第三章 8
(私は、わたしは……)
ぼろぼろと涙が止まらなくなり、リヴィアは両手で子どものように雫をぬぐった。だがどうにも止まる気配がなく、次から次へと涙が溢れてくる。
するといつの間にか近づいていた王妃が、そっとリヴィアを抱き寄せた。しっかりとした両腕に抱かれたまま、リヴィアは静かに泣き崩れる。
「今まで、よく頑張った」
「閣下、そのような……もったいなき、お言葉を……」
「今は王妃だ。ほら、存分に泣け」
からかうような王妃の令に従い、リヴィアはひとしきり涙を出し切った。少し呼吸が落ち着いたあたりで、ようやく逞しい胸板から開放される。
「落ち着いたか?」
「は、はい。申し訳ございません、このような失態をお見せするなんて……」
「よいよい。今の私は国民すべての母だ。いくらでも受け止めてやる」
はっはと快活に笑う姿は前世の将軍そのもので、リヴィアは目じりに残った涙を指で拭いつつ、つられたように微笑む。
「ところで、お前はどちらを伴侶に選ぶつもりなのだ?」
「はい?」
「とぼけるな。ルイスとディエゴ……今はクラウディオとラウルだったな。あやつらから揃って求婚されていると聞いたが」
「か、閣下までそのようなことを……」
「ディエゴはたしか以前の婚約者だったか。あいつはお前のこととなると、目の色変えて怒っていて、本当に面倒くさかったな」
「そ、そうなのですか?」
「お前さんの前では、そんな素振りも見せていなかったようだがな。しかしもう一人はルイスか。あやつもなかなか骨のあるやつだったが、いかんせん押しが弱いからな」
「押しが弱い、ですか?」
「ああ。見ている私の方がじれったくなったものだわ」
はて、とリヴィアは疑問符を浮かべた。ルイスだった頃は意識していなかったが、クラウディオとして接している現世では、決して押しに弱いという印象はない。
むしろ年上の余裕に満ちているというか。恋愛経験の少ないリヴィアは、彼の言動一つ一つにいつも心を乱されまくっている。
「まあ、どちらもいい男だ。この私が保証する」
「は、はあ」
「はは、『ロランドの戦乙女』もこうした手合いは苦手だったか」
「そ、その呼び名はもう、忘れてください……」
途端に真っ赤になったリヴィアを見て、王妃はまたも豪快に笑い始めた。だがひとしきり楽しんだ後、ふと険しい顔つきになる。
「……と、そうだ。新しい人生を楽しめと言った手前、申し訳ないんだが」
「何でしょうか?」
「お前が命を落としたゾアナの戦い。やはり、敵側に情報が漏れていたそうだ」
突然の告白に、リヴィアは目を見張った。
「内通者がいた、ということですか?」
「おそらくな。あいにくその正体を突き止める前に、戦線の維持に尽力する羽目になってしまったが……」
「……」
正直なところ、大きな驚きはなかった。
あのタイミングの良い罠といい、準備されていた兵力、そして伏兵。そのすべてがあまりにも出来すぎており、情報が漏れていなければ起こりえない、とリヴィアも薄々感じていたからだ。
「むやみに脅すつもりはない。だがこの時代は、かつてロランドに関わりを持っていた者が多く転生している。万が一、悪意を持つ者がいても不思議ではないからな」
「内通者がこの国に?」
「それは分からん。私が確認した中では、それらしき人物は見当たらなかった。ただ、油断だけはするなと伝えておく」
かつての将軍を思わせる強い言葉に、リヴィアはこくりと息を吞んだ。
(ロランドを裏切り……帝国についた者がいる……)
当時はとにかく戦いが続いており、傭兵や徴兵されたものなど、数多くの人間が軍部を出入りしていた。その中に内通者がいたとしても、不思議な話ではない。
(だが帝国に与して利を得る人間とは、一体……)
無言で押し黙ってしまったリヴィアを見かねて、王妃がはあと溜息を零す。
「不安をあおるようなことを言って悪かった。もし気になるようであれば、王城にある書庫を訪ねると良いだろう。あそこには、より子細な歴史が残っているはずだ」
「よろしいのですか?」
「ああ。私から書庫番に伝えておいてやろう」
やがて遠くから、リヴィアを呼ぶ声が聞こえてきて、王妃とともに振り返った。見ればリヴィアの戻りが遅いのを心配したのか、クラウディオとラウルがこちらに向かってくる。
「ほら、お前の騎士たちが来たぞ」
「かっ……ではなく、妃殿下、からかうのはおやめください」
「はは、すまんすまん」
王妃は軽やかに笑いながら、そっとリヴィアに背を向けた。「二人に会わないのですか」と呼び止めると、ふわりと振り返り楽しそうに微笑む。
「彼らにはまだ内緒にしておいてくれ。その方が驚きも大きいだろう?」
「で、ですが」
「ではリヴィア殿、また会おう」
そう言うと王妃は、舞い飛ぶ蝶のような可憐さで、ひらりとリヴィアの前から姿を消した。ようやくたどり着いた二人が、リヴィアに向かって問いかける。
「リヴィア様、こんなところにおられたんですね」
「先ほどの女性は……王妃殿下か?」
「あ、ああ……」
内緒にと言われた手前、リヴィアは真実を明らかにすることが出来ず、思わず口をつぐんだ。だがそこでふと、嫌な可能性が浮かび上がる。
(……もしや、将軍は我々の周囲を警戒している……?)
クラウディオとラウルに秘匿せよ、と言うことは、彼らの近くに裏切り者がいることを危惧しているのかもしれない。もしくは――彼ら自身が?
リヴィアは恐る恐る顔を上げ、それぞれの顔を見つめた。クラウディオは目が合った瞬間、照れたように微笑む。一方ラウルはいつもの冷たい表情のままだ。
(まさか……そんなはずは……)
だがリヴィアの心にぽつりと滲んだ疑心は、音もなく広がり始めた。
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波乱に満ちたパーティーの翌日。クラウディオは地方へ野獣討伐の任があるとかで、サルトルとともに外出していた。
普段のリヴィアであれば「見学したい!」と言っていたのだろうが、今日ばかりはありがたいと静かに見送る。
(将軍の真意を、確かめなければ……)
時間を得たリヴィアは、王城にある書庫を訪ねた。将軍――王妃が口添えしてくれていたおかげか、書庫番は快く受け入れてくれる。
「探したい本がありましたら、何でも申し付けくださいませ」
王城の書庫というだけあって、館内には膨大な量の書籍が並んでいた。見上げるような書架の間を歩きながら、リヴィアはただただ感心する。ここならばロランドや帝国に関する情報が見つかるかもしれない。
「でしたら、このルーベン以前の記録があれば、見せていただきたいのですが」
「以前……ですと、この辺りでしょうか」
すると書庫番は迷うことなく、一つの本棚の前に向かった。上段から数冊の本を抜き去ると、リヴィアの前に差し出す。
「この三冊がイリア帝国の歴史を書いたものになります。この書庫に現存しているのはこれだけですね」
「あの、帝国だけではなく、ロランド王国の資料もありますか?」
「ロランド……いえ、ちょっと記憶にないですね」
「そうですか……」
分厚い書籍には、イリア帝国の創生から、政治や経済の在り方までもが詳細に記されていた。図柄を用いて説明している箇所もあり、リヴィアの邸で見たものとは内容の濃度が明らかに違う。
(なるほど……当時の帝国は、このような内情になっていたのか……)
そこにはベアトリス時代には知りえなかった、帝国側の家系図や有力な諸侯らの情報も記載されていた。王室の系譜を確認していたリヴィアは、ふむと目をしばたたかせる。
(『ザイン』……? なるほど、王族にはそれぞれ決められた紋章があったのか)
国のシンボルである国章は、帝国軍の武器や旗に嫌というほど刻まれていたため、リヴィアもよく覚えている。だがこの資料によると、帝国の王族は生まれた時にそれぞれ個別の紋章が与えられる、というしきたりが書かれていた。
それらは『ザイン』と呼ばれ、主には王族らの衣装や持ち物などに刻まれる。基本的には秘匿され、公にされることはない――とのことだ。
そのページには歴代の王とそれぞれの『ザイン』が並んでおり、リヴィアは初めてみる文様にしばし目を奪われる。だが次のページに移動した瞬間、ひゅっと息を吞んだ。
(この……鷲の紋章は……!)







