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黒と白の世界と  作者: 夕陽ゆき
第三章 『反転』
103/201

第三章40 『焦がれた少女の奇想曲』



 継続される戦闘で、次々に被害が拡大していくヨーハン邸。

 それは『カルテ・ダ・ジョーコ』のスリーが奏太と接触し、ワンとツーが梨佳と戦闘を始めてから、より深刻なものへとなっていた。


 荘厳な雰囲気のある大階段前も、優美な装飾が施されていた廊下も、窓も、壁も。それでも建物が崩壊を始めていなかったのは、ルクセン家が都市再構築の際に多大な金額と技術を費やしたからに他ならない。

 そして、


「————食らえ、この性悪女ぁあ!!」


「当たらねーよ、っと!」


 まるで甲冑に覆われているかのようなツーの黒色に変化した両腕、そこから繰り出される乱打を梨佳は地を滑るようにかわす。

 広い一室の中で、あるいは廊下で。

 梨佳が攻撃を避けることで窓や壁が割れ、時たま破片が飛んでくるが、その全てをも避けきる。

 右に、左に、視界が休むことなく動き続けるが、それでも余裕の笑みを崩さないで。


 むろん、この笑みは相手を舐めてかかっているわけでも、勝利を確信しているが故のものでもない。

 いや、むしろツーは年相応というべきか、動きこそてんで素人、大ぶりな攻撃ばかりだが、彼の能力の本質がまだ見極められていない以上、下手に行動に移るのは危険である。


 ましてや、彼の呼びかけで現れたワンが未だ接触してこないことが何よりの気がかりなのだ。

 自分の不意をついて後ろに立っていたこともそうだし、戦闘をツーに任せきりにしていること。

 何か思惑があってそうしているのか、既に『何か』を仕掛けた後ならば————。


 などと考えてしまうので、笑みなんて浮かべられるはずがない。現に今は廊下の端の端、柱に背中を預けるまでに追いこまれている。

 しかし、だというのに、何故梨佳は笑っていられるのか。

 それは、


「お前、柱にぶつけないようにしてるだろ?」


「————!」


「沈黙は肯定なり、ってな?」


 忘れてはならないことが一つ。

 この襲撃におけるブリガンテの目的は、あくまでヨーハンあるいはシャルロッテの誘拐、『ビニオス』と呼ばれる水中呼吸薬の入手だ。

 ならば当然、ターゲットを殺すわけにもいかず、ある程度のセーブがかかる。それを数分の拳の交わりで見抜いた梨佳は、試しにあえて追い込まれてみたわけだが——見事にビンゴだ。


 一瞬の躊躇いにより、黒腕の猛攻を止めたツーの横腹に左脚の回し蹴りを叩き込む。

 回避の間に合わなかった彼は直撃をくらい、壁に激突。その隙に梨佳は廊下を一気に駆け抜け、誰もいないことを確認、扉を開けて中へ入り、


「…………あん?」


 火照った体を冷ますため、カッターシャツを脱ぎ、腰に巻こうとして——違和感に気がつく。

 自身の服ではない。戦闘で多少乱れてはいるが、下に着ていたキャミソールも、スカートも、これといって何か変化があるわけではなく。

 梨佳が視線を向けるのはそれよりも前、たまたま飛び込んだこの広間の全体だ。


「これは一体……」


 空気中の何か。

 月光に照らされた線状のそれはキラキラと光を反射しており、一本一本はとても細いようだが、所々で束になって太くなっているもの、幾重にも重なって網状になっているものがある。

 それも、そこら中に。


 どう考えても危険だと判断できる違和感を前にし、梨佳は息を吐いた。

 ——これは相当面倒な相手だ。


 そう結論づけ、先程から頭の中でうるさいくらいに鳴っている警鐘に従うと、ほんの数分前の謎と目の前の光景を繋げ、嫌な予感を確信に昇華させる。

 こうなったら、自分が取るべき手は一つだけしかない。


 巻く途中だったシャツを腰に強く結び、キャミソールを軽く扇いで風を取り込むと、


「————ワン、つったよな。そこにいるんだろ?」


 月光の当たっていない広間の暗がりを、梨佳は翠眼を細めて睨みつける。

 すると数秒の間を挟み、影が揺らぎを起こしたかと思えば、姿を現した男——ワンがゆっくりと口を開く。


「……よく、分かったね」


「どう考えても怪しさしかねーんだよ。あーしが見たとこ、お前の『トランス』は蜘蛛だよな?」


「確かにそうだけど……」


「あん?」


 のそりと姿を現した両目隠れの茶髪頭。彼は陰りを帯びた声で「いやね?」と言葉を継いで、


「ツーの慌てふためく様はずっと観察していたよ。あなたがその魅力的な肢体を使って、彼を誘惑しているところも。……もちろんそれは一つの手であるし、はっきり言って騙されるツーもどうかと思うんだ。……でも、だからこそね?」


「前置きがなげーよ、早く話せ」


「ああ、ごめん。えっと……そう、あなたのような女性と話せる機会は少ないものだから、つい興奮してしまったんだ。——とかく、そんなあなたが今こうして僕に追い詰められているというのに、危機感を覚えていないのが不思議でならなくて」


 そこまで言って、堪えるように笑うワン。

 たった数言交わしただけではあるが、彼の発言内容と、鬱陶しい笑いに梨佳は思わず眉間にしわを寄せ、小さく一言。


「…………うわ」


 何ともまあ、ひどい相手である。

 ツーはまだ女性を意識したばかりの子ども、と言った印象を受けるが、彼に関してははっきり言ってあまり関わり合いになりたくない人物だ。

 発言の端々に取れる梨佳への好意、勘違い、そして極め付けはその視線である。


「どうしたの?」


「いや、何でもねーよ。そういやうちの連中にお前みたいなのはいねーなって」


 平静こそ装ってはいるが、ちらちらと向けられるワンの視線は梨佳の上半身——キャミソールの膨らみ部分に向いている。

 ……要するに色欲が有り余っている系男子なのだ。


 いや、こんな格好をしている以上は見られても仕方がないとは思うが、今がどういう状況なのか分かっていないのはどちらだと殴りつけてやりたい。本当に。


「あなたの仲間、か……。そうだ、多分そろそろツーも来るだろうから一つだけ教えておいてあげるよ」


「あん?」


 さっさと片付けてしまおうと左拳に力を入れる梨佳の心境を知ってか知らずか、ワンは五本指を立てると、


「二日前に下っ端のほとんどがやられちゃったからさ、今回連れてきた人数は少ないんだ。一階からこの城に入ったのは四組で、その全てはあなたがやっつけてしまった。……じゃあ、もう一組はどうしていると思う?」


「…………まさか」


「うん。そのまさかなんだ。投擲……というのが正しい表現になるのかな」


「『獣人』が下っ端達を投げてるってのか?」


「そういうこと。スリーっていう、かなり力の強い奴がいてね。既に彼が率いてる残りの一組達が上階から侵入しているはずだよ」


 楽しげにそう言ってみせるワンだが、彼の言っていることが真実であるならば、奏太がシャルロッテのところへたどり着くよりも先、その組と遭遇している可能性がある。

 あるいは、オダマキも。


 そうなると戦力にならないエトはさておき、芽空一人では守りきれない可能性も出てくるわけだが————。


「んじゃ、ついでにもう一つだけ聞いていーか?」


「いいよ、質問にもよるけど——と、言いたいところだけど。もう時間みたいだ」


 梨佳がワンの言葉を聞いて振り返ろうとするが、それよりも背後に何かが迫ってきている感覚がして、左に避ける方が早い。

 半秒後に、自分が先まで居た位置を右の黒腕が襲い、結果当たらずに宙を切る。

 そして現れたのは、


「今のを避けるかよ、性悪女!」


「ま、奏太達よかあーしは経験値あるし、直感である程度な。……ってお前その姿」


 ニット帽の少年ツー、であることは間違いないのだが。

 目を疑うべきは頭頂部と両の黒腕の先だ。


「驚いたか? オレの『トランス』は『ムカデ』。たとえ性悪女でも気持ち悪くて——」


「いや、あーしはそっちのが好きだぜ? 嘘抜きで、カッコいいし」


「なっ——!?」


 率直な感想を述べたところ、何やらまた騒がしく反応をしているようだが……紛れも無い梨佳の本音である。

 ニット帽からは二本に分かれた赤い触覚がはみ出しており、両腕に至っては腕でムカデを再現している、と言って良いだろう。

 黒甲冑のような腕と、手首より下の熟したトマト色の手。同色の触覚が手の甲から出ていることもそうだが、これであの多くの足が生えていたらと思うと、ワクワクが止まらない——というのが本音。


 世間一般の女性のほとんどは虫が嫌いだの怖いだのと言うのかもしれないが、別に梨佳は何とも思わないのだから。


「……また騙してるだろ、オメェ」


「いや本音だっつの。両腕からムカデとか超カッコいいだろ、多分強ぇだろうし」


 とはいえ、それが一度騙した相手に信じてもらえるかと言われれば、また話が別である。

 ツーは梨佳の言葉に頭を振って、一度その場で跳ぶと、そのまま黒の両腕を構えた。


 ————来る。


 そう確信したのと、ツーが地を蹴ったのは同時だ。


「こ、の嘘つき女ぁぁああ!」


「どんだけ根に持ってんだよお前は!」


 グネグネと、宙の中で形を曲げ、縦から、横から、斜めから襲って来る両腕。それは先ほどの打撃の応酬とは異なる立体的な攻撃で、感情が高ぶっているからか動きも段違いに早い。


 振り下ろし、突き、薙ぎ払い、回転の乱舞。


 これを梨佳は避け、受け流し、バックステップ、連続宙返りでダメージをゼロにする。

 彼の攻撃はいずれもぎこちないとはいえ、一撃で床やテーブルを破壊する威力と速さがあるのだ。ムカデの性質を考えても、正面から受け止めるのは危険だろう。

 だからこそ自然と一定の距離を守らなければいけなくなるし、『憑依』状態の梨佳にはそれが難しい。


 加えて、


「うっぜーなこの糸……!」


 ワンがこの広間に仕掛けていた蜘蛛の糸。自然のものとは比較にならないほどの強度があるそれに時々接触し、動きに一手遅れが出る。

 仕掛けた張本人である彼が見当たらないところを見ると、恐らくは最初に現れた時のように天井へ登り、再度包囲網を広く、強固なものとしているのだろう。


 そしてそれは、ツーにも悪影響を及ぼしているかのように見えるが、そうではない。むしろ逆だ。


 無数の蜘蛛の糸の間をくぐり抜け、包囲網の完成していない奥へと駆けようとすると、


「オメェだけは逃がさねえかんな」


「——っ、束縛する男は嫌われんぜ?」


 糸の間から右の黒腕がシュッと伸びてきての梨佳の髪を掠めかけた。

 しかもそれは一度だけでなく、何度も繰り返し。

 こちらが反撃しようとしても糸は腕に絡め取られるのに対し、彼は腕だけの攻撃ならすいすいと糸の間をくぐり、梨佳の元へ到達し得るなど何と都合の悪すぎる話か。


 彼の腕がムカデのようにぐねぐねと曲げられる細いものだからこそ出来る芸当であるし、ワンとツー、彼らがお互いの能力を分かっているからこその連携なので、よく考えられていると認めざるを得ないのだが。


「おぉっと、あぶね!」


 しかし、だ。何とかまともな一撃を受けてはいないが、このままでは当たるのも時間の問題だろう。

 しかもそれは、ムカデの性質を考えれば威力に関係なくかすり傷程度でもまずいはずだ。


「……確か、『ムカデ』には毒があるらしーな。ってことは、お前のその攻撃も……指先は危ないってこったろ?」


「そうだよ、性悪女にお仕置きするためにな!」


「……あーしはされるよりする側の方が好きだけどな」


 お仕置きがどうこうはともかくとして、さらに状況が厳しいものだと分かったところで、糸が集中している部屋の中心部分から離れ、壁際へと駆ける。


 ワンによって作られたこの罠は時間が経てば経つほど隙のないものへと変わっていくが、それでも今ならまだ穴はある。テーブルの下もそうだが、特に壁際。

 線を重ねて網を作っているのなら、重ならない端部分は手薄になるものだ。

 それを利用し、壁を伝ってこの部屋からの脱出を図ろうとするが————、


「……甘いよ」


「ちっ、そりゃそんな都合良いわけねーよな」


「ちなみにこの部屋の外、階段へ向かう方にも張り巡らせておいたんだ。……美しいあなたを、捕まえて捕食するために」


 天井につけた糸からぶら下がり、宙で静止しているワン。彼はドアの前で糸を張り巡らせ、梨佳の退路を断っていた。

 堪え切れていない笑いがその口からは漏れており、話している内容も相まって、


「…………やっべぇ、お前気持ち悪い」


 心の底から、吐き気を催すくらいにドン引き。

 戦闘中だというのに思わず背中から寒気が走った。


「能力だけで言えば、お前まあまあなのにな。欲望丸出しなのがアレだけど」


「あなたは肉体、精神の両方が魅力的だからね、当然さ。……ところで、一つ聞いていいかい?」


 ワンは梨佳があからさまに嫌な顔をしているというのに、一切動じず。どころか、喜んでいるあたりがもはやどうしようもない。

 そんな彼が宙にぶら下がったまま梨佳を指差すと、


「————どうして君は、笑っているの?」


 その問いかけに梨佳は答えない。

 ただひたすらに、彼の言った通り笑みを浮かべたまま。

 後方からは未だ絶えぬ怒りを引っさげ、明確な敵意をこちらに向けるツーが来ているというのに。


「……ようやっとオレに裁かれる気になったのかよ?」


 重ねるようなツーの問いにも、答えず。


 確かに不自然かもしれない。出口は塞がれ、部屋全体を蜘蛛の糸——巣が覆っている。前方にはワン、後方にはツー。

 動きを遮られ、あるいは最悪の場合封じられる糸の使い手に、一撃でも食らったら毒で致命傷の相手。


「わりーけどさ、あーしは読モやってんだ。だから、あんま体は傷つけらんねーし、そもそもやられる気なんてねーよ。お前らの、どっちの意味でも」


 だが、梨佳はそれでも余裕を持ってけらけらと笑う。


 奏太は『カルテ・ダ・ジョーコ』について、オダマキよりも弱いと称していた。

 確かにその通りだ。

 どちらか片方が相手なら多少の苦はあれど、倒すことは可能。特にワンに関しては『蜘蛛』だから、噛みつきと糸にさえ気をつければ瞬殺、と一言で言ってもいいくらいに弱い。


 ただし、二人揃えば話はまた変わってくる。

 まだまだ荒削りではあるが、今後に期待できる強さを持ったツーとワンが力を合わせている以上、その力は梨佳の全力と同等——あるいはそれ以上あるかもしれない。

 それだけ、数の力は強いのだ。

 頭も、力も。


「一つ、お前らに教えておいてやるよ」


「……何を」


「あーしに好きな人はいない。けど、あーしを好いてくれるやつはいるんだ。そりゃもう、忠犬みたいで鬱陶しいけどな。……払っても払っても、あーしのとこに来るんだぜ?」


 誰かに手を借りることは大切だと、そう教えてくれた薄青の少女と、自分がそう教えた黒髪の少年。

 それから、今一番に手を借りたい男の顔を思い浮かべて、梨佳は言った。


「あーしに惚れられたいんなら、ここらでカッコつけろよ? ————オダマキ」


 直後、ドア諸共壁が吹き飛び、爆風でワンが吹き飛ばされた。


 突然のことに地面を転がるワンも、ツーも、驚きで声が出ず、ただじっと白煙の向こう側、梨佳が声をかけた相手へと視線を向ける。


 そこから現れたのは、己の茶金の髪をかき上げ、睨みを鋭くするチンピラ風の男。

 彼はワンとツーを交互に見て、それから梨佳へと視線を移し、


「おうよ、アネキ。このオッレオダマキが、こいつらをぶっ潰してやんよ!」


 大幅な遅刻をしたオダマキが今、梨佳と合流を果たした。



*** *** *** *** *** *** *** *** ***



「んじゃオダマキ、早速お前の爪であの鬱陶しい蜘蛛の巣切れ。引っ付いたら『部分纏い』リセットな?」


「いやアネキ、こいつらは……」


「その後でやれ。蜘蛛の巣邪魔で動きづれーんだよ」


 梨佳の強引な指示に対し、オダマキは何か唱えたいことがあったようだが、ひとまずそれを飲み込むことに決めたのか強く頷いた。

 そしてゆっくりと力を込め、『部分纏い』を発動させて土色の岩肌を纏うと、片っ端から蜘蛛の巣に突っ込んで黒漆の爪で切り裂いて行く。


 それはもう、人が蜘蛛の巣を取る本来の構図そのままに。


「…………僕の、糸が」


 その光景を目の当たりにし、地面に膝をついたまま呟くのはワンだ。


 広間全体に加え、廊下にまで。ありとあらゆる梨佳の退路をふさぎ、捕まえる手段を講じた彼にそういう目的があったかどうかは分からないが、それなりに時間を費やした包囲網を、ぽっと出の男に一瞬で壊されるのはたまったものじゃないだろう。


 とはいえ、


「あーしの『トランス』じゃあれは切れねーしな。だからまあ、今回だけあいつがいて助かったわ」


「あんなのがいるなんて、聞いてないよ!」


「そりゃ、元々ラインヴァントにはいなかったからな。ダークホース……っていうには失格だけど。迷子の上遅刻しやがったし」


 助かったといえば助かったし、感謝もしている。

 が、元はと言えば彼がバカなことをしでかした結果がこれなので、許すか許さないかで言われれば許さない。


 ……などという梨佳の事情はさておくとして、梨佳は視線を横に——先程から黙ったままのツーへと向ける。


「……お前との決着、つけねーとな」


「————」


 オダマキの登場でうやむやになりかけていたが、ツーはワンと違って戦意が喪失したわけではない。

 むしろ、梨佳に対する怒りは今も変わらない。そもそもが敵対する者同士なのだ。梨佳は彼らを倒して上に向かわなければならないし、彼らは梨佳を倒して。


「——アネキ、全部むしってやったけど、オッレはどうすりゃいい?」


 と、そこへ割って入るように蜘蛛の巣を全て破壊したオダマキが結果を知らせ、次の指示を求めて来る。

 それに一瞬、ツーが反応したように見えたが、


「向こうの蜘蛛男、ぶっ倒してこい。とりあえず糸出せないようにしときゃいいから。——オダマキ。手加減だけは、するなよ?」


「わーってるって、アネキ。じゃ、倒して来るぜ」


 ひとまずは同じ被害を出さないために各個撃破。それをオダマキに任せ、梨佳は向き合わなければならない。


 ——自分が傷つけてしまった、少年の心に。


「お前、あーしのこと怒ってんだろ? なら、全力で——」


「…………ツーって、呼べ」


「あん?」


「お前じゃない。オレはツーだ! 強くてカッコよくて、中一なのに『カルテ・ダ・ジョーコ』に選ばれてる、すごいやつなんだよ!」


 まるでそれは、自分に言い聞かせているかのような叫び。

 見ているだけで痛々しくて、自身の中にある鬱憤を周囲に撒き散らしているような。


 だが、彼が告げた言葉。

 それを聞いて梨佳は確信をした。

 ニット帽の少年、ツー。彼の発言は、抱いていた感情は、間違いなく。


「————なら、これで決着だ。ツー。あーしとツーの、今のな」


「——っ、梨佳。一つだけ、約束しろ」


「約束?」


「……その、オレが勝ったら、付き合え。ああいう、恥ずかしいのじゃなくて。手を繋ぐとか、そういうとこから!」


 たどたどしく、どこかで見たような光景だ。

 一人の少女に対し、顔を真っ赤にして接する。自分も告白なんかをされたことがないわけではないが、まさかこんな戦場で告白されるなんて思いもしなかった。

 自分が利用し、招いた結果なのだが。


 しかし、だからこそ梨佳は笑わない。

 この場でなかったとしても、不純でない好意を伝えた者に悪い奴はいないと知っているから。


 たとえば、後ろでワンと戦っている最中のオダマキこと落田真咲。


 たとえば、今頃シャルロッテを守るために戦っているであろう三日月奏太。


 たとえば、梨佳にも、奏太にも。好意を伝えて、世界を愛していたあの『青薔薇の姫』——美水蓮も。


 もう一人はまだ伝えてはいないし、道に迷ってはいるけれど。それでも、皆が皆純粋な好意を抱いていた。

 敵とはいえ、誰かの心を弄ぶような自分とは大違いに輝いている。本当の、本当に。

 美しく、清らかに。


 だからこそ、梨佳は笑う。

 それが少年に対する礼儀で、自分自身に対する罰だ。


「分かったぜ、ツー。その約束と想いは受け取った。こんなあーしで良いんならそうしてやる。……あーしに、勝てたらな」


「あとそういう格好も禁止、オレの目に毒だ」


「いや、それはまた別の話だわ」


「んな——っ!」


 拳を交える前の、ほんの一瞬。

 敵も味方も忘れて雑談をする。


 そんな甘さとも言うべき余裕が出来たのは、彼女のせい……いや、おかげなのかもしれない。

 きっと以前ならば、問答無用で、それこそ手加減などなしに戦っていただろうから。


 妙な感慨が頭の中に割り込んできたので、とりあえずそれは頭の端に。向き合うべきは目の前。

 息を深く吸って体を沈め、奥底に眠る力に語りかける。

 そして、


「ぅ、らああああ!」


「しィイイ!」


 互いの足が地を離れたのは同時。

 だが、梨佳の方が僅かに速い。

 左の飛び蹴りを彼の顔面にぶつける——直前、ツーの右の黒腕が左脚へと突きを繰り出してきて、これを左脚を下に沿わせる形で回避、胸元を掠める。しかし、それだけには止まらない。

 回転を利用して今度は右の回し蹴りを彼のみぞおち目掛けて叩き込む。


「——く、ふう」


 直撃した、と判断するよりも前、足裏に変な感触があった。

 左腕だ。みぞおちへ蹴りが刺さる直前、ツーが左腕を差し込んだのだ。

 そして同時、空いた右腕が梨佳の顔面に迫り、寸前のところで止まる。それは左腕に守られたとはいえ、仰け反らせることに成功したからだが、そううかうかと喜んではいられない。


「痛え、けど! オレはァ!」


「大した根性してんな、中一!」


 右腕を引っ込めたツーは今度は蹴りを混ぜ、左腕を庇いながら攻撃を繰り出してくる。

 どの一撃だって決して軽くはない、重く、熱い感情の乗った攻撃を。


 怒り任せの両腕だけの時とは違い、蹴りまで混ざればさすがに全てを食らわないなど無理な話だ。

 腕を、足を、腰を。毒を受けていないことが奇跡的ではあったが、それでも充分な威力。体力は徐々に低下して行き、傷は痛みを増して行き、


「強いな、ツー」


「でもまだ勝ちじゃない。そうだろ!?」


「当ったり前だ!」


 特に腰が痛み、思わず手で押さえてしまうが、それでもまだ負けではない。

 梨佳は文字通り全身全霊を、振り絞るように体を動かす。

 そして一度大きく距離を取り、駆けた。


 彼もまた痛みが残っているのだろう、左腕も使ってはいるが、最初と比べれば動きは遅い。


 ツーの右腕の突きを、その下をかいくぐることで回避。手刀を腹に叩き込もうとして、膝蹴りを食らいそうになり、そのまま横に逸れる。駆けた勢いを殺し、振り返ってがら空きの背中に掌底をかます。

 ツーの体が一瞬宙に浮くが、振り向きざまに薙ぎ払われる右腕に、梨佳は体が間に合わないと判断、一瞬だけ『纏い』を発動させ、ブリッジをするようにして避けた。

 それからすぐに体を起こし、手刀をぶつけようとして、


「これで——終わりだっ!」


 こちらに向き直ったツーの右腕による突きが迫る。対して、思考は直後、判断は一瞬。方法は一つだ。

 右腕が刺さるところで体を横にして回避、だが重ねた無理に痛みが増し、腰を抑えて————。


「ご、ふ」


 負傷で動きの遅くなっていたツーの左腕。それが繰り出され、梨佳の白シャツを迷いなく貫いた。

 何かを吐き出すような——どこか、笑った声とともに。


「は!?」


 ツーの驚きの声が上がるが、既に遅い。

 両腕の下をかいくぐり、宙返り気味に放った蹴りが、『イルカ』の尾びれによる一撃がツーの顎元を直撃。


 永遠とも思える一瞬、宙に浮かんだその数秒の間に二人は目が合い、そして強い衝撃音とともにツーは落下し、倒れた。


「…………ふぅ」


「……負けた、か」


 ゆるゆると、安堵の息を吐く梨佳に、倒れたままのツー。彼はこんな戦場の場だというのに、表情はひどく穏やかだ。


「誇っていーぜ? ぶっちゃけ、下手すりゃオダマキよか厄介だし、ツーは強い。あーしが保証してやる」


「……でも勝てなかった。本音だったんだけどな、オレ」


「気持ちは嬉しいけど、今はダメだ。まだあーしはツーのことを全然知らねーし、敵同士だ。そもそも好意を抱くかどうかすら分かんねーんだ」


 そんな彼を見下ろし、梨佳が向けるのは、いつも奏太たちに向けているような親しみのある笑み。

 知らないことはたくさんあれど、知っていることはある。ならば、そうするべきなのだと思うから。


「…………梨佳」


「ん、どうした?」


「『獣人』と人なんて、付き合えねぇよな?」


「————」


 何かを堪えるようなその言葉は、恐らく彼の過去に関わることなのだろう。あくまで、予想だが。

 そして多分、彼のような少年がブリガンテに入った原因でもあるはずだ。


 『獣人』と人はそう簡単に交われるものではない。

 それはこの世界において、誰しもの共通認識であり、特に『獣人』はそのことについて苦渋を飲まされ続けてきた。


 ——だけど、梨佳は知っている。


「そーでもねーよ?」


「え?」


 きっかけも出会いも、本来の境遇も知っている今では厳密に言うと異なることくらいは分かっているが、たとえひと時でも、自分は感銘を受けた。だからこうして、彼女のように誰かを救ってあげるのも悪くないと、そう思うから、


「あーしは、『獣人』なのに人と付き合ってたやつを知ってる。そんで、正体がバレても。そりゃ全員が全員そうじゃねーけどさ、あーしの親友は……そうだった」


「『青薔薇の姫』のことか?」


「そういうこった。だから、別に人を好きになることは構わねーし、ツーだってまた——」


「いや、今のオレは梨佳だ。梨佳が好きなんだって」


「…………そっか」


 諭すような梨佳の言葉に、顔を赤くして好意を伝えてくるツー。

 体も痛むだろうに、よくもまあ元気よく言えたものだ。


「ま、それなら、だ」


 乱れた髪を手櫛で直し、唇を右手の人差し指でそっとなぞるように触れる。

 そして、ツーの顔の前でしゃがむと、


「ブリガンテとの戦いが終わったその後。まあ、どっちも怪我してるだろうけど、その後でまたあーしのとこへ来い。ちゃんとダチになって、そっからだ。また話そうぜ、ツー」


 彼の唇を、先ほど自身の唇へ当てていた人差し指でなぞる。

 口づけはあげはしないが、せめてもの褒美と、謝罪だ。

 好きになった自分のために全力で戦ったことと、好きにさせてしまったこと。利用してしまったこと。


 あまりの出来事にツーが爆発しそうになっているが、それでも。


「名前、なんて言うんだ? ツーじゃなくてさ、本名」


「本名…………」


「あーしは戸松梨佳。ツーは?」


 梨佳の問いかけに、彼は躊躇。

 何度か口を開閉し、戸惑い、考えて、


「……じゃ、友達になる時に教える」


「んだよ、それ。……まあいいけど。そんじゃ、あーしは行くからな。死なねーよう、気をつけてな」


「もう行くのかよ」


 迷った末の、彼の決断。

 それを梨佳は聞き入れ、受け止めて。すっかりボロボロになってしまったシャツを抱え、立ち上がると、最後に一度だけ少年を見つめる。


 彼に対して答える言葉は決まっていた。

 一人の女としてでもあるし、親友の頼みでもあるし、梨佳自身が望む言葉。


「——そりゃ、あーしはみんなのお姉さん、だからな」


 梨佳は穏やかに、僅かに頬を染めながらそう言った。

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