第三章43 『空っぽの——』
——何度目になるだろうか。
「ご、ふっ」
重なる打撃に耐えられず、異物が体の奥底から湧き上がってきて、血の塊が口から吐き出される。
たまらず膝をつくと、否が応でも視界に入ってくるおびただしい量の血。それは今しがたのものに加え、たった数分の間に積み重ねられた葵自身のものに他ならない。
「天姫宮君、これ以上は……!」
割れるような頭痛に苛まされる中、後ろから声が届く。
尊敬する人と、その他数人に任されたヨーハン・ヴィオルク。彼の声が。
彼は今の葵の姿が見ていられなくて、勝ち目がないと判断しているからこそ制止するのだろう。葵が受け入れれば、その時点でこの作戦は失敗、彼は連れて行かれてしまうというのに。
——いや、だからこそなのかもしれない。
最終防衛ラインともいうべきこの最上階まで侵入を許して、その上で葵は戦意の有無にかかわらず、反撃の余地が無いほどの一方的攻撃を食らい続けているから。
ラインヴァント最強の『獅子王』に。
「……っ」
体中の骨が軋み、悲鳴を上げていても頭は回る。
見上げた先、こちらを光のない瞳で見つめるユズカに対して何をすべきか、どの手段で動きを止めるか。考えは、あるのだ。
しかしそれでも選択肢を決めることさえできないのは、奏太やユキナに向けるものとは違う特別な感情を彼女に対して抱いているからで、
「ボクが止めないといけないんですよ……!」
何度も口にした言葉を自分に言い聞かせるようにして放ち、ガクガクと震える足を必死に起こす。
出血で体の動きが悪くなっているのか、それとも心の奥底で形の見えない何かが渦巻いているからなのか。
いずれであっても、葵は意識がある限り、何度でも立ち上がる。
『纏い』を発動させ、頭頂部の丸い耳と、尻尾が生えた蜜柑色の一つ結びの少女、ユズカ。
誰よりも鋭い爪を持ち、誰よりも強靭な毛皮に覆われた彼女を止めるのは、他の誰でもない自分なのだ。
——二日前、奏太の連絡を受けた葵は、目の前でユズカが去っていくのを止められなかった。
恐らくは直前で、ブリガンテの使いの者が彼女にユキナのことを話したのだろう。
駆けつけた葵が芽空と共に一般構成員に囲まれ、ユズカはそれを制止して。その後は何かあったわけでもない。何か出来たわけでもない。
ユズカが「行くね」とたった一言だけ行って、そのまま止める間もなく彼女は追いつけないくらいに速く、遠くへ。
ラインヴァントの皆はそのことを知らないし、唯一現場にいた芽空にも黙っておいてもらうよう頼んだ。
この件を、葵自身が、葵一人だけでどうにかするために。
「怒られるでしょうけどね。……でも」
ユズカの手を離さないと誓った。約束をした。
足りない部分は奏太たちの力を借りて、今この場に自分は臨んでいる。
ならば葵がすべきなのは一つ。
口内に混じった血の味に顔を歪めつつも、言う。
「ユキナを人質に取られているんですよね」
「————」
「この場にあの子を連れてくることはあり得ないはず。しかしユズカが従っているのは……何らかの手段により、あなたの行動がブリガンテのアジトに伝わるようになっている、といったところでしょうか」
盗聴や盗撮機器の類、あるいはどこかで見張りの者がいるのであれば、この仮説は成り立つ。
ユズカの性格を考えれば破壊するなどの方法を思いつく可能性はあるが、あのアザミのことだ。それを先読みして告げているだろう。
どんな手を尽くしても、従う以外の選択肢はないのだと。
ならば、
「知ってることを話してください。ボク一人では非力ですが……それでも、助けたいんです。あなたを、ユキナを」
葵は手を伸ばし、説得を試みる。
「ブリガンテの幹部——と言っても伝わらないと思いますが、現在ラインヴァントの総力でブリガンテと戦っています。だから……」
「————無理だよ」
対してユズカは、ようやく今にしてその重たい口を開いた。
蚊の鳴くような声で、諦観に至った虚ろな空色の瞳をこちらへ向けて。
「あたしはユキナがいるから、無理だよ」
「————」
「話すのもダメ。動くのもダメ。あたしもユキナも、そうしろって言われたんだよ?」
「だから、それをボクたちが!」
雲が出てきたからか、唯一の明かりであった月光は既に室内にない。
ゆえにユズカの表情も、その口元も見えず、感情は抑えられ、読み取ることはできない。
——いつかの、あの日のように。
「みゃおみゃおたちじゃ、あたしやあの人は倒せないよ」
「倒せます。奏太さんや梨佳さんだっているんです。——それに、癪ではありますが、HMAのアイという人も」
「——、あの変なおねーさん?」
「ええ。今ここにはいませんが、いずれ。直接戦って強さは知っているんでしょう?」
……返答はない。
恐らく、彼女としては心中複雑な相手なのだろう。
ブリガンテでは才覚をひたすらに磨き、発揮して、ラインヴァントでは絶対的強さを誇り、揺るがぬ王として君臨していた彼女だから。
だが、それでも。
「その人を良く思わないという気持ちは分かります。ですが、ブリガンテを潰すには十分で必要な戦力ですし、ユキナも救えます。ですから——」
「…………気持ちが、分かる?」
「ユズカ?」
震える言葉に潜んだ、推し量れないくらいに強い感情。
ふいに漏れたユズカのそれに、葵は戸惑いながら彼女の名前を呼ぶ。
曲がりなりにも、一年という期間を共に過ごしてきたから自分は彼女にとって。彼女のことを。
やたら観察眼のある梨佳は例外として、ユキナの次くらいには彼女を理解しているのだ。一体何が、どこが彼女の中で引っかかって。
——そう考えるのは、自然なのかもしれない。
けれど、だからこそ葵は気がつかない。
以前自身が否定したことであり、以前の葵ならば思っていようとも口にしなかったことだから。
だから唇を血が出るくらいに噛み、両の拳を震わせるユズカの言葉は全く想像のつかないもので——、
「……みゃおみゃおに、あたしの何が分かるのっ!!?」
*** *** *** *** *** *** *** *** ***
「何、って……」
唐突な彼女の変貌に、葵は言葉に詰まる。
困惑と動揺が入り混じった頭は正常に動かず、ただ口を何度も開閉するのみ。
「私が何を考えてるか、分からないじゃん! 考えたことも!」
しかしユズカの悲痛な叫びは続く。
葵が何を思っていようとも、関係なく。ただ一方的に喚き散らすように。
「……っ、考えたことくらいあります! いつだって考えてます!」
「嘘ッ! じゃあなんで分かってないの!? あたしが何を、あたしが……みゃおみゃおは、分かってない!」
我に帰って言い返したところで、それは変わらない。
葵が何も分かっていないという主張を繰り返すユズカに、葵の言葉は届かない。
「あたしがどんな目で……どんな目でみんなを見てたか! 知らないじゃん!」
事実、彼女の言葉を聞いて葵の心中に疑問は湧いていた。
理解していたはずの彼女の中に、見たことのない何かが眠っていることに。
だが、
「それでもユズカはユズカでしょう!?」
「————」
「食べるのが好きで、元気で、妹思いで自分勝手! それがあなたです! ボクが知っているのは、そんなあなたです!」
葵にだって分かっていることはある。
過去のユズカを、ちゃんと知っている。初めて会った時からずっと見てきたのだから。
「……ない」
「は?」
「分かってないよ、みゃおみゃおはっ!」
が、これにユズカが見せた反応は激昂と、突撃。
体を沈め、砲弾のような速度で急激に迫る彼女に葵は一瞬反応が遅れ、慌てて半身になって避けようとするが、能力に圧倒的な差があるユズカに一瞬は命取りだ。
足元から突き上げられるユズカの右の掌底が葵の顎元を掠め、衝撃に体が宙を舞う。
「————っ」
脳が揺らされたことで一瞬意識が飛びそうになるが、奥歯を噛んで何とか耐え、空中でくるりと一回転、地に足をつける。
「…………ボク、は」
胃の中身がいつ吐き出されてもおかしくないくらいに気持ちが悪い。
無理もないだろう。
散々ユズカの攻撃を受け、骨を砕かれ、肌は裂かれ、全身は既にボロボロだ。視界は徐々に白んできているし、致死量とまではいかないが、それなりに血も流れている。今の攻撃だって、まともに受けていたら。
だから多分、これがラストチャンスなのだと葵は理解し、ユズカに向き直る。
「……確かにユキナと比べればボクは一緒にいた時間が少ないでしょう」
「————」
「でも、信じてください。ボクはユズカを、あなたのことを分かっています。今までのあなたを知っているんです」
諭すような言葉の数々。
それは演技でも何でもなくて、まぎれもない葵の本心。
こんな風に彼女へ思いを告げたのは二度目だ。
一度目のあの時と同じくボロボロの姿ではあるが、違いは確かにある。見てきたものがあの時よりもずっと多い。誓いも、約束も、笑顔も。
だから葵は格好付けを止める。いや、やめていた。
そうしてたどり着いた結論を、一人の少年として、繰り返しユズカに言う。
「————ボクのことを信じてください、ユズカ」
葵に出来るのは、上から目線で言うことではない。過去を知っている葵だからこそ、それを告げ、信じてもらう。
そして、これから知らないことを知っていくのだ。葵が大好きなユズカという少女について、もっと。
「…………ねえ、みゃおみゃお?」
「何です、ユズカ」
いつもの調子とは程遠い、視線を落として呟く少女の声。
そんなユズカが妙におかしくて、くすりと笑ってしまう。
一体どうしたら彼女を笑わせられるだろうか。
そんな疑問が湧くが、答えはすぐに出る。数時間前に、彼女が来ると分かっていて準備していたものがあったから。きっと彼女は喜ぶはずだと、彼女のためになるはずだと。
だから、葵は告げる。
ユズカの為に。
「————ごめんね。やっぱりあたしは、信じらんないよ」
——はずだった。
顔を上げた、ユズカの表情。
それを見て葵は呼吸を止める。
「————」
見惚れるくらい可憐で、見ていられないくらいに悲痛な笑顔。
葵が目を見開き、問いかけるよりも早くユズカは地を蹴り、葵の腹部に右の拳を振り抜いた。
「……っ、は」
避けることも、受け止めることも、流すことも、吹き飛ぶことも。何も出来ないままに、葵はそのまま崩れ落ちる。
「…………ユキナはあたしが守るから。だからね、みゃおみゃおはいいの。……弱いんだから」
そして『それ』は、無慈悲にも訪れた。
誰にでも平等に、弱者には不平等に。
限界を越えた意識が朦朧とし始める。
視界は既に大半が光をなくし、ただ声だけが聞こえた。
止めなければいけない。
それは分かっている。頭が、体が、奥底に眠る力が、ずっと叫んでいる。
だけど体はもう動かない。
立ち上がることはおろか、指一本すら動かすことも。
痛みは限度を越え、もはや何も感じなくなっているくらいで。
「……ねえ、みゃおみゃお?」
世界との接点が途切れていく。
想い届かず、伸ばした手は遠く。
「何もないあたしが……お姫様になんて、なれないよね」
冷たい雫が一つ。
顔の前で弾けて、消えた。
*** *** *** *** *** *** *** *** ***
何も見えない暗闇の中、薄っすらと声が聞こえる。
「——天姫宮君、ありがとう。ベッドの下に…………」
奏太に任されていたはずの、当主の声。
それは感謝であり、心配であり、安堵であり、憂いの感情の込もった不思議な声だ。
「——あァ? よォく見りゃ、こいつは」
「——手出さないで」
救いたかった少女の声と、心の底から憎んでいる青年の声。
二人は何か言い争っているようだが、自分にはどうすることも出来ない。ただぼんやりと、音が流れていくのみ。
「——弱者が粋がってんじゃァねえよ。てめェには届かねえ。俺も、クイーンも」
否定する言葉。
認めたくなかった、事実。
何もかもが通り過ぎていく黒の世界の中で、これだけは深く、鋭く刻みこまれた。
「——じゃあね、みゃおみゃお」
手を伸ばさなければいけない。
熱い感情が胸の内にある。
…………だけど。
「——あァ。才能がねえってのは、理不尽だよな」
最後に届いた、嘲笑混じりの声。
それは全ての終わりを告げた。
必死に積み上げてきたものが、音を立てて。
必死に守ろうとしたものが、支えを失って、まとめて。
——全てが、砕け散った。
*** *** *** *** *** *** *** *** ***
「————」
ぼんやりと、闇に包まれていた視界が開けていく。
人工のものか、あるいは自然のものか。葵は光の眩しさに目を細め、慣れさせるように何度か瞬き。
長い、とても長い眠りについていたような気がするが、それにもかかわらず思考はすっきりとしていて、晴れやか……とは違うが、不快とも異なる。そんな妙な感覚を味わいながら、葵の意識は自身から外へと向けられる。
葵を眠りから覚ました声音——その主たちは今も言葉を交わしており、どれも見知った人物ばかりで、
「——けど、それじゃダメじゃねーの?」
「そうだけど……じゃあどうしたらいいんだよ」
とりわけ近くにあったのは、葵の側で椅子に腰掛けている奏太と梨佳の姿。
彼らは何かを話し合っているようで、片方は頭を悩ませ、しかしもう片方は時々茶化し、笑みを浮かべて。
「————」
そんな二人にいつ声をかけるべきか、珍しく葵は躊躇う。
口を何度も開閉し、つぐんで。
自分でもらしくないとは思いつつも、疲れているのだろうと判断、凝った体を動かそうとして——ようやくその瞬間、葵は自分が白のベッドの上で寝かせられていたことに気がつく。
「……お、みゃお起きたぜ?」
それに真っ先に反応を見せたのは梨佳だ。彼女はどこか安堵したような笑みを浮かべて、無事を皆々に知らせ始める。
それに釣られて部屋の中を見渡せば、既に今回の主要人物たちは寝ていた葵を含めて全員が集まっていた。ラインヴァントはもちろん、オダマキにシャルロッテにエト。
——ただ一人を除いた、全員が。
「……葵。顔色悪いけど、まだ寝てなくて大丈夫か?」
その光景に目を細める葵に、奏太が心配するように声をかけてくる。
しかし彼のそれは、今目覚めたばかりだから、というだけの気遣いではないはずだ。
こちらを見つめる梨佳や芽空たちも、きっと。
「——、ええ。大丈夫です」
こみ上げてくるものは多くある。
けれど、今はそれを飲み込んで。
ヨーハンを拐われ、敗北したという事実に頭を抱えて嘆きたいのは葵だけではない。この場にいる誰しもの共通の感情であることくらいは、皆の疲れ切った表情を見れば分かる。
特に、奏太は。
「あの、奏太さんこそやつれているように見えますが」
「あー、それなんだけど……」
「面倒だから一気に説明しとけ、奏太。もっかい話整理する意味でも、な」
何か理由に言い澱む奏太だが、そこへ呆れたようでどこか真面目な口調の梨佳が割り込んだことで、話の流れは一転。事実確認へと移行する。
それを受けた奏太は言葉を選ぶように何秒か瞑目し、やがて長く息を吐いて、
「まずは負けたこと。分かってるとは思うけど、まずはそれを受け止めてほしい」
「……ヨーハンさんのことですね」
「……ああ。あいつらがまた、奪っていったんだ。俺たちが、間に合わなかったせいで」
受け止めて欲しい、そう口にした奏太は決して全てを飲み込めているわけではない。ぎりぎりと歯ぎしりをし、拳を震わせて、怒りの一切を隠すことなど出来てはいないのだ。
普段はおちゃらけている梨佳にしても、肉親である芽空にしても。
しかし、それでも誰も声を上げなかったのは多分、葵が起きるより前、彼らの間で既にやり取りがあったからなのだろう。
現に奏太もまた拳を緩め、「けどさ」と言葉を繋ぎ、
「シャルロッテは今ここにいるし、他のメンバーも欠けてない。葵にも思うところはあるだろうけど……良かったよ、無事で」
「————っ」
安堵し、ゆるゆると笑みを浮かべた奏太。
そんな彼に葵は、胸の奥底から何か熱い感情が溢れそうになって、言葉が音を得ることなく宙を舞う。
一体何を言おうとしていたのか、それは自分ですら全く把握していないことなのだけれど。
「…………いえ、ボクのことはいいんです。戦果の方は、どうだったんですか?」
無意識のうちに感情を抑えていたというのなら、好都合だ。これ以上無駄な心配をかけないので済むのだから、と。
そう判断した葵は話を次へと進め、
「ボクは……何も得られませんでしたが、皆さんの方は上手くいったんですよね。特に奏太さんなんかは」
「……買いかぶりすぎだろ。確かに得たものはあったけど、ギリギリだったしな」
「下民が油断したからでしょうが。あんな状況でぼうっとしてるから攻撃されるのよ。——ああ、だから下民なのね。本当に滑稽だわ」
「いや、油断は確かにそうだけど。悪態つくのはともかく、シャルロッテはシャルロッテでいい加減名前で呼べよ」
と、そこへ今まで退屈そうな表情でこちらを見ていたシャルロッテが入ってくる。
作戦が始まる前彼らはそこまで口数が多くなかったはずだが、言動から察するに、作戦中二人の間に何かがあった……と見るのが妥当なところか。
「……まあそれはそれとして、ですね。結局、成果の方はどうだったんです?」
「ああ、悪い。えっと……そうだな」
前々から脱線することの多い奏太ではあるが、葵としては一向に構わない。しかしそれでも彼を急かすのは多分、葵が——。
それを自覚するよりも早く、奏太は前のめり気味になって言った。
「——梨佳とオダマキがワンとツーを。俺がスリー、芽空がフォーを。それから、ファイブを希美が仕留めた」
「…………え?」
思わず葵は、聞き直そうとした。
だって彼の言葉が指す意味は、
「作戦開始直後にオダマキと持ち場を交代したりして、ゴタゴタしてたけどさ。それでも、各自が『カルテ・ダ・ジョーコ』を一人は倒した」
——何を、言っているのだろうか。
「葵のところに来たのは……その、ユズカだよな。でも、あいつが相手なら仕方ない。この場の誰よりも強いんだしさ」
——仕方ない。何が、何が仕方ない?
「俺とオダマキは各自撃破した後合流して、アザミと戦ったんだ。あいつは『昇華』っていう『トランス』の三段階目を使って来て……」
——いや、待て。今自分は何を思った? 他の誰かが言うことならともかくとして、奏太が言ったことだ。正しい、正しいはずだ。
「…………葵?」
——いや、正しくない。自分は強いはずだ。最弱と呼ばれても、仮にも戦闘員なのだ。慣れだって、普段の稽古だって、知識だって、憧れの奏太の師匠にだってなっていた。なのに、
「……全員、『カルテ・ダ・ジョーコ』を相手に出来たんですね?」
「あ、ああ。えっと、その、本題はその先なんだけど——」
「良かった、ですね」
「え?」
何度も言葉に詰まる奏太が、妙におかしくて。
「ぁ、は」
だから葵は、笑い出す。
最初は堪え切れなくなったかのように。次第に、加減をする術を失ってしまったかのように乾いた、けれど楽しげな。
「あは、はは、あはははははっ!」
たくさんの視線が自分に向けられているのが分かる。
むず痒くなるようなそれが、今は変に心地がいい。抑える必要も、気にする必要もないのだから。
だって何もかもが歪んで、気持ちが悪くて、吐き気がするくらいに笑えてしまうのだ。
とめどなく溢れてくる感情の全てが笑いの種となって、ただひたすらに。
「……葵」
尊敬する人も、脳裏に浮かぶあの少女の顔も。全てがごちゃ混ぜになって、もう、どうしようもないくらいに。
繋ぎ止めていた何かはもう、そこにはない。
だからいっそのこと、舌で噛み切ってしまえば楽に———。
「————葵ッ!!」
そんな思考が、一人の少年の怒声で止められた。
底なしの笑いも同時に音を失い、葵は焦点の合わない目で彼を見ようとする。
「……ぁ」
しかし瞳は光を宿さない。
膨大な喪失感が頭を支配して、認識を、理解を、言葉を奪っていく。
漏れ出たのも、ただの音だ。誰かと話すための何かはそこにはないし、その意思はもう葵にはない。
「…………いいか、よく聞け」
だけど唯一、それを聞こうとしたのは、ほんの僅かに残った葵の理性。
強い何かを言葉に乗せて、少年は言い放った。
「食堂へ行け。——そこで、ちゃんと見てこい」
*** *** *** *** *** *** *** *** ***
おぼつかない足取り。
それを誰も支えようとしなかったのは、途中から沈黙を守っていた梨佳が制止したからだ。
むろん、今現在自失した状態の葵にそれを理解するすべはない。
単純な命令を当てられたロボットのように、ただ食堂へ向かうだけ。
葵にはもう、その行動だけしか出来なかった。
ボロボロになって擦り切れて、辿り着いた結果。
言葉を理解しなければこうならなくて、だけど聞いておきたい相手はいて、そんな相容れない感情の終わりはもう、すぐそばに。
「…………ぉ、あ」
そして辿り着いた食堂。
どうしてここへ来れたのか、葵自身も分かってはいない。
だけど分かっていたことはあった。
視界に映る、食器群。
盛り付け、冷蔵保存しておいてもらったそれは、丁寧にも大テーブルの上に並べられていた。それが何であるかを、葵は知っていた。
「…………ぁ」
——作戦が始まる数時間前に、頼み込んで残しておいてもらったもの。
恐らく彼女は自分のところに来るだろうからと、奏太に、皆に頼んだもの。
「……ユズ、カ」
いつも悪びれもなく自分の物ばかりを取っていって、だけど笑顔を見せられれば、つい許してしまう自分がいた。いたのだ。
「……ユキナ」
妹のためにと生きてきた彼女を。彼女に、自分は何が出来たのだろうか。
——何も出来なかった。
ユキナの存在をいつの間にか軽視し、油断して。だからきっと、この事態は起きた。
奏太のせいなんかじゃない。
ブリガンテが復活したと聞いた時点で、学校をサボってでもユキナの側にいれば、二人は離れることなんてなかったのだ。全ては、自分が。
「ユズカ……」
彼女に手が届かなかった。
伸ばしても、どうやっても。
「ユズカ…………っ!!」
愛しい少女の名を唱えても、時間は戻りはしない。
眼前の——彼女のために用意しておいた料理も、食べる相手は来やしない。もう、彼女は。
そんな時だった。
何か、乾いた音が鳴り響いた。
ほんの一瞬、部屋のどこかじゃなくて、ずっと近く。続けて痛みが、自分の頰から。
「——葵」
それが平手打ちをされたのだと分かったのは、数秒後。
信じられないものを見るように葵は顔を上げ、正面を見つめる。
「奏太、さん……?」
震える声と、突然のことに真っ白になる頭。
それも当然だと言えよう。
「…………いいか、よく聞けよ」
——目の前には黒髪の少年、三日月奏太。
彼は鼻面にしわを寄せ、睨むようにこちらを見つめ、怒りを露わにしていたからだ。
そして、ゆっくりと。
突き放すように奏太は言った。
「天姫宮葵。————お前は弱いよ、誰よりも」




