十五冊目・仮面の告白 三島由紀夫
三島由紀夫 仮面の告白
まずは高校時代の思い出話からします。私は三島由紀夫の「潮騒」 を読んで文中の海のシーン、たき火にあたりながら裸で抱き合うシーンに感動しました。あれは完璧な恋愛物語です。その勢いで次に選んだのが「仮面の告白」 でした。題名からして、ミステリーだと思ったのです。しかしその選択は、間違っていました。「潮騒」 と違って「仮面の告白」 は読むだけで気が滅入り、まったく面白いと感じませんでした。それから数十年たった今、また読むチャンスが出てきました。元から家にあるものだし、あんなのでも世間では名作とされていますし……というわけで感想文です。以下は私事の私流三島論です。
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さて。
今度は、私の脳内図書館の話にワープします。そうです、私の頭の中の話です。
数ある我が国の文豪たちの名前は、私の意識の遠い世界にあります。私にとっては、彼らは身近ではありません。しかもモヤがかかっている。つまり、よくわかっていない。
私の脳内図書館の中の一つに「文学ワールド」 があります。もちろん他人には見えぬ場所。私の中の三島由紀夫は、そこにいる。その文学ワールドの僻地かつ奥地には、さらに「文豪小説ワールド」 という小さな一角がある。もちろん私の意識は、めったに行かない。
理由はある。文豪小説ワールドへ行く前には覚悟がいるのだ。
「さあ読むぞ、読まねばなるまい」 という覚悟並びに意気込み装備がいる。深呼吸は必須。脳内からの、よりわかりやすいオリジナル文体変換部隊と、古語理解部隊と辞書部隊が必要だからだ。辞書はともかく、私の脳内部隊は軟弱なので、少し硬い文面だと即時玉砕を受けて霧散する。つまり読む気がなくなるということ。さあもう一度という意識で、部隊再編成を試みるも、鍛えられていない軟弱部隊は嫌がって、集まりもしない。つまり読むのも面倒になるということ。
そう、面倒。
部隊編成も考えず、うまいことその世界に入っていけばよいが、はじかれると本を開くのも億劫だ。面倒な思いをしてまで本は読みたくない。研究者までいる文豪ならばなおさらのこと。
こういう感想を持つと笑われる、叱られるなどのネガティブな連想部隊もついてまわる。つまり最初から「この崇高なる文学がわからぬやつは出て行けライン」 が存在しているわけです。
でも私はもう国語の先生に点数をつけられる学生ではない。内申書も偏差値もいらない。だから正直に書くことにしました。
そんな脳内の文豪小説ワールド。行こうと覚悟しても、私の意識はどうしてもエッセイワールド界や漫画界に行ってしまう。最近はベルばらを再読してやはり名作だと思った。なので、脳内ベルばらワールドを創った。それはブラックジャックワールドの隣にした。いつかスピンオフを創ろうと思う世界は、できるだけ隣同士にしている。脳内図書館作成なので、拡張も縮小も無料だ。しかも住人は私一人。どう動かそうにも私の勝手。しかし今日はどうでも行くぞ。これよりは完読できなかった「仮面の告白」 の挑戦の巻。
限界集落より消滅しかけの小さな私の文豪小説ワールド。ここは著者別でもなんでもなく、ごった煮状態。文豪小説、名作といわれる作品を読んでも読み切れていないからそうなる。この世界は、夏目漱石や樋口一葉と並ぶ旧仮名遣いの文字で形作られている。しかもお色は、濃いセピア。黒い部分も多い。
これも私が不勉強すぎるせい。昔の文豪小説は、視神経の拒絶反応により脳神経に連携せず、睡眠欲へのスイッチへ誤変換してしまうからだ。でも私は今から私の意識内にある文豪小説ワールドに降臨する。さあ、突撃します。
文豪小説ワールドの展望台から、はるか遠くに見えるお城を見渡す。
三島由紀夫城、発見。
もう一度読むべく再起動されております。城全体にょきにょきして、うごめいております。
文字に起こして感想を書かねばならぬという意識命令のおかげで、ほかの城より明るめに着色されて目立っております。でもまだ蜃気楼状態です。お城の上部には「仮面の告白」 と大きな看板があります。「潮騒」 の文字は見当たりませんね。どっかへ行ってしまっています。
せっかくだから入城しましょう。これも一瞬で、できます。
私の意識は、本丸にあがりました。見渡す限りの広いたたみです。たたみも、青々していません。濃いセピア色です。
さあ、あがりました。ホコリが舞い立ちます。このホコリは三島由紀夫が書いた文字の断片ですが、私にとっては意味を成していません。読んでないからそうなる。覚えてないからそうなる。そして誰もいません。記憶読み取り部隊が私を振り返って仰ぎましたが、私から何も出ません。その他のページめくり部隊や文面理解部隊、強力なはずの想像力部隊も「こりゃだめ」 と消滅しつつあります。
やれやれと思いつつ、私はそこに寝転がります。セピア色のたたみから沸いてきた記憶という写真集をめくりましょう。ああ、やっとこさ「潮騒」 イメージが出てきました。美しい海を背景にした純愛ストーリーです。素晴らしい小説です。感動した……私はそれも思い出しました。同時に「仮面の告白」 を読んで興ざめしたのも思い出す。そうそう、これね。ナニコレでしたね。こういうこと、あんなこと、それこそずらずら書いて恥ずかしくないですか、と言いたくなるような。同時に胸の痛くなるような。
これはやはり、著者の心の中のヒダのゆるみの中にたまっている恥垢のストーリーですよ。すべてをさらけ出して文章という形にして綴るとこんな小説になる……と憐れみと尊敬をこめて頷いてあげるような……。
同時にそんなイタい気持ちはわからないでもないわよ、私は同性愛者には寛容よ、みたいに急に世俗的な一般論を言いだすような。そんな感覚を再び味わうとは。「仮面の告白」 はいつでも読者を待っていて、それは変わらない。が、その感覚を味わう私もまた変わってないってこと。
三島由紀夫の研究者はそんな私を嗤うだろうか。しかし三島由紀夫は文豪文豪文豪だから読まないといけない、感動感動感動しないといけないのシュプレヒコールが起こると、モウイヤモウイヤモウイヤになる。世間的に文豪らしいから誉めないといけないという強迫観念がつきまとう。この煙たいイメージが広い本丸のたたみから沸いてくるよ。コレは、良くない霧です。私はたたみをバンとたたく。ほら静まった。だってここは私だけの文豪ワールドですから。
この調子で続けましょう。
三島由紀夫は私とは違う世界に生きた人。ビックネームな文豪のおひとり。だから彼の作品は、こういう文章が良い文章だとどこかの文学学校のお手本になる。一般的にも教養を高めるための必読の書とされる。上記のことを正直に書いた私は石もて追われるかも。
私の頭の中では三島由紀夫といえば、
一、燦然と輝く日本の文豪作家のひとり
二、愛国の文士、楯の会代表
三、ナルシシズムの男
四、最後は割腹自殺
五、同性愛
と複数のイメージが喚起される。
三島由紀夫の名前は輝いて見える。それは「潮騒」 を思い出すからだ。あれは素晴らしい。その直後に読んだ「仮面の告白」 のイタさ、落差。読むこっちが恥ずかしいわ。そしてうっとおしいわ。いい加減にしろや……それを再認識する。名作には違いなかろう。だけど感動しなかった。感動したいけどできないし、褒めたいけど褒めにくい。
三島由紀夫は、己の心理を自虐的に文面で表した。なんというサガであろうか。なんというみっともなさであろうか。だが三島由紀夫はこれを書いたときは一応「書き尽くす」 ことで、人生の一部に区切りというかケリをつけたに違いない。
仮面の告白。
三島文豪の代表作の一つ。世間的には。
しかし私の脳内図書館では、幻なので全く意識もせずだから見もせず。そして尊敬もしない。仰ぎ見ることもしない。文学を志すものとして、読まないよりは読んだ方がよいのかもしれない。役得、損得の感情がわく、こうすれば世間様のウケもよかろうと。かつ三島由紀夫はいいだろう、という世間様の見えぬ常識アンド強迫観念をとっぱらって普通に読んでみた。
再読だが、完読できた、ということに私はまず驚いた。以前は途中で放り投げて読まなかった。今回は読めたのだ。これは私が成長したのか、と思った。彼の禍々しい苦悩が理解できたのだ。いや、成長というよりは、私が他人に対する苦悩への理解の幅が広がっているのだ。多分。
そして改めて三島由紀夫の繊細さが、身に染みてわかった。だが同性愛を告白しそのひそやかな苦悩を文学に昇華させたとも。私はその説にはせせら笑う……今やその同性愛、ホモセクシャルは全くめずらしくもない話だから。今やゲイの男性たちは同性を愛する苦悩を感じることなく、あっけらかんとおつきあいができる。また身分を隠しつつもその場で愛をかわせる場所もたくさんある。
三島由紀夫が今現在に生きていたら、きっとカミングアウトしていたと思う。さてどっちだったのだろうか。ネコかタチか、それともバニラか。結婚していたので両刀使いだったのだろうか。
彼はその恵まれた文才を「仮面の告白」 で豊かに使った。繊細な心の動きを綴る。しかし、その内容は一言ですませると「中二病」 というヤツですよ。一生それに悩まされていたでしょう? それにプライドを持ち世間に認知されることで、これでよいのだろうかよいのだろうかよいのだろうかと自己卑下感を思っていたのでは? 時には根拠のない自信を持ったり、持たなかったり。
行きついたところは自衛隊を集めて彼らの前で演説をし、そのあげくに割腹自殺である。つまり彼は。理想主義者で繊細すぎたのだ。ああ、飛ばしすぎました。話を戻しましょう。
ねっとりとした控えめな表現ながら、自分の感情という感覚を文章でそっとさぐる。金箔を小さなピンセットを両手で駆使し、そっと剥離させ広げ広範囲の文字に定着させる作業。彼は快感と痛みをもってこの作業をしたに違いない。
劣等感に悩みながらも、彼には生活や身分の不安はない。人生や夢のあるそして人々に感動を与える話を綴り、作家としての地位が確立する。その間も、自分はこれでよいのだろうか、自分は何ができるのだろうかと自問自答していたに違いない。その自問自答は誰だって形は違えども、人間ならば誰しも持っているものだ。ましてや、己の心理を文章に焼き付ける作業を日常的にしていた人間だもの。ある程度はわかっていただろう。己の病的なナルシシズムを。
三島由紀夫は本作で見事な自答を世間に晒した。そしてそれは賞を取り、伝説になった。そこには金銭にまつわる話は一切ない。だがそれ以降の長い創作活動の間、理想と現実の落差を自死直前まで感じていたに違いない。
これでよかったと思うよりも、逆に昭和四十五年という年に世にも珍しい割腹自殺を遂げることで、人生にケリをつけられたと思っていたのではないか。血塗れのピリオドを自分で打てたことに、また自分に追随してくれる人もいることで満足を感じていたのではないだろうか。
私はそんなことを感じるのは、彼のシニザマをすでに私が知っているからかもしれない。本作を発表したのは昭和二十四年。この人はこれを書いて二十一年後に割腹自殺をしたのだということを。その片鱗というか予兆が「仮面の告白」で読み取れるといっては、死者に鞭打つことになるだろうか。
三島由紀夫は理想主義者であったと断言できる。そこには金銭欲と言うものがまったく見られない。名誉欲や自己顕示欲はどうだろうか、誰しもあるとは思うがピュアさを感じる。加えて重症のナルシスト。これを書いたのは三島が二十四歳。二十四歳にもなって、現在でいう中二病併発、しかも相当な重症。権力欲はなし、独占欲はあるがこれは普通で特記すべき事項なし。しかしながら二十四歳にして、二十年後のシニザマを暗示させる文面があり、私の心は凍った。以下の三つの文面である。
◎◎◎ 引用その一、
……私の生涯の不安の総計のいわば献立表を、私はまだそれが読めないうちに与えられていた。私はナプキンをかけて食卓に向かっていればよかった。今こうして奇矯な書物を書いていることすらが、献立表にはちゃんと載せられており、最初から私はそれを見ていた筈であった……
こうしてたったの三行を丸写ししただけで三島由紀夫の異様ともいえる天才的な文面に私はため息をつく。比喩がすごいではないか。
後世の私は彼のシニザマを知っている。だからこそのため息でもある。二十四歳当時のころから彼は己のいずれいきづまって自殺するのではないか、ナルシシズムを納得させる己にも世間的にカッコイイシニザマで、ということ。独断が過ぎて三島由紀夫のファンには怒られるかもしれない。
◎◎◎ 引用その二、
……聖セバスチャンの絵に憑かれだしてから、何気なく私は裸になるたびに自分の両手を頭の上で交叉させてみる癖がついていた……
これは、誰しも覚えがあるとは思う。ちょっと気になる歌手やダンサーのマネ、女優の当たり役の口真似など。だが家族にこういうイエス・キリストの磔を連想させるポーズを取る人がいると、いろいろな意味で心配だ。少なくとも私はそうだ。息子がそうであったと仮定して、いくら将来は文豪になるといわれても行く末が心配だ。
流血の表記も真に秀逸。ギロチンは処刑道具としてはあまり血が飛ばないので不適切などと。おお。よく書いたなあ……私はこれを読んで純粋な恋愛モノの「潮騒」の感動はどこへやら。
暗闇にやっと判別できるぐらいの暗闇にぽつんと置かれた首切り用の斧やギロチンを連想する。
そしてそれを見おろす感情のない眼球も。それは宙に浮いたままで、決して下りることはない。平均的な人間の顔面にある二つの眼窩の距離を保ったまま、離れることもなく近寄ったり飛びまわったりすることもない。感情の伺えない眼球だけが、ぷかぷかと浮いている……よい。まことによろしい。
私は今さらにして、死亡した三島由紀夫の精神的な状況が心配なぐらいだ。彼はこのシーンを書いたときは一種のトランス状態になって、夢中で書いていたに違いない。下記も本文からの引用。ちなみにこれを読む人は「女体盛り」 を知っているだろう。三島由紀夫は女体盛りならぬ男体盛りで、コックへ仰向けがよいだろうと指図する。そりゃあうつ伏せにして後ろ頭と、背中を見るだけよりも、仰向けにしていろいろとそそるものを眺める方が楽しいにきまっている。顔面への観察、乳首や生殖器官、筋肉の流れなど。裏より表の方が、見るべきものがたくさんある。そっちのほうが絶対に面白いに決まっている。そういうことを、まじめに書いているのだから。そしてフォークで材料の心臓を突き刺して、血の噴水を顔にまともに浴びると。こんなものの書いて名作だと称賛されるのだから。
ここは一種のクライマックスで確かに絵になるシーンではある。美しい酸鼻な血塗れの男。血の猥雑、悪臭は脳内に排除して美しさだけを賛美するのだ。
◎◎◎ 引用その三、これでラスト
……お前は人間ではないのだ。お前は人交わりのならない身だ。お前は人間ならぬ何か奇妙に悲しい生物だ……
読む限り、彼は世間一般的にある常識にとらわれない自分を恥じもしているし、誇りにもしている。それを世間に表して作家としての称賛を浴びるのは一体どんな気分であったか。
ナルシストも場合によっては、いいものだ。彼は才能があったゆえに、ナルシストでも認められている。ナルシストな作家は、芸術家でもある。舞台もやる、映画もやる……なんだってやれる。彼は男性同士の恋愛も何もかも体験したに違いない。幼いころからの性癖を同じように隠して生きてきた同性愛者と思いを通じあったこともあったに違いない。そして増殖していく「これでよいのだろうか」 という感情。おそらく不安感との錯綜だ。
三島由紀夫は右翼の雄として、三島由紀夫に心酔し彼のポスター、学生服を着て何かを叫んでいるようなポスター、上半身裸で日本刀を持っているポスターを持っている人を知っている。しかし「仮面の告白」 を完読した私は断言する。
あの三島事件、彼は間違いなく天皇陛下を崇拝していたが、右翼ではなくナルシストが目指した陶酔自殺であると。
書いたものは本になって名前も売れている。多分自分は世間一般とは違う生き物だと思っていて、その意識を継続させたままで数年を生きていた。だけど夢は夢。現実は現実であった、と思い知るのは、自衛隊を呼び出したときだろう。
あの時の演説で、三島は自衛隊員から罵声を浴びたという。演説もわずか数分で終わり、映画のように己の声が朗々と響き渡らない。招集された自衛隊員は誰も舞台前の観客のように謹んで拝聴してはくれやしない。誰もが自分を知っていて、誰もが自分を崇拝してくれない。彼は夢からさめないうちに急いであせって割腹自殺をしたに違いない。側近を従えて。
カッコイイ自分らしい幕引きを図るためには、こうするしかないであろう。選択の余地がないほどナルシストな三島は追い込まれていたと思う。三島は民衆を知っている。民衆はこうすると、きっと三島由紀夫を永遠に覚えてくれるだろう。いやいやいや。そこまでは考えないってば。考えすぎると愚かさを露呈する。ほらね。 かの三島由紀夫事件、自衛隊の偉い人を闇討ちのようにして縛り上げる。そしてその偉い人を人質にして、バルコニーに出て演説する。そこまで夢中でやれたのだ。彼は高揚していたに違いない。皆我に続けという、自信。ひいてはわが日本の国を理想の力で動かそう、皆きっと喜んでくれるだろう。
無論これは徒労に終わる。バルコニーに出ても三島のいうことは誰も聞かない。逆にしぶしぶ演説を聞きに来た下っ端の自衛隊員から「何を言ってやがる、バカヤロウ」 と言われ、「うせろ」 と罵倒される。
三島は失敗したのだ。漫然とお根拠のない自信、机上の空論。舞台の上での喝采、文壇での地位はなんであろうか。何をしても空虚だった? 現況に満足できなかった?
三島自身を満足させるものは一体なんだろう。かっこよく死ぬこと?
三島は国防の思想よりも、ナルシストな現実の自分を己だけの見えぬガラスを通して見つめていたに違いない。割腹自殺はずっと以前からそれも献立メニューに載っていたのではないか。
だからこうするとでも思っていたかもしれない。そして古式の作法に乗っ取り割腹する。
さあ、これでいいぞ。
最後の最後はそうつぶやいて、満足していたに違いないと思う。
仮面の告白はそういう三島の生きざまと最後をも予告していると感じる。
天才的なナルシスト、三島由紀夫。
若書きの「仮面の告白」 で本人がそのシニザマを予言しているようだ。
かわいそうな三島由紀夫。
自分の理想とする軍隊を率いて世界を駆けまわるのは幻想であった。それはやっぱりな、と言う思いもあっただろう。劣等感と恥辱感にまみれた三島由紀夫。きっと繊細と大胆をあわせもったままの割腹自殺。でかした三島由紀夫。私はその原型を仮面の告白で見つけたのだ。
ほら、彼は文豪として有名になれたおかげで、無名のアマチュア作家の私にこんなことを書かれてしまうのだよ。
私は三島由紀夫城を出る。文豪ワールドを出るときに天空から振り返ったが、もう城はセピア色でもなんでもなく、理論武装という黒と見間違えるほど濃い緑色をした武骨な城になっていた。城下一面には真っ赤な薔薇が敷き詰められている。彼はあの時代では、薔薇族だったからね。私の脳内の意識がそうデザインした。
ああ、仮面の告白をちゃんと読んだら、こんな風に城の外観がかわるのだ、私は瞠目しながら「また近日中に訪れるよ」 とささやいて現実の世界に戻る。
理論武装?
だってこれを読むと絶対に怒る人がいるだろうからですよ。
城の外観には新しい装備があります。「私がそう感じたのだから仕方ないでしょうがっ」 というひらきなおりの意識が作った砲台です。その数四台です。自爆装置付きまでついています……お粗末様でした。
終わります。




