、成長してきたつもりだった。変われた部分はあるのかもしれない。
けれど結局のところ、根底はあの日と変わっていない。三日月奏太は大事なことを知らずに、生きてきてしまった。
「だからきっと。——このままじゃ、ダメなんだ」
一瞬瞳を閉じて、深呼吸。
前を向いて、覚悟を決める。
どんな結論を出すかなんて分からなくても。答えはこれまでに隠されているから、
「俺はもう一度、自分の原点を見つけに行かなきゃいけない。俺にしか、三日月奏太にしかできない決断をするために」
瞬きもなく、視線が絡み合う。
揺れることのない瞳、交わされる意志は言葉なくとも形を持つ。
表情として、現れる。
「そっかそっか。なるほど、確かにキミらしい判断だ」
一瞬の緩み、けれどすぐに緊迫とした空間に変わる。
「——改めて名乗っておこうか。私はカミサマ。一人の少年の想いから生まれた特殊な存在だ」
「…………」
「誰かを幸せにすることが私の存在意義で、そのための契約を過去に何度か交わしてる。当然、契約者のことなら全て知っている」
カミサマは、提示する。
文字通り世界を書き換えるほどの可能性を孕んだ、選択肢を。
「『ユニコーン』三日月奏太。私はキミが望むのならば、キミに記憶の全てを開示するよ。どうする?」
答えは決まっていた。
だから迷わない。
「俺は知りたい。だから教えてくれ。世界の……真実を」
「ならば開こう。記憶の扉を。——それがキミの幸せになるのなら」
言葉を合図に、世界が再び白い結晶で染まる。
足場がなくなり、体が宙を舞う。
けれど驚きはしない。驚くことはこの先、もっとたくさんあるだろうから。
耳元を一瞬、涼やかな音が走ったかと思えば、それが幻聴ではなかったのだと分かる。
——鈴の音。
空間が閉じて行くのと同時に、響き出したそれは。
今、誰かにとって大切な、失われた記憶の扉が開かれる。




