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二十六冊目・「日の名残り」 カズオ・イシグロ (土屋政雄・訳)

 カズオ・イシグロ 「日の名残り」


 恒例の長ったらしい前置きから行きます。

 私はたぶん彼がノーベル文学賞を取っていなければ、また彼が日系人ではなかったらこれを読まなかったと思う。受賞後の世間でのフィーバーぶり、彼の書籍フェアも本屋さんで見かけても、さほど関心がなかった。ほかの作者の本を読書中か、自作の話をこつこつ書いていた。そう思えば、彼の本に出合えたのは本当に縁のものなのだ。

 どこの本屋でも当然本で溢れている。図書館でも時には古本屋でも。本はどこにでもある。私のような活字中毒には幸せな世界だ。そしてその中の一冊にどれほどの著者の思いが込められているか、売れたらうれしいなあという出版社の期待が込められているか、最末端である消費者である私にはわからない。

 選ぶ権利と読む権利は、文部省選定とやらの読書感想文を宿題で強制された子供時代よりもずっと自由にある。これも幸せなことだと思う。

 数ある本にはどれも何かしら感銘をうける。しかし手元に置いて何度も繰り返す本はそれほどない。私が彼の本を購入しなかった。どうやって入手したのか……実は……拾った……ノーベル文学賞の本がごみ箱に捨てられていたのを……拾った……ただ、それだけだ。

 私の行動範囲内にあるスーパーの駐車場の隅に、段ボール箱と新聞紙とチラシやいらない書籍を捨てることができるスペースがある。私と彼の本の縁ができたのは、つまりそういうごみ箱だった。ほかにも古い絶版本があったが、私はノーベル賞受賞作家の名前だけは知っていたのでその本を選択した。つまり買うほど興味はないが、無料ならばヒマな時に読んでもいいかと。もちろん他の作家の本も捨てられていたが、その時は彼の本だけ拾って持って帰ったのだ。そのうちの一冊、「日の名残り」 に、私ははまった。

 

 本作のストーリーを一言で書くならば、休暇中の執事の思い出話。彼の職業的な誇りを現実と過去を取り混ぜて綴るだけ。

 一緒に拾ったわたしを離さないで、という作品の方が思わせぶりというかミステリーぽいなあと先に読んだが、事実を小出しにしていく書き方と私の読み方にテンポが噛み合わず好みだとまでは言えない。しかしそのあと。日の名残りを期待せずに読んで、そして……ドハマリした……本作は読み返すごとに、あ、そうなんだ、いや、違う、読み方を間違えた。では、もう一度読み返すのだ、という繰り返しだった。読みこなせていないことの表れだが、その過程が楽しかった。

 読者へのミスリードを計算しつくしてやがる……と思いつつも何度もこのあたりから、書き方をわざと変にしている。と読み返す。拾って無料だから読んだよ、とは、熱烈なファンがいたら怒られるだろうが、私はこのあたりから彼を尊敬しはじめた。たとえばここの場面。

 主人公のスティーブンス執事がミス・ケントン女中頭に何かを言おうとする、その思いを書いているときにストンと別の場面転換になり話があさっての方向に行く。続きがない。えっそれはなんで? さっきの続きはどうした? というのがあって何度もページを繰りなおす。それをやっているうちにわざと書いてるんだとわかってくる。が、腹がたたず逆に感心する。こういったタイプの小説ははじめてで、かなりの衝撃を受けた。そのストーリー構成と発想にだ。

 主人公のスティーブンスは執事という職務に誇りを持っている。「品格」 というものに重きを置いて日々執務に励む。父親もまた執事であり、仲間もいる。仲間は雇い主のダーリントン卿の催事の招待客が連れてくるのだ。重要かつ泊りがけのパーティーには執事もついてくるのね。ご主人様方が社交に励んだあと夜更けに寝てしまうと今度は執事同士の社交が始まるのだ。イギリスの貴族とその執事ってすごいなあ……。

 執事としての仕事内容も結構なページが割かれているが本作は単なる執事小説ではない。スティーブンスは新旧の雇い主の関係も変わっていっても、「品格」 を常に重視し日々を送る。過去に一緒に仕事をしていたミス・ケントンの思いも届かない。いや、ほんの少しは届くがスティーブンスは恋愛に関心なく後年、思考するだけ。もうちょっとどうにかならなかったのか、この男は~とあっけにとられてしまう。彼の思い出話でミス・ケントンとは意見の相違でやりあう話も多い。その時の会話も丁寧で決して争いにはならぬけれども慇懃無礼の連続がおかしくて笑ってしまう。丁寧な描写が続いて情景が目に浮かぶようだ。

 でも気の毒なミス・ケントンはスティーブンスの職務に忠実なところが気に入ったのね、きっと。思いが届かず諦めて別の人と結婚退職をしちゃうのよね……スティーブンスはその時のお別れもあっさりとしすぎて、ミス・ケントンをがっかりさせる。雇い主にとってはこの上ない忠実な執事ですが、女性にとっては冷淡すぎますね。ミス・ケントンがかわいそう。

 英国紳士のダーリントン卿が死去し、アメリカ人の新しい雇い主、ファラデー様から万事まかせるとは言われたものの、人手が足りずちょうど折よくもらった休暇中にミス・ケントンのところに行こうと目論むのが大体のあらすじ。が、その紆余曲折と旅行中と過去への思い出の行き来に不自然さを全く感じさせず私はそれにも驚きながら読んだ。再読の折には時間の境目のあたりを私は何度も注意深く読んだ。上手い……ほぼ過去の話がメインなのに太い軸になる部分が旅行中になってる。そちらの方が文章の割合がぐっと少ないのにそれが頭の悪い私にもわかるのがすごい。章の運びだって最初からおかしい。日にちが飛んだりしている。細かい仕掛けがいろいろあるのです。これは読んだ人にしかわからないと思う。


 カズオ・イシグロは本作で、ブッカー賞を得ました。イギリスでは文学で最高峰にあたるとされている賞です。さすがです。小説を書き始めたのは大学生からというのに、なんという才能だろう。書き始めてわずか数年で作品が本になり、とんとん拍子に賞を得て、ラストは二千十七年度のノーベル文学賞受賞。天才とはきっとこういう人のことをいうのですね。

 ノーベル賞の公式サイトによると、「イシグロは、過去をどう理解するかについて深い関心を抱いている。過去の過ちを償うのではなく、個人であれ国であれ、生き抜いていくためには、どんなことを忘れなければならぬのか」 と受賞に至る理由が書かれていました。イシグロ本人もまた「忘れ去りたいと思うものにどう対峙するのかを書いた。しかし本当に過去と向き合えるようになったとき、人は楽になるもの」 と語っている。私は本作の読書後にこのインタビュー記事を読みましたが、改めて彼を素晴らしい作家だと思いました。

 トドメに彼のウィキには二千十八年から「サー」 という敬称がつけられています。文学の腕一本でKnight Bachelorという爵位を授けられているのです。ナイトバチェラー、日本語訳だと下級勲爵士というらしいです。お貴族様ですよ。つまり、彼の正式名は、Sir Kazuo Ishiguro です。恰好いいなあ……。


 執事という存在にあこがれを持つ人は世の中に多いらしく、執事小説に執事喫茶がある。執事喫茶には一度話のタネに行ってみようかとしたら予約満杯で結局あきらめたこともある。そこは喫茶室に入ると「いらっしゃいませ」 の代わりに「おかえりなさい、お嬢様」 もしくは「マダム」 といわれるらしい。勘定を済ませたら「ありがとうございました」 の代わりに「いってらしゃいませ」 と言われるらしい。仮想世界であっても、こういうのいいなあ。でも私のガラじゃないからもういいや。また話が横道にそれてしまった。でも本作だって主人公のスティーブンスは旅行中なのに横道にそれてばっかりだから今回は直しなしでいこう。

 彼は正真正銘の執事から綿密な取材を経て作品にしているはずだ。イギリス人気質やプライドも文面から読み取れる。でも雇い主一途な思いに同調もするのは、日本人気質もちょっとは混じっていると思うのは身びいきがすぎるだろうか。カズオ・オシグロは英国人だからこそ爵位もエリザベス女王陛下からいただけた。それでも私は日本人生まれという彼のウィキに日本人としてちょっぴり誇りを感じる。それはとても嬉しいことだ。

 なおこの部分は英文になるとどうやって表現するのだろうかと不思議に思う個所があったので原著はちゃんと購入して読み比べをした。そして氏の作品の翻訳者も尊敬するようになった。土屋政雄。韻律を含んだ表現でも、それを日本語でちゃんと前後の意味が通じるようにするのは至難の業だと思う。私自身は英語に堪能ではなく英語慣れもしていないので対訳しながらの拙い読み方です。しかし、いつか時間ができたら、ゆっくり分析してみたいと思っている。もともと英語で書かれているので彼の英語もきっと素晴らしいのだ。



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