二十八冊目・くじけないで 柴田トヨ
柴田トヨ・「くじけないで」
柴田トヨ。彼女は彗星のごとく出版界に出現したかと思えば、あっという間に老衰で死去されてしまいました。発刊数はわずか二点。今回のひよこにあげたこの「くじけないで」 は最初は自費出版だったらしいですが、最終的に百六十万部を売り上げたといいます。通常詩集といえばマイナーで、大きな書店に置いてあってもそこだけ人がいなかったり……売れない印象がとても強い……だから「くじけないで」 はいろいろな意味で型破りでした。
柴田トヨが詩作を始めたのが九十二歳です。詩を作りはじめたのは、文章を書くのが好きな息子さんのすすめ。そこから詩人柴田トヨが生まれたわけです。やったことがないけれど詩を作ることができるかな? あれ、やっていると楽しいな~、から出発しました。出来上がった作品はうれしいものです。次いでこの作品を他の誰かにも見てほしいな~と思うようになってきます。
→ そうだ! 新聞に応募してみよう~。と、いうわけで、まず新聞の購読者に向けての公募からはじめました。そこに選ばれると、応募作品が新聞の紙面に掲載されるのです。
→ めでたく選ばれちゃった、やったー、全国紙に私の詩が載った~うれしい~。
→ 紙面に選ばれるとより励みになって詩作をより頑張った。
→ 新聞掲載の常連になった。
→ まとめて自費出版、ついで商業出版、テレビに紹介され一気にブームに。結果、海外にも翻訳出版、死後になってしまったが映画化までされた。
こうしてみても、詩人としての成功ペースが高速で、大変に理想的な出世じゃないかと思います。しかしピークが百歳ジャストであったのが恐れ入る。亡くなられたのは百一歳。人生の最後に自分が作った作品がブームになって人々に元気と安らぎを与えてとてもよい人生じゃないか、と思います。
柴田トヨは、一時はきんさんぎんさんのようにメディアに出ておられました。でも終始謙虚で自分が書きたいものだけを書く、量産はもうできないし、という感じであったかと思います。本作のあとがきには詩は、一週間に一作できるとあります。あの短い詩でも推敲を繰り返してから、外に出されていたのでしょう。
高齢でも己の思いが表現できる。くじけないで、あきらめないで、を実行、そして実現できた人です。また全国にいる高齢者に活力を与えたというのも大きいでしょう。これは尊敬に値します。
その上、インタヴュー記事を見ても、ねえ、詩を作るワタシエライでしょ? という自慢めいたところやイキリ感ゼロであったのも好感です。ゆったりと鉛筆をもって若かりしときを振り返る毎日、悩み事のなさそうな感じに理想の老後を見た人も多いかと思います。
彼女の素朴な詩が一般的に詩に縁のない人にも好かれ、本が売れたのは、まずそのキャラクター。評判にブーストがかかったのはなんといっても「百歳の詩人」 というキーワードでしょう。いつ死ぬかわからぬ超高齢者が何かをすると、世の人に強いインパクトを示す。
① 百歳近い人相手に誰だってキツイこと言えぬ、世の中の人々は優しく接する
② 外見も帽子をちょこんとかぶった小柄なおばあちゃん。老人の印象そのまま。有害感ゼロな無心の笑顔。逆にそれが、かわいいとなる。もう少し長生きされていればキャラクター人形やグッズも発売されていたのではないか。
③ 若い時に奉公先でいじめられたり、一度目の結婚でDVにあっている。苦労してはいるが、今は老いを受け入れてマイペースで日々の生活を楽しんでいる印象。
つまり柴田トヨには、世の人に嫌われる要素がゼロ、ということです。敵がないというのは、とても強い人であるということ。不特定多数の人に問答無用で好感をもたれるということはマーケット界では最強。
詩の内容に踏み込んでみます。
A、 誰が読んでもわかりやすい。
B、ユーモアがある。
C、 読後感は、ほっこり。
D、 嫌味がなく素直な文体。
E、 短いので世代問わず小さい子供と一緒に読める。
ああ、いいですね、柴田トヨ。
私がひよこにあげたい詩人とはいえば、他にもありますが、実母の介護で見舞いの本を探していて、あ、これもいいね、と、急きょこっちを先にUPしてみました。すべてに怒りっぽくなっている母に、「くじけないで」 は悲観的な気持ちを良い方向にスローダウンできると思ったのです。
本は母の病床に持っていきました。退屈しのぎにはなるのと母にも新しい趣味、詩作でもすればいいのでは? と思って。無理でしたけど。かくして第二、第三の柴田トヨは生まれてこない。彼女は稀有な存在の詩人だなと今更にしてわかる私。だってベストセラーは息子の勧めに素直に従い、新しい詩作という趣味を持った結果なのですよ。プロの詩人として人生の最後を過ごせました。作品も日々の思い、親子愛も随所に感じられるものばかり。
さて私事ですが詩作は面白いものです。私は詩作を始めてから他人の作品もプロアマ問わず読むようにもなりました。語彙が豊富で印象的な言葉をシャワーのごとく出してちりばめるような作風の人から、朴訥で一見子供の寝言かな? というものまで。なんでも作品になる。詩作にタブーなんてない。なんでも詩になるとみなせばこの世界も相当広いです。自慢気だな、単なる言葉の羅列だな、お飾りっぽいなと感じたらもうその人の詩作品には興味がなくなりますね。有名とされる詩にもそれを個人的に感じて嫌いな作品もあります。結局は相性でしょう。
どこぞの賞をとった詩は一読してわかりにくかったり、こういうのが批評家受けするのかと表現に凝った作品が多いです。その中、ベストセラーを出したという時点で柴田トヨはプロをすっとばして詩作の頂点にたった。一般読者はわかりやすくて心にまっすぐ届く作品を待っている表れだと思います。
それぞれの個性と読む人の感性があわさって、名作だと感じられる作品数が多いほど詩人になれると思います。でも詩作は有名になるということがゴールではない。生きている限り書いて推敲を繰り返して「どうかしら」「共感してくれるとうれしい」 逆に作品を一切世に出さないで鍵付きの引き出しの中にいれっぱなしの人もいるでしょう。本物の詩人はそれで幸せなのです。世の中にはそういう人がいっぱいいて精いっぱい生きているはず。
今回の柴田トヨは有名な賞を受賞した詩人ではありません。たまたまNHKに取り上げて以来強烈なスポットライトが当たりベストセラーになっただけ。作品の内容だって読者の心にふと「ああわかるわ沁みるわ感じるわ」 と思わせる日常的なものばかり。結構みんながそれを感じていると思う。それがいいしそれでいいと思う。人間は基本は穏やかに生きていたい生き物だと思う。




