第21話 一般人になった元勇者の小さな幸せ
すでに空は暗く、見上げれば満天の星空が広がっていた。その一つひとつが青白く瞬き、心労で擦り減った俺の胸を、そっと優しく照らしてくれる。
戦地でのゴタゴタを終えた俺は、屋敷への帰路を歩いていた。
ふと遠くの景色に、明かりの灯るお屋敷が目に入る。
いつもならベルのお迎えを済ませてから帰宅し、鍛錬に出るにしても近場の鍛錬広場だけ。夕食時には必ず屋敷に戻っていたから、こうして暮れゆく街を歩くのはどこか新鮮だった。
胸の奥がじんわりと温かくなる。
そして、不思議とワクワクしてしまう。
――もしかしたら、俺の帰りを待ってくれている人がいるのかもしれない、と。
普通の暮らしというのは、なんと居心地の良いものだろう。
日々に小さな幸福が積み重なっていく。
特別に望んでいたわけじゃない。今、俺が抱いているこの幸せは、思いがけず手に入ったものだ。
それが懐を温めているのだと思うと、心から感謝せずにはいられなかった。
――きっと俺は、幸せ者だ。
「……ただいま」
屋敷の扉を押し開け、いつものように言葉を落とす。
いつもならセバッチュが立っているはずだが、今日は違った。
食堂から部屋へ戻ろうとしていたベルが、驚いた顔でこちらを振り返る。
「おかえ――って……! な、何ですか、そのお顔っ!」
ベルが顔面蒼白になり、俺を指差す。
だが俺にとっては、それよりも――彼女が「おかえり」と言ってくれた、その一瞬が胸に残っていた。
もう一度やり直してくれないか、などと心の奥で思う。だがベルにとってはそんなことより、俺の顔の方が一大事だったらしい。
「あっ……そうか」
今の俺は、前歯がズタズタに欠けた、汚れた義勇兵の顔をしている。
ベルはその姿に息を呑み、顔色をどんどん悪くしていった。
「そ、そうかって……そんなレベルじゃありませんわ! ちょ、ちょっと待ってなさい! ええと……こういうときは焦らず、落ち着いて……。……セ、セセセ、セバッチュ――! おねがい早く来てぇー!」
完全に取り乱した様子で、ベルが叫ぶ。
駆けつけたセバッチュと二人がかりで俺を囲み、ああでもないこうでもないと慌ただしかった。
けれど――その必死さがなんだか嬉しくて、俺は内心で笑みを浮かべていた。
まだ見たことのないベルの表情を見られたからかもしれない。
* * *
結局、俺の部屋でセバッチュが怪我の手当をしてくれることになった。
正直、俺は自力で治癒できる。だから必要はないのだが、なぜか断ることができなかった。
「ひとまず応急処置はこちらで完了になります。折れた前歯については……腕利きの僧侶を知っておりますので、彼に相談すれば――」
「……ああ、その件なら大丈夫だ。今夜、魔力を歯茎に流し込みながら寝れば、明日には綺麗に生えそろってる」
本来、回復魔法は歯の再生には向かない。頑丈すぎて、四肢の欠損よりも難しいくらいだ。
だからこそ、こういうときは結局魔力を流しつつ眠ってしまうのが一番だ。
今日は特級魔法まで使ってしまったし、こんな歯ごときに特級回復魔法を費やすことはない。俺の魔力量はベルのように底なしではないしな。
「えっ……!? な、なんですのそれ、どういう原理ですの!?」
「肉体が本来持つ再生力を、魔力でちょっと早めてるだけだ。まあ俺の生命力が高いってのもあるが」
「そ、そういう問題なの!? 本当に大丈夫なの? ちゃんと治るんですの?」
「ああ。平気だ。なんなら俺はたまに趣味で前歯を折って飛ばしたりして遊ぶこともある。戦闘では飛び道具としても使えるしな」
「…………な、なんですか……それ」
ベルは呆れたように肩を落とす。
「どうして……どうしてそんなこと、もっと早く言わないんですの! わたくしは――わたくしは――!」
ベルが激高しながらも、心配の色を隠せず、複雑な表情で俺を睨みつける。
「……すまない。君が俺のために、あれこれしてくれるのを……もっと見ていたかったんだ」
「…………そんなに面白かったですか? わたくしが慌てるのが」
「違う。嬉しかったんだ。心配してくれているんだって、思えたから」
俺の言葉に、ベルは顔を俯け、黙り込んでしまう。
重たい沈黙が部屋を満たしかけたとき、セバッチュがすっと立ち上がった。
「……それでは、私はこれにて」
軽く一礼し、退散していく。できれば残ってほしかった……。
去り際の彼女の口元が僅かに笑んでいたように見えたのは……気のせいか?
こうして、俺とベルは二人きりになった。
思えば、部屋でこの子と二人きりになったのは初めてだ。
セバッチュが処置をしている間も、ベルは部屋の椅子に座って、ずっとそばにいてくれた。別に自室に戻って休んでいても良いはずなのに。
なんとなく続く沈黙が居心地悪くて、俺は口火を切った。
「……歯が抜けたままのほうが、良かったか?」
「そんなわけないでしょう。わたくしのお付きが歯抜けなんて、嫌ですわ」
先生ではなく“お付き”か。だが、ちゃんと返してくれたのが嬉しい。
思えば、初めて一緒に登校したときなんて、まともに会話もできなかったのにな。
そんなことを思い返していると、ベルが真紅の瞳でまっすぐ俺を射抜いた。
「……ねぇ。あなたって、本当はどういう人なんですの?」
彼女の瞳は真剣そのものだった。
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