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プロローグ

 世界が暗く沈んでいく。

 水底に沈んだ石のように、俺はゆっくりと、確実に、生命力を失っていった。


 ファム・ファタールと名乗ることになる以前——

 俺は、ただの三十歳の金融サラリーマンだった。


 ***


 朝。

 目覚まし時計が鳴るよりも早く意識が浮上する。

 身体の奥に、金属のように冷たい疲労が沈殿している。眠った気がしない。


「……また、始まるのか」


 天井のシミを眺めながら、ゆっくりと起き上がる。

 出社時間の一時間前に起きるのは、心の準備をするためだ。遅刻のためじゃない。遅刻なんて、俺の人生では一度もしたことがない。


 ただ、精神が会社に行くことを本能的に拒否しているのを、理性で押し戻すための猶予時間が必要なのだ。


 冷蔵庫を開ける。

 栄養ドリンクと水。

 それ以外は何もない。


 シャワーを浴びてスーツに袖を通し、締め付けるようなネクタイを結ぶ。

 鏡に映るのは、無難で、色がなくて、輪郭が曖昧になった三十歳の男。

 俺は気づいていた。

 会社に染まりすぎて、もう自分の個性や意思など、ほとんど残っていないことに。


 オフィスは都心のタワービル。

 ガラス張りのエントランスに入れば、冷たい人工空調が肌を撫でる。

 パソコンの電源を入れた瞬間、上司からメッセージが飛んでくる。


《今日の件、午後までに再提出。

 あと顧客リストの洗い直し。

 売上目標、まだ足りてないぞ》


 胃がきゅっと縮こまる。

 まただ。また今日も、今日も、今日も……。


「おはようございまーす!」


 新人の明るい声が遠くから聞こえる。

 その声が自分の過去のように思えて思わず目をそらした。

 いつからだろう。

 自分が「おはようございます」すら、心から言えなくなったのは。


 パソコンにかじりつき、電話を取り、数字を追い、会議で責められ、顧客に頭を下げ、提案資料を作り直し、帰宅は終電近く。

 そんな日々が続いていた。


 恋愛?

 そんなもの、する余裕はなかった。

 大学生の頃は、それなりに夢もあった。田舎で穏やかに暮らすとか、休日に恋人と出かけるとか、趣味を楽しむとか。

 だが現実はそれらを全部押し潰した。


 ただ働くだけの機械として、人生は過ぎていった。


 ***


 そしてその日は突然訪れた。


 客先でのプレゼンの最中——

 視界が揺れた。


「あれ……?」


 身体が重い。

 気づけば字が読めない。

 耳鳴りがして、誰かの声が遠のいていく。


「すみません……少しだけ……」


 言いかけた瞬間、膝が折れた。

 床に視界が近づき、書類がぱらぱらと散っていく。

 そして——黒い闇がすっと視界を覆った。


 暗闇の中で、俺は思った。


(こんな人生で終わるのか……?

 本当は……もっと……)


 もっと牧歌的な生活がしたかった。

 畑の匂いを嗅いで、柔らかな日差しの中で昼寝をして、季節の変化を感じながら暮らす人生。

 恋の一つくらいしてみたかった。

 誰かと手をつないで歩いたり、秘密を打ち明け合ったり、そんな当たり前のことを、俺は一度も経験せずに終わるのか。


(次の人生は……平和に……)


 そこで意識が途切れた。


 ***


 光。

 柔らかな光が、頬を包むように差し込んでくる。


 瞼を開けると、木の天井が見えた。

 古く、温もりのある天井だった。

 壁は石造りで、木の柱が通っている。

 空気はどこか土と草の匂いが混ざっていて、窓の外から風がさやさやと揺れている音が聞こえる。


「……ここは?」


 ベッドに寝かされている。

 シーツは少し粗いが、ふっくらとしていて温かい。

 体を起こそうとした瞬間、身体が驚くほど軽いことに気づいた。

 腕が、脚が、小さい。


 自分の姿を確かめようとしていると、扉がきぃと開いた。


「あ、起きてる! よかったぁ!」


 ぱたぱたと駆け寄ってきたのは、小さな女の子だった。

 金色の髪がふわりと揺れ、向日葵のような笑顔を浮かべている。

 瞳は淡い琥珀色。

 まるで春の陽だまりが歩いているような、天真爛漫な雰囲気を纏っていた。


「あなた、新しく来た子なんでしょ? えっと……さっき神父様が言ってた。

 “青い子”だって!」


「……青い?」


 彼女が指をさす。

 すぐ横に置かれた小さな鏡を覗くと、そこには——


 蒼い髪、碧い瞳をした幼い少年がいた。


(え、俺……?)


 転生。

 本当に転生してしまったのか。


「わたし、シャルロット! よろしくね!」


 勢いよく手を握られる。

 その温かさに、胸の奥の何かがじわっと溶けていくのを感じた。


「……よろしく」


 声は幼い。

 自分が、小さな子どもとして生まれ変わったことを、ようやく理解した。



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