二度目の恋人
木枯らしが、頼りないコートの隙間から肌を刺す。
乾いた落ち葉がアスファルトを走り、カサカサと音を立てていた。ベンチに座る膝頭の感覚はもうないのに、胸の奥だけが熱を持って張り付いている。
約束の時間は、とっくに過ぎていた。
「……こんなところで」
風の音に混じって、聞き慣れた、けれどひどく擦れた声が落ちてきた。
顔を上げると、白髪の混じった髪を風に乱した彼が立っている。襟のよれたダウンジャケットからは、微かに防虫剤の匂いがした。
「風邪をひくよ。馬鹿だなあ、君は」
「ふふ、ひどい言い草。誰のせいで待ってると思ってるの」
少女のように唇を尖らせてみせる。
「すまない。妻の……」
その言葉に、胃の腑が冷たく固まる。
奥さん。その存在が、冷たい風よりも深く身体を抉る。いけないことだと分かっている。それでも、週に一度、この公園のベンチで彼の手の甲に触れる時間だけが、私の輪郭を繋ぎ止めていた。
「奥様、お加減はどう?」
精一杯、何でもないことのように尋ねる。
彼は一瞬、泣き出しそうな、それでいて何かを諦めたような目で私を見つめた。そして、私の手を強く握り返す。
「……変わらないよ。私のことなど、もう誰だか分かっていないようだ」
「まあ、かわいそうな人」
私は彼の方へ身体を寄せた。ジャケット越しに伝わる体温。この温もりを独り占めしている背徳感が、罪悪感と共に胸を焦がす。
ほんの十分足らずの逢瀬だった。
日暮れと共にサイレンの音が遠くで響き、別れの時を告げる。
「じゃあ、また明日」
「ええ。気をつけて帰ってね」
彼は寂しげに微笑み、何度も振り返りながら公園の出口へと歩き出す。その足取りは重く、どこか引きずっているようにも見えた。
その背中が夕闇に溶けるまで見送った。掌に残る微かな温もりだけを、命綱のように握りしめて。
「佐伯さん、佐伯さん」
不意に背後から声をかけられ、現実に引き戻された。
白い制服を着た若い女性が、心配そうにこちらを覗き込んでいる。近所の施設の職員だ。
「風邪引きますよ。お部屋に戻りましょう」
「……」
彼女は、公園の出口に目をやり、それから優しく私の肩にブランケットを掛けた。
「ご主人、もうお帰りになったんですね」
その言葉が、耳の中で奇妙に反響する。
シュジン……?
「……」
思考が、木枯らしにさらわれていく。
ただ、冷え切った風の中で、慈しむような手の感触だけが、唯一の真実として掌に残っていた。




