第一章10 『約束』
蓮はタブレットの電源を落とすと、テーブルの上にそれを置いた。
「…………は」
物質と物質の触れ合う音で、奏太は我に帰り、自分がひどく汗をにじませていることに気がつく。
呼吸は荒く絶え絶えで、体が鉛のように重たい。頭が割れそうなくらいに痛んで、一向に治まる気配を見せない。
しかしそれでも、乾いた喉から何とか声を絞り出す。
「少し、少しだけ待って欲しい」
幾らかの沈黙があった。
しかし、彼女の顔色を伺えるほどの気力は今の奏太にはなく、彼女の言葉を待って、
「…………うん」
短い返事が返ってくると、奏太はソファーにぐったりと体重を預けた。
衝撃的な内容に、体にどっと疲労感が押し寄せてくる。頭が重い。体が熱い。このまま熱で溶けて、自分は無くなってしまうのだろうかと、そう思えるほどに。
——考えが上手くまとまらない。
感覚では何かが分かっているのだ。世界の恐怖に真正面から向き合った結果、見えたものが、あるのだ。
世間一般はどうであるとか、それが普通で、これじゃなければおかしい、などという、もはや奏太にとっては押し付けがましいものでしかない世界の価値観に押し流されることなく、見えたものが。
しかし、それは上手く言葉にならない。
喉元まで出かけた言の葉が、姿を現そうとするものの、直前で力を失い離散してしまうのだ。
ますます頭痛が酷くなってきて、全身が焼けるように熱い。
視界が徐々に白くなり、チカチカと点滅し始める。そして、現実との境界線が薄れていって————
「…………?」
意識を失いかけ、寸前で現実に引き戻された。
その理由は、水だ。
全身を覆う熱気に、触れる水があった。ひやりとするその水は、奏太の熱を部分的に、そして徐々にじんわりと冷気を広げていく。
ぼんやりとした頭で冷気に目を向けると、そこにあったのは水ではない。
「ぁ…………」
蓮の手だ。
蓮の右手が、奏太の左手の上に重ねられていた。白くて細い、小さな手だ。奏太の手を覆い尽くすには、まだまだ一回りも、二回りも大きくなければならない。
しかし、それでも奏太の心に平穏を、安らぎを取り戻させるには、十分すぎるくらいで。
奏太は足りない酸素を取り入れようと、何度も深く深呼吸をする。
決して綺麗だとは言えないが、生きるために、動き、考え、彼女と話すために必要な酸素を、肺いっぱいに取り込む。
呼吸をするたびに、鈍器で叩かれているような頭痛が引いていくのが分かる。徐々に徐々に、視界が晴れていく。
テーブルに置かれた飲みかけの缶コーヒーを手に取って、中身を一気に飲み干し、喉を潤わせる。
その末にようやく落ち着きを取り戻すと、辺りが暗くなり始めたことに気がつく。
暗闇を追うようにふっと見上げた空の先、二人を照らす太陽はすっかりその光を弱めていた。
もう数十分もすれば、沈んでしまうはずだ。そうした時、この場所から見える景色はまた違ったものが見れるのだろう。
奏太は鼻から長く息を吐いて、隣に座る蓮に向き直る。
彼女はいつの間に座り直したのか、奏太と少し距離を取った位置にいた。
しかしそれでも、重ねられた蓮の右手は、変わらず奏太の左手に触れていて。
「……落ち着いた?」
「…………うん」
奏太には、気がついたことがある。
「動画を見て、思ったんだ」
眼前、蓮の瞳には不安の色が浮かんでいる。
表情を強張らせ、長い睫毛を震わせて、しかしその眼差しは奏太の言葉を待っていた。
決して胸中を明かすことなく、何を言われても傷つかない訳ではないその精神で、奏太が何を言っても受け止めると、そう決めているのだろう。
ならばこそ、奏太は続ける。
「黒い髪の子、いたよな」
あの動画の少年——仮に、『鬼』と例えるとしよう。
あの『鬼』は、ライオンの群れに怯えることなく襲いかかり、その全てを血に変えた。
誰が見ても、圧倒的な力だ。兵器でもない、ただ一人の人間がその状況を作り出したのである。
まさしく、恐怖の体現者。悪魔の所業に近い『鬼』だ。
それは過去に世界を闇に陥れ、滅ぼされたはずのものの、ほんのひと欠片に過ぎない。
『獣人』というのだから、恐らくは茶色い毛皮に覆われ、ねじれた角が二本生えている、あの見た目の者だけではないのだろう。
牙が生えた者もいるかもしれないし、尻尾や長い耳、なんていうのもあるだろう。
だが、いずれにしても『鬼』がこの世界に再び闇をもたらし、過去の傷を広げて新たな傷をつけた結果、根強い恐怖が人々に刻まれたことに変わりはない。
「あれが世界に恐れられてる獣人、なんだよな」
今更になって、気がついたことがある。
奏太の記憶について、父親は何も言わない。その理由は奏太には分からないが、ひょっとすると、奏太も世間の恐怖の対象——『獣人』という可能性があるのかもしれないのだと。
家族仲は良好だったつもりだ。
だからこそ父親は、奏太が奏太自身の内面を傷つけないように、世界に傷つけられないように何も話さなかったのかもしれない。
いや、あるいは、記憶を取り戻させないことで、自身に危険が及ばないようにしていたのだろうか。
「でもさ、何だかそれだけじゃないように思えたんだ。いや、違うか。それよりも強く思ったのは————」
しかし、それらは全て仮定だ。父親が自分可愛さで口をつぐんでいたのか、そうでないのか。奏太が『獣人』なのか、そうでないのか。
そんなこと、今は分からない。分からないけど。分からないからこそ、
「——あの子が、生まれたての子供みたいだったってことだ」
「…………ぇ?」
奏太の言葉に対して、蓮の反応はひどく弱々しいものだった。
彼女は紛れもなく奏太を信じているのだろう。だが、それでも不安は湧いてきてしまうものである。
結局、事実を確かめるまでは仮定でしかないのだから。
奏太は頭の中に『鬼』の姿を思い浮かべる。
確かに、あんな力を持つ『獣人』を世界は怖がるんだろう。しかしそれは、結局世界の大多数の意見でしかない。
奏太自身の考えは、奏太自身が見つける。かつての思いを、かつての自分を忘れてしまったのなら、今の奏太が出せるのは、この答えだ。
「確かにあの姿と力は……怖いと思ったよ。でも」
『獣人』に対して恐怖を感じることで、壊れてしまうかもしれない蓮との関係を奏太は恐れていた。そして、件の動画を見て、奏太は『獣人』に恐怖を感じた。
けれど、それ以上に、
「あの叫びは、子どもが泣き叫んでるみたいだった。悲しくて、辛くて、それを誰かに分かってもらいたくて」
あの『鬼』は、同じだったんだ。
世界が分からなくて、いくら叫んでも誰も聞いてくれなくて、自分一人が置いてけぼりにされる。
それは、奏太と同じ苦しみだ。
だからこそ、
「そんな気がして、恐怖が消えたよ」
二人の間に、再び沈黙が訪れた。
嘘偽りない、正直な気持ちを蓮に伝えられて良かったと、今は思う。
逃げ出して、欺瞞を口にすることで仮初めの関係を作るなど、奏太は望まないのだから。
彼女はどう思っているのだろう。安心、したのだろうか。
ひょっとすると、多少なりとも恐怖を感じたことを知って、悲しむかもしれない。でももし、安心してくれたのなら、彼女はきっと涙を流すのだろう。
その時には、奏太が側にいて、いくらでも声をかけよう。気持ちを言葉にして彼女に伝えることで、自分が隣にいるのだとそう告げるのも悪くない。
だから————
「————っ」
彼女に微笑みかけようとして、視界が突然反転、真横に引き倒される。
一瞬何が起きたのか分からなかったが、次の瞬間、頭部に触れたのは柔らかな感触。
それが彼女の膝だと気がつくのに、少し時間を要した。恐らくは、先程まで重ねられていた手に頭を倒されたのだろう。
「ぇ、と…………」
一体どういうことかと上を見上げると、真上には蓮の顔があった。
彼女の瞳に涙は浮かんでいない。
だが、悲しんだり怒ったりしている訳でもなく、当然、無表情でもない。
ただ、蓮は慈しむように微笑んでいた。
「——いいんだよ」
「え?」
彼女は今、何と言ったのだろうか。
どうして今、自分は彼女に膝枕をしてもらっているのか。
普段ならば考えるよりも早く反応するところだが、嬉しさや照れよりも、動揺と困惑によって頭が回らず、分からない。
それらを奏太はまとめて問いかけようとして、
「泣いて、いいんだよ」
時が止まるような、感覚がした。
彼女の一言が雫となって、奏太の全身を駆け巡り、感情の塊の奥底に触れる。
それは本来、奏太が蓮に言うべきことだったはずで。
「…………ぁ」
——あの『鬼』は、同じなんだ。
先ほど自身の中で出した結論が、再び奏太の中で反響した。
蓮によって触れられた感情の塊が端からボロボロと崩れていく。そしてそれは、一度崩れてしまえば止まることを知らない。
————長い間、一人で抱え込んできたというのに。
逃げずに一人で戦ってきたというのに。何度も何度も、彼女の前で決意を決めたというのに。
あの『鬼』を見て、自分は弱くなってしまったのかもしれない。
ここのところ、何度も感情を動かされて、擦り切れてしまったのだろうか。
今まで、世界のどこにも自分の安らげる場所がなくて、不安で不安でたまらなかった。
どれだけ声を上げても、誰も認めてくれない。自分自身も、自分を認められない。
「————」
奏太の瞳から一筋、涙が流れた。
押し寄せる感情の波に堪えきれなくなって、それは次々と溢れ出す。
——何年も、ずっと自分が分からなかった。
幾度となく考えてきた。それでも、孤独なのはずっと変わらなかった。世界が、今自分が見ている世界が、怖くて。怖くて怖くて。
泣き声に嗚咽が混じって、息が苦しくなる。酸素を取り入れようとして、不恰好な呼吸になる。
「——良いんだよ」
赤子のように泣き出した奏太を、蓮はそっと受け止めた。
それはさながら、母親が泣きじゃくる赤子を安心させるように。大丈夫、大丈夫、と。
*** *** *** *** *** *** *** *** ***
「もう大丈夫」
蓮の膝からむくりと顔を上げて体勢を直す。
それから彼女の顔を見て、照れで顔を逸らしそうになるも、何とかそれを堪えて言った。
「…………ありがとう、蓮」
「どういたしまして、奏太君」
彼女は表情を緩め、穏やかに微笑んだ。
奏太は、彼女に今まで抱えていた不安を話さなければならない……いや、話したいと、そう思った。
情けない話かもしれないが、蓮に受け止められて、嬉しかったのだ。
だから、聞いてもらいたい、と。
もっとも、奏太の中にあったのは、蓮に対する依存ではない。これからも甘えたいと、そんな甘やかで女々しい期待をしているわけでもない。
「俺、怖かったんだ」
奏太は蓮に告げる。
「今まで、過去の自分が分からなくて、怖かった。いつまで経っても今の自分を認められなくて、怖かったんだ」
「自分が、認められない……」
「だって周りは、世界は『獣人』の恐怖を知っているのに、俺だけは知らない。同じ場所に立つことすら出来ない。そんな自分を、認めることが出来なかったんだ」
しかし、件の動画を見たからと言って、奏太は自分自身を認められたわけではなかった。
世界の恐怖を知れば、認められるのではなかったのか。
「でも、獣人を知っても何も変わらなかった」
結局そこに残ったのは、前と変わらぬ自己定義が曖昧な自分のみだ。
奏太は俯き、告げる。
「俺は俺を、認められない」
「——じゃあ」
内面の全てを暴露した直後、芯のある透き通った蓮の声が返ってきて、びくりと肩が震えた。
顔を上げると、そこにはじっとこちらを見つめる蓮がいて。
「奏太君、私と約束しよ」
「約、束……?」
「奏太君が自分のことを分からなくて、認められないのなら。奏太君が認められるようになるまで、私が側にいる。側にいて、奏太君を何度だって認める。奏太君が、今の自分を自分なんだって、そう言って笑えるようになるまで、私は奏太君の隣にいる」
どうして、彼女はここまでしてくれるのだろう。同じ異端者だからだろうか。それとも、彼女が優しいから?
——分からない。分からないけれど。
蓮は今の奏太を認めているのだ。自分自身すら分からない、奏太を。
そうだった。彼女はずっと信じてくれていたのだ。
途端、体の内から喜びが溢れてきて、足の爪先から頭のてっぺんまで一杯になる。けれど、それでも表情は変わらない。笑うには、まだ足りないのだ。
「————」
奏太は自分でも驚く程に、彼女の言葉を素直に受け止めていた。それはきっと、元々奏太が望んでいたことであり、彼女が善意を、好意を隠さない人物だと知っているからだ。
そんな彼女に対して、奏太は図々しい願いを口にしようとしている。本当に言っていいのだろうかと躊躇いが生じる。
しかし奏太は、自分の本音に気がついていた。
今言いたいんだ、と。
この機会を逃してしまえば、きっと彼女はいずれ離れて行ってしまうだろうから。
奏太の気持ちも、今しかないこの時間も、離れて行ってしまうだろうから。
だから奏太は告げる。
「——ずっとじゃなきゃ、嫌だ」
「え?」
「ずっと、隣にいて欲しい。それで、俺が笑えるようになったら、隣で一緒に笑って欲しい」
内にあった苦しみも、好意も、全てさらけ出した。二つの間には期間の差はあれど、どちらも今伝えたいと思って伝えたものだ。
返ってくる反応に不安がなかったわけではない。だが、後悔の二文字は不思議となかった。
奏太の告白に対して、彼女は目を見開き、その言葉をしっかりと受け止め……切れていなかった。
徐々にピンクに染まっていく頬が白い肌によく映えていた。瞳がゆらゆらと揺れ、焦点が定まっていない。
そしてそのまま彼女はわなわなと唇を震わせて、
「あ。え、ええっと。それって、つまり……」
「好きだ。ずっと隣にいて欲しい」
奏太も蓮と同じく、いやそれ以上に、耳まで顔を赤く染める。
しかし、一度告げたその想いは留まるところを知らない。
ぴんと小指を立てて、彼女の前に突き出す。
約束というのなら、きっと彼女はこのポーズをするだろうから。
「私は…………」
蓮は深く息を吸い、吐き出した。
至って単純なそれを何度も繰り返し行うことで、瞳と同じ綺麗な桃色に染まっていた頰が、徐々に白さを取り戻していく。
彼女は鼓動を抑えるように、自身の胸に右手をそっと置いた。
それから、うん、と小さく頷くと、
「————約束。私も、好きだったよ。奏太君」
彼女は互いの小指を絡め、ぎゅっと結んだ。
結ばれたその手から熱が伝わってきて、奏太と同じくらいにドキドキとしているのが分かり、一層熱が増す。
それを悟ったのか、蓮は再び頰を染め、
「ずっと、隣にいるね」
そう言って、蓮はにこやかに微笑んだ。




