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黒と白の世界と  作者: 夕陽ゆき
第三章 『反転』
126/201

第三章62 『始まりの音』



 シャルロッテは人間だ。


 これについては一切疑いの余地がないし、『トランスキャンセラー』が発動した際、肉体に現れるという底なしの脱力感は彼女の前に変化として現れていない。

 かつて受けた『検査』がどれだけ精密で、どれだけ信用できるものか。その疑問を抜きにしても問題ない程度には、極めて純粋で特殊な力を持たない人間だ。


 だからこそ、疑わなければならない。慎重でなければいけない。

 自分が非力だからといって嘆くのは既に後ろ、遠い過去。『獣人』と比べても意味はないし、無い物ねだりで文句とわがままを言っても無駄だ。結局人はあるものしかないし、ないものを得ようとするのは雲をつかむような話。


 だからシャルロッテは、ずっと疑問を抱いていた。

 確かに芽空に執着していたのは事実だ。否定はしないし、それだけのことが自分と、彼女との間にはあった。


 でも、それが事件中ずっと思考を独占していたわけではない。


 芽空たち『獣人』が誰を倒すだの倒さないだの、そんな物騒な話をしている中、ひたすらにシャルロッテは一連の情報を洗っていた。

 高低差はあれ比較的立場の近いはずの芽空や、妙に考え事をしていることの多いポニーテールの少女。彼女らが気づかないこと、ひいてはシャルロッテにしか立てられない疑問と違和感について。


「……七年前?」


 ジャックは向けられた銃口、次いでシャルロッテを見つめて、疑問を口にした。

 脅す側がどちらであるか、それが入れ替わったとしても彼女の中の優先順位は変わらない。そう言うかのように。


「覚えていないかしら。ワタクシはあんたに会っている」


「……覚えてない」


「そうでしょうね。見ただけでもしかして、と思ったワタクシに比べて、あんたは——」


「ううん。そうじゃない。覚えてないのは、五年前までの記憶」


 なるほど、そういうことか。

 決めつけるのは良くないが、彼女が嘘をついている様子はない。むしろ、こちらに興味さえ示してきている。無表情などとっくに役割を失っており、瞳に熱を灯して。


 ならばシャルロッテも相応の対処に臨むとしよう。


「あんたの『それ』は、他に誰がいるのかしら?」


「ん。ワタシとアザミと、それから……三日月奏太」


「……あの下民が?」


 意外なところで意外な名前が出た。

 ある程度の人数が出ることまでは覚悟していたが、まさか彼までもがそこに入っているとは。


「きみは、知ってるの?」


 喪失のことだろう。

 そしてそれも、恐らくは彼女が知らない何かを求める質問だ。


 どうして、よりも先にそれを問うということは、それだけ彼女にとって喪失は重厚感のある塊として心に居座り続けているということなのだろう。

 先ほど油断を見せたことも含めて、彼女の慌てようがそれを示している。


 ならばこそ。


「知っているわ。————けれど、話すには条件がある」


 左手で構え、右手を添える形で構えた黒の拳銃。

 それをなおも向けたまま、シャルロッテは視線を一つ、二つ、動かして、


「ユキナを渡し、この音を止めなさい。その後ならいくらでも話に応じるわ」


 声を低くし、要求した。


 ——ぴくりと、声を聞いた少女が小さな手をそっと、動かした。



*** *** *** *** *** *** *** *** ***



 シャルロッテは人間だ。


 七年前、HMAで受けた『検査』の全容についてさほど知っているわけではない。

 『獣人』だと判断された者にはシャルロッテが体験した——少量の血液を抜き取ったりだとか、粘膜、DNAのあれこれ、通常のものに加え体内のデバイスを通した内外の身体検査等々以外のことを知らない。

 具体的に言えば、『獣人』にはさらに専用の処置、追加の対応があったのではないかという疑問に、明確な答えを出せてはいないのだ。


 当時芽空が『獣人』だと知らなかった『検査』の後は、彼女とも特に積もる話はなく、「退屈だった」だけで感想が終わっていたが……その本来の目的を考えればあり得る話だ。


 そして五年前、軋轢の始まりがあってからというもの、一層自己の研鑽に力を入れていたシャルロッテはその疑問にたどり着くことになる。

 研鑽の中には、ピアノやある程度の運動能力、礼儀作法に帝王学、商学、生物学、天文学、様々な学が続いて、社交の場に慣れるというものもあったからだ。


 偶然、たまたまかもしれない。

 父の知人であるという、初老の男性。彼から直接聞いたやや引っかかりを覚える情報を、この頭は覚えていた。

 『獣人』との関連性など疑うはずがなかったけれど、時間が経てば選択肢の一つとして浮かび上がってくる。


 ——『二人』揃って記憶喪失など、おかしな話ではないか、と。


 とはいえ、そのことについて進展があったのはつい最近で、理解と新たな疑問、それからさっきジャックから知っている名前を聞いたことで、さらに疑問が増えた。あとで彼には問いたださなければいけないだろう。


「きみの要求は呑めない」


「……何ですって?」


 それまで無事でいられたら、の話だが。


「ここを守るのが、ワタシの役目。きみの知ってることは聞きたい。でも、ダメ」


 ある程度落ち着きが戻ってきたのだろう、入った時に見た無表情が淡々とシャルロッテの言葉を突っぱねる。

 敵意がある、ようには見えない。だが、安心は出来ない。


「命の危険が回避でき、疑問を解決できるかもしれない。その取引に魅力がないと?」


「魅力は、ある。疑問は解決したい」


 冷や汗が頰を伝うのを感じながら、問う。


「…………命の危険は?」


「きみが撃つ前に動く」


 その言葉は真実だった。


 言葉の最後に体を刺すような何か——そう、敵意だ。それが含まれており、シャルロッテは反射的に拳銃を再度構え直す。引き金にかけた人差し指に少し力を入れる。


 と、そこまでは普通の対応だ。

 相手が武術の達人であるとか、相当な手練れでない限りはこちらの対応の方が早い。撃つ覚悟があるかどうかはともかく、シャルロッテが引き金を引いて動きを止める方が早い。……はずだ。


 改めて、その異常さを確認した。


 選択肢を選ぶ前にそもそも選択肢が消えるなど、訳が分からない。常軌を逸している。

 多分きっと、並みの『獣人』や人間相手ならば通じた、シャルロッテの常識と唯一の戦闘手段。

 それは文字通り一瞬で消えた。


「……な」


 目で追えたのは、ジャックが身を捻ったところまで。

 工程の理解よりも先に、結果が現実を示した。


 持っていた拳銃を弾き落とされた。

 その余波を受けてか、体が膝から崩れ落ちた。

 喉元に金色の巨大な槍のようなものが突き立てられ、完全に立場が逆転した。


「……きみが何もしないのなら、ワタシも何もしない」


 先の繰り返しの言葉。

 それはジャックが武力による制裁を望んでいないということであり、同時に抵抗しても無駄だということ。


「きみが話さないのなら、ワタシも別に無理には聞かない」


 それは嘘偽りの類ではないのだろう。

 彼女は金色の槍を——金鱗の尻尾の先をこちらに突き立て、見た目では脅すようにしているが、それ以上の行動は見せない。

 いや、見せていないだけか。恐らくもう一度シャルロッテが動こうものなら、彼女は躊躇なく首をはねるはずだ。それだけの敵意が、先ほどの彼女にはあった。


 押し寄せる感情に呑まれそうになりながら、シャルロッテは声を絞り出す。


「……それじゃあ、何。あんたはワタクシに何を求めるわけ?」


「何も。全部終わるまで動かないでいてくれたら、それで良い」


「話すのは構わないってことかしら?」


「ん。それくらいしか出来ないと思うから」


 事実だ。

 個人的な感情はともかくとして、シャルロッテには何も出来ない。顔を上げ、状況を確認していけばすぐに分かることだ。


 竜……とでも呼ぶべきだろうか。

 ジャックは肌の隠れた服装をしているがゆえに、判断材料となる部分がかなり少ないが、硬質化した肌とその体表に現れた金鱗、腰下から伸びた尻尾。両の手、爪。牙、左右二本ずつの角。

 どこを取っても覇者と呼ぶにふさわしい見た目。なるほどこれならジャックという位置に彼女が座しているのも納得だ。

 言動、思想はともかく、恐らくは奏太と同質の『トランス』。実力は優るか劣るか分からずとも、シャルロッテが小細工をしたところで到底かなわないだろう。


 それから、彼女が薙いで飛ばした拳銃。これは既に部屋の端へ飛ばされており、手を伸ばしたところで届くものでもない。

 どころか、ジャックがこちらに迫ってきたということもあって、シャルロッテは微塵も目的のものたちに近づけていない。ユキナにしても、『トランスキャンセラー』にしても。

 たかだか数メートルが果てしなく遠く、目の前の障害はあまりにも高く、強く、険しい。


 喉元に突き立てられた凶器に、圧力に。一分一秒、過ぎる時間に対する焦りに。選択肢と呼べる選択肢が徐々に狭められていく。

 それでも何かないか、思考を巡らせて、


「あんたに————」


 けれど言葉は続かない。

 自分が何を言おうとしたのかすら、分からない。ジャックを油断させるため? それとも彼女が知りたがっている情報を?


 ……それを口にして何になる。

 揺さぶりをかけたところで、先と結果は変わらない。圧倒的な実力を前にして、どう覆せというのか。

 分からなくて、口をつぐむ。


「きみに聞きたいことがある」


 唇を噛む。

 加減を忘れた歯が柔らかな肉を裂いて、血が溢れ出す。

 無力感にどうしようもなく、震える。


「——きみはどうして、ここにいるの?」


 息を、止めた。



*** *** *** *** *** *** *** *** ***



 ここにいる理由。

 そんなもの、シャルロッテが聞きたいくらいだ。

 狙われたことはあったにしても、元々『獣人』を止めるための戦いだ。人間の自分が関わっていること自体、おかしな話なのだ。


 やれることはやった。

 それでも届かなかったのだから、仕方のないこと。ああそうだ。自分は命の危険も顧みず、こうして一人で乗り込んで来て、手を打とうとして、相手がそれを上回る存在だった。

 もう素直に降伏宣言して、しばらくじっとしていればいい。そうすれば全部終わって——、


「……なんて、諦められる話じゃないわね」


 弱気になる心を、胸中で呟くだけに留めて、改めてシャルロッテは問う。


 自分はどうしてここにいるのか。


 それは他でもない古里芽空の願いであり、彼女の存在証明をするためだ。約束を果たさなければ、まだ彼女との過去に決着はつかない。

 だからこそ、考える。

 残ったものは何か。出来ることはないか。自分は何だ。どうしてここにいる。シャルロッテ・フォン・フロイセンは何を知っている。


 感情も記憶も過去も現在も、全てをごっちゃ煮にして。そうしてたどり着くのは一つの答え。


「——そこで寝そべってるあんた」


 指の先が震えているのが分かる。

 だが、構わない。やることはもう、分かった。


「そう、あんたよあんた。痛いでしょうけど、起きて話を聞きなさい」


 言葉を向けるのは目の前の金ではない。その後ろだ。

 両手を錠で縛られた、ある意味この戦いのきっかけとも言える少女、ユキナ。


 蜜柑色の短髪と白のワンピースを土埃で汚し、乱し、己の体を抱くようにして倒れていた少女だ。

 身体中の至る所にガーゼや絆創膏といった傷の跡があり、こちらの声に向けられた空色の瞳は既にその光を宿していない。


 ちら、と横に視線をずらす。

 無表情のまま何も言わないジャックは、どうやら自分がユキナに話しかけることを許しているらしい。

 金色の尻尾も拘束を強くする気配がない。


 それならば。


「ワタクシはシャルロッテ。ルメリー……ああ、古里芽空の知り合いよ。あんたにとっちゃ他人で、ワタクシにとってもあんたは他人よ」


「————」


 呆然としていた彼女に、僅かに変化があった。

 この人は何を言っているのだろう、他人ならば何をしに来たのだろう。正確なところは分からないが、おおよそそんな疑問だろう。


「あんたの話は聞いてるわ。双子の姉妹の片割れで、ユキナ。『獣人』だけど能力は発動できず、人間に近い」


「————」


「まあ、当たり前のことね。姉妹だろうと、同じ環境で育とうと、最初から何も持たない者もいる。育たない者もいる。才能なんてなくて、ちっぽけで、空っぽ。どうしようもなく小さい存在で、誰かに守られ、手を引かれることでしか生きていけない」


 自覚しているのだろう、その表情が歪む。

 声にならない呻きが小さな口から漏れ、その度に錠の鎖が揺れてがしゃんがしゃんと音が鳴る。


 あまりに痛々しく、見ていられない光景だ。

 歳はそう変わらないと言っても、相手は中学生にも満たない幼い少女。ましてや、周りからは愛されて育っているのだろう可愛らしい容姿と、それを感じさせないほど表面に現れた壊れかけの感情。

 これ以上何かをすれば後戻りができず、本当に壊れてしまう。何もかも失って、砕けてなくなる。


 そんな気分にさえさせられる。

 だから、


「——あんたはそこで、何をやっているわけ?」


 シャルロッテはふつふつと沸き起こる感情を抑えないで、問いかける。


「そうやって傷ついて、弱って。自分には力がない。何も出来ない。みんなと違って一人で立てないの。早く助けに来て。私はここにいる。だから! ……って、バカじゃないの?」


「ぇ、あ」


 感情の決壊。

 ギリギリのところで止まっていたのだろう、ユキナの口から、瞳から、熱情がとめどなく溢れていく。


「悲劇のヒロイン気取ってんじゃないわよ。誰だってあんた一人に構ってられるほど暇じゃないし、仮に足を止めてくれるやつがいるのならそいつはただ甘いだけ。弱くて脆いあんたに同情して助けてあげてるだけ。はっきり言って迷惑なのよ、そういうの」


 泣き声が大きくなる。

 嗚咽が混じり、涙が溢れ、それに呼応してシャルロッテの怒りは増していく。


「助けられることに甘えて、手を引っ張られることに安堵して。ずっとそれが続くと思ってるの? 続かないわよ。いつかは皆が皆離れていくし、永遠なんて存在しない。当たり前に慣れて、認めて、受け入れて——悔しいとは思わないの!?」


「————」


「背中を見つめるだけなんて嫌だ。置いていかれたくなんてない。隣にいたい、同じ道を行きたい。自分も何かしてあげたい。そう思って、手を伸ばすもんでしょうが!」


 頭の中がひどくざわついて、感情を抑えられない。

 ユキナにその瞬間が訪れたように、シャルロッテにもまた決壊はあった。


 縛られた鎖に抗おうともせず、泣くだけ泣いて何もしようとしない。その様子が心を落ち着かせてはくれないのだ。


「ワタクシはあんたのことなんて知らない。下民たちがあんたを守りたい、助けたいだなんて思ってる理由なんて知ったこっちゃない。はっきり言ってそんなのどうでもいいし、興味もないわ。でも、あんただけは見逃せない」


「う、ああ」


 今にして、思う。


 どうしてシャルロッテはあれだけ芽空に苛ついていたのだろう。

 あの日、自分との決着から逃げた芽空に対し、どうして。


 兄の陰に隠れ、家を離れ、ようやく見つけたと思ったら新しい男を盾にして、また隠れる。

 その頼りなく、弱々しい彼女の姿に自分は何を思っていたのだろう、と。


「あんたは————!」


 ようやくその疑問に答えが出た。

 過去から抱えたままの疑問はまだまだあるけれど、今の自分が一番に出したかった答え。

 それはきっと、


「誰かのそばに行きたいのなら、自分の力で掴み取りなさい! 弱さも涙も堪えて、強くならなきゃダメでしょうが!」


 人見知りで、他人と接することが苦手だったあの頃と。

 芽空に手を引かれていたあの頃の自分と、同じだったから。


 ——そして今、対面しているのも。



*** *** *** *** *** *** *** *** ***



 シャルロッテは知っている。

 だから伝えなければいけないのだと、強く訴えている自分がいる。


 だからそれに頷き、口にする。


「世界は理不尽よ。生まれつき才能が決まっていて、なるべくしてなった天才なんてのはどこにだっている。自分と同い年なのに大人たちと同じ世界に足を踏み入れて、そのことに疑問を持たない。凡人が何年もかけてようやく追いつける位置に、いとも容易くたどり着いてみせる。……憧れるわよ。どうしても届かないんじゃないかって思うわよ」


 シャルロッテはユキナのことをさほど知らない。

 せいぜい聞いたのは、先ほど口にしたおおよそのプロフィールのみだ。過去に何があったとか、どんな性格をしているのかとか。全然知らないけれど、分かる。

 だって彼女の表情を、自分は知っているのだから。


「憧れっていうのは無意識のうちにたどり着けないと錯覚してるものなのよ。ここまでは出来た、でもあの子ならもっと上手くやれるってね。たくさんの時間をかけて、多くの経験を積んで、それでも背中が果てしなく遠い。一生かけても追いつけないんじゃないか、いつかは愛想を尽かされるんじゃないかって不安でいっぱいで——」


 今となってはちっぽけな悩みだったと思う。

 考えてみれば、その程度のことで離れるような少女ではなかった。


「でもね。隣にいたいのなら、それじゃダメなのよ」


 道は別に、一つではなかった。


「いずれ追いつけるとしても、同じことをやってるんじゃ意味がない。真似をしたってその人になれるわけじゃない。手を伸ばしてくれたその人は、そんなことのためにあんたを助けてくれたわけじゃない」


「じゃ、あ」


「じゃあどうしてかって? そんなものワタクシは知らないわ」


 涙交じりの声をシャルロッテはばっさりと否定。

 困惑するユキナに続けて言う。


「本人に聞かないとそんなもん分かるわけないわよ。仲良くなりたいからかもしれないし、放っておけなかったとかかもしれない。聞けないのなら、一番その人のそばにいた人に聞くのも一つの手ね。きっとあいつは——って、語ってくれるでしょう」


 少女の肩が大きく揺れるのが分かった。

 細かい内容と考えまでは推し量れないにしても、つまりはそういうことなのだろう。


 ならば、なおのこと言わなければならない。


「どんな理由か知って、あんたがどう思うかなんてそれこそ知ったこっちゃないわ。でも、あんたがそれを聞いても隣に行きたい、手を伸ばしたいって思うのなら——ユキナ。あんたは他の誰でもないユキナになりなさい」


「————」


「憧れだって永遠のものじゃない。どこかで迷って、くじけて、落ち込んで。見る影もないくらい弱いものになり果てることだってあるの」


 瞳を伏せ、思い浮かべる。

 かつて憧れた少女は、そこからどうしたのか。

 かつて自分は何を求め、『ワタクシ』へと至ったのか。


「自分のなりたいものが分からないのなら、見つめなさい。隣にいたい人が誰なのか。胸を締め付ける痛みに抗って、逃げることをやめて、向き合いなさい」


 自分らしく生きて、誇って、隣にいたい誰かの間違いを、真っ向から否定できる対等な存在に。

 一つの道で追いつけなくてもいい。いくらだって方法はある。シャルロッテにも、芽空にも。


「だから、もう一度だけ聞くわ」


 ユキナにも平等にその道は開かれる。

 そして、最初の一歩を踏み出すのは他の誰でもない自分自身。それを彼女が踏み出せるのなら、


「————あんたはそこで、何をやっているのかしら?」


 しばらくの沈黙を挟んで、変化があった。

 小さな、とても小さな変化だ。


 迷いと恐れと、色んな感情をごちゃ混ぜにして。

 少女の右手が何かを得ようとして————。



*** *** *** *** *** *** *** *** ***



 体が重い。


「く、そ……っ!」


 目の前を尻尾の薙ぎ払いが通り抜け、強風が奏太を襲う。

 腰を落とし、必死に踏ん張って、何とか飛ばされぬよう抗うもそれが限界だ。

 攻撃も回避もするべきことは山ほどあるのに、圧倒的な力を前にして生身の体は動かない。人間としての限界が、そこにある。


「なァ、そろそろ終わりにしねぇか?」


 地を這う低い声が耳に届いたかと思えば、直後。体が沈み、背中がコンクリートの床に勢いよく当たって強烈な痛みが走る。

 が、悶え、もがくことは許されない。


「『獣人』は『トランス』の力がなきゃ動けねぇ。奪われたら全部、そォこで終わりだ。感情一つでどうにかなるもんじゃァねぇ」


「——っ」


 体を巨大な右手で押さえつける『銀狼』。その力に対し、奏太は抗う術を持たない。

 力の奔流は『トランスキャンセラー』によって妨げられ、人間と同等の身体能力でしかない今の奏太には、獣の極地に対してただただ無力なのだから。


「……まだ、終わらせない」


「ハッ、無駄なあがきにしかならねぇよ」


 だが、それでも。

 奏太は無駄だと分かっていても歯を食いしばり、『銀狼』の右手を必死でどけようとする。


「が、ごふっ」


 『トランスキャンセラー』が発動して既に数分。

 身体中の骨と肉がどうしようもないほどの痛みで満たされており、締め付けられる一瞬が、右手をどけようと力を入れる両腕が、自身の体をさらに砕いていく。

 たまらず咳き込み、血を吐き出してもなお。


「どォして抗う?」


「……そうしないと、救えない子がいる」


「この期に及んでまァだそんなこと言ってやがるのかよ。理不尽に抗うには力が必要だ。だァが、今のテメェにはそれがねぇ。だから救えねぇ」


 アザミの言葉には一理ある。

 『ユニコーン』は届かせたいものへ届かせてくれる力。理不尽を乗り越えるため、不可能を可能にするための力だ。

 『獣人』だからこそ成せることで、『獣人』でなければ届かない。


 つまり今の奏太には、届かない。

 ——だが。


「何度言えば分かる? テメェにはもう力が」


「力なら、ある」


「……なに?」


 遮り、放った一言。

 それを警戒するように、奏太を抑える力が強くなる。

 骨が臓器に刺さっているのか、視界が真っ赤に染まるほどの激痛が走って意識が飛び駆けるが、それでも堪え、大きく息を吸って、言う。


「——『獣人』でも、人間でも! 叶えたいものがあるなら!」


「————」



「力が足りなくてもいい、それで、死ぬかもしれなくても! 好きだって言える子がいるなら、ぁ!」


 あの日の誓いは今でも覚えている。

 彼女がたとえ『獣人』で、その敵があまりにも強大な相手であろうとも。

 奏太は彼女が好きだ。好きだったから、駆けた。


 だから言わなければならない。

 伝えなければいけない。

 奏太が見ていた、彼女の姿を。


「あの子は、お前を守るために戦った! 何かに怯えなくても良いように、笑って過ごせる未来のためにっ!」


「何を……」


「好きな子がいる、守りたいやつがいる、約束がある! そのためなら強くなれる! 俺も、お前も、誰だって!!」


 骨が砕け、血を吐き出しても、奏太は叫ぶ。


「そうだろ————ユキナ!!」


『————』



 無機質な機械音と、鎖の音。

 救いたいと思うたった一人の少女に向けて放った言葉は、腕時計を通して、響いた。

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