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黒と白の世界と  作者: 夕陽ゆき
第三章 『反転』
133/201

第三章69 『王位の簒奪者』



 ——階段を落ちるように駆け下りる。


 迷いは一瞬。決断は直後。目の前の廊下に出て、長い廊下に直面した。動くたび、背負ったリュックサック——ユズカとの戦闘に臨む前、屋上入り口前に置いておいたものだ——が、存在を主張するように音を立てて揺れる。だが気に留めない。

 すぐに廊下を駆けていく。


「想像はしてましたが、絶対形崩れるでしょう、これは……!」


 舌は流暢に、動きは速やかに。

 胸ポケットから手早く小瓶を三つ取り出し、腕を振る動作を保ちながら器用に片手で蓋を外す。体に急な制止をかけ、エネルギーが前方向に飛び散りそうになったところで、真横へ横っ飛び。小瓶を背中で隠しつつ、中身を自身の進路方向に遅れてぶちまける。


 景色が流れていく。乱れた机、倒れた椅子。投げられたままの鞄に、壁に貼り付けられた掲示物。見知ったような、けれどどこか違う、知らない教室の風景。


 横を見る。教卓があった。このまま行けば確実にぶつかる。ダメージも、多少はあるだろう。

 だから空中で腰をひねり、左肘を引いて、足が地面に触れる瞬間に全ての回転を一つの動きへと集束させる。

 全身に巡っていた力を全て左の手のひらに。掌底を、叩き込む。


 威力に金属がへこみ、飛び、ぶつかる音。

 それは文字通り、教卓という物そのものの形を変えた。最上部に置かれた木は吹き飛び、金属の側面は潰れるように小さな板状に。


 掌底のおかげで勢いを殺せた葵は走りつつ、そのままそこから幼児くらいの大きさになった一つを拾い上げ、リュックに入れる。

 と、


「——来ましたか」


「オオオオオオ」


 階段を降りてからここまで、三十秒足らず。葵が走っていた元凶が、全てを破壊する音が遅れてやってきた。

 見えずとも分かる。人という小さな生き物のために作られた、階段や廊下。そこを巨大な動物が、半分自我を失った状態で走る。


 さすれば結果は当然、損壊の嵐だ。

 爆発するような音が遠くから、地響きとともに急速で近づいてくる。


 葵は扉付近、倒れた机の陰に隠れつつ、冷や汗を流して、


「——ッッ!?」


 先ほど葵が鳴らした爆音におびき寄せられたのだろう、巨体は教室の前で止まると——異変に気がついた。いや、気がついた時にはもう遅い。


 ずる、っと。


 あまりに状況に合わぬ、軽く、間の抜ける音が響いた。

 そして、転倒。学校全体が大きく揺れる。


 それを腰を低くすることでやり過ごしつつ、ポケットの中から拳一つよりやや小さな、白色と赤色の球を一つずつ取り出して廊下にそっと転がす。すると、


「————!!」


 再び警戒と動揺、それから困惑の入り混じった獣の声。当然の反応だろう。

 転がってきたボールが突如煙を吐き出し、片方が目くらましの白、もう片方は唐辛子の赤。

 それから、巨体を転がした液体について。あれは油ともずく、納豆等々ネバネバするもの滑るものをふんだんに使用し、合成したものだ。

 急いで駆けようとすれば先ほどのように転倒し、焦ればやはり足元をすくわれる。

 それを証明するように、抵抗の声が上がる。


 葵はそんな地面と戯れる巨体を確認し、ばらまいた液体を踏まないよう気をつけつつ、教室の反対側へ移動。部屋を出ると、


「ぐ、がァアアアアアア!!」


 白煙で所々隠れている。

 けれど、そこに巨体は——彼女はいる。目の前の状況に夢中になっているらしく、こちらには気がついていないようだが。


 全身を厚い毛皮と薄黄色の尖る毛で覆われた、転んで倒れてようやく目線が近くなる常識外れの体躯。鉄柱を何本も束ねたような、強靭で長大な手足。長い尻尾、耳。必死に地面をつかもうとして次々に抉りおこしていく黒爪。血走った空色の瞳の、明確な殺意。


 それから、今まで彼女が持っていなかった、牙まで。

 完全に獣に成り果てたのだと、葵は結論を出しため息。

 だからこそ、袖下から大きな瓶を取り出し、僅かな躊躇を挟んで、今度は瞳めがけて振りかける。


 中身は以前、ハクアに対して不意打ちで使ったものと同じ——タバスコだ。

 同じく不意打ちで、けれど量は以前の二倍。体の大きさは、彼の数十倍。となれば効果も当然、想像を絶するほどの威力と、時間と、広さになる。



 ——世界から音が消えた。

 そう錯覚するほどの悲鳴が上がり、慌てて葵は耳を抑え、距離を取らんと離れる。

 まあ、予想できていた反応ではあるのだが。


「ボクの言葉が——」


 声がかき消される。

 腹に力を込め、叫ぶ。


「ボクの言葉が理解できるかは分かりません、が! 最強の王だと言い張るのなら、この程度の小細工吹き飛ばしてみせてくださいよ!」


 分かりやすい挑発。

 煙を吹き飛ばしてしまいかねないほどの風の動きがあり、慌てて廊下の奥へと駆けていく。


 ちら、と振り返る。

 まだ彼女は上手く立ち上がれていないようだが、先ほどまで葵がいた位置に爪が届いていた。狙いはしっかりと、こちらを向いている。


「……さて。ここからは——いえ。今までもずっと賭けのような戦いでしたが、もう少しでしょうか」


 リュックサックを漁り、残りの手札を確認する。

 小型懐中電灯。花火が三つ、油の小瓶が二つと先ほど作った即席の盾。それから、


「——ッな!?」


 重い衝撃が、背中に。

 攻撃と判断し、対処するにはあまりにも遅すぎる判断。勢いのままに吹き飛ばされ、地面を凄まじい勢いで転がりながらも、リュックの中身だけは漏らさぬよう強く抱きしめる。


 転がりながら、思考する。

 恐らく、まだあの『獅子王』はぐちゃぐちゃの足場にもがいているはず。そもそもあの巨体にまともに攻撃を受けていたら、今頃葵の方がぐちゃぐちゃになっている。

 とすれば、今背中を打ったあの衝撃は。


「投擲、か……!!」


 考えてみれば、今までなかったことの方が不思議なくらいだ。

 『獣人』はその性質的に、近接での戦闘の方が向いている。が、動物固有の能力を活かした武器や、あるいは遠方からの攻撃を放つ者も少なからずはいる。

 ユズカはどちらかと言えばそれに当てはまらず、己が身一つで、圧倒的な力を持って相手をねじ伏せるタイプだが——逃げる相手を逃さないために投擲という選択をとった。

 半分自我を失いつつも、戦闘における思考は残っている、というわけか。


「上等、ですよ。獣の王——!」


 勢いが止まったところで、大きく息を吸い、再び駆け出す。


 今の攻撃で腕時計は壊れた。だが、デバイスの電源は今も起動したまま。

 今の攻撃で背中の肉が削れ、じくじくと痛む。恐らく、血もそれなりに流れているだろう。


 今まで賭けのような戦いだったが、もう少し。


「生きるための戦い、か」


 口の端から血を流しつつ、それでも葵はただ走る。


 戦いの終わりは近い。

 葵の生身の活動限界も、あれこれと用意してきた小道具たちも。



*** *** *** *** *** *** *** *** ***



 天姫宮葵は『キツネ』だ。

 キツネは体こそ小さいが、視覚聴覚嗅覚に優れている。やや肉食よりの雑食で夜行性。賢く、それなりに頭が回ることから、人を化かす生き物なのだと民話や昔話で語られてきた。

 身体能力も高いのだ。イメージに比べれば、ずっと。


 しかし、それは元々のキツネの話である。『憑依』ではその能力をつまみ程度にしか使用できない。


 さらに加えてもう一つ。

 『獣人』の強みは基礎身体能力の強化もあるが、『纏い』に到達できれば獣特有の能力まで使用可能、という点だ。特筆能力、と言い換えてもいい。

 ラインヴァントはその面において豪華すぎるラインナップだと葵は思う。


 たとえば索敵、人心掌握、攻撃、いずれにも使える超音波を持った梨佳。

 たとえば姿を隠し、相手を闇討ちし放題の芽空。

 たとえば自身、他人の両方を対象とする再生能力を持った奏太。


 彼女らのような特筆能力を、葵は持っていない。

 そしてさらに言うなら、ここぞという時に出す最大の威力を持った武器に関しても、だ。

 むろんそれは奏太の角しかり、梨佳の尻尾しかり、威力と比例して隙も大きくなるため、普段はあまり使われないのだが。


 ともあれ、そんな事情もあって、葵は相手を錯乱させる戦法を得意としているわけだが——相手を巨大な獣としても、やることは変わらない。

 ひたすら相手の精神を削り、隙が出来たところでちまちまと攻撃。相手が弱くなってきたところにトドメを刺して終わり。

 相手が生身の身体能力、スタミナ、適性の全てにおいて桁違いの化け物なユズカには通用しないのだが。


 ————だが、今は。

 彼女は巨大な獣だ。

 そこにこそ勝機があると葵は踏んだ。



「来るのが遅かったですね。『獅子王』」


「————」


 ドアを開けてやってきた、と言うにはいささか大きすぎる破砕と騒音。

 戦場は再び、屋上へ。


 続く連戦で破壊された床はでこぼことしており、簡易なアスレチック。

 風は驚くほど勢いを弱め、強い風が照準をずらしてくれる……ということもなさそうだ。雨が降るのではないかと警戒していた曇り空についても、万が一の可能性を葵たちに与える気はないらしい。


 ここまで散々罠を張っていたことで警戒しているのだろう、巨体の行動に躊躇いが見られるが——既に戦闘は始まっている。


「弱い弱いと、勝手に決めつけることすらできないでしょう、その格好では!」


 後ろに手を回し、火をつけた二本の花火。先端に取り付けられたボールペンのキャップのようなもの——いわゆるロケット花火から火が噴出し、葵の腕振りをきっかけに、真っ直ぐに獣へと飛んでいく。

 一体何事かと警戒するより、それが獣の目の前、よりやや左にずれた足元に到達する方が早い。


「ウウウウウウ——!!」


 爆発物か何かだと判断したのだろう。

 『獅子王』はすぐに全身の毛を逆立て瞳をこちらへ、次いで右方向へ横っ飛びする。なるほど、良い判断だ。

 ここまでの葵の行動は、一貫して逃げと罠。

 となれば前、つまりこちらへ駆けても何か策が講じられている可能性があるし、後は先ほど自分が壊して入ってきた階段。上へ跳んでも爆発を食らう恐れがあるし、爆発の規模が分からない以上、左に避けるのも愚策。自然と右を選ぶ。


 ——再び、ずるっと間抜けな音と揺れる大地。


「その巨体。当たれば間違いなく死にますが、当たらなければどうということはないですし、ただの大きな的なんですよ」


 葵が選択する武器は、ある程度範囲が予想できるものだけに限られる。これだけ荒れた戦場、持ち運びできる程度の火薬量と、それによる破壊規模などたかが知れているが、万が一自分が巻き込まれる可能性も考えて、爆弾の類は持ち歩かない。


 となれば、わざわざ手作りでロケット花火状のものを作ったのはなぜか。

 答えを、遅れて射出された残りの一本とともに『獅子王』の前で説明してみせる。


「残念ながら、ボクは慎重なんですよ。拳一つでどうとでもなるあなたと違ってね」


 噴出されるのは、小規模の爆発ではない。

 青色の煙、だ。


「————ッ!?」


 広がっていく青煙の中、獣の叫び声と暴れる音が聞こえる。

 だが、すぐに気がつく。


 煙自体には何の害もない。それはただの目くらまし。本命は別にある。


「言ったでしょう? あなたを殺す、と」


 右手に剣を、左手に盾を。

 それぞれヨーハン邸から借り受けてきたものと、先ほど作った即席のもの。持ちつつ、駆ける。


 …………伝承や神話、おとぎ話などによくある話。

 主人公が邪悪なモンスターを倒し、お姫様を助ける。その結果、二人は結ばれ末長く幸せに——今となっては出来過ぎた話だと感じてしまうものだが、葵は昔そういう選ばれし者であるとか、奇跡の力であるとかに憧れていた。


 むろん、自分にそんな力がないことくらい知っている。ほんの一年ほど前に身をもって知らされた。


「ですが、皆にあなた以外の全てを任せ、皆にあなたのための全てを託してもらった。だから負けられないんですよ、『獅子王』」


「グォオオオオオ!!」


 まだ足場が回復していない『獅子王』から礫が放たれる。だが、来ると分かっていればある程度の対処は可能だ。

 避け、盾で受け流すことでやり過ごす。そしてそのまま正面……を通り過ぎて右側面へ。


 葵は剣術をしっかりと学んだことがない。『トランス』で身体強化をしていると言っても、学んでいるのといないのとでは大きく話が変わって来る。ゆえに、


「————」


 どこかで読んで知った、構え。

 頭から足まで真っ直ぐ下になるよう重心を置き、脇を締め、剣を正面に。

 衝動に任せてぶんぶんと振り回すよりは、見よう見まねでもなりきった方が遥かにマシだ、と。


 滑るように、地を蹴る。


「う、おおおおお——!!」


 胴体を狙った、正面からの振り下ろし。

 に見せかけ、寸前で右に移動、切り上げを後ろ足に刻もうとする。が、視界の一番左に死が迫り、反射的にしゃがむ姿勢をとった。

 すぐ後、頭の上を『獅子王』の前脚が通り過ぎ、舌打ち。


 今のは葵の攻撃に対し、裏拳気味に放たれたものだ。フェイントを入れていなければ間に合わなかっただろうが、予想よりも対処が早く、精度のある一撃だった。

 まだ油は取れ切れていないのだろうに、攻撃の反動で巨体が斜め方向に回りかけるが、転ばず体制を保てる程度には。


 だが、それに怯んでなどいられない。盾を構えなおし、足元の油に注意しながら地を蹴る。

 今度は巨体の顔下から潜り込む形で首元、より奥側。腹にすっと剣を入れて、


「ウウウウウウ————ッッ!!」


 否。腹に潜り込んだ葵を弾く『獅子王』の方が早い。


 ズシッ、と重たい衝撃。

 咄嗟に後ろへ体を戻し、盾を挟むが、それでも威力は絶大。巨大な剛脚が鈍器のように葵に振るわれる。


 威力に全身が揺さぶられ、地面を擦り、浮きそうになる体を必死に地面につけ、一度の攻撃は耐えるが、それだけでは止まらない。

 滑る勢いを利用した後ろ脚と尻尾の薙ぎ、蹴り、前脚の裏拳。

 現在進行形で体が滑りやすくなっていて、隙の大きい攻撃しか放てない『獅子王』であっても、その範囲と威力は葵に何発も防げるものではない。

 右前脚の切り裂きに対し、盾を滑らせていなしたところまでは良かった。だがそこまでだ。


「ぐ……ぅ!」


 元々、教卓の金属を利用した即席の薄い盾だ。

 正面から全力の攻撃を受けたわけではないとはいえ、相手は獣の王。二撃を受ければ起きる結果は損壊。ギリギリのところで皮膚には当たらなかったものの、これで攻撃を防ぐ手段はなくなった。


 残りは、右手の剣のみ。


「ガアアアアア!!!」


 葵の焦りを感じ取ったのだろう、空色の瞳が僅かに細められ、すぐにそれは行動として現れた。


 ————牙が、迫る。


 アレを食らったら間違いなく自分は死ぬだろう、と葵は思う。

 盾で威力を誤魔化していたつもりだが、実のところ体へのダメージはかなり大きい。骨と臓器がぐちゃぐちゃに潰れているのではないかというくらい、体の中身がおかしなことになっている。


 長く戦闘をすればそのうち死ぬし、今ここで動かなくても死ぬはずだ。

 握った左拳が震えている。

 勇敢に構えていたはずの剣は、力が抜け、今にも滑り落ちそうなくらい傾いている。



 ……もうダメだ。こんな獣に勝つなど不可能だったのだ。結局救えなどしなかった。自分の無様さに呆れて笑いが出てくる。膝を落とし、死を受け入れる。さあ、一気に食らえ獣の王。


「——ッ!!?」


「残念でしたね。これでも、演技は得意なんですよ」


 ——『獅子王』にはそう映ったはずだ。

 だが、現実は虚実。

 諦めは締めへの通過点でしかない。それも、半日以上前の話。


 葵は唇の端を満足げに歪め、握りっぱなしだった左拳を開き、至近の獣の瞳を潰していた。

 光を闇で覆うのではない。光を光で、奪ったのだ。


 つまり。小型の強力な懐中電灯を、瞳に向けてやった。

 盾の下で隠し、今この時を待っていた。


 悲鳴を上げ、思わず足を止めた『獅子王』。

 彼女も理解する。この場面で、得物を持っていた葵が目くらましを発動したというのなら、当然迫るのは凶器。最強を揺るがしかねない、必殺の一撃。


「……?」


 無理矢理に何度も瞬きを繰り返し、迫る葵に備えようとした『獅子王』は疑問したはずだ。


 どうして葵は動いていないのか。


 どうして彼の手にあったはずの剣は、姿を消しているのか。


「今のあなたにとって……いえ。ずっと昔から、獣はあなたにとって毒でしかない。何度も自分を殺した、忌むべき毒だ」


 葵は困惑する獅子王を睨んでから、膝を曲げて跳躍。

 それと同時に、『獅子王』は気がついた。


 彼がこのタイミングで跳躍することの意味と、剣の消失の関連性に。

 答えは、上だ。


「——!!」


 『獅子王』はこう思ったはずだ。


 小型の懐中電灯を目くらましとし、葵が取った必殺の一撃とは正面から自分を切り裂くものではない。

 目を瞑っている間に剣を上に投げ、遅れて葵が跳躍、重力を味方に『獅子王』の頭を突き刺す——そういうものだと思ったのだろう。


 事実、彼女はその通りに動いた。

 剣が貫く速度よりも、超常の力を振るう獣の王の方が圧倒的に早い。弾かれ、飛ばされた。


 残るはちょこまかと動き回っていた葵一人。それを喰らい、終わりだ……そう思っただろう。



 ——天姫宮葵は『キツネ』だ。

 キツネは賢く、それなりに頭が回ることから狡猾な生き物として知られている。

 相手を化かす、という話もあるくらい慎重で、厄介な生き物。


 だから。


「————そんな獣なら、やめてもらえますか。ユズカ」


 剣を掴む気など、最初からない。

 短く跳躍しただけにとどめた葵は、視線を戻す『獅子王』の顔面に対し、全力の右拳を叩き込んだ。



*** *** *** *** *** *** *** *** ***



 達人に対し、ある程度良い勝負をする方法。


 その一つとして、馬鹿正直に真正面から突っ込まず、戦闘中にフェイントや妙な動きを入れる等、相手の意表を突くというものがある。

 むろん、半端なものでは通用しないのだが、上手くいけば相手に「相手はこう動くかもしれない」と思わせることができ、結果多少なりの隙を生むことも可能だ。


 だが、この選択肢を増やしてやる、という戦い方だけで勝てない場合。特に今、分かりやすい相手で言えば『獅子王』。彼女のような卓越した実力の持ち主の場合は、どうすればいいか。


 答えは、『視点を変える』だ。

 そして、相手がユズカだからこそ、それはあらゆる面において言える。


「あなたはユキナを守ろうとして力に目覚めた。結果的に誰かを傷つけることとなっても、何が何でもあの子だけは守ろうと」


 葵は大きく後ろへ跳躍。

 全身に巡る力が弱まりつつあるのが分かる。けれど、あと少し。

 言葉を続ける。


「でも、いつまでもみんな同じままなんかじゃない。あの子だって、誰だって、強くなる。少しは信じたらどうです。ボクも、ユキナも、あなた自身も!」


 葵たちは『獣人』だが、獣そのものについて完全に理解が及んでいるわけではない。

 たとえば思考が狭まったとき、どう動くとか。その獣の持つプライドであるとか、意地であるとか。

 そういったものは知らないけれど、少なくとも周りの『獣人』を葵は知っている。


 『獅子王』は半分自我を失った状態で全てを破壊しようとしていた。が、それは逆に言えば半分は残っているということになる。

 そうなればある程度の行動にも見えてくるものがある。あった。


 たとえばユズカとユキナは、外側だけ見れば真反対。だが、共通する部分も少なからずあって、たとえばパニックになると言動がしどろもどろになり、思考が短絡的になってしまう、とか。

 短い期間だけれど、ずっと長い間。葵はラインヴァントの皆とユズカを見上げてきたから分かる。


 推測と賭けの入り混じった、不確定だったはずの未来の光景に、現実が追いついた。


「ウウウ、アアアアアア————!!」


 まるで子どもの癇癪のようだ、と葵は思った。


 でも、それは当たり前のことなのかもしれない。

 彼女たち姉妹は、知るべきことも、学ぶべきことも、向き合わなければならないことも、ずっと後回しにしてきた。

 自分の声から逃げ、耳を塞いできた。


 『わたし』は弱いからと。

 『あたし』は強いからと。


 それぞれの役割を勝手に決めて、周りもそうだと決めつけて、期待して。何年もずっと、彼女たちは進むことを恐れていた。

 だから彼女は、葵の声を拒んだ。

 守り、守られる関係が永遠なのだと意固地になって、自分はそれ以外に生きる術がないのだと。


 そんな子どもの叫びを引っさげて、『獅子王』は駆けてくる。

 巨体を深く沈め、這うように地を。


 だから葵は、力の奔流に集中する。全ては、一つの行動に収束させるために。


「アアアア——ッッ!!」


 迫った巨体が、構えた前脚で葵を突き上げるように直上へ跳躍。

 だが、


「————ボクはユズカを知っています。追い詰められた時、そう動くことも」


 屋上での戦闘と、これまでに何度も見られた、彼女の得意技。

 相手との体格差を利用し、全身のバネを使ったその一撃は、彼女が子どもだから出来た必殺。

 だから、巨体に合わぬその行動に出るのをずっと葵は待っていた。


 だから獅子王が跳ぶよりも、葵の方が早く上空へ到達する。

 ——本命を、首元めがけて放った。


「——ッ!?」


 それは葵が皆から託されたもの。


 『獣人』が人に紛れて日常生活を行う上で必要な、『トランスキャンセラー』を加工して大きなフックワイヤー状にしたものだ。

 彼女の『トランス』は強力すぎて一つでは抑えきれないため、皆が持っていた全てを借り受け、まとめた。そして。


 対処よりも結果。

 抵抗よりも奪う方が、圧倒的に早い。

 首にぐるぐると巻かれた『トランスキャンセラー』が、正しくその効果を発動させた。


 『昇華』の力を根こそぎ封じられた巨体がそのまま落下、鈍い音が鳴って、でこぼこになった地面を何度も転がって、止まる。


「ァ、ゥア…………あ」


 遅れて地面に到達した葵は、膝を曲げて着地。痺れが少し残ったが、構わない。

 『獅子王』へと、歩を進める。


「あ……あ……」


 はらはらと落ちていく、全身を覆っていた薄黄色の毛。屈強な手足、たてがみ、尻尾、耳。

 獣の全てが失われ、残ったのは一人の小さな少女。


 ぴたりと、足を止める。


「これでもまだ、自分は強いと言い張りますか?」


「——っ」


 自失し、漠然と空を見つめていたユズカ。

 しかし彼女は葵の言葉に我に返って、弾かれるように駆ける。荒れた地面に足がもつれ、転びそうになっても。それでもなお、右拳を葵にぶつける。


「……なんで」


 胸元に真っ直ぐ振られたそれを、葵は避けない。


「死んだパンチなど、効くはずがないでしょう」


 嘘だ。少しばかり、強がった。

 ユズカは現在栄養不足と睡眠不足を併発しているとはいえ、元々平均よりやや優秀な、奏太くらいの身体能力がある。

 殴られれば痛い。痛いけれど、耐えられる。


「…………みゃおみゃおは、何がしたいの」


 拳がもう一つ——続かない。

 下ろされた腕と、小さく呟かれた問い。

 葵は迷わず答える。


「あなたに戦いをやめさせ、別の道を示すことです」


「別の道って……そんなの、アタシに無理に決まってるじゃん」


「いいえ。何も無理とは思いません」


 言葉が、続く。


「そりゃ何十にもなる、歳を召した方なら話は違ってくるでしょう。ですが、まだあなたは子どもだ。何にだってなれます」


「なれるわけない! だってアタシは戦いしかしてこなかったし、何にもないもん! それに——アタシは色んな人を傷つけてきたんだし、今更、そんなの」


「昔人を傷つけたからって、血にまみれた手だからって、それがどうかしたんですか? 誰にだって望む権利はある」


「ないよ。アタシが強いのって、才能って言うんでしょ? じゃあ戦わなきゃじゃん。ユキナも守れるし、いいじゃんか」


「確かに、そうですね。あなたの才能は、紛れもなく頂点に座することがふさわしいでしょう。この先も磨いていけば、いずれは敵など一切いなくなるでしょう」


「じゃあ!」


「——でも、最善の道が本来望んでいた道とは限らない。そのことに、あなたはもう気がついているんでしょう」


 葵は考える。

 戦うしかなかったユズカが勉強会を通し、得たもの。


 それはもちろん、知識もある。字は読めるようになったし、簡単な計算もできる。教養や一般常識もある程度はついたはずだ。

 彼女がこれまでの自分の行いに疑問、あるいは後悔の念を抱いているのも、恐らくはそこから来る「むやみに誰かを傷つけてはいけない」という一般市民にとっては当たり前の意識から。


 とすれば。

 ユズカが戦う以外の道を、一時は望もうとしたそれも、この数ヶ月に隠されている。

 歳は自分と一つか二つしか変わらないのに、物心がついたばかりの子どものような、単純で理想な、夢。

 つまり彼女は、


「——お姫様になりたいんでしょう?」


 小さな肩が、大きく震える。


「灰かぶりの女の子。呪いをかけられ、茨の城で眠る女の子。足と引き換えに声を失ってもなお、想いを伝えようとする女の子。それから、美しさに嫉妬され、三度殺された女の子」


 お姫様と呼ばれていても、報われない少女はいる。ユズカはもちろん、葵が読んできた絵本の中にもそのような女の子はいた。今挙げた中にだって。

 それを考えれば、変に望もうとすれば悪い結末にだってなり得る——そう思えるかもしれない。


 でも、彼女たちは輝いている。

 だからユズカは望んだ。


 きっと後悔なんてしていない。

 たとえひと時でも、あるいは自分が死んでしまっても。それでも誰かを好きになって、駆け抜けた幸せな日々を不幸と言うなんて、おかしな話だ。


 そして、報われた少女たちは言うまでもない。だって彼女たちは結ばれて幸せになった。理不尽な運命から、救われた。

 輝いていない、わけがない。

 だからユズカは、惹かれたのだろう。


「……みんな、みんなみんな。輝いててね、眩しいって思う。ユキナだって。アタシには遠いよ」


「つまり、あなたは今更そんな幸せな日々を送れない、と?」


「うん。だってほら、アタシは戦わなきゃいけないんだしさ。ユキナのために、誰にも負けないくらい強くならなきゃ」


「戦わなければいいじゃないですか」


「無理だよ。アタシの代わりになれる人なんていないもん」


 この世界は理不尽だな、と葵は常々思ってきたが、特に今、それが強まる。だってそうだ。

 戦いを望まぬユズカに力があるのも、そういう運命的なものが彼女に戦いを強いているから。

 だから葵はすぅっと息を吸って、


「————ボクが、あなたの王を奪います。それなら良いでしょう?」


「奪う……って。みゃおみゃおは」


 弱いじゃん、と。

 そう言うはずだったのだろうが、現実は嘘をつかない。


「あなたを倒したボクが、あなたの倒したい全てを倒します。足りない時は皆さんの力を借りて。だってそもそも、王が他の人の力を借りちゃいけない、なんてルールはないでしょう?」


「でも、それならアタシは、どうしたら」


 長く、ため息を吐く。


 ようやく肩肘の力が抜けたかと思えば、今度は抜け過ぎて面倒なことになっている。

 ——いや。それは違うか。

 それこそ、先ほど葵が言った言葉の通りなのだから。



 ——いつまでもみんな同じのままなんかじゃない。



 即断即決の快活さが目立ったユズカも、いつの間にか戦うだけの自分に対し疑問を持ち、こうしてぶつかるに至った。悩みだっていくらでもある。多分、これからも。

 あの夜だって、兆しはあった。


「——仮に、目の前にリンゴがあるとします」


 だから、ゆっくりとたとえ話をしてみる。

 ユズカは一体何を言っているのだろう、と瞬き。


「戦いに疲れ、お腹が減っていて、今すぐ何かを食べなければ倒れてしまうかもしれない。けれどそのリンゴは毒リンゴ。食べたらすぐに死んでしまうでしょう」


 それはあの祭りの日の、問いかけ。


「そんなリンゴを、あなたは食べますか?」


 沈黙が流れた。

 ほんの数秒か、あるいは十数秒か、数分か。

 いずれにしても、答えを出すまでにはかなり長い時間がかかったのだろうと思う。


 ユズカが、顔を上げる。

 空色の瞳を一度空へ、次いで葵を見つめた。


「アタシは……食べるよ。疲れて、苦しくて、それでも倒れるまで食べる」



 ——絵本の中に、こんな話があった。

 美しさゆえに嫉妬を買われたお姫様。彼女は理不尽に、二度殺された。その度に、生き返った。

 それは彼女のすぐ近くに、助けてくれる者がいたからだ。


 でも。

 どんな物語にも終わりはあるように、彼女の人生に終わりを告げる理不尽もある。


 毒リンゴを食べ、三度目の死に至ったお姫様。

 彼女はもう起き上がらず、生き返らず、どうしようもない状態だった。結局、彼女は二度生き返っても、運命という理不尽に振り回されるだけの人生だった。


 だけれど、しかし。

 あるいは、だからこそ。


 死んだお姫様の前に、王子様が現れた。


「——あなたの『獅子王』は今日、ボクが殺します」


 どちらからともなく、顔が近づけられた。


 吐息が触れる距離。鼻先が当たりかけ、くすぐったさを感じる。

 彼女の瞳が、伏せられて。


「————」


 互いの唇が触れた。

 柔らかな接触、自分以外の温もり。

 時が止まったような気がして、けれど終わりの時はすぐやってくる。


 余韻を残しながら、ゆっくりと離れる。


「……ユズカ。あなたが望むものは、なんですか?」


 問いにくすり、と笑いが漏れた。

 自分ではなく、ユズカから。


「もう分かってるじゃん、みゃおみゃおはさ」


「…………あなたの口から聞きたいんですよ」


 今更になって首より上に熱が上ってくるのを感じ、けれど葵は彼女から視線をそらさない。

 そして彼女も、もう抵抗しなかった。


「アタシね、お姫様になりたいの。戦ってばっかりのアタシだったけど……なれるかな?」


 その言葉に迷いはない。

 恐れも、何も。


 それもそう、なのだろう。

 だって葵は『獅子王』を殺した。

 獣としての彼女はもう、いらないのだ。

 そしてその代わりに、彼女自身が望むのは——。


「————あなたはもう、長い眠りから覚めました。これからは王子様と幸せに暮らす、お姫様として」


 言い、ユズカの体を引き寄せて。

 再び、互いの唇が触れた。



*** *** *** *** *** *** *** *** ***



 天姫宮葵は、あらゆる才能に欠けている。

 勉強も、運動も、武術も。


 どれだけ努力を繰り返しても、壁を乗り越えられず、何者にもなれない。

 どれだけ足掻いたって、自分は自分以外の何者でもないと、知っている。


 だから、膝をつくこともあった。

 届かせたい場所に手が届かなくて、もうどうしたらいいのか分からなくなって。


 それを一人の少年に救われた。

 世界の理不尽に対して今もなお、戦い続けている彼に。


 だから葵は決めた。

 多くのことなんて、望まなくていい。

 たくさんのことを一人で悩まなくてもいい。


 葵の手のひらは小さい。ちっぽけな体だ。

 だから、一人の少女のために葵は生きようと。


 王子様なんて、遠い世界の話だと思っていたけれど、彼女の前だけでは。

 好きな女の子の前では強くありたいと、そう思う。



 だってそれが、




 ————天姫宮葵に出来る、唯一の格好つけ、なのだから。

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