第四章26 『改変者: 』
希美は、現在残っている改変者はたったの数人だと言っていた。
その数人のうち二人は、あの『施設』で被験者として実験を受けていたということが記録で残っている。
ならば片方はソウゴか、あるいは別の『トレス・ロストロ』かと奏太は予想していたが、あながち間違いではなかったのだろう。というより、恐らく正解だ。
なぜなら、
「改変者じゃないかと散々疑ってたけど、お前は……やっぱり」
藤咲華は被験者I。それはわかっていたが、今しがた彼女は自身が改変者なのだと、はっきり名乗った。
そしてここまでの流れから考えるに、『獣人』の歴史も奏太たち喪失者の問題も、全て彼女から始まっている。彼女の改変がもたらした結果が、今の混沌たる世界だ。
「人を手玉に取るのがそんなに楽しいのかよ……」
「……そーた」
「お前の都合で世界を歪められて、苦しんでる奴らの気持ちを考えたことがあるのかよ!!」
奏太はまだ、比較的マシな方だった。
けれどジャックやアザミ、散っていった『獣人』たちは。
華の都合のために『獣人』にされ、妻の有無にかかわらず命を狙われ、選択肢をごく少数に絞られた。
本来あるべき当たり前は遥か遠く、寄り辺なき弱者は明日を生きることすら叶わない。
だからあの『銀狼』は力を求めたのだ。
理不尽そのものである魔女を討ち滅ぼさんとして。
だから多分、彼はわかっていたのだ。
喪失も『獣人』も、全ては藤咲華が仕組んだものなのだということに。
「アイだってそうだ。あいつは自分が死ぬことも躊躇わず、使命を全うした。なのに、お前はっ!」
ハクアも、ひょっとするとソウゴも。三人とも、貫くべき信念のもとに行動していた。それを華は裏切ったのだ。全部何もかも、最初から仕組んで。
しかし華は薄い笑みを浮かべたまま、首を振ってこれを否定。
「————期待しているところ残念だけれど、彼女とソウゴは計画の全てを知っていたわ。その上で私に協力したの」
「な。じゃあ、ハクアは……!」
「彼は何も知らない。たった一人、人間を守るという使命の元動いていたわ。——結局それは見当違いの、空回りでしかないとも知らずにね」
「お前…………っ!!」
彼女の言葉の全てが真実とは限らない。アイとソウゴが協力していたと言っても、二人にもちゃんとした理由があったのかもしれない。
だけど、ハクアは。
「あら。どうして貴方が怒るのかしら。彼は貴方の大切な人を奪った。『獣人』をずっと蔑み、傷つけてきた存在。憎みこそすれ、同情をするなんておかしな話でしょう?」
…………確かに、彼は蓮を殺した憎き相手だ。
許しはしないし、絶対に肯定などできないまごうことなき敵だったけれど。
華の悪辣さは、その上を行く。
彼女がしていたのはハクアの意志の踏みにじり。本気で人間を守ろうという意志を持っているとわかっていながら利用したのだ。
そんな真っ黒に染まった性根から来る、最低最悪な行為を前にしているのに、「彼ならば相応の罰を受けるべきだから」などと片付けられるだろうか。否、奏太にはできない。
たとえハクアがその対象であっても。奏太の腹底からふつふつと湧いて来る憤怒は、止まるところを知らない。
激情に呼応して膨れ上がる獣の力も、既に『トランスキャンセラー』で抑えられる限界近くまで達している。
だから、
「……前に言っただろ、『不老不死の魔女』。俺はお前が嫌いだ。敵も味方も、大人も子どもも知り合いもそうでないのも、人間も『獣人』も改変者も喪失者も、全てを傷つけた。だから——」
あの日蓮から受け取ったそれをポケットの中にしまい込み、『トランス』を発動させる。
赤く変化する髪、全身を厚く覆う白い毛皮、天をも貫かんという勢いの角をさらけ出す。
「————全部決着をつけてやる。今日、ここで」
*** *** *** *** *** *** *** *** ***
全てが静止した世界の中で、今恐らく動けるのは数限られた者たちだけ。
他は皆、獣の卵が孵化し、定着したところでその行動を留めている。
『トランスキャンセラー』を身につけていたのなら話は違うのかもしれない。もしくは、藤咲華が個人的に気に入っていた——周りを見る限りではヨーハンのみが該当すると思われる——者だけが『獣人』へと変化しず、人間の姿を保っていられるのだ。
それは喜ぶべきことなのか否か、奏太にはわからないけれど。
続けて視線を横の芽空に。
彼女は先ほどまで困惑と動揺からか、地面にぺたりと座り込んだまま動けないでいたのだが、
「……どうしてオダマキ君を襲ったの?」
呼吸を整えた彼女は、奏太の隣に来て華に問いを投げた。
その瞳は警戒と怒り、それから何か分かりづらい感情が混ざっているものの、奏太に比べれば遥かに冷静に近い。恐らく、思考の部分でも。
「ううん。梨佳は改変者の情報を握ってたし、その後に来たオダマキ君が襲われるっていうのは、判断としては正しい。……でも、どうして殺さなかったの?」
それは至極単純な疑問だが、今の状況を考えればまず疑ってしかるべき問題である。
時間の固定。
恐らく藤咲華の行った改変は、そういった類のものだ。オダマキしかり今の静止した世界しかり。
加えて、被験者Iのレポート内容や奏太たちの喪失、それらを思い出すに彼女の能力は範囲や条件等もある程度自由が効くのだろう。
今まで謎の現象として捉えてきたものが、全て一つの能力で解決する程度には。
だが、だからこそ。
芽空の言った通り、そこへ繋がる第一の、しかし欠けてはならない絶対の情報を梨佳は蓮を経由して掴んでいた。だから彼女を殺し、ならばオダマキも殺されていなければ不自然なのだと。
「今更人を殺すことをためらうとは思えない。なら、なんだ?」
もしかすると、まだ何か隠れたものがあるのかもしれない。
そう疑う奏太と芽空に、
「……ふふっ」
彼女は、堪え切れなくなったかのように笑みを漏らす。
「…………何がおかしい?」
「決まっているでしょう、全てよ。貴方達はどこまでも子どもで、見えているものにしか目を向けられない。酷く悲しいことね。犠牲になった者たちも報われないでしょう」
「っ、どの口が!」
まともに応じていては怒りが増して周りが見えなくなるだけ。
そう分かっているのに、奏太はつい反応してしまう。だが、
「——貴方たちは『施設』で過去の『獣人』を見たわね?」
今までと打って変わって、真面目な表情。やや躊躇いを挟んで、頷く。
「私が意図を持って流した動画についても知っているはず。精神が犯され、人としての自我を保てなくなって獣そのものとなった『獣人』。それから先ほど周りで変化した人間たち。——全ては共通して、失敗作よ」
「なっ……」
「その点、貴方達は成功体と言えるわ。多くは道半ばで倒れ、一部は同じ失敗に至り、あるいは孵化しないまま今日を迎えてしまったけれど」
彼女が件の動画——恐らく最初のアップロード者ということだろう——を流していたとは。驚きと同時に、納得。
けれど、それ以上に。
ラインヴァントと他数名の『獣人』は、過酷な環境の中でも生きられる能力を持っていると証明してみせた」
奏太が結論を出すよりも早く、芽空がハッとなって、
「——つまり。『ノア計画』には多くの動物と、それを先導するための強力な『獣人』が必要だった、ってこと?」
「ええ。私が彼を殺さなかったのもそれが理由。もっとも、貴方が庇っていたことで、他の微力な子ども達も残ってしまったけれどね」
彼女の言い方で言うならばこうだろう。
失敗作が暴走した時のために、育てた成功体には力の象徴——抑止力として居続けてもらう、と。
あくまで利用する立場にある、というのがやはり苛立ちを覚えるところではあるが、オダマキを生かしたのはそういう理由だったか。
とはいえそのために犠牲になった多くの『獣人』たちや裏切られた人々のことを考えれば————、
「……待って。何か、隠してるよね」
ピク、と華が反応する。
「オダマキ君を生かした理由は『ノア計画』のため。それは少なくとも言葉の上では納得できるよ。—————でも。あくまでそれは『獣人』として見た場合」
そうか、と気がつく。
彼女はもっともらしいことを言っているが、重要な情報と言葉は明らかな故意をもって抜いている。
そもそも他でもない彼女自身が、先ほど名乗ったではないか。
「それにもう一つ。どうして梨佳を殺したのか、ってこと」
オダマキと同じく、『獣人』としてではなく、一つの情報を持っていたことで襲われたと予想していた少女。この予想を芽空は首を振って否定。
「改変者の証拠や情報を極力消す、っていう理由ならオダマキ君や私たちが生き残ってることがおかしいし、もしくは梨佳の強さも必要とするはず」
「…………」
「それに、あの『施設』はあえて残されてた。多分、梨佳に聞かなくてもいずれ改変者へと辿り着くように」
「そうか、だからアザミの記憶は……」
こくりと頷く芽空。
能力がある程度自由だというのなら、喪失者の記憶を一部だけ残し、《『施設』を探して、その果てに華が改変者だと知る》という筋書き通りに動かすことができる。しかし、ならばどうしてその必要があるのか。それなのにどうして、本来必要であるはずの梨佳を殺したのか。
疑問を持つべき点を入れ替えてみて初めて浮上してくる、疑問。
「だから改めて質問。……どうして梨佳を殺したの?」
対して『不老不死の魔女』は、何も答えない。
ただ薄く笑みを浮かべ、興味深げに目を細めている。
焦っているようには見えない。
どころか、奏太が怒りをあらわにし、芽空が華の行動に違和感を持つところまでが狙いなのだというような喜びに似た感情が見える。
元々、希美などとは別方向に感情の分かりにくい相手ではあるが——果たして、どこまで本当のことを口にしているのやら。
『ノア計画』。改変者。喪失者。『獣人』。これまでの事件の謎と違和感。
もし、彼女にまだ何か狙いがあるとしたら。
いや、違う。
それら全てが、一つの目的を達するための前準備でしかないのだとしたら————?
「……少し、歩きましょうか」
「は?」
長い沈黙の果てに、彼女が呟いたのはそんな言葉。
思わず警戒を緩めそうになったが、慌てて華を睨む。
しかし彼女はくるりと体の向きを変え、奏太たちに背中を向けて歩き出す。
「ここで暴れるのはやめておいた方が良いわ。……極力、誰かを巻き込みたくないのでしょう?」
そのまま振り返らず、からかうような口調。無防備な背中。
彼女は全ての元凶。先ほどそう判明した。倒せば全て元どおりとはいかないまでも、間違いなく仇を取ったと言えるだろう。かの『銀狼』ならこういう時、迷わず襲いかかるのだろう。
けれど、奏太と芽空は。
「……。行こう、芽空。言う通りなのは癪だけど、みんなを巻き込みたくないし」
「…………うん」
途中、何度かヨーハンの方を振り返る芽空とともに、奏太たちは大展望塔を出た。
*** *** *** *** *** *** *** *** ***
「…………」
周りを見渡す。
どこもかしこも、動きを止めている。電気や車も、海も空も、人も、生き物も。
世界の全てが活動していない。
本来観測できるはずのない星の休息を見てしまったような、あるいは天上の立場から俯瞰しているとか。そんな気分に陥ってしまう。
あまりにも非現実的過ぎて、本当に止まっているのか触って確認してみたりもした。だが、そもそもこうして静止した世界の中を動けていること自体が異常なのだと示すように、全ての物質は固定されていた。
そもそも現実を改変するなどという、とんでもない能力だ。信じられないのも無理はないし、予想していても驚かないという方が無理がある。
だが、蓮や例の襲撃者と比べると——なんとも、規格外過ぎる。
「『不老不死の魔女』、か……」
それは『施設』の写真や過去の記録からも分かる通り、彼女の容姿がほとんど変わっていないことや、『獣人』がいくら束になっても敵わない強さを持っているところから来ている——のだそうだ。
だが、今になっては分かる。
それは彼女の改変能力のおかげだ。
自分も世界も、思うがままに封じ込めて堅固な牢を作る。そうすることで彼女は自分の都合を押し通して来たのだ。
……と、前を歩く彼女を、無意識のうちに刺すように睨んでいた自分に気がつく。
それは警戒心の表れであり、実際刺されてもおかしくないことをやっている相手だ。奏太も覚悟を決めている以上は、
「——奏太君。貴方の敵意は真っ直ぐ過ぎるわね。搦め手は苦手かしら?」
「————っ」
ちら、と振り返る華。
どうやらずっと気づかれていたようだが、
「プルメリアお嬢様に腹芸でも教えてもらうのはどうかしら? 貴方相手なら教えるでしょう、きっと」
「分かったような口、聞かないで」
「あら。事実を言ったまでよ。貴方達の信頼関係は自他共に認めているものだもの。もちろん、この私も」
クスクスと笑う華に、珍しく怒りを見せる芽空。
……本当によく回る舌だ。
「いい加減本題に入れよ。外に連れ出したってことは何かあるんだろ」
思考に苛立ちが混じり、口調がやや強めになる。
「最初に言ってた原点っていう言葉。それと何か関係してるのか?」
彼女は振り返らない。
ただ一つ、目的地を決めているのだろう。迷わず前を歩く。
だから答えるのも、背中越し。
「貴方達は改変者がどこから能力を得るのか、知っているのかしら?」
少し、思い出す。
「確かカミサマ……だっけ。そういう奴から能力を配布されるんだろ」
「ええ、そうね。それは誰から?」
「……素直に答えると思うのか?」
間が空く。
「候補として挙げられるのは戸松梨佳。美水蓮、その妹貴妃。答えを渋ったのは現在生きている少女、つまり美水貴妃を考えてのことね。情報提供、感謝するわ」
「…………は」
一瞬、ポカンと口を開きかける。
だが、忘れてはならない。
隣に芽空がいるとはいえ、奏太は嘘が苦手で真っ直ぐ過ぎる性分で、相手はこれまで多くの人を騙し、惑わしてきた魔女だ。下手な舌戦を挑んだところで負けるのは当然のことと言えよう。
ラインヴァントのメンバーと、その中の候補者を全て分かっているあたり、隠し事も通用しないだろうし。
「それで? そのカミサマがどうかしたのか? 何の関係も——」
「改変者には二つの種類があるわ。一つがカミサマから能力を配布された者。現世ではもう数人しか残っていないようだけれどね」
奏太の言葉を遮って、華はあっさりと答える。
数人しか残っていない、という話は同じく希美から聞いた。
現在確認できているだけでも四人。だがそれより、
「…………二つ?」
「ええ。もう一つはカミサマから能力を受け取ったわけではない、自身の願いのみで至った人物。それを私達は原点と呼んでいるわ」
視界前奥で揺れる薄赤。聞き慣れない単語が頭の中を飛び交い、整理に時間がかかる。
だが、それを彼女は待ってくれなどしない。周りの景色も。
「————ここ、は」
今更になって、気がつく。
大展望塔は中枢区で、娯楽エリアに近い。
前を歩く華の足は迷いなく進んでいて、景色もいつの間にか何度か見たものへと変わりつつあったのに。
外からでも見える、大きなジェットコースター。観覧車。客が入るための、出入口。ここは、そうだ。
「あの日、蓮と来た遊園地だ」
思い出そうとすれば、あらゆる意味で鮮やかな記憶。
朝から緊張をほぐすために喫茶店へ行き、入場したのち様々なところを巡った。それからネックレスを買い合い、動物園のチケットをたまたまもらって——。
「……そーた。震えてるよ」
「え」
本当だ。完全に意識の外にあったが、手の指先がふるふると震え、言葉を発しようとする口の動きも、どこかぎこちない。
思い、出していたのだ。
あの日の記憶を。
『獣人』三日月奏太の始まりであり、人間としての生活が終わった瞬間でもあるこの場所は、奏太にとってまさしくトラウマの場所になっているから。
しばらく前に乗り越えた。そのことに偽りはないし、まぎれもない本心で向き合った。
けれど、今世界に起きているのは間違いなく非常事態で、多分、だからこそ。
怯えていたのだ。隣にいる少女がまた、失われるのではないかと。
でも。
「大丈夫だよ、そーた。私は側にいる。——絶対に死なないし、死なせないから」
そんな未来を迎えたくなくて、二人は一緒にいるのだ。お互いに足りないところを補い合って、負けないように。また、立ち上がれるように。
「……ああ。俺も絶対に、芽空を死なせたりなんてしないからな」
両手で頰をぺちぺちと叩き、息を思い切り吐き出して、気分を入れ替える。
向き合うべきは下じゃない、前だ。
「話を再開しよう。その原点とかいうのと、俺に何の関係がある?」
言ったけれど、奏太も別にそこまで察しが悪いわけではない。
だからこれは、再確認だ。
今まで三日月奏太自身が経験してきた、その身に起きていた違和感の正体。
華もそんな奏太の心境を察したのか、あるいは何か思うことがあってか。真面目な表情でこちらに振り返り、告げた。
「————奏太君。貴方の『ユニコーン』は原点と獣の力が混ざったがゆえにできた能力。つまり私たちと同じ、改変者よ」




