四十一冊目・「外道の歌」「善悪の屑」・渡邊ダイスケ
渡邊ダイスケ・「外道の歌」「善悪の屑」
今回は漫画です。まずはウィキペディアから一部抜粋します。
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『善悪の屑』(ぜんあくのくず)は、渡邊ダイスケによる日本の漫画作品。少年画報社『ヤングキング』2014年10号から2016年7号まで連載されたのち、第2部『外道の歌』(げどうのうた)にタイトルを変更して2016年8号から引き続き連載されている。2021年4月時点でシリーズ累計発行部数は460万部を突破している。
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(以上、引用終わり)
内容ですが、まったく知らない人に向けてなら紹介は四文字書くだけですみます。これは「復讐漫画」 です。主人公のカモと相棒トラの二人で復讐代行業をやっています。表向きは古本屋、裏の仕事が復讐代行。
何らかの事件の被害者もしくは家族が依頼する。心身ともなんらかの被害を受けたものたち……彼らの依頼でカモトラのコンビが復讐してあげる。復讐代行にあたり加害者の命まで取るか取らないかはカモの一存で決まる。
おもしろいことにカモには商売敵がいる。朝食会といってこちらは復讐を代行するのではなく、加害者を拉致して捕縛し、依頼人自身に復讐をさせるという形。カモたちと直接対峙するのは、榎という若い女性。榎もまた過去は犯罪被害者の立場だった。とかく登場人物全員が過去を背負っている。
復讐といってもいろんなパターンがあり、復讐がないストーリーもある。カモはじめ、依頼者、加害者、被害者それぞれのドラマも丁寧。実在した事件をベースに描いたものが多々あり、加害者は復讐されて当然というクズばかり。たまに復讐と関係のないストーリーで緩急つけている。
作者の渡邊ダイスケは、被害者のみならず加害者側の普段の生活、そして思考を簡潔なセリフとリアルな描写で描く。そういう意味で読者にわかりやすく描ける漫画家さん。感情の押しつけがましさ、くどさがないのが気に入っている。日常的に誰しもが加害者や被害者になりうると思わされる。
さて私は復讐そのものを肯定する側です。しかもカモのように復讐代行してくれる人が実際にいるなら依頼する。給料三か月分、もしくはお小遣い三か月分というのはかなりの激安でしょう。非合法なことだと承知のうえで、誰が読むかわからぬネットでこんなことを書くのは、もし事件被害者になって警察も裁判所も関係してくれても、それで救いになるかといえばならないから。事件前の状態には誰しも戻せない。ならば加害者をこの世から消すしかない。その心情がわかるから。
ある日、某ストーカーから、家族を道連れに襲うって言われてごらん。私の場合は確たる証拠があったので警察から警告をしてもらった。でもそれで終わりです。幸い相手は警察を怖がる人物だったので、表面上は納まりました。でもそれで解決にはなってない。私は未だ安心できない。警察に注意してもらったから、もう安全と割り切れない。そういったもやもやは誰が解決してくれるかということです。警察は犯罪と民事の境界が明確で、事件が起きた後なら警察、そうでなければ弁護士に相談しろという。ストーカーは親が某組織の関係者だと凄んで逃げました。私が強大な権力にあこがれるのは、まさにそこ。復讐したい人間がいるからこそ、こういった復讐譚に魅入られる。架空の人物とはいえ
カモもトラもカッコいいです。
本作は今年四月時点で累計発行部数四百六十万部です。ロングセラーの人気作。私は外道の歌から読み始めて、それから第一部の善悪の屑で登場人物の人間関係を把握しました。でも、どちらから読んでも差し支えない。スピンオフで登場人物を別の漫画家さんが描いた「園田の歌」 というのもあります。「園田」 は、サイコパスの殺人鬼ですが、なんとなく憎めないキャラになっている。でもカモに復讐されて死んだときは、やれやれと思いました。
本作で描かれる復讐譚は被害者の心を宥めたり鎮めるために、加害者を痛めつけるもしくは命をもって償わせる。犯罪者がすべて良心の呵責に耐えているわけでもない。ひらきなおるものもいるし、その場しのぎでなんとでも言う。なぜ復讐されるのか理解できないのもいる。いろいろです。依頼者と復讐される加害者双方の心理が克明に描かれており、そういう意味では新しさを感じた。
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以下は個人的なエッセイになります。
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◎◎問◎◎ 他人に精神的身体的かかわらず危害を加えておきながら、反省の念を持たない人間に対してどう扱うべきか
◎◎答◎◎ ⇒ ⇒ ⇒ 「復讐をもって一区切りつかせるしかない」
私は無神論者です。他人に寛容であれ、という性善説は若い頃は信じていましたが、人にだまされたり嘲られた経験もあって、初老を迎えた今は寛容になれるのは相手による。性善説だけで生きていける社会はもう終わっている。人の善意、好意を逆手に悪事を働く人間は多い。法に捌かれなくてもそういった輩に対して罰せることができたら、どれほど世の中生きやすくなるだろうか。でもそれができる人間はいません。かなりの上級国民なら可能かもしれませんが、たいていの人間は私を含めて無力です。それでもカモが実在していれば引き受けてくれるでしょう。つまり私には元々こういった復讐譚にハマル素地があるわけです。
神仏の話は私に限っては卒業しています。聖職者のいう弱い立場の信者に対していう、見守り、慈愛、諭しは、傷ついている信者に対して諦めと寛容を求めるものです。神仏はこんなことを書く私に哀れむだろうか。否、彼らは医師と同じで救える人だけを救う。心の広さ、許容は慰めと癒しになりますか、という質問に聖職者なら「イエス」 というでしょうが、私は「ノー」 です。いじめの加害者が反省して許しを請うてきたら、許してあげるべきという風潮。反省してきたら許してあげなさい、水に流してあげなさいというのは、それこそ被害者の苦しみをわかっていない傍観者による二次的加害です。
作中で娘を殺されたという依頼人が、殺人者に向かって放つ言葉……許すことが人間として正しい事なんだとしたら……という言葉は私を嘆かせる。悪人を許さないことは悪ではない。復讐は悪いことではない。当然の感情です。
悪人を罰するために警察組織は必要だけど、最低限のことしかしない。死刑を反対する人権団体も存在する。神仏ですら信じるか信じないかの世界で、信仰心をお金に変えるお商売だと思うにいたることがあり、かなりひねくれてしまいました。
本作がロングセラーということは私のように共感を覚える人がそれだけ多い現れです。繰り返します。犯罪の加害者に復讐心を持つことはごく自然なこと。人を許せないと人間としてダメなのか、それは違う。許せないことは許せなくて当たり前の現象です。
たとえ犯罪にいたらなくても、この相手になら何をしてもよいと思われていて実際にそうしたら、相手から復讐されても仕方がない……私に関しては、この世に後顧の憂いなくという状態が、どうも無理そうと思った時点で、怖いものがなくなりました。ただ子どもや社会的な立場があるので、実行できないだけ。とても残念です。私は無力な庶民でなく、上級国民になりたいです。
主人公カモの商売敵になる榎のやり方はカモのそれと根本的な違いがあって、面白い。ターゲットがだぶることがあり、依頼者が復讐代行よりも直接復讐させてもらう榎の方に鞍替えする。これにはすごく考えさせられた。復讐はおまかせで代行してもらうか、直接復讐をやらせてもらうべきか。ついでながら本作は一貫して警察無能。カモの叔父が刑事でカモのしていることはやりすぎだと忠告はしても、黙認の上捜査情報を流す。時にはカモへ依頼客を連れてくる。このあたりの創作がとてもうまい。連載にいたる経過を知りたかったが、公表されていない。このあたり鬼滅の刃の作者、吾峠氏もそうですが、文章のみを書く作家は、書けば書くほど信条や育ちが漏れてしまうので、個人情報を守ると言う面では漫画家の方が作家よりも強固にできると感じた。
私は渡邊の描く復讐譚を今後も楽しみにし、大っぴらにファンだと公言もする。満たされぬそして割り切れぬ思いをせめて架空といえども漫画で息抜きさせてもらえるのが有り難いから。実践には役立たないけれども、無力な私はこういう話を読むしかできないから。
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