第四章29 『改変者:等生』
————藤咲華という人物について、奏太はよく知らない。
HMA総長。『英雄』。『不老不死の魔女』。被験者I。麗人。改変者。『ラプラスの選定』。
言い表す言葉は多数あれど、それが彼女本来の性質とは限らない。
元々どんな少女で、何を願っていたのか。
どういう経緯からカミサマとやらに出会い、能力を得たのか。
未来視が使えるのだという改変者——これまでの情報から考えるに最も可能性が高いのはソウゴだろうし、彼も加わればまず間違いなく戦力面では問題ない——が側にいるにもかかわらず、どうしてあれほどの権力を手にし、わざわざ回りくどい手で世界を修正しようとしたのか。
どうして奏太に殺されるかもしれない場面で、それを受け入れようとしていたのか。自身の死を分かっていただろうに、回避しなかったのか。
ソウゴも言っていた『世界の終焉を防ぐ』という目的のきっかけ。何のために、彼女は。
だから。
考えなければいけないことはたくさんあって、知るべきことも確かにあったはずなのだ。
「——おい、華!」
必死に体をゆすり、呼びかけるも閉じられた瞳は一向に開く様子を見せず、彼女の後ろから深々と刺さった刃物——包丁は、奏太が最初に確認した一本だけに留まらない。
足、腹、胸、首の根元、頭、腕。
ありとあらゆる箇所を力の限りで狙ったのだろう、彼女の体を抱きとめた奏太にも、いくつか刃先が刺さる。痛い。けれど、明らかに華の方が重傷で、今も流れ続ける血の量は奏太の比ではない。
「返事をしろよ……っ! 不死の呪いとかいう、訳の分からないもんを持ってるんだろ!?」
一瞬の間に起きた、予想だにしなかった事態。正直奏太の頭はまだついていっておらず、何をすれば良いのか分からなくなるほどに真っ白だったが————それでも、奏太にできることはあると体が知っている。
「何が任せただよ、勝手に任せられてたまるか!」
奏太の『ユニコーン』は自身だけでなく、他者にも発動可能。それはほとんど死にかけだったアザミもそうだし、今までに何度もこれで危機を乗り越えてきた。
——決められた終わりの未来に囚われず、現在から否定する。
それが原点の、奏太の本質だというのなら、目の前で零れ落ちていく命も救ってやる。
彼女を両腕で抱え、角を最も傷口が深い脇腹に刺し、一点に意識を集中させる。
「お前が黒幕だろうと、死なせる理由にはならないんだよ! 願いが全部自分のためだっていうなら、それでいい。藤咲華。俺は俺のために、お前を……!」
腹底が震えるのが分かる。
爆発的に力を使用しているせいだろう、頭がズキズキと痛んで呻き声が漏れる。
けれど、構わない。意図も願いも分からなくとも、今彼女は本来の死者へと向かおうとしている。彼女が今までやってきたことは許せなくとも、そんなことはもっと許せない。
たとえそれが計画された理不尽であっても、奏太の原点は理不尽に抗うことにあるから。
「だから、起きろよ。起きて洗いざらい全部話して、それで————!!」
何と、言葉を続けるつもりなのだろう。奏太自身も、分からない。
世界に通じる理屈とか誰にでも話して納得できる理由とか、そういうのは全部頭になくて、全ては感情が為している行動で、言葉だ。
——奏太が呆気にとられていた一瞬で取り返しがつかなくなり、そもそも助かるはずのない傷だと分かっていても。
どれだけ見た目の傷が癒えようとも、戻らないものはあるのだと知っていても。
藤咲華という女性が自ら選んだ死で、その選択はひっくり返ることなく現実のものになったのだと。
そう、気づいているのに。
「——。届かないものに届かせるんだろ、変えられるんだろ。魔法の力じゃ、ないのかよ……!!」
華に送り続ける改変の力は、既にその体にある傷を完治させている。
傷に至らせた包丁を抜いても、瞳を開いても生気はなく、かつて不死と呼ばれた女性はそこにはない。
いつか、ジャックに言われた言葉が頭の中に響く。
——失われた命は戻らない。改変なんてものがあるから、もしかしたらと思うけど、本来ワタシたちはそういう生き物。
そんなこと、誰だって考えれば分かることだ。
同年代と比べれば色々と欠けた部分のある奏太であっても、記憶があろうとなかろうと、分からないはずがない。
だけど、それでも、
「生き返れよ、クソが————っ!!」
膝から崩れ落ち、何をするでもなく、放心状態で華を見つめる。
もはやそこに、恨みとか怒りなどという感情が介入する余地はなかった。
ただただ、散りゆく彼女を救えず、改変することなど叶わなかった事実。それだけが奏太の頭をぶち、打ちひしがれる。
体は事態を理解していて、警戒態勢にある。けれど瞳は涙を流せず、開いた口は言葉を発せず、頭は空白を残して静止。
だからこそ、奏太が立ち上がったのは無意識に他ならない。
「————」
静止したこの世界で。
黒と白とを行き来する、どうしようもなく優しく、理不尽で残酷なこの世界を。
唯一一人、動ける存在を奏太は知っている。
華は言っていた。
彼女の能力の対象外となるのは、本来の意味での死者及び彼女と同じ『イデア』。
ソウゴは言っていた。
自分たちは世界の終焉を防ぐために動いているのであり、彼自身が奏太の敵になることは絶対にないのだと。
つまり彼は終焉の根源とは無関係で、けれどその存在については情報として知っている。
ハクアは言っていた。
『獣人』の巣——ラインヴァントのアジトが判明した理由について、詳細は話せない。けれどあの時彼は今日判明したと言っており、加えて言えば回収された懐中時計は、フェルソナが確認した段階では完全に機能を停止していた。
『探索』でユキナを辿ったわけでもなく。華が彼を動かしたわけでもなく。もし、他の理由があるのだとしたら。
そしてアイはそれら全てを知っていて、それでもなお自身の役割を全うした。
華の言っていた五人とやらに、彼女が含まれているかは分からないが、彼女は後に終焉をもたらすであろう人物にも接触していた。これといった発言や関わり方をしなかったのも、それを知っていていたからこそだろう。
そして、一ヶ月以上も前。ブリガンテとの決戦を前にして、ヨーハン邸を出てすぐ。
ラインヴァントのお姉さん戸松梨佳は言っていた。
誰にも聞かれないよう、奏太の耳元で囁く形で。
「お前が、やったのか」
怒気を孕んだ声。
向ける対象が間違っているなどと、そんなことを今更思いはしない。これだけの証拠が揃って、かつ今まで奏太たちが受けてきた被害を考えれば当然のことだ。
睨みを向けるは、真っ直ぐ前。
今更隠し事などする気もないのだろう、その手に包丁を握った人影は一刻毎にこちらへと近づいてくる。
ようやく、納得がいった。
「全部、お前は、最初から……!!」
「————」
どうしてシャルロッテや華を襲った人物が包丁を使うのか。
それはどこでも手に入りやすいということもあるだろうけれど、特にあの日、その人物にとって都合良く屋敷が壊れ、奏太が呼ばれて席を離れたことでキッチンが無人となったから。
どうして華は梨佳の死について頑なに語ろうとしなかったのか。それが奏太たちに意地悪な言動を取った結果ではないのだとしたら——いや。そもそも、彼女の能力なら抵抗などさせずに相手の命を奪える。ゆえにその仮定は最初から違っている。
それは華が行ったのではない、例の黒フードによるものだったから。
どうして梨佳は地の利で優っていたはずなのに、敗北を喫することになったのか。
それは梨佳と同じく、アジトを知り尽くした人物だったから。
どうしてアジトにあったはずの蓮の毒——『青蠍』がいくつか消えていたのか。
それはこの世で一番美水蓮に執着していた人物が持ち出したからだ。
アイやソウゴには一切の敵意を見せず、ハクアと華に対し、恨みや怒りという言葉で表しきれないほど暗い感情を抱いていたのは、姉を殺した男とそれを操る女性だったから。
だから世界の終焉とやらは、彼女が現実を否定し、歪んだ愛情を抱き続けていたから起きる。
——否。起きたのだ。
奏太の知らないいくつもの未来で。
「————そうだろ、美水貴妃!!」
あの日、梨佳は言っていた。
——貴妃に気をつけろ、と。
*** *** *** *** *** *** *** *** ***
「…………」
包丁を片手に、無言でこちらを見つめる少女、美水希美。
その海のように深い青髪と燃えるような赤の瞳は、絶対に見間違えることのない、彼女のもの。
彼女が華を殺した。
事実に対する驚きは少なからず、というよりかなりあって、けれど他に抱く感情はいずれもそれを上回る。
奏太にとって、美水希美は守る対象だ。
彼女は姉である蓮に憧れていたものの、彼女は別に蓮と同じ道を歩む必要はない。全部が終わったら、みんなのように自身の道を見つけて、いつかは一緒に笑いあえたらいい。
けれど、やはり他の者たちとは違って退廃的な面があったり、事あるごとに自身を大事にしない言動が目立ったり。だから奏太が導いて、守ってあげなければいけないと。
そう、思っていたのだ。
「考えてみれば、そりゃそうだ。お前は蓮が死んだことをずっと引きずってる。受け止める気なんてさらさらないし、何より根本的な部分が何も変わってなかったんだ」
奏太のように蓮と同じ願いを持ち、意志を継ぐわけでもなく。
ユキナのように守られた命で日々を立派に生きることで、意志を尊重するわけでもなく。
かつて蓮が願ったであろう望みを、彼女は無意識のうちに行動で否定していたのだ。
「お前の腹の底は、俺と初めて出会った日と何も変わってなかった。自分が変わることなんてどうでもよくて、蓮を殺した元凶が憎くて憎くてたまらない。だから殺した。違うか?」
「…………」
希美は何か反応を見せるわけでもなく、無視。
一度視線を下へ、華を見つめてから、
「奏太さんは、どうして、その人を生かそうと、したの?」
「……は?」
質問の意味は分かる。が、
「罪を許さないことと、命を奪うことは別だ。俺が甘いっていうなら、それでいい。けど——」
「どうして、別なの?」
奏太の言葉に被せる形で疑問を投げかけてくる希美。彼女は続けて、
「私も、放送は聞いてた。この人は、悪いことをした。それは贖うべきじゃないの?」
「……俺がなんと言おうと、世界はそれを求めるかもしれない。でも、だからって殺すのはおかしいだろ!」
「でも奏太さんも、ハクアは殺すことでしかどうにもならないと思ったから、殺したんでしょう?」
「————」
元々そういう少女ではあったと思うが、息をつかせないはっきりとした物言いに、奏太は思わずたじろぐ。
だが、彼女と奏太との決定的な違いについて、どうやら彼女は理解していないらしい。
「——それは違う。確かにあの時の俺は馬鹿で未熟で、殺すことでしか解決できなかったけど。別の選択肢もあるんだって、今の俺は知ってる」
色々な戦いがあって、様々な人と関わって、自身以外のものが見えるようになってきた。
守りたいもの、一緒にいたい人たち、感情任せに突っ走っても大抵失敗するし、そんな時に側にいてくれる人は優しくて、だから奏太はみんなを悲しませたくない。自分も含め、もっと幸せにしたいと思えるようになった。
だから、ずっと一人過去に囚われ、復讐だけを考えていた希美とは違う。
「俺はみんなのこれからを守りたい。それは希美。お前だって例外じゃないし、そのためには華の力も必要だったんだ」
「罪の贖いが協力、ということ?」
頷く。
しかし希美は、
「問題の先延ばしだと思う。そもそも、その人が、協力する保証もないし、どうして奏太さんが、決めるの?」
「それは……」
「奏太さんの言葉は、綺麗事ばかり。これからはとか、願いとか、叶うはずが、ないのに」
…………。
以前、似たようなことを誰かにも言われた気がする。
だからだろうか。ずっと身体中が熱くなるくらいに憤慨していたというのに、一筋の冷気が割り込んできたかと思えば、途端に心中を冷ましていく。
それは目の前の少女に対する怒りというよりは、もっと芯の定まったもの。
「私にとって、姉さんは、存在意義だった。そんな姉さんを、殺した人が、許されるはずなんて、ない」
「…………」
「誰かを殺したのなら、自分も殺されることだって、ある。その人は、それだけの人だった、ということ」
「…………」
「だから、遅かれ早かれ、誰かに殺されてたし、結果的に私が今日、殺した。自業自得、だと思う。私から、姉さんを奪うなんて、そもそも、死ぬ以外にない。未来なんて作らせない。悲鳴なんて出す暇がないくらい、一瞬で死んでもらいたい。だから殺した。だから私は悪くないし————悪いのは全部、姉さんを殺した世界」
奏太はゆっくりと瞳を閉じて、浅く息を吐く。
「……言いたいことはそれだけか?」
目を開けて、真っ先に映るのは長々と心情を口にした希美。
守る対象。恋人の妹。同じ約束を持った少女。
彼女が頷いて、「そうか」と奏太は華へと視線を落とす。
「…………」
————藤咲華という人物について、奏太はよく知らない。
やってきたことに納得はできないし、どうして奏太なんかに任せたと言ったのかは知らない。あんな偉そうな態度で散々人を見下し、利用し、挙げ句の果てには世界そのものを書き換えた。
『トレス・ロストロ』と同様に、どこまでも自分勝手な人物だ。
意味深な言葉ばかりを残して話すべきことは話さないし、さらっと芽空に不死の呪いとやらをかけた。本当にどうしようもないくらい嫌いで、仲良くなることなど絶対にないと思う。
だって。最後にあんな表情を見せられたら、憎み切れない。もしかしたらと想像した背景が、真実なのではないかと思ってしまう。
ああ、そうか。
奏太がどうしてこんなに怒っているのか、正直分からない部分が多かったけれど。
ようやく分かった。
似ていたのだ。
別れ際の笑顔が、あの日の蓮に。
だから奏太は覚悟を決めて、だから奏太は心から彼女の言葉を信じられる。
「——お前は間違ってる、希美」
奏太はゆっくりと立ち上がり、希美に改めて向き合う。
「誰かが目指してきたものを否定して、違うと決めつけて。そんなことをしたって過去は変わらない。失ったものは戻らない」
「戻らないなら、未来を壊す。それだけ」
「——それが蓮の想いとは真逆だとしても、か?」
少女の肩がぴく、と反応する。
「俺は確かにみんなに比べれば全然で、信念に対して実力が伴ってないと思う。けど、必死に未来を変えようとしてきた華や、綺麗事の願いを叶えようとした蓮を否定するなんておかしい。そんなの、絶対に間違ってる」
「…………なら、どうするの?」
少し間を挟んだ問いかけ。
答えなど、覚悟を決めた瞬間に出ている。
「————お前を止める。蓮が名前に託したものも、華に任されたものも全部、俺が現実にしてやる」
視線が交差する。
片方は一切の迷いがなく、真っ直ぐに感情を固めている。
もう片方は相も変わらず無表情で、どこに感情があるのか、分かりづらい。
……が、ふいにその瞳に何かが走ったかと思えば、
「これは——!」
蓮とよく似ていて、けれど彼女よりも少し小柄な少女の体に青く淡い光が灯る。
音のないこの世界でそれはあまりにも幻想的で、儚く消えてしまいそうな印象を感じる。
しかし、ラインヴァントの『獣人』ならばそれが何か分かる。奏太が命名した名前で呼ぶのなら、『青ノ蝶』。
奏太のように、これまでの事情を全て知っていて、自身の能力についてある程度の説明をしてもらった後ならば、また違った言葉で言い表わさなければならない。
それは、
「————改変者『等生』。よろしくね、奏太さん」
梨佳を殺し、シャルロッテを襲い、最後に奏太を含めた全世界を終焉へと向かわせる敵。
そんな少女から漏れだすのは、彼女の片割れである『青ノ蝶』と、そこから分かれた複数の彼女自身。
奏太は驚きつつも、意識を腹底に集中させて————。




