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黒と白の世界と  作者: 夕陽ゆき
第三章 『反転』
128/201

第三章64 『ユキナ』



 穏やかな日常が過ぎていく。


 『おねえちゃん』は相変わらず朝から晩までアザミとどこかへ行っているけれど、その間にユキナは言葉を含めた様々なことを知った。


 なんでも、アザミは『ブリガンテ』という組織を持っているらしい。

 それぞれ交代でやってくる二人のうちの一人、少年いわく。ブリガンテは『セイギのミカタ』であり、『おねえちゃん』はそのために強くなっているのだという。

 だから彼女がいない間を含めて、彼らが交代で『わたし』を守ってくれているのだとか。


 それからもう一人の少女いわく。ブリガンテは『リソウキョウを目指すものたち』なのだという。


 そして最後にもう一つ。

 ブリガンテは『獣人』によって作られた組織。ゆえに自分たちも『獣人』という存在であるらしい。


「……だから『おねえちゃん』、いつも修行してたんだ」


 彼女ほどの力が自分にはないことを知っていた。

 だけど、不思議と驚きもショックもなかった。すんなりと、受け入れていた。


「私は……見てることしか、出来ないから」


 ふと、思い出す。

 アザミに出会った初めのことだ。


 路地裏で一緒になって寝ていた『わたし』たちのところへ彼はやってきた。

 対して、こちらが——『おねえちゃん』が見せた反応はいたって単純。警戒心をあらわにし、しばらく前に父親らしき人物を吹き飛ばした正体不明の力をその身に現出させる。

 けれど、彼はまるで怖がっていないとでも言うかのように、にこにこと笑みを浮かべていた。


「——こないで」


「すまない。君がその力を持っているのなら、俺は引き下がるわけにもいかなくてね。……おっと」


 それが『おねえちゃん』には危険人物だと映ったらしい。寝ぼけ眼の『わたし』を守るために前に出た彼女は、そのままアザミと交戦。

 十数分程の応酬だっただろうか。やがて二人は動きを止め、その頃には現実の認識がはっきりできる程度には、『わたし』も目が覚めていた。


 一つ、補足をしておこう。

 そう頻繁にあることではないが、しばらくの旅の中で、こうしたことが一度もなかったというわけではない。

 相手は大人から子どもまで。どういう目的だったのかは『おねえちゃん』はともかく、『わたし』は知らない。だが、これだけは言えよう。


 ——『おねえちゃん』はどんな相手であれ、一度も負けたことはない。むろん、引き分けに関しても。


「…………『おねえちゃん』」


 だから、唯一の存在だ。

 その日現れた銀髪の少年が、『おねえちゃん』に引き分けた。

 勝敗に、黒でも白でもない色をつけた。


 互いに息こそ上がっていたものの、彼はそのまま『おねえちゃん』を、次いでこちらに視線をやって、


「改めて言おう。俺は君を倒そうとか、君の妹ちゃんをどうこうしようっていうんじゃない。そう、仲良くなりに来たんだ」


 そんなことを言っていたように思う。

 ご飯と住居、生活を保障されて。

 二人の間でどんな言葉が交わされたのか、どういう経緯でアザミに協力するようになったのかは知らないけれど。

 その時の『わたし』は何も知らなくて。色んなことから救われたような、気がしていたのだ。



*** *** *** *** *** *** *** *** ***



 『わたし』にとって『おねえちゃん』は一番だ。

 だから、何においても彼女のためを優先していた。信用するのも、信頼するのも。


 仮に、何かの間違いでアザミか、あるいは彼が連れて来た二人か、いずれかが『おねえちゃん』に意地悪をしたり、馬鹿にする言葉一つでもあれば評価は一瞬で変わっていただろう。


「えっと、私あなたのこと嫌いです」


 といったように。それだけ素直に受け止めるのである。

 話す機会自体が少なかった以前に比べれば、読み書きはともかくある程度の会話は理解できるようになっていたし、なおさらだ。

 だが、それがなかったのはもちろん、彼らが自分の前では『おねえちゃん』を褒めていたか、あるいは関係のない話をしていたからで。


 だからその日までは何事もない幸せな日々で、その日をきっかけに全てが覆ったのだと思う。


「————アザミさん。『クイーン』はどうです?」


 風に流れて聞こえてくる、声。


 どうやら自分は眠っていたようだ。うっすらと、瞼を開ける。

 起き上がるにはまだ眠気が残っていて、いつから眠っていたのかは分からないが、既に外は真っ暗だ。

 だからそのまま、ぼんやりと耳を傾ける。


「まァ、元が元だからな。今の状態でも相当役立つはずだ」


「なるほど」


 どちらも聞き覚えのある声だ。

 あるはずなのだが、違和感。


 工場外で、アザミと例の片割れの少年が話しているらしいのは確かなのだが。


「ご飯をあげるだけでいいなんて、まさしく掘り出し物ですね。アザミさんの家柄なら困らないでしょう」


「確かにそォだが、あの嬢ちゃんは食いもんだけで釣れたわけじゃァねえよ」


 なるほど、どうやら自分たちと同じように、彼に助けてもらった子がいるらしい。ブリガンテは『セイギのミカタ』だというのだから、それも当然かもしれないが。


 さらに耳を澄ませる。


「あの妹が関係してる、とかですか?」


「声がでけェってェの。起きたら面倒なことになるだろォが」


 『クイーン』には妹もいるらしい。起きたら面倒なことがあるらしい。


 ……今話しているのはアザミで間違いない、はずだ。

 普段と口調が違うが、彼で間違いないはずなのだ。

 最初はぼんやりと聞いていたはずの声に、疑問が生じる。内容におかしな点があることに気がつく。


 どこまでも素直に、不信感が高まっていく。


 だってそれもそうだ。

 既にこの廃工場を『わたし』は飽きるほど回っている。

 それだけの日数『おねえちゃん』は『わたし』の側を離れていたのだし、どれだけの狭さで、他に誰かいないのかなんて体が覚えていると言ってもいい。

 ましてや、誰かが寝泊まりしているのなら『おねえちゃん』が気がつかないはずがないのだから。


 そして、そこまで材料が揃えば幼い『わたし』でも理解する。


「——あァの『おねえちゃん』は、妹のためなら何だってする。これから先、誰かを殺すことだってな」


 このままここにいてはいけない。

 体に刻まれた痛みの記憶が、そう訴えかけていた。



*** *** *** *** *** *** *** *** ***



 結論から言おう。

 『わたし』には何も出来なかった。


 その日は珍しく帰って来ず、朝になってようやく帰って来た『おねえちゃん』。

 彼女に全てを尋ねようとしたところ、先読みでもしていたかのようにアザミは『わたし』だけを呼び出し、いくつかの質問をした。


 やや遠回しなものもあったが、目的だけを摘み取るとこうだ。


「——昨日の会話は聞いていたな?」


 それに警戒こそすれ、疑いもせず『わたし』は素直に答えて——問題を問題だと認識するより先に、あっさりと。昨日、聞き耳を立ててていたことがバレた。

 元々アザミがそうするつもりだったのかは分からない。しかしそれでも、一つだけ。


「俺たちはいつでもテメェを殺せる。だァから、『おねえちゃん』はそれに従ってんだよ」


 出会ってから既に数ヶ月が経過していたが、面と向かって彼本来の言葉を聞くのはそれが初めてだったはずだ。


 彼の指す言葉の意味に関してはすぐには分からなかったが——数日も経てば、アザミが送り込んだ見張りがどういう存在か、ということにも気がつく。

 普段『わたし』と話していた二人の少年少女だ。彼らは交代で自分たちを守っていたのではない。見張っていたのだ。

 そもそも廃工場はアザミの家の敷地内であるというし、そんな警備があれば逃げられるはずもない。


 そして、だからこそ気がつく。『わたし』には何も出来ず、『おねえちゃん』が抜ける事も出来ないと。


 『わたし』が非力だから、守られて生きることしかできないのだと。



*** *** *** *** *** *** *** *** ***



 『おねえちゃん』が『わたし』を連れ出して逃げようとすれば、アザミを含むブリガンテが牙をむいて止めに来る。

 『わたし』が『おねえちゃん』に相談して逃げようとしても、同じくブリガンテが敵に回る。


 このやり方は、いくら『おねえちゃん』が強い存在であろうとも、『何の能力もない『わたし』がどうしても足を引っ張ってしまう以上、まず確実に突破できない。

 分かっていても、『わたし』は姉のような力を発揮できないし、監視されている中だ。対策など取れず、日に日にやつれていく彼女に精一杯面白い話をすることくらいしか、出来なかった。


 ——アザミにとって予想外だったのは、その箱庭に外側から侵入者があったことだろう。


「ちょっと梨佳、ここって人の家の敷地内じゃ……」


「や、フェルが言ってたんだって。この辺に軟禁されてるっぽいやつがいるって。……ま、不法侵入なのはあーしも認めっけど」


 遠くから、小さな悲鳴。聞いたことのある少年の声だ。

 それから、一枚の壁を通して聞こえてくる見知らぬ二つの声とそれらが歩く音。


 廃工場の外で何かが起きていた。

 今までにないくらい騒がしく、一体何事かと『わたし』は立ち上がる。

 よくは分からないが、何かが変わろうとしている気がして。


「…………ぁ」


 けれど、そこまで。

 起きた変化に対し、体はもう歩くための力を失っていた。


 運動不足なんて、そんな理由じゃない。自分が望んだから『おねえちゃん』が苦しむ羽目になったのだ。ここで動けば、また誰かが犠牲になってしまうのではないか。また姉に迷惑をかけてしまうのではないか。


 体が、震えていた。


「ブリガンテ、っつったか。場合によっちゃぶつかるかもなー」


「いや、そんな呑気なこと言ってる場合じゃないから。……でももしそうなったら」


「戦うしかねーよ。お前が守りたいってならな」


 彼女たちに助けを求めたら、どうなるのだろうか。

 助けて、くれるのだろうか?

 たかだか一人の少女のために?


「……無理だよ」


 口の中で、小さく呟く。

 見ず知らずの少女で、助ければ一つの組織が敵に回る。

 アザミたちの言葉が確かなら、ブリガンテには相当な人数がいる。比較対象なんてないけれど、明らかに面倒ごとで、厄介ごと。関わらない方がずっと良い。


「……ねえ、梨佳?」


「あん?」


「もしね。もし、どこかに助けて欲しいって子がいて、私がたまたまそれを聞いたら、私は助けに行くと思う」


 息を止めた。

 まさか聞こえていたのだろうか、と思う。


 でも、少女たちは歩みを止めない。足音がそのまま狭い工場の角を曲がる。

 たまらず、地面についたままの腕が伸び、足が進む。理由は一つ。彼女の言葉の先に縋りたいからだ。

 あまりにちっぽけで、弱々しい自分の強い欲求。


「どうして?」


 片割れの少女の問いは、『わたし』の心と一致する。

 多分、分かっているからなのだと思う。


「だって私は許せないもん。理不尽に人を傷つけて、騙す人たちを。そのためだったら私は戦うよ、梨佳。ブリガンテとだって」


「そっか。……ならあーしも付き合うぜ? な、『青薔薇の姫』?」


 泣きたくなるような優しい声と、冗談交じりの信頼の声。


 彼女たちのことは知らない。どこの誰とも知らないし、言葉が真実とは限らない。

 でも、もし真実だとするのなら。

 瞳から溢れている感情に嘘はつけない。どこまでも素直に、心と体が動いていく。


 遠ざかっていきそうな声に、走っていく。


「……あ、あの!」


 だから、多分。


 守られることはやっぱり変わらなかったけれど。

 その時から自分は、彼女に憧れていたのだと思う。


「私のお姉ちゃんを、助けてください——!」


 薄青と紺色の少女たち。

 あとから聞いた話によると、彼女らは『セイギのミカタ』をやっていたのだという。


「————うん、分かった」


 彼女のように、なりたかった。



*** *** *** *** *** *** *** *** ***



 暗い、光一つない水底で、二人の声を聞いた。

 あの日とはまた違う、別の声。

 そのうち片方はここ数日何度か耳にしていて、もう片方は、知らない人だ。


「——誰かのそばに行きたいのなら、自分の力で掴み取りなさい! 弱さも涙も堪えて、強くならなきゃダメでしょうが!」


 知らないはずなのに、知っている。

 どうしてなのかは分からない。

 言葉一つをとっても怒りばかりが込められていて、気遣いなどなく、冷たい。……それなのに、温かい。

 蓮や奏太に対して抱いていた感情とは、違うけれど。


「自分のなりたいものが分からないのなら、見つめなさい。隣にいたい人が誰なのか。胸を締め付ける痛みに抗って、逃げることをやめて、向き合いなさい」


 ……なりたいもの。


 それはユキナにとって、美水蓮で間違いなかったはずだ。彼女は誰かを守れるくらい強くて、かっこよくて、料理も上手で、好き合っている少年もいる。いずれは追いつきたいと思っていた。

 だから、自分が理由で彼女が失われたことが、たまらなく悔しくて、悲しくて、耐え切れなかった。

 あの日助けて欲しいと縋ったせいだ。あの日、ユキナが一人で抱え込むか、あるいは死ぬという選択肢を選んでいたのなら、今頃は誰も彼もが幸せになっていたはずなのだ。

 

 ——けれど、もし。


 その憧れの蓮が、何か望んでいたことがあったのならば。

 もし、自分に何かあるのならば。

 出来るのは、耳を塞いで、逃げてしまうことだけなのだろうか。


 そうだ。

 ユキナはまだ、知らない。

 重く苦しい感情で目元が滲んで、何も見えていなかった。

 そして、同じように蓮の死に悲しみの感情を得たものたちに守られ続け、何も聞けなかった。


 彼女が守ってくれた意味を。

 ユキナは知らなければいけない。


「————あんたはそこで、何をやっているのかしら?」


 時計の針が、かちと音を立てて進み始めた。



*** *** *** *** *** *** *** *** ***



 視界の前方には、見慣れない仮想の空間が広がっていた。

 右上には時刻、そこから左にずれていくにつれ、天気や気温、体調その他諸々、デバイス使用者本人に役立つ情報を教えてくれる。

 使い慣れていないからこそ、ほとんど初期状態のアプリケーションと、それぞれの配置。


 そして、それらを覆い隠すように、視界の中心部には四角く切り取った黒色の画面が表示されている。

 書かれた文字は——「通話中」。


『————』


 体は地に伏したまま、右耳にはめたイヤホン。そこから聞こえてくるのは、かの少年の声だ。

 シャルロッテの声を聞いて、少年からの通話に応答して。今まで隠されていた全てを問い、美水蓮という少女の全てを聞いた上で、ユキナは小さく返事をした。


「……ごめんなさい、ソウタお兄さん。それから——ありがとうございます」


 返事はなかった。

 けれど、それで良いとユキナは思う。


 彼は今、戦ってくれている。

 きっかけは自分で、今はみんなと彼女のために。

 全ては終わった後だ。彼には彼のやることがあって、だからこそこれ以上の言葉はきっと、彼の邪魔になってしまうはずだと思い、通話を切る。


 そして、引っ掻き傷に痛む身体に鞭を打ち、立ち上がった。


「——!」


 前方から驚きの声が上がる。


 ——いや、正しくは二人のうち一人だけだ。

 どちらも金髪の女性ではあるけれど、呆然としているのは何度か顔を合わせていた片方だけ。

 自分に呼びかけてくれていた白金髪の少女は、どうやら驚いていないようだった。


 いや、むしろ。

 彼女の表情がユキナの記憶の中にはある。特にここ数ヶ月の間。

 そうだ。つまり、彼女は、


「——シャルロッテお姉さん!」


「受け取りなさい、ユキナ!」


 ユキナが気が付き、叫んだのとシャルロッテがポーチから何かを取り出したのは同時。そのまま彼女の手から地面を滑らすように射出される。


 二人の間を遮るように立っていた金髪の少女ジャック。その股下を進むの、何やら黒いものだ。後ろに逸らさないよう、地面に膝をつく形でそれを受け取ろうとして——、


「渡さない」


 が、反応に遅れたジャックが到達するよりも前に振り返り、金鱗の左手でそれを掴む。

 ユキナが制止の声を上げるよりも先、軽快な破砕音と共に黒の物体がバラバラになって地に落ちた。


「……え」


 ほんの一瞬の出来事にユキナは目を見開く。

 日々ユズカや奏太を見ていたとはいえ、これだけ至近距離で見ることはまずほとんどない。

 もしこれが、最初から壊された黒の物体ではなく、自分たちに向けられていたらと思うと、ぞっとする。


 だが、それ以上に。


「…………今のは」


 ジャックの瞳にいくつかの感情が立て続けに灯った。

 安堵、疑問、思考。それから動揺、理解、危機感。


 一体何がシャルロッテの手から射出されたのか、理解したらしい。慌てて踵を返そうとするが、彼女の体はさらに動揺と困惑を得る。


 その理由は至ってシンプルだ。


「お願いします、シャルロッテお姉さん!」


「なっ」


 振り返ろうとしたジャックの細い体を、ユキナが腕を回して抱きつく形で動きを止める。

 先ほどのジャックの思考と、ユキナのこの行動。合わせて数秒ばかりだが、それだけの時間があれば人間のシャルロッテでも十分だ。


「——素直で助かったわ。あんたも、ユキナもね」


 シャルロッテは数メートルの距離を駆け、先ほどのフェイクではない大本命——青い光を走らせるスタンガンを『トランスキャンセラー』へ放った。


 ちり、と音がしたかと思えば。


 それはコードを巻き込み、放送機材と共に内部で爆発を起こし、鈍い音を立ててその機能を完全に失った。



 *** *** *** *** *** *** *** *** ***



 ユキナはこれまでずっと守られてきた。

 ユズカにも、蓮にも、奏太にも。

 憧れて、色んな姿を目で追ってきた。


 だから、知っていた。

 ユキナが立ち上がってすぐ、シャルロッテが見せた表情。

 状況的には切羽詰まっているはずなのに、重大な賭けに出ようとする挑戦的な笑み。

 それは、奏太がユズカと稽古をする際、時折見せる何かを企んだような表情だ。


 他にも色々あるだろうに、妙にそれが印象に残っていたのは、何故だろうか。


「——ソウタお兄さん」


 いや、多分きっと。

 何かに臨もうとする彼の姿に、近づきたいと思ったのだ。


 蓮の見せた、底なしの安堵が得られるような笑みではないけれど。

 彼女に託されたものを叶えるためには、必要なのだ。


「私が、やりたいこと……」


 蓮の死に対する罪悪感は、今も尽きない。色んな人を傷つけ、気を遣わせ、また守られていた。

 けれどそこで足を止めてしまったら、泣きそうになってしまうから。弱くて、何もないままの自分で終わってしまいそうだから。


 だから、


「今はまだまだですけど。それでも頑張って、追いついて。私は幸せになります。私のやりたいことと、レンお姉さんの願いはきっと。きっと……重なっていますから」


 知らないものを知って、傷つくこともあるけれど。

 守られてばかりで、まだまだ何もない『わたし』だけれど。


 あの日、救ってもらった意味を。

 『わたし』が胸を張って証明できるように。


「…………そうですよね、レンお姉さん」




 雪のように冷たくなってしまった心が、色んな人に助けられて、明かりを灯した。熱をもらった。


 だから。


 ずっと止まっていた時間が。

 一筋の雫が頬を伝うとともに、始まりを告げた。

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