第四章15 『失われた過去 閉ざされた未来』
壁紙や絨毯、カーテンから花瓶まで全てが黒で構成された部屋。
そんな暗い雰囲気の中、ひときわ目立つ色————否。彼女が持つそれは、見た目だけにとどまらない。
目が合えば、それだけで全幅の信頼を預けても良いと思えるほどの圧倒的な存在感。薄く浮かべられた笑みはそのまま自信を意味し、能力の高さは既に誰もが知っている。
『英雄』またの名を『不老不死の魔女』。
藤咲華は、仮想画面と手元のボードを交互に見ながら、空中を何度か指で弾いていく。
『ノア計画』は近く、当然総長である彼女には相応の仕事量が求められるわけだが、彼女は嫌な顔一つせずすらすらと仕事を進める。理由があるとすればそれは間違いなく、必要なことだから。
使命のためなら苦など感じることはないし、偽りのない本心ではっきりとそう言える。
——と、
「あら、お疲れ様。遅かったのね」
静かに開いたドア。
そこから現れた巨躯に華は手を止め、労いの声をかける。
巨躯は「む」とこちらを見て、
「…………少々やることがあったからな」
「ふうん」
煉瓦色の髪に、歴戦の兵士を思わせる鍛え抜かれた体を持つ男性——ソウゴの発言に、華は興味深げに目を細める。
「それで、どうだったのかしら?」
「少しの変化があっただけだ。本筋は変わらぬ」
「そう。なら良いわ」
彼はコーヒーカップを取り出して自分の分のコーヒーを注ぐと、視線で「貴様もいるか」と問いかけてくる。華が軽く首を振ると、「そうか」と短く答え、そのまま向かいのソファへ。
「ところで。いくつか聞きたいのだけれど」
華は仕事を続けつつ、声だけで問う。
「この前、一人でどこかへ出かけていたけれど。お相手は彼かしら?」
「……答える気はないぞ」
くす、と笑みを漏らす。
答える気はなくとも否定しないあたり、彼も正直な男である。三日月奏太少年について話を振ると、やや感情的になるあたり、彼の中で何かしら認めている部分があるのだろう。
とはいえ今は詮索する気分でもないし、彼は怒らせると面倒なので、一つだけ。
「————彼も、そうなのかしら?」
数秒、ふっと顔を上げた彼と目が合う。
わずかにその瞳の奥が揺らいだように感じたが、ほとんどの者からしたら気づかないような些細な変化。恐らく彼は今、何かを感情の奥底に隠した。
そしてそのまま、
「ソウタは我らとは違う。原点の方だ」
「なるほど。ということはアイも気づいていたから、なのでしょうね。彼女、勘はかなり鋭かったもの」
彼の言葉に何一つ驚かず、納得する。
これについては元々、観測できずとも推測はしていたため、当然といえば当然なのだけれど。
……しかし、そうか。
「遅かれ早かれ起きることだった。けれど、彼が私たちの場所まで至るのね」
「…………至らずとも奴は奴だ。意思は変わらんだろう」
「どうかしら。人は力を得ると変わるものよ。立場か環境か、あるいは貴方の言う意思がね。今でなくとも何年先、何十年先……いえ。彼の場合語るべきはそこになかったわね」
「どのみち平行線だ。これ以上あの少年について語ることはない」
それきり二人は黙り、それぞれの行動に戻る。
華は止めていた仕事を、ソウゴは物思いに耽り。
しかし気まずさなどはそこにない。そもそも既に慣れ切ったことであり、互いの心中はほとんど分かり切っているため、会話でさえもある種の答え合わせのようなものなのだ。
だから知らない情報をどちらかが得た時を除けば——ああ、いや。
もう一つだけあったか。
「貴様の意思は理解している。それは今も昔も変わらないが——貴様は三日月奏太に対し、何を思う?」
時折飛んで来る、こちらの意表をついた問いかけ。それには少々、驚かされることがある。
「貴方は本当にあの少年を気に入っているのね、ソウゴ」と笑みを最初に、ふっと真顔になり、考えてみる。
ソウゴやあの少女は彼、三日月奏太に可能性を感じた。だが自分は、彼が成した功績に対し、結果以上のものを感じてなどいない。もちろん、ソウゴの話を合わせればその結論についても考え直す必要があるわけだが、
「——現状、判断するには材料が足りないわね。貴方と違って、私は彼と一対一で話すこともそうないのだから」
「…………普段の言動から考えれば、嫌われるのも当然のことだろう」
「ええ、もちろん自覚しているわ」
薄い笑みを保ったまま、
「そうでなくとも彼は忙しい身よ。見極める機会があるとすれば、あの日——カタストロフの分岐点のみね」
「……そうか」
時間にして、約二週間といったところか。
するべきことは既に終え、調べもついた。ならばあの少年たちに土産を用意してみるのもまた一興かもしれない、と華は思う。
実行することは変わらず、世界の行く先は真っ暗な海の底。それならば、と。
「…………箱を開けたその時に。貴方は一体どんな顔をしてくれるのかしらね、奏太君」
ソウゴにも聞こえないほど小さな声で、華はそう呟いた。
*** *** *** *** *** *** *** *** ***
——被験体、藤咲華。
その文字が目に入った瞬間、奏太は言葉を失った。
彼女は過去から今まで、『獣人』を散々苦しめてきた魔女だ。巧みな話術で騙り、惑わし、その犠牲になった者は無数に存在する。
比較的嫌う人物の少ない奏太も彼女の腹黒さには嫌な顔をしてしまうし、他の『獣人』に聞いても恐らくは同様の反応が返ってくること間違いなしだ。
しかし、そんな彼女が過去に被験——つまりは実験台となって『獣人』と戦っていたなんて。
それで過去の罪が消えるわけではない。それで彼女が多くの命を奪ったことを許せるわけじゃない。でももし、今の彼女のあり方をこの実験が築いたのだとしたら——。
「……ワタシにはあの魔女が被験者なんて思えない」
「それについては私も同感だけど。あ、でもここ」
芽空が用紙の後ろの方を指差す。
「——なおこれは本人の志願により行われた実験であり、投薬等による実験は、現時点では行なっていない」
「えと。じゃあ少なくとも、無理やりやらされてたっていうわけじゃな……」
ほっと、安心しそうになる自分がいる。
しかしよく考えてみたら、あの魔女にこんな気持ちを抱くなどおかしな話だと首を振る。
一つの情報で認識を変える、それはここ最近奏太の身の回りでよく起きていることではあるが、彼女は別だ。
たとえ停戦協定を結んでいる相手でも、許せない人物は存在する。奏太にとってはそれが彼女だった、というだけで。
だから、
「——続きを読もう。まだ目的のものも見えてないしさ」
そう。奏太たちはここへ、喪失の原因を探りに来たのだ。
華がどういった存在であるのか、ということについては後に回すとして。
再び、手元のレポートへと視線を落とす。
タイトル『Rw8◯』
——23,Ap。対象を発見。
被験体I、対象と交戦。無力化に成功。速度にわずかな上昇あり。
E.自我、言語能力の低下は変わらず、力の分散が見られた。
またか、とめくってみるが、しばらく同じような結果が続き、あまり得られるものはなさそうなので横へ弾く。一枚、また一枚とめくって——今までと違うタイトルのものを発見。
タイトル『Rw◯1』
——15,Ma。対象を発見。
被験体II、対象と交戦。無力化に成功。ただし生身の体によるものであり、こちらは応用が一定条件に限られると断定。
E.これまでに比べて年齢の低い個体。自我、言語能力の低下はやや改善。
「新しい被験体。年齢が低いってことは、子ども……いや」
華じゃない人間で、『獣人』を倒せる可能性のある者。
同じく志願によるものだと考えるなら、『トレス・ロストロ』の誰かだろうか。生身で『獣人』を倒すなんて離れ業をする者は、彼らくらいしか思い浮かばないのだが。
詳細を求めてまた一枚とめくってみるが——今度は記載なし。
ため息を吐きつつ、一度作業を中止。振り返って、
「……ここまで『大災害』の裏事情、みたいな感じだけど。二人はどう思う?」
少女たちは少し考えて、
「このレポートを作った組織が、今の藤咲華やHMAと正しく繋がっていることの証明と、あとは彼女が改変者である可能性がより高まった、あるいは確定って言っていいくらいになった。これくらいかなー、私は」
「うん。歴史は掘り返せても、ワタシたちの現状が変わってない。喪失者と一切関係ないことしか載ってないから」
そう、彼女らが言うことはいずれも事実である。
確かに今までに考えていた可能性のいくつかが当たり、諸々の事情を考えていく上ではスムーズになった。が、結局それは本命とはずれるし、情報の上塗りでしかないのだ。
あれだけあったレポートも既に半分以下。こうなるとこっちはハズレだろうか、奏太は肩を落として——、
「…………応用実験?」
ふと、底に埋もれていた一枚に気になる字面を見つけた。
ぐいっと引っ張り出し、内容を確認——大きく、目を見開く。
「ふ、二人とも、ちょ、これ!」
慌てて言葉が噛み噛みになるが、構わない。それよりも今しがた奏太が見つけた内容。
指差し、今まで記載されていたことが事実なら、
タイトル『Rc-Rw1◯』
日付は掠れて読めない。が、示す年は今より五年前。
つまり、
「ワタシたちが記憶を失った……!?」
「ああ、間違いないと思う。ほら、ここ」
奏太も内心動揺しまくりで、はっきり言ってまだ事実を飲み下せていない。だが、奏太は見てしまった。
だから伝えて、情報を共有することでしか、心は安寧を保てないのだ。
なぜならそのレポートは、こう続く。
——被験体I・II応用実験。
古称『ヘルメナエンリル』、現称『獣人』上位個体四体を捕獲。実験に使用するものとする。
なお当実験の筆記は統括管理者が——掠れて読めない——計画で不在のため、代理が行う。
E.処理エラーなし。記憶及び感情部分に閉鎖処置、全四個体の能力抑制に成功。
「記憶と感情を封印することで、『獣人』の能力を押さえていた。これはワタシはともかく、アザミや君なら当てはまってる」
「上位個体、って言葉から察するに、俺の『ユニコーン』みたいな複合体なのか? 適性の高さを表してるかもだけど、いずれにしても」
「——記載されてる四人かはわからないえど、そーたたちの喪失の原因は、間違いなくこれだね」
古称『ヘルメナエンリル』とやらは考えても答えが出てこないようなので、置いておくとしても。
ここからわかるのは、被験体I・II——つまり藤咲華かもう一人の誰かが喪失に至る改変を行った張本人である、ということ。『獣人』ではないヨーハンやフェルソナ、エトもその対象と見て良いだろう。
そしてさらに、閉鎖処置、というのが能力そのものに関係しているのなら、
「オダマキに梨佳。あいつらに手をかけたのも————!」
奏太が『施錠』と呼んでいる能力、二人はその応用の結果だ。
オダマキは意識そのものを奪われ、梨佳は命を失った。改変だかなんだか知らないが、ふざけているにも程がある。
そう考え、腹の奥がひどくざわつく。
まさかこんなところで真相に近づけるとは思っていなかったが、ちょうどいい。こうなったら藤咲華に直接問いかけてやる。実行したのが被験体のどちらにしても、無関係や何も知らないなんてことはないはずなのだ。
もし彼女が犯人なら、奏太は——、
「そーた。怖い顔してる」
「……え」
心配そうな芽空の顔に、ピク、と奏太の肩が震えた。
彼女は浅く息を吐いて、
「…………落ち着いて聞いて、そーた。それからジャックも」
「…………ん」
ジャックも奏太同様に何か思うところがあったのだろう、いつの間にか奏太の服の裾を強く握っており、離す様子はない。
しかしそれでも芽空の話を聞く姿勢を取ろうとするあたり、ギリギリのところで踏みとどまっているといったところか。
ならば奏太もいつまでも『怒り』に囚われ、悶々としていても仕方あるまい。
一度深く息を吸って、大きく吐く。それから彼女を見て、
「ごめん、芽空。……話、頼む」
「うん。わかった」
一瞬だけ安心した笑みを見せた芽空は、表情をすぐに戻した。
こちらを、ジャックを順に見て、ゆっくりと口を開く。
「——まず、二人ともわかってるとは思うけど、このレポートが全て事実なら、それはそのまま今まで私たちが感じてきた違和感の理由になるの。『大災害』を止めた強さの理由、喪失者のこと、オダマキ君のこと、梨佳のことも全部は改変者の能力によるものだって」
改めて述べられるそれに、奏太は抑えていた『怒り』が顔を出しそうになるが、堪える。
「被験体二人あるいは複数人のうち、一人は藤咲華。だから答えるかはともかく、事情を知っているのは確か」
「……ソウゴさんも知ってると思うか?」
「彼と華は大学時代からの友人、っていう話もあるから、可能性としては十分にあり得るよ。でもそーたに話さなかったのは、話せない理由があるからじゃないかな」
「話せない理由……」
「奏太の言う通り彼を信じるなら、私たちを泳がせておいて、っていう可能性は低いと思う。それならたとえば、そーたに何かさせたいことがあって、その邪魔になると思ったから、とかの方がありそうだしね」
それは彼の言っていた、世界を終わらせないという目的に関わることなのだろうか。HMAのような功績を今後求めているというのなら、奏太は重い期待を背負うことになるが。
「いずれにしても」と彼女は言葉を繋いで、
「藤咲華に問い詰めれば、この実験を行った目的を含めて、あらゆる事情が判明すると思う。——それから」
一瞬の迷い。
言うべきか悩んだのだろう、その変化を奏太は見逃さなかった。そして同時に、次彼女が口にすることは、恐らく今後の奏太たちにとって大切なことだと理解。
芽空ははっきりと一言、告げた。
「————喪失者の記憶とオダマキ君の意識。この二つは戻る可能性があると思う」
「なっ……!?」
いや、しかし。
考えてみればそれもそうだ。
改変に応用が効くというのはレポートにも書いてあったし、奏太たちの記憶が「消失」ではなく「封印」されているというのなら、それを解くことも可能かもしれない。
何より、オダマキの意識が消失していたら、彼はそもそも今生きてなどいないはず。ということは、
「梨佳も。梨佳もさ、戻らないのか? あいつは——」
縋るような、乾いた笑み。
心のどこかでわかっているのに、願わずにはいられなくて。
「……そーた。それは」
芽空が言い澱む。
それにジャックは淡々と、
「失われた命は戻らない。改変なんてものがあるから、もしかしたらと思うけど、本来ワタシたちはそういう生き物」
「そうか……そう、だよな」
力の入りかけた拳を解き、ぎゅっと目を瞑る。
もし彼女が生き返ったら。失われた大事な人たちを救える、そんな都合の良い改変能力があったなら。
そう思わずには、いられないけれど。
「……俺たちにできるのは、今もまだ消えない喪失をどうにかすること、だよな」
そう自分に強く言い聞かせて、前を向く。
「…………芽空、どうした?」
と、そこで奏太は彼女の違和感に気がつく。
先ほどの迷い、あるいは梨佳をどうすることもできないという無力さ、それらとは異なる表情。
どうやら何かに疑問を感じて、考え込んでいるようだが。
「……ねえ、二人とも?」
彼女はぐるりと部屋の中を見渡して、
「この部屋——ううん。この『施設』の違和感について、どう思う?」
「……え?」
*** *** *** *** *** *** *** *** ***
芽空は言う。
「元々この地下は箱庭計画の跡地で、『施設』が作られたのは計画が中止になった後。それから実験があって、その結果をHMAは地上に持ち出したわけだけど……」
隣のジャックが「ああ、なるほど」と頷く。
『施設』への違和感。ここへ来てから何度か感じていたが、それらをまとめれば芽空の言わんとしていることがわかるはず……さて、なんだろう。
地下のど真ん中に『施設』が建てられていること。あるいは今も機能が動いていること。はたまたここへ来る前に見たあの『獣人』。
——いや、そうか。
まず第一に、奏太たちはここへ来るまでの間に何を思って来たか、だ。
そしてそれは、
「『施設』は喪失者の原点。何か手がかりがあるはず。そう思って私たちはここへ来たけど、どうしてこんなにわかりやすくレポートやディスクが残ってるの?」
ここで出た結果をHMAは持ち出した。ならばたとえここがHMAの管理下にある封鎖された地下施設でも、残っているのは不自然だ。もっと言えばデバイスのトラップが今もなお作動していた、というのも疑うべき点だ。今やこの都市、あるいは世界中でデバイスを使っていない者などほとんどいないのだから。
——まさか。
デバイスを使わない『トランサー』、鈴の音。偶然ならば良いのだが、もしかしたら。
「……俺たちがここへ来るよう仕向けられてた、とかな」
「何のために?」
「私やそーたをハメるため、とも考えられるけど……『ノア計画』を前に、そんな社会的混乱を引き起こしかねないことをするなんて考えにくいし、どうだろうねー」
謎は深まるばかり。そもそも封鎖されていたのは間違いなく、この部屋や上もそれなりの経過の跡が見られた。ならば誰かが遠距離から観察、あるいは長期的な計画を……いや、考え過ぎか。
それに今はそんな想像をしているよりも、一度方向転換をするべきなのだと奏太は思う。
「知りたいことは知れたし、情報整理の意味でも引き上げないか? まだディスクが見れてないけど、それは上で」
「随分急」
「……なんていうか、嫌な予感がするんだ。上手くは説明できないけど、いつまでもここにいたらいけないような」
「そうだねー。私もそれについてはそーたに同感。色々と不鮮明で不気味過ぎるし。だから荷物をまとめよっか、ジャック」
「……ん」
この場所が自身の記憶に関わる『施設』だから、落ち着かない部分があるのだろう。まだどこか納得できない様子だったが、彼女が渋々頷いたことを皮切りに、作業は進んだ。
特に詰まることなく、すんなりと。
元々最初に整理を行ったこともあるし、持ち出すべきものも決まっていたからだ。
束になっているレポートとまだ確認していないディスク、研究の成果と思しき薬品の数々、それから何かのヒントになるかもしれない写真立て。それらをまとめて部屋に置いてあったリュックで運び出すことにする。
……返しに来れるかはともかく。
一通り確認が済んだところで、
「じゃあこれは私が運ぼうかな」
芽空がそんなことを言い出した。
薬品のせいだろう、芽空のような少女が持つにはやや重たいリュック。抱えた際、「んぅ」と声が漏れるあたり、それなりにきついのだとわかる。
「芽空。男なんだし俺が——」
さすがにこれを放置して任せた、などとは言えないので、芽空からリュックを受け取ろうとする。が、彼女は首を振ってそれを拒否。
「いざという時一番動けるのはそーた。だから、余計なものはないほうがいいでしょ?」
「それは……ごもっともだけど」
下手したら潰れたり割れたり、二度と読めなくなるくらいボロボロになったり。そんなことを考えて戦闘をするのはやや厳しい。
「それに、二人はまだ心の整理がついてないんだから、こういうところで私がカバーしないとねー」
…………。
確かに、整理はまだ満足についていないけれど。
「奏太。これならいざという時、ワタシたちが囮になれるから、任せよう」
と、ジャック。
確かに彼女の言う通——いやいや囮ってなんだ。そんな状況想定できるか。いや、ありえない話ではないのかもしれないけど。
そうつっこみたい気持ちを抑えて、息を吐く。
「それじゃあ、えっと。重いと思うけど、……よろしくな、芽空」
「うん。任せてー」
ニコニコの芽空を見て、奏太は思う。
毎度のことではあるけれど、やはり彼女には助けられてばかりだな、と。
またいつか、ちゃんと返せる時にたくさんのものを返そう。
きっと、一緒にいられる時間は限られている。だから一瞬を大事に、後悔しないように。
「それじゃ、行くか。帰ったらパーティーって約束もしてるし」
「え、そんな約束いつしたのー? というか、明日も色々とやることあるよ?」
「パーティー。楽しそうかも」
奏太たちには考えなければいけないこと、受け止めなければならないもの。いくつもあって、そのせいで芽空や周りの皆に気を使わせてしまっているけれど。
今のこの少しの間だけは、それらを忘れて。
部屋を出て、変化に注意しながらガラス筒を通り過ぎる。五角形の装置は悩んだ末、放置することに決めた。
そしてあとはここを出るだけだと階段に差し掛かったところで——足を止めた。
「そーた。どうしたの?」
「——。まさか、本当にその時が来るなんてな」
振り返り、奏太は笑みを浮かべる。
念には念をという言葉があるが、それはまさしく今この時のためにあったのだろう。
肌が、全身が、本能が、迫り来る脅威に産声を上げようとしている。
「ジャック。俺が倒し損ねたやつは任せていいか?」
「ん。任せて」
瞬間、空間に亀裂が生じた。
あまりにも透明で、一閃を通すように綺麗にガラスの割れる音。割れた場所からチョロチョロと、水の漏れる音。薬品独特の匂い。永きの眠りから覚めた獣の声。肌を刺す敵意。
元々そこまで頑丈に作られていないのかもしれない。一度割れたガラスがさらにもう一度、人間離れした力で壊されようとしており、目を離せばすぐに割れそうな勢いだ。
「……芽空。俺たちが囮になる、なんてことは言わないけどさ。荷物のこともあるし、能力的に恐らく不利だ。だから極力戦闘は避けてくれるか?」
「そーた。……大丈夫?」
はてさて。ひょっとすると、トレーニングルームで彼女だけは見ていたのかもしれない。
あの時といい、トレーニングルームといい、見てなくて助かったと奏太は思ったのだが。
まあ、それでも。
奏太がやることは変わらない。
今目の前で起きようとしている戦闘に対し、ただ、
「——俺たちにできることをしよう。まずは三人とも、生きてここを出るためにさ」
鮮烈な破砕音が言葉を過去にする。
タイミングから考えるに、脱出を阻止するトラップなのだろう、一気に四、五、六——もっとだ。空間が敵意と殺意であふれ返り、こちらに発せられる獣の雄叫びが、事態の深刻な変化を知らせてくれる。
ならば奏太もそれに応じよう。
同じ『獣人』として、『ユニコーン』として。
——腹の底に呼びかける。
かなり厄介な相手。だから協力が必要だと、片割れに。
返事は一瞬だった。声ではなく、反応で。溢れて来る力で奏太の呼びかけに応じた。
この世に体現できる力の頂点。
いくつもの動物が混ざり、溶け合ってできた一つの奇跡。本来存在するはずもない伝説上の生物であり、神々のそれにも匹敵し得る存在。
一切の不純物のない黒髪と、なんの変哲も無い容姿であるにもかかわらず、素人が見てもわかるほどに高まった、純粋な力の塊であるその体。
三日月奏太であり、『ユニコーン』でもあることを示すものは、頭から一つ天に向けて高々と生えていた。
「————そーた、やっぱり」
「心配かけてごめん。でも、大丈夫だから」
——ただしその角は先端を失い、途中で折れている。
『パンドラの散解』において、『トレス・ロストロ』の一人暗情哀に折られてから、修復されずに。
だからこそ、奏太はアイの言葉を信じていたのかもしれない。
だからこそ、やがて来る終わりを、心のどこかで受け入れつつあるのかもしれない。
しかしそれでも奏太が願うことは、変わらない。
「俺が必ず芽空を守るから。だから帰ろう——あの場所へ」
記憶が戻っても、戻らなくても。
今ここにいる三日月奏太は、絶対に。




