十二冊目・少年にわが子を殺された親たち・黒沼克史
当エッセイでは本書の趣旨と少し……いやだいぶズレています。
① いじめ殺人
② いじめのせいで自殺や心の病気にいたる案件
③ 特定の人種を絶滅させようとしたアウシュビッツの悲劇
以上三つの項目をごった煮状態にした感想を書いています。加害者と被害者それぞれの心理的推移に強くインスパイアされるものがあるのです。整理しきれてないですが、それでもいいという人はこの点ご了承ください。(つまり純粋なおすすめ本、感想文ではないということです)
黒沼克史・少年にわが子を殺された親たち
私は昨日、本棚をひっくり返してこれを探し出して読みました。私はある理由で突如として忘れていたこの本を思い出して再読したいと思ったのです。そういうわけで真夜中に起きて本棚をごそごそ……そして久々にこの黄色いひよこを書きました。
初版は1999年、発行は草思社。二十年近く前の本をなぜ今頃と思う人はいるかもしれませんが、全く古くなっていないです。この本の内容は題名でどなたにもわかります。
……少年にわが子を殺された親たち……
というわけで内容は説明不要です。題名と表紙を見ただけでもうわかる。
さてこの本が発刊された当時は私は独身でしたが、現在は子持ちの身です。読んでいくうちに独身の頃と違い、親のモノローグ場面に強く引かれ、共感している自分に気づきました。もしわが子がこんな風に殺されてしまったらと思うと他人ごとではありません。殺されたというのに殺人者が未成年というだけで名前も事件の詳細も知らされないというひどい矛盾。刑事罰はないに等しく、何も知らされない。ならばと詳細を知るために民事裁判をして勝訴を勝ち取っても逃げようと思えば逃げられるゆるゆるな法律。判決がおりて賠償金額を報道されても、賠償金額はきちんと支払われません。
加害者は反省しない。事件に向き合うこともせず、遺族の気持ちも理解せず逃げた事実も公表されない。死人に口なし。やりたい放題です。勝訴したって殺された子どもが帰ってくるはずはないし被害者としての別の怒りと苦しみが家族を襲います。。
数千万の賠償をするような判決があっても、自己破産すればチャラになるとばかりいけしゃあしゃあと逃げきります。被告側の弁護士の入れ知恵はすごいです。弁護士の信念や行動は依頼された相手のためならどんな卑怯な加害者でも依頼があればカメレオンのように変えられるものなのでしょうか。賠償金の交渉に異常に低い金額からスタートさせるその手法。執筆した黒沼もあきれながら書いているが、この本に出てくる加害者側の弁護士は全員人間のクズだと私も思う。これらの裁判は金目当てではないのだ。わかっているはずなのにわかってない。その意もくみ取らず法の番人でありながらいかに交渉事を加害者側に有利なようにまとめるかという仕事をする弁護士は尊敬に値しない。それで加害者側から金銭をもらって食べていくってドクズです。
加害者にとっては殺しちゃったけど、みんな一緒に殺しちゃったからぼく一人だけの責任でもない。まわりにバレて裁判までされて運が悪かった、まあまだ少年だったから殺人でも刑務所に行かずにすんだし、これでおわりだなと思うだけ……ちがいますかね? 本書に出てくる加害者たちだってもう結婚して親になった人もいるでしょう。少しは性根に変化があったかどうかぜひ聞きたいです。彼らは事件のことは忘れて楽しく暮らしているのでしょうか。被害者は死んだ時から年はとらず、その家族も事件をなかったことにはできないのに。
反省することのできる人間は最初からいじめ殺人はしない。そういう善悪の認識が欠落している人間は残念ながら多数存在して、同じ世界でまじめにいきている人間を脅かすのです。本書は少年法が改正される前の発刊なれども、改正後でもよくなったとは誠に言い難い現実。今でもいじめによる魂の殺人、自殺、自殺未遂、PTSD(Post Traumatic Stress Disorder、心的外傷後ストレス障害)が後をたたない現実にも愕然とします。再読もやっぱりつらい気分になりました。
この本を書いた故黒沼克史は元週刊誌の記者でした。なので筆力がこれまた大変に強いのです。殺害に至る様子をまるで見てきたようにリアルに丁寧に描写するものだから余計に陰惨な気分になります。殺されつつある我が子が殺人者に引き回されているとき……まさにそのとき……に、もしかしてすれ違っていたかもしれないと後悔する場面に胸が詰まります。独身の時には、もしかして助かったかもしれなかったのに気の毒に、としか思わなかった場面です。最初の事件の部分なので、再読してこのあたりで事件に対する読み方が変わったことを自覚しました。
あの時にああすればよかったと思うのは、あの時にこうしていれば子どもは助かったかもしれない……エンドレスで考えるのは被害者の親のかけねなしの本音でしょう。でももう死んでしまったのです。後悔先に立たず。無念は決して消えることはない。まだ未成年だった加害者は、同じ年頃の子どもを殺して、その親の心の一部までこうして殺したのです。なぐさめの言葉なんて何も役にもたたない。私はただうなだれてページをめくることしかできません。
いじめに金銭がからむと暴力が付随してきます。この本にも金銭がらみの恐喝場面もあります。最初のケース事例では気に入らぬ人間を大勢で順番に連続して殴る。手が疲れてくると工事現場に置いてある道具をつかってわざわざ殴る……血だらけになると顔をきれいに洗わせる。その時に逃げればよかったのにと安易にいうのは当事者ではないからです。逃げられない環境で数時間にわたって暴力を受けたら誰だって思考がマヒします。逃げる気力が失せてしまいます。殺人者は殴った相手の痛みやつらさが理解できぬ生物です。逃げない相手弱ってしまった相手を仕切り直しでまた殴り続ける。被害者が苦しみながら死んでしまうのは当たり前でしょう。加害者らはかわいそうに、痛いだろうといたわる意識はない。通行人に気づかれそうになったら場所を変える。見張りを使う……そこまでしてまで殺したのです。
殺して気がすんだからというと決してそうではなく、被害者の死後も他の子供に対しても金を持ってこなければ殴る蹴るが常態化していたというおまけつき。
どうやって育てたらそういう人間が出来上がるのか。殺された子どもはもちろん、殺した子どもたちはなんのために生まれてきたのだろうか……殺した側は殺して責任もとらず逃げ切ることができるこの頑丈な神経。しかも都合の悪いことはきれいさっぱりと忘れることができる。
被害者の家族は死んだ子の年を数えることしかできません。墓参りするぐらいしかできません。家族の絆ももろくなります。死んだ子どものことばかり考えて残された兄弟姉妹にも別の悲しみを感じさせることになる……。人を殺すという行為はその人だけではなくその人の生きていた世界をも一部殺すということです。
生きる意味は生きてこそ自分でつかみとるもの、それが一方は殺され、一方は生かされ少年法で守られ匿名で報じられます。長じて更生を試みられ人生をリセットできます。結婚もできるし子供も作れる……もういじめ殺すことはないだろうと。加害者に再チャンスが与えられるのは大きな矛盾に感じます。それでも「そうするしかない」 のです。だって加害者は生きているから。加害者に過去を反省させ順風満帆な人生を歩めるようにするのは社会の責任として当然です。未成年なら更生の余地はたくさんあるから。
確かにそうですが被害者の家族としての気持ちへの配慮がどうしても欠けているように思わざるをえません。人間は思い切りが悪い生物です。また赤ちゃんを産めばよいという問題で片づけられません。起こってしまった事件は警察や学校は形式上では事情聴取、報告や謝罪という形で終結に向かおうとします。加害者もそんな人間に育ってしまったやむをえない背景もあるにはある。責任を取らず賠償金もバックレてしまう人間が多いのがそれを語っています。この矛盾を明確に指摘する人は加害者側には誰もいないのでしょう……しかし未成年の殺人事件は決してチャラにはならないのです。
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本著のような殺人に至るケースでないものの、いじめの結果として被害者が自殺を選んだり心の病むケースも大変に多いです。私もまたいじめられて心療内科へ通院する子にも接する機会がまれですがあります。
でもその逆のパターンはない。いじめをしてしまうのです、と悩む子どもは病院には来ない。同じような仲間と群れあって気の弱い子を殴るか言葉で悲しませることができる楽しいおもちゃを物色するのです。集団いじめでストレス解消ができるし、連帯感もましていざ大人にバレたらお互いに励まし合って乗り切ろうとします。普通の子とされる小学生低学年から思春期の子供たちがそうなっているのです。
一方いじめられて心を病んでしまった子どもは不眠、対人恐怖、視線恐怖、時には自傷行為に走る。いじめられた子供の保護者は心を病ませてしまった子供を連れて心療内科に通院する羽目になります。
でも心療内科、精神科にかかっていればいずれ治るでしょうとは勘違いもはなはだしい。医師は話を聞いて表面上に出てきた不眠や不安感を抑える薬を処方できても、根本的な心の傷までは治せません。
いじめられたけどなあ、リストカットしちゃったけどなあ、睡眠薬を飲んじゃったけど、と自分で自分を開き直れたらどんなに生きるのかラクか。でもできないのです。まじめで他人の迷惑を考えられる優しいコほど自傷行為に走ったりします。どこにもうっぷんを持っていく場所がなければ自殺します。
そんな心優しい彼らをたとえ親でも安易に軟弱者と言うな。いじめに負けるなと言うな。先生も学校へおいでと安易に言うな。
ましていじめた側を許してやれと簡単に言うな。
それができないから、自分で自分を追い込んでしまうのです。人間はそれぞれプライドというものが存在しています。それが根本的に破壊された状況が長いほど、治癒は困難です。
許してやれ? 謝罪したい?
いじめっ子側はうそが大変上手です。ばれたのはやばかった、内申書のためにとりあえず謝罪して反省するふりをしておこう。こんな感じですね。
私は過去いじめられた側なのでその欺瞞が身に沁みてよくわかる。いじめっ子のその性質は一生治らないのはないですか。でもその性質のおかげで「いじめられっ子を心療内科に生かせるほど追い込むことはできても、いじめっ子自身が心を病んで医師にかかることはない」 のです。
これが現実の矛盾。きれいごとでないけど、きれいごとですませたがる世間の矛盾。被害者にとってはなかったことにはならないのに。
いじめの原因となったいじめっ子はいじめをすることを悩んで通院することは本当に絶対にない。彼らには同じような仲間がたくさんいて、先生や警察から責められる立場になると、今後の対策や振る舞い方を相談しあえるのです。同じ状況にいる仲間が存在するのは心の安定を得られます。たとえその仲間が反社会的な行動しかとらないとあっても、仲間同士でこれからどうする? と連絡を取り合って相談ができます。だから精神的に強い。
被害を受けたいじめられっ子はまず徒党を組んだりしません。いじめっ子はそういうコをうまく見つけ出す獲物探索センサーが備わっているのでしょう。
人が人をいじめるのはいじめる側がそれに大なり小なり快感を感じているからに他なりません。いじめた側の家庭が実はこうです、実はこうでした、だからモノの善悪がわからぬまま育った……過失をとがめたり、懲罰したりするときに、同情すべき点など諸事情を考慮することを情状酌量といいますが、学校、時には警察、裁判では必ずそれが出てきます。手順としてはそうなので確かに間違いではないですが、私はそれがどうかしましたか、といいたいです。
だっていじめられた側にとってそれが何の役にたちますか? ましてやいじめ殺された、もしくは自殺を選んでしまった側の人間にとって本当にソレが何の役にたちますか? 殺人者となる被告側の弁護士さんはその状態を何も感じないで減刑をいいたてるその神経が悪い意味ですごいクズ。
すでに起こってしまった殺人は当事者、特に被害者の家族にとっては過去の話ではなく、生きている限りわが子が理不尽な目にあって殺されてしまったと苦しみます。この本では殺人までにいたった六家族しか取り上げていませんが本当はもっと数が多いはずです。殺人までに至らずとも自殺に至らずとも心が壊され社会的な生活が営めなくなった事例ももっと多いはず。
この本を読んだからって何も解決はしませんが、広く知られる意義は確かにあります。筆者さんも取材に応じたご家族にも。現実に苦しんだ内容を広く知られることでいじめに抑制がかかることはあるはずだと思います。
夜と霧の作者、ヴィクトール・E・フランクルが書いた有名な言葉があります。彼はユダヤ人でヒトラー政権下のユダヤ人収容所、アウシュビッツ・ビルケナウなどの収容所から生還した心理学者です。彼は実際にあったことを淡々と綴っています。収容所側の殺人と言う処理を選択する側にある人間のなんという余裕があることか。殺害者らはこの上ない特権を与えられた人間でまわりにはそれに従う奴隷がたくさんいます。殺害者らの目の前には自分の意志一つで自由に殺せる権力をふるまえる数万人のユダヤ人たちがいます。しかも彼らには毎日の処理数つまり殺人ノルマまであったのです。
彼の書いた言葉は極限の状況を生き延びた人間の言葉としてどれも貴重です。そこには全知全能たる神の居場所はありません。選択の余地なしにいずれ死ぬことがわかっている人間に祈りも慰めも希望もありません。
① (収容所から)帰ってきた人間に良い人間はいない。
② 異常な状況では異常な反応をするのが、正常とされる。
大変に重く大きい言葉です。
人種殺戮を書いた夜と霧と未成年いじめ殺人を書いた本書を結び付けて考えたら双方の読者さんから怒られるかもしれません。でも私はこの二冊の本を手元に置いて考えたいのです。
一生を通じて人間の尊厳と尊厳を踏みにじっても平気でいられる神経を持つにいたる加害者側の存在意義。それを被害者側にいる人たちの心の痛みを知る側として考えたい。
なぜ彼らはそうなのだろう。
なぜ彼らは人を傷つけられるのか、人の心を殺せるのか。
なぜ殺せた? 面白半分で? ストレス解消で?
ごめんなさいではすまされないのに、時にはすませられる。
事件は終わったとされてはたまらない。
因縁や運命で簡単に片づけられてはたまらない。
この世に昔からある大いなる矛盾をどう考えたらいいのか……たとえその行為が机上の空論とあっても私は考え続けたいのです。




