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黒と白の世界と  作者: 夕陽ゆき
第三章 『反転』
123/201

第三章59 『古里芽空』



 ——黒髪の少年がやって来たその日を、今でも覚えている。


 分厚く空を覆っていた雲がついに耐えきれなくなり、ぽつりとぽつりと降り出した雨。

 そんな中姉妹の姉と蓮をアジトまで運んだ芽空は、諸々のことが済んだ後で食堂に向かった。


「……というわけなんですが、どうしましょうか」


「僕のところで預かっても構わないけれど、それよりも確認すべきことがいくつか、かな。梨佳君の知り合いのようだけど……今、彼女に聞くのは酷だからね」


 ラインヴァントの中心人物だった少女、美水蓮。

 彼女の命が失われたことと、その直接的な原因であるハクアを黒髪の少年が撃退したという事実。


 感情を表に出していないだけかもしれないが、比較的立ち直りの早かった葵とフェルソナが議題として取り上げたのはその後者だった。

 梨佳と希美は部屋に閉じこもったまま出てこず、ユキナとユズカは蓮の死という事実を隠すためと、話の重大さから参加させるわけには行かない。そうして残った最高責任者たる芽空を交え、たったの三人で一連の出来事を話し合っていたのだ。


「芽空さんはどう思いますか? ボクはユキナの事で彼に感謝こそしていますが、信用するべきかはまだ決めかねているんですよ。……ブリガンテの可能性もありますからね」


 むろん、こうしてこの場にいる芽空は蓮の死に何も思わなかったわけではない。

 むしろ梨佳同様、ラインヴァントが出来た当初からの仲であるし、彼女にはそれを含めて恩を感じている。大事な、失いたくない友人の一人だったのだから。


「私は——」


 だからこそ、事情を知っているであろう梨佳ほどではないが、何となく芽空は察していた。

 大事な人と、大事な約束があると蓮が言っていたその日は、彼女が一番に好きな人とのお出かけだったのだろうと。


 そして、黒髪の少年を見た時にそれはほとんど確信に変わった。彼は金のネックレス、蓮の『トランスキャンセラー』を持っていたのだ。

 ユキナはまだ話を聞ける状態ではなかったため、経緯こそ不明だったが、一連の事件の中で蓮が彼に預けたと考えるのが妥当なところだったから。


 だからこそ。彼女の死を悼む気持ちを、悲しみに浸りそうになる感情を隠してしまって、やるべきこと。それは多分、


「————私が彼、預かるよー」


 ユキナを救ってくれた恩人であり、蓮が信頼したであろう人物を助けること。……何の力もない自分にやれることなどたかが知れているけれど、胸の奥から微かに、誰かの声がしたから。



*** *** *** *** *** *** *** *** ***



 黒髪の少年、三日月奏太。

 彼はどうやら自分たちと『獣人』で、しかも目覚めたその日にハクアを撃退したのだと言う。


 そんな驚くべきことをやってのけた彼に対し、ラインヴァントのメンバーが見せた反応は様々だった。葵あたりは特に分かりやすく、事あるごとに物理的なものも含めた言動で彼に噛み付いたり。

 それから、何か意図を持って動いていた梨佳や、年長者としての立場と単純な未知への興味で接していたフェルソナ等々。


 彼らによって少しずつ奏太は前を見るようになっていたけれど、奏太には放っておけない危うさがあることを芽空は知っていた。

 『トランス』の修行をするのだと言って毎日忙しくしていたが、それは何もしなければ押しつぶされてしまいそうな程、彼の心が弱っていたから。


 目を背けて、真実を見ないようにする。

 感情を隠して、自分の心と向き合わない。


 それらは決して良いことではない。けれど仕方のないことで、当然の反応だった。

 彼が悪いわけではない。誰にも彼を責めることはできないし、彼自身が自分を責めても底なしの嘆きが溢れてきて、最後には虚しさが残るのみ。


 ——彼が最初に目覚めた時、芽空が普段と少しだけ違った言動で彼に接したのも、そうなるのではないかという不安があったから。

 冗談の頻度と、ノリの良さ。たったそれだけではあるけれど、少しでも奏太の表情が明るくなるように、蓮のいない日々を受け入れられるようにと。


 そのことが関係していたのかは分からない。

 けれど落ち込むばかりだと思っていた彼に確かな変化があった。蓮を失い、学友には彼女を否定されたというのに、それらのショックを隠して平然を装い、皆を助けようとして。

 姉妹の勉強会や希美のこと。それから芽空のこと。

 気を遣っていたつもりがいつの間にか気を遣われ、指切りをした。約束をした。


 どこにいても見つけてくれると、言ってくれた。


 彼が一人でハクアの元へと向かったことに怒ったり、泣いたり、色々あったけれど。

 それでも芽空は、あの日からずっと奏太に感謝している。


 かくれんぼうでは負けなしで、最愛の友から隠れた自分を。

 何もなくて空っぽな自分を、決して隠れさせはしない彼に。


 過去を知らない彼だからこそ救われた。プルメリアじゃなくて、古里芽空なんだって。

 だから————胸の奥の声は、少しずつ大きくなっていた。



*** *** *** *** *** *** *** *** ***



 出会ってから、彼と過ごした三ヶ月。

 それはどれも新鮮なものだった。買い出しの帰りに寄り道をしたり、皆を連れて秘密基地へ行ったり。

 知ってることも知らないことも、彼とならば何だって。

 日に日に『纏い』を使いこなしていくところ、食事当番の時には毎回浅漬けを作ってくれているところ。

 強さも優しさも、隣で見てきた。

 日常のさりげない会話一つでも、心がぽかぽかとして、満たされた。


 初めは気を遣ってノリを良くしていたというのに、いつの間にかそれが自分の素になっていたり。けれどそれに呼応するように、過去の自分が顔を出すこともあって。

 変わっているものと変わらないもの、どちらもが混ざりきらずに芽空の中で生きているようだった。

 そして、それによって痛みが和らぐ感覚を覚える自分もいて。


 ——けれど、そんな中途半端な心は長く続くものではない。

 そう気がついたのは、パーティー会場でシャルロッテと再会した時。


「——ああ、今はそいつの影に隠れて逃げてるのね」


 こみ上げてくる感情に体が震え、呼吸すら満足に出来なくなる。

 ラインヴァントのメンバーや来賓のいる席だ、何とか平静を保って彼女に接しなければ。そう思っているのに、声も体も動かない。


 何も一人で彼女に向き合っているわけではない、フェルソナや奏太もいるではないか、そう思い込もうとして————芽空は気がつく。


「ぁ……」


 シャルロッテを見つめることが怖い。

 あの日の記憶が蘇ってきて、自分の罪が降りかかってきて、非難されて。胸が張り裂けそうなくらい痛くなるのだ。


 ……でも。それよりも怖いのは、奏太に知られること。ずっと近くにいた彼が、芽空の事情を聞いて離れていってしまうのではないか。

 そう考えただけで足がすくんでしまうくらいに自分の心は脆くて、あまりに弱々しかった。


 誰かのため? 気遣い? そんなのは結局、鏡の向こうの自分を見ないようにしていただけだ。

 奏太は否定するけれど、全てはシャルロッテの言う通りだったのだから。

 向き合おうともせず、強くなろうともせず、誰かのそばにいれば良いと心の奥底では逃げて逃げて。


 たまらなく、そんな自分が嫌で。


 ————だから、それが全てのきっかけだった。

 自分自身を許せず、あの日から止まったままの時間が。日に日に大きくなる声が。

 信じると言ってくれた奏太を信じたい。そう思う心がこの足を動かした。


 彼と一緒に悩んで決めるのならば、不思議と足取りは軽くなる。臆病で一人で歩けやしない子どものままの自分も、過去の出来事も全部、さらけ出して。


「なあ、芽空」


 その後で黒髪の少年は言った。

 自分がどうするのか見ていてほしい、と。

 過去の置き去りに決着をつける。それは決して簡単なものでなく、彼自身も震えていて、分かっていたというのに。それでも彼は逃げなかった。


「——俺の全部を伝えなきゃ、始まらないんだ。あの日逃げたから、耐えられなかったから」


 彼が強い人間でないことは知っていた。

 誰よりも側にいた芽空だから、もう分かっていた。

 彼はただ強くあろうとしているのだと。


 彼が一人では間違えてしまうことを知っている。冷静なように見えて、全然そんなことはない。熱くなると周りが見えなくなるし、慣れない環境では情けない姿を見せ、いつだって悩んでて、誰かのことばかり考えて。お人好しで好きな子に一途で————いつだって立ち上がってきた。


「俺は知ってる。俺と同じで向き合うのを怖がってる子を。その子が見てるから、逃げない。ある奴の言葉を借りるなら——それが俺の、その子達に出来る格好付けだから」


 奏太がずっと自分を見てくれていたことを知っているから。

 

 ——だから。

 長く、ずっと続いていたかくれんぼうを終わらせよう。

 あの日隠れてしまった自分を、閉じこもったままの『私』を見つけ出して。



*** *** *** *** *** *** *** *** ***



「————」


 何になりたいのか。

 シャルロッテが問いかけたその質問に対し、芽空はすぅっと肺いっぱいに酸素を取り込んで、呼吸を整える。

 それから足のつま先から順に体の調子を確かめ、問題がないと分かると頭を上げ、ゆっくりと立ち上がった。


「——っとと」


 が、元々疲弊しきっていたこともあって、膝が震えてよろめいたところを壁に手を当てることで何とか堪える。

 直後に飛んできたのは当然、


「あ、あんた、何やってんのよ! 寝てないと…………って」


「ごめんね、でもシャロとはちゃんと向き合って話したいの」


 芽空の行動に我に返り、慌てて立ち上がるシャルロッテ。芽空は彼女の心配を片手一つで制止すると、転ばぬよう慎重に壁から手を離して、


「シャロはみんなのこと、どのくらい知ってる?」


「……は?」


 突然何を言いだすのだろう、そう問いたげなシャルロッテに芽空は説明を口にしない。

 告げるのは、芽空のこと。


「…………私はね、みんなのことたくさん知ってるよ」


 ゆっくりと思い出すように両手を胸元に当て、


「梨佳は遊んでるように見えて真面目な部分があったり、見知らぬ人には冷たいけど、気に入った子には優しいところ。みゃお君は意見を押し付けがちだけど、ちゃんと相手の痛みも分かってあげられて————」


「ちょ、ちょっと待ちなさいよ!」


 絵本でも読んで聞かせるような、静かな口調。芽空の唐突なそれにシャルロッテは疑問を表情に浮かべるが、彼女の反応は極めて当然のことと言えよう。


「あんたは何の話をしてるのよ? ワタクシは、ルメリーの……」


「うん、私の話だよ」


 ますます訳が分からない、といった様子のシャルロッテに芽空は続ける。


「私はみんなのことをたくさん知ってる。もちろん私一人じゃ分からないこともあるけど、これでもラインヴァントの最高責任者だから、ある程度のことは分かってるんだよ。些細なことも重大なことも。みんなが戦いに強いことも」


「————」


「……でもね。それでも不安はあるの」


 不安と言っても、芽空が彼らの弱さも知っているからじゃない。だって彼らは弱さを持ってるから戦えるのだ。

 自分と誰かのために弱さに抗い、牙を研いで立ち向かう。それが奏太たちの強さなのだから。


 しかしそれでも、


「この作戦をアザミは予想してただろうし、籠城戦でみんなの能力も見られて対策を取られてる。その上でこうやって分断されちゃった以上、何が起きるかも分からないし、一歩間違えれば誰かが失われてもおかしくなくって————」


 同じアジトで生活していた仲間たちだけではない。オダマキもヨーハンも、シャルロッテも。死の可能性は平等にあるのだ。


「でも、あんたはすぐに決めてたじゃない。HMAの女やあの二人に任せる時だって、それからあんたのお兄様も」


 そう、彼女の言う通り軽率な判断は命取りになる。


 アイは芽空のような素人から見ても絶大な強さを誇っていたが、生徒及び教員を守りながら『カルテ・ダ・ジョーコ』の三人や一般構成員を相手にするのはかなり困難なことのはずだ。

 オダマキや希美にしたってそう。ブリガンテ側からすれば、彼らはアイのように未知なる存在ではなく既知そのものだ。二対二で数は互角と言っても、前述の理由から完封負けする可能性だってある。


 ヨーハンに関しては彼本人の命にかかわるものではないにせよ、作戦の成功を左右する重要な存在だ。

 芽空とシャルロッテの二人では突破できないにしても、見つけてすぐの段階でオダマキたちに任せることに決めるなど、あまりにも早計で愚かな判断である、と。


 ……本当に、その通りだ。

 芽空も彼女と同じ考えが浮かんでいたし、特にヨーハンに関しては実の兄だ。視界に彼の姿を入れた瞬間、見張りに見つかることなど気に留めず、助けに行こうとさえ思ったくらいで——。


 だからこそ、重ねて言おう。

 芽空は彼らの強さを知っているけれど、不安を抱えている。思考を鈍らせ、判断に迷うほどの大きく重いものを。


 そして、だからこそ。

 一連のことを彼らに任せ、芽空が今この場にいる理由は一つに収束する。


「————私はね、そーたを信じてる」



*** *** *** *** *** *** *** *** ***



 芽空の言葉に対し、シャルロッテは眉を寄せる。


「……あの下民を?」


「うん。だからそーたが信じるみんなを信じてる」


 彼は言った。

 勝とう、と。全部を取り返して、幸せに辿り着こうと。


 だから彼は、アザミの元へ走った。

 もちろん彼には彼の因縁があるようだし、戦力配分の問題もあるのだろう。だが彼は、芽空たちなら任せられる、大丈夫だと信じている部分が強く、今もたった一人でアザミと今も戦っている。


 そんな彼に対して、芽空が出来ることは何か。やりたいことは——決まっている。


「私は生きたい。これからもずっとみんなと……そーたと、一緒にいたいの」


 ふっと顔を上げ、


「朝起きたら、まだ寝てるそーたの横で、本を読んでね。しばらくして起きてきたら、おはようを言って稽古に行くのを見届けて。戻ってくるまでの間に、私は髪をといてパジャマから着替えて——」


「————」


「食事当番の時は二人でご飯を作って、みんなに振る舞うの。朝に弱い梨佳にはコーヒーを出して、ユズカには大盛りでご飯を盛り付けたりして。それでね、みゃお君がユズカにおかずを取られて、ユキナと一緒になって怒るんだよ。……希美はぼうっとその様子を眺めてるけど」


 時折笑いを漏らしながら語るのは、特に何かあるわけでもない日常の風景だ。けれど今とは少し違って、


「それから遅れてオダマキ君やフェルソナが来るんだけど、みんなはもうすぐに登校しなきゃいけない時間。マイペースなフェルソナを置いていくみたいに、みんな急ぎ始めちゃって」


 オダマキがアジトに住むようになって、ユズカやユキナもちゃんと小学校へ通えるようにする。

 芽空は既に飛び級で学生を卒業してしまったから、みんなと一緒でないのは寂しくないと言えば嘘になるけれど。それでも、皆と奏太に向けて言うのだ。


「——いってらっしゃい、って」


 高校にまた通う奏太。そんな彼にはもう、暗い表情なんて似合わないだろう。

 蓮がいればもっと幸せなのかもしれないけれど、彼はきっとこう言うはずだ。


 ——ありがとな。でも、今でも幸せだから。


 もちろんそれは、彼に限った話ではない。

 今まで辛い思いをして来たものたちが、戦いのない平和な日常を生きる。ユズカやユキナも、皆々も。


 それぞれの時間を過ごして、それぞれに好きなものを見つけて、最後は決まって同じ家に帰って来るのだ。

 昼間は芽空とフェルソナしかいなかったアジトが、一気に騒がしくなって。


 夕食を挟み、勉強会や宿題、お風呂と一日の予定を順に済ませて行って、


「今日も一日おつかれさま。——そう言って私は、そーたにおやすみを告げるんだ」


 言葉を終え、芽空は余韻に浸るかのようにゆっくりと瞑目する。


 今はまだ成し得ない、幸せな未来図。

 それは決して、上手くいくとは限らない。時には喧嘩をしたり、すれ違ったり、否定したり、されたり。いつまで続くかも分からない。窮屈で辛い気持ちになることだってあるだろう。


 けれどそれらは、大丈夫だと思える。


 芽空一人では不安に押しつぶされそうでも、彼がいるのなら。

 『信じる』に『信じる』を足して強くなれば良い。隣にいてくれるだけで、手を重ねるだけでいくらだってその想いは増していくのだから。


「……馬鹿げてるわ」


「だからみんなは全力を尽くしてるんだよ」


「間違ったらどうするのよ」


「間違えないために、みんなは強くなったの」


「——っ」


 芽空の力強い言葉に、シャルロッテは言葉を続けられない。

 どうして芽空がここまで言えるのか。それは、


「——私は私を信じてる。他の誰でもない、そーたが私を信じてくれたから」


 彼があの日、そう言ってくれたから芽空が立ち上がり、今この場にいられるのだと。


「…………嘘よ」


 だが、そう告げる芽空に対し、シャルロッテは首を振る。事実による否定、というよりも信じたくないとでも言うかのように強く、腕を払って。


「あんたは弱いじゃない。信じてるって言ったって、あんたは弱虫で…………さっきだって倒れたくらいで、弱いの。ワタクシから逃げ出して、自分が傷つくのが嫌で、だから……!」


 それは堂々と、常に自分のあり方を誇っていた少女ではない。

 かつて芽空が——プルメリアが見ていたシャルロッテだ。彼女は溢れ出る感情を隠すことなくこちらにぶつけてくる。


「ルメリーには何も……何も出来ないわよ。何かをしようとしたって、肝心なところでは逃げる。ワタクシとだって、ちゃんと戦わなかったじゃない!!」


 髪を振り乱し、周りのことなど気に留めず鋭い声を上げるだけ。

 けれどそれは、過去の罪だ。

 プルメリアから始まり、シャルロッテを巻き込んでがんじがらめになった消えぬ鎖。


 その胸中を締め上げる鎖についに耐えきれなくなり、彼女は涙を流しながら叫ぶ。


「——ルメリーに追いつくためにワタクシは必死にやってきたのに! ひどいわよ、いつもいつもいつもっ!」


「シャロ」


「ワタクシだってルメリーのこと信じてたわよ、あの日までは! 下民なんて比べ物にならないくらい、ずっと! 遠い存在だったから、憧れてたから手を伸ばしたかった。いつかは競い合えるくらいに強くなるんだって、そう決めて!」


「……シャロ」


 彼女に自分は、何が出来たのだろう。


 初めて出会ったあの日、声をかけてから。

 遊ぶようになってからずっと、シャルロッテを見ていただろうか。歳の近い女の子だとか、気弱な少女だとか、そんな言葉で片付けていたように思う。


「ワタクシは……っっ」


 悩んでいることも、苦しんでいることも気づかないで。

 『何者』にもなれるというのに、一番身近な少女の声も聞かないで。


「……ワタクシ、強くなったのよ。ルメリーよりずっと誇れるものがあって、目指してたところまで来た。でもね、誰もいないの。いなかったのよ。ルメリーも誰も」


「————」


「必死に受け入れて、強くあろうとした。あんたなんか知らない、ワタクシはワタクシの道を、って。……なのに、どうして今更ルメリーは立ち上がろうとするの?」


 長きに渡りこの身を蝕んで来た鎖を切って、彼女に出来ることは何だろう。

 謝ること? それとも、認めること? ——いや違う。


 答えはもう出ている。いや、出ていた。

 ずっと繰り返されて来た罵詈雑言と事実と弱音と声。過去から続くそれらに、芽空は傷ついていたのだから。


「……私はね、弱いよ」


 弱さを認めて、向き合った。

 目の前の少女にも、自分にも。


「一人で立っていられなくて、誰かの力を借りないといけないくらい、弱虫。シャロにだってたくさん迷惑かけたよね。昔も、今も。何回も間違えたから」


 見えたものと気づいたこと。それらを得て、決意した。


 空っぽで誰かの真似事をするのはもう、おしまい。


「————だから」


 これまでの『私』にさよならを。

 これまでの『私』へありがとうを。


「私は古里芽空。地位も権力も名声もいらない。『何者』にもなれなくたっていい。願いはずっと一つだけ。今よりずっと強くなって——そーたの隣にいられる『私』に私はなるの」


 ————頑張ってね、芽空。


 胸の奥から、はっきりとした声が響いた。



*** *** *** *** *** *** *** *** ***



 両者の間に言葉はなかった。

 けれど、あった。


 沈黙と表情。それらが全てを物語っていたから。


「……ねえ、ルメリー?」


 壁にもたれて鼻をすするのはシャルロッテ。

 初めて出会った時よりも大人っぽく、美しくなったとはっきり言える彼女の顔は、今や涙と鼻水で台無しだ。

 誇りも建前も全部無くして、ただ一人の少女として、彼女はこちらを見る。


「どうしたの、シャロ」


 だから芽空も応じる。

 目をそらすことなく、正面から。


「色々な、話があるわ」


「うん。私も、たくさんシャロに話さなきゃね」


「教えることも聞きたいことも、確認しなきゃいけないことだって」


「…………うん」


 ぽつりぽつりと、これからの話。

 動き出した時間に対して芽空たちがまず先にしなければいけないことだ。

 ずっとあの日から、二人は止まっていたのだから。


「でもね」


 シャルロッテは区切り、壁から背を離す。瞑目し、深呼吸をして、


「救わなきゃいけない子がいる。ワタクシたちには、やることがある。そうでしょう?」


「……シャロはいいの?」


「そりゃ、ワタクシだって自分の欲ぐらいあるわよ。でも、ルメリーにはその…………」


 口ごもる。

 一体何に詰まったのだろうか、芽空が首を傾げていると、彼女は迷いを捨てるように大きく首を振った。


「——古里芽空として、やることがあるんでしょう!? それなら、友達のワタクシが付き合うのは当然よ!」


「————」


 頰を赤らめたシャルロッテに肩を掴まれ、そう言われて。


 頭の中が驚きだけで埋め尽くされて、徐々にそれが変化。声を失っていた芽空だったが、変化は表情に現れて、


「……ありがとね、シャロ」


「ああ、もう。さっさと終わらせるわよ、ルメリー」


 微笑みが一つ。

 それから珍しく照れを見せるシャルロッテが妙におかしくて、弾ける笑いに形を変えて。

 彼女もまた、わずかにではあるが口元を緩めた。


 お互いに満足がいくまでそれは続いて、ようやく収まった時には二人の間にぎこちない雰囲気はもうない。あるのはたった一つだけ。


「行こっか、全部を終わらせるために」


 目的地はすぐ目の前。

 周辺の敵は全て沈めた。

 だが、相手はユキナを守っている『カルテ・ダ・ジョーコ』の一人、ジャックだ。苦戦を強いられるだろうし、この一戦で動けなくなるくらいのダメージを負うかもしれない。


 だから、二人は覚悟を決める。

 ユキナを救い、最悪の一手を封じるため、全てを覆しに。


 振り返り、シャルロッテの手を握って————、


「——シャロ。先に行ってて」


「え?」


 そのまま彼女を引っ張り、位置を交代。向かう先、廊下の突き当たりの反対方向を芽空は睨む。


「ちょ、先にって、どういう……っ!?」


 シャルロッテは突然のその行動に、思わず声を荒げようとするが、すぐにその声は止まる。

 彼女は気がついたのだ。

 刺さるような鋭い殺気を放つ存在に。


「……どういうことよ。残りは一人って、そのはずじゃ」


「多分、最初にアイが飛ばした相手だよ。一瞬だったけど、なんとなく見覚えがあるし」


 そう、敵は一人。


 芽空たちが来た道の向こうから、未だ起き上がらない一般構成員を避けながら現れたのは黒フードの男。

 体育館でアイが意表を突き、一撃で吹き飛ばした『カルテ・ダ・ジョーコ』の一人だ。


 それを証明するように、彼が被っていた黒フードは所々破れており、地面に何度も擦れ、抉れたであろう血で赤く染まった皮膚が見える。

 左腕は動かないのか、肘から先がぶらんと下げられているが、その瞳は光を失っていない。


 二人を捉え、抵抗など一切出来ないほどに骨ごと肉体を潰す。


 そのために彼は右手を中心に姿を変え、こちらへと歩いてくる。

 全身を覆う赤の甲殻に、鉄柱を束ねたように巨大なハサミ。その分かりやすい特徴から考えて、彼は『カニ』だろう。

 横歩きでないのは、彼の『トランス』が中途半端であるためか、はたまた別の理由か。


 いずれにしても、


「私がアレを止めるから、シャロは行って」


「断るわ。ルメリーだけ残していくなんて出来ない。それにあんた、体調が……」


「大丈夫。シャロに膝枕してもらったから、結構回復したの。寝れば回復するって梨佳は言ってたし」


「でも!」


 芽空は必死に引き留めようとするシャルロッテに首を振って、言う。


「——シャロ。私はシャロを、信じてる」


「————」


「それに、私はそう簡単に負けないよ。まだまだ弱いけど、あと一人くらいは何とかなるし、終わったらすぐに行くから。だから、ここは任せて」


 芽空は前方の男に注意しつつ、ちらとシャルロッテを見る。


 葛藤があるのだろう、彼女は歯を食いしばり、肩を震わせていた。

 そしてそれは、先を一人で行かなければいけないことへの不安ではなく、芽空をここへ置いて行かなければいけないことへの怒りと、不安。

 それから、仮にここに残ったとしても、隠れることを主体とする芽空のことを考えれば、的が増えるだけで何の役にも立たない。そのことへの無力感だ。


「……そうね。まだまだだけど、あんな奴くらいルメリーなら何とかなるわよね」


 けれど彼女はそれらを飲み込んで、言った。


「任せなさい、ルメリー。このシャルロッテ・フォン・フロイセンに」


「任せたよ、シャロ」


 芽空は二つあったスタンガンのうち、片方を彼女に渡して視線を交える。不安を上回る強い信頼を込めて。


 それから最後に、


「そうそうルメリー、言い忘れてたことが一つ。——ちゃんと生き残ったら、ワタクシはルメリーを許すわ」


 とだけ言って、駆けて行く。

 芽空が目を見開き、驚いたことなど知らぬまま。


 彼女が廊下の突き当たり、角を右に曲がったのを確認したところで、芽空は大きく深呼吸をする。


「————」


 目の前の敵は、手負いの『カルテ・ダ・ジョーコ』。

 単純な肉弾戦であれば、自分よりも圧倒的に強く、場慣れもしているはずだ。不意打ちでなければ、倒せない。


 対して、芽空の武器はスタンガンが残り一つと、小物がいくつか。


 体調は————最悪に近い。


「……っはぁ」


 熱っぽくなった体は、未だ体を蝕んでいた。

 シャルロッテと別れて感覚を研ぎ澄ませているからか、より体の不調が増した気がする。いつ倒れてもおかしくない程度には体がふらつく。

 普段通りならば、不意をつけたならば、勝てない相手ではない。


 だが、今の体では『纏い』を発動することすら難しい。不可視もどれだけの維持ができるか、自分でも分からない。


 そんな芽空に対し、彼は容赦をしないだろう。

 様子を見るように、すぐに襲い掛からずじりじりとこちらへと距離を詰めてくるが——ハサミの射程距離に入るのも、もうすぐだ。

 生き残る、シャルロッテが言ったそれは、どうやら果たせそうになくて————、


「——っ!!」


 芽空は両の手のひらを顔の位置まで持ち上げ——思い切り叩いた。

 弱音を吐きそうになる自分の心に対し、喝を入れるために頰を何度も叩き、前を見る。


「私は生きるよ、シャロ。……そーた、頑張ろうね」


 熱くなる頰の感覚が、心に勇気をくれる。


 だから芽空は異質の力を体現させて臨む。焼き切れそうになる頭を必死に動かし、足を、腕を、不可視を。

 限界まで振り絞って————、



 ぐちゅ、と。

 潰れる音だけが、廊下に鳴り響いた。

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