第十三章 3
それは天変地異の眺め。
競技用トラックを突き破って打ち上がる岩肌。巨大な一枚岩の列が通路を築く。そこは日本アルプスの稜線を思わせる難所の眺め。踏み足は狭く、山裾はカーテンのように直立して見えるほどの剣ヶ峯。それが迷路を描いて敷き詰められる。
「……これは、ノー・クラートの言う迷宮世界。現実空間でなぜ……」
ゼウスの自失の時間は短かった。口をつぐむような気配とともに走り出す足音。
気配だけだがかなりの速度が出ている。いつぞや450キロの硬球をホームランにしてみせたように、おそらく電気で筋肉に干渉している。
「ゼウス……因縁は山ほどあるけど、迷宮の中では何も言う気はない。走破者は走破すること以外の何も求められない……」
あらゆることの、奇妙な因縁。
ようやく私は理解しつつあった。ゼウスというあまりにも異質な走破者。精神も肉体も怪物たる存在。彼の影響は迷宮の隅々にまで及び、だからこそ、ヒントはあらゆるところにあったのだ。
私は崖を駆け上がって岩場の向こうに逃げる。ここは直径500メートルに及ぶ人跡未踏のアスレチック。だが私のイメージから生み出した迷宮だ。息をするように走破できる。
――それは例えば、ミノタウロスの人工筋肉。
「龍哭!」
さらに迷宮を複雑化させる。ギザギザの岩場の上にさらに岩が増床され、谷間だった部分はトンネルに変化する。私は風穴のような洞を身をかがめて走り抜け、出口の上端を掴んで体を真上に振り上げる。
――あるいはアレイオン。馬の走破者。
背後に静電気のようなスパーク音。身を沈めつつ体を丸め、そのまま谷間へ転がり落ちる。実際にはグリップを掴みながらの高速登攀、いや降攀とでも言うべきか。スピードクライミングの技術をフルに使って体を下に投げる。
「ミズナさん! ちょっと場を荒らしますわよ!」
そこに亜里亜の声。見ればタイヤの直径が2メートルはある巨大なトラクターが走行している。さすがに切り立った岩を登れるほどではないが、谷間の斜面をタイヤで捉えて走行する。
そこへスパークがひらめく。ゼウスの電撃のようだが、車両なら表面を電気が走って、アースしてある鎖から地面に逃げる。そうそう破壊されはしない。
もっとも銃器を送り込める訳ではないので、亜里亜の方にも決定打はない。今はゼウスの気を引くだけでも十分だろう。
私は砂利の溜まった谷間を回り込んで逃げる。
――あるいはネクタル。魂が脳の外へ遊離し、桃の中や、半導体の中にすら入り込む概念。
ゼウスが高台に現れて周囲を見る。その腕からマシンガンのように電撃が乱射されるが、岩から地面を伝っていくのみだ。
――あるいは高位の走破者たち。現代科学を越えた技術。人の技術の延長線上すら超えた世界。
『ミズナさん、ゼウスはフィールドを造成するような技は使えません。戦術としてはフィールドを走り回りつつ、電磁地雷などを撒いていくことになると思われます。なるべく新しく生み出した道を走ってください』
「大丈夫よタケナカ……たぶん。そこまでの戦いにはならない、それより例の準備を」
『はい、もう少しだけ時間を……』
――そして走破者たちの頂点。演算力を統べる者。ゼウス。
――そのすべてが、指し示すこととは。
「龍哭!」
さらなる衝撃。グラウンド全体を取り囲むように岩肌の列が生まれ、まさに地中を龍が走るかのよう。
「ゼウス! あなた人間じゃないのね!」
「……定義によってはね」
走破者となり得るのは人間に限らない。動物の脳ですら可能。
ならば、人工知能ですら可能なのではないか。
「僕はね、演算力こそが人の上位種であると考えた。演算力で肉体を改造し、思考の大部分を半導体に委ねた。やがて脳組織すら徐々に置き換えて行ったのだよ。だが不安など何もない。僕の記憶と人格は一貫している。僕は人間の創造物でもなければ、己を人間と錯覚している電算装置でもない。僕だけが全てを理解している。僕は演算力となった最初の人間なのだよ」
ゼウスがひときわ高い岩の上に跳び、指をぱちりと鳴らす。
そこから生まれるのは黒い霧。それは無数のロボット群だ。
「なるほど、生み出せるようだ」
それは浮遊する羽蟻、素早く地を進む軍隊蟻、あるいは橋のような組体操で谷間を渡る蟻。
「逃げ隠れしても無駄だ。蟻は迷宮の隅々までたどり着いて獲物に噛み付く」
腹にある残り時間を見る。残り時間は二分弱。もう少し逃げ続けられるかと思ったが、さすがはゼウスか。
「ゼウス!」
私はもう一つの峰に立ち、暗がりのなかに浮かぶ青年に呼び掛ける。
途端、四方八方に散っていた黒蟻が私のもとへ殺到。蟻の牙が迫る寸残、円筒形の土管が出現して私を包む。不格好だが私としては進歩した方だ。
「お嬢さん。蟻は一分もあれば全てを食い破る。その柔肌に牙を立てるのは忍びない。ギブアップしたまえ」
「ゼウス、まだ分からないの。私たちは明らかに現実世界にいる。しかし演算力で物質が創造できる。この意味が」
「さあね。今はそんな謎はどうでもいい。迷宮ではゴールに至ることが何者にも優先する」
ゼウスのその方針は正しいのかも知れない。
でもそれが最大の失策よ、ゼウス。
「ゼウス、知ってる? 三ノ須には地下施設が多数ある。建設中のものを含めると、深度80メートル以上の深さにある核シェルターとかね」
「? そうかい、まあ当然の用意だね」
――あの時。
私の投げた黒曜石の岩が、壁に突き刺さった。
しかし黒曜石は私が演算力で生み出したもの。現実に干渉できるのはおかしい。人間の脳に干渉して幻を見せているのかと思ったがそれも違う。
穴ならともかく、例えば壁自体を破壊するなどすればそこを通過できることになる。実際には穴など無いとすれば、認識と現実の齟齬が大きくなりすぎる。
そして、この異変はどうやら三ノ須だけに起きている。
「タケナカ、用意はいい?」
『はい、五秒後に』
では。三ノ須に何が起きているのか。
答えは一つ。
三ノ須それ自体が、演算力でできている。
そして全ての灯が消える。
「何――」
校舎の非常灯も、中庭を照らす外灯も、タワーマンション屋上にある飛行機のための赤色灯も消える。主、副、予備を含めて全ての電源系統を落としたのだ。
すると、何が起きるか。
私の足元で岩が消える。もし明るければそこに見えたのは網状の構造物だろう。ゲームの3D地形からテクスチャを剥がし、ポリゴンをむき出しにするような眺めがあったはず。
それは蟻。
白く小さな蟻が平面的に結び付き、千鳥格子のような眺めになっている。電力を失ったそれは私の体重を支えきれずに沈み、山肌もすべて、布でできていたかのように形象を失っていく。
私とゼウスは自由落下の勢いとなり、ゼウスは周囲にスパークを飛ばすかに見えた。しかし何にも当たるはずはなく、砂地のようになったグラウンドにばさりと落ちる。
そしてさらに沈降。グラウンドの下部には地下施設があるのだ。
いったい、いつの間に入れ替わっていたのか。
グラウンドだけではない、校舎も、食堂も。
購買も、講堂も、宿舎も、焼却炉も、診療所も、部室棟も、ナイター用の大型照明も、バイオマス発電所も、何かの記念碑も、バスケットゴールも、私の登ったV14相当の大岩までも。
すべて白い群体となり、地下へ地下へと沈んでいく。どうやら車両と発電施設ぐらいは入れ替わってなかったらしい。
そしてもうもうたる白煙。学園に人が残っていたらさすがに大騒ぎになったと思うが、厳重に人払いしておいて助かった。
「うっつ……全身チクチクする……よいしょ」
足場の感覚は、プラモの一番小さいパーツを敷き詰めたような、と形容するべきか。一辺5ミリほどの薄くて軽いものがまさに山のように、あるいは海のように積もっている。
さいわい、平べったい形状のためか体が埋まっていくことはなかった。だがうまく立つことが出来ず、泳ぐような這うような案配で進む。ポケットからスマホを取り出しライトをつけて、胸ポケットに刺して明かりとする。
「えーと、確かこっちの方に」
慣れてくるとそこそこ早く進める。50メートルほど泳いだ先に、青いシャツの青年が見えた。
逃げるでも敵対するでもなく、目を丸くして夜空を見上げたまま寝そべっている。
「ゼウス、攻守交代の時間は過ぎてる、今は私が攻撃側」
そして私は、ぽんとその腹に触れた。
「はい、あなたの負け」
「……いや、それどころじゃないだろう」
ゼウスはゆっくりと身を起こして、あきれたような顔で私を見る。ゼウスのそういう茫然自失というか、気の抜けた様子は初めて見た。
「何が起きたんだ……この異変は」
「イカロよ」
気付くべきだった。
イカロはノー・クラートの息子でもある。母親の生み出した繁栄が使えても不思議はない。
蟻は何にでもなれる。足場にも壁にも。電導素材にも絶縁体にも。
ならば建物となることもできるのか。そして人間の脳に干渉して、表面のテクスチャを調整する。コンクリートの質感、黒曜石を握った感覚は幻だが、コンクリートに穿たれた穴は現実に再現できるわけだ。
「打ち合わせていたのか、僕をはめようと」
「まさか、迷宮は公平よ。あなたがこの原理に気付いたなら、逆に利用できたはず」
ゼウスは三ノ須内部で異変に気付いた瞬間、すぐにこの場を離脱すべきだった。そうしなかったのは走破者としての本能のためか。
それとも、イカロとゼウスの化かし合いの結果か。私たちをもギリギリまで欺き。それでいながら私がこの三ノ須の現状を利用できると読みきった。
これがイカロの迷宮。その全容。
さっき言ったように、結果としてゼウスは負け。
そして貴方が勝ったよ、イカロ。
「むきー! 服にいろいろまとわりついて動きにくいですわー!」
亜里亜も泳ぐようにこちらに来る。私たちのそばに来て立ち上がると、沈みはしなかったがゴスロリの隙間から白い薄片がざらざらと落ちた。
「……君たち、僕に勝ったからって、それで終わるわけじゃないんだぞ」
ゼウスはまだどこか体に力の入らない様子で、不安定ながらも立ち上がる。
「僕自身が体内に発電施設を持っている。今なら君たちを一撃で……」
「もう無理よ」
とうに電源は戻している。
現に遠くの方では校舎が復元しつつある。数億匹の蟻で構成された校舎が、ビデオの逆回しのように土台から直っていく。おそらく一応の形だけ修復しておいて、入れ替わった時と同じように、今度はコンクリートに入れ替わって行くのだろう。
「この三ノ須はすでにイカロに支配されている。この場がまだ元に戻らないのは私たちがいるからだけど、必要に応じて何でも出せる。迷宮の中だろうと命を奪うような攻撃はできないか、あるいは減衰されるでしょう」
考えてみれば当然のことだ。ゲームマスターがイカロである以上、命の危険があるような迷宮を作るはずがない。
「……なるほど」
ゼウスはまだ少し考えていたようだが、やがて諦めたように頭をかく。
「つまり、僕の負け。最終的な勝者は君というわけか」
【いいえ】
「! イカロさま!」
あの声だ。音声としては響いていないのに、その発言があったと認識できるような声。おそらくは脳への干渉によるものか。
そして私たちの前に降り立つ影。
細面に小柄な体。まだ未発達な骨格ながらも落ち着いた立ち姿をしていて、丸眼鏡の奥に優しげな光を宿した人物。
「イカロさまー!」
亜里亜がタックルの勢いで飛び付いて。
やはりというべきか、体を突き抜けて顔面からスライディングする形になる。
「ぶえっ、口に入りましたわー! ジャリジャリしますわー!」
「亜里亜、落ち着いて、ここにいる僕は脳組織への干渉による幻なんだ」
今度はどこからともなくイカロの声が響く。幻もちゃんと口を動かしている。彼なりの配慮だろうか。
幻の姿であっても色々ちゃんと仕草をさせているのは、初めて会った夜を思い出す眺めだ。
「ゲームマスターの登場か。僕に死刑宣告でもしたいのかな」
ゼウスはもはや何もかも投げやりな様子で、お手上げの格好をする。
「いいえゼウス。僕はあなたを否定しません。父の死は一つの帰結であり、貴方はもはや人の世の倫理で裁ける存在ではない」
それは演技なのか皮肉なのか、それとも本気で言っているのか私にも分からない。
だがイカロは、確かに優しげな顔をしてみせた。緑の蛍光に光る幻の手で、ゼウスの手を包んだのだ。
「だから貴方に託してもいい。演算力のすべてを、創造主の玉座を……」
Tips テセウスの船
パラドックスの一つ。ある船を修理しつつ使うとき、元からあった木材がすべて失われ、別の木材に置き換わったとき、果たして同じ船が存在し続けてると言えるのか、という命題。




