第十二章 10
ゼウスはどこか義務的にその名を呼ぶ。
「据盾蟻」
「繁栄……! なぜあなたが!」
「ノー・クラートの技術は全て取り込んだ。彼女ほど大量ではないが、ひととおりは使える」
黒い盾は灰が崩れるようにさらさらと消滅し、ゼウスはそれは私にと言うより、もっと幅広く大きな範囲に呼び掛けるように言う。
「僕だけがすべてを理解している」
ゼウスの言葉がいんいんと頭蓋骨に響く。視界が傾斜し、彼がひどく遠く見える。
「走破者は演算力を手に入れて超越者になるわけではない。俗世から超越した者のみが演算力を手にする資格があるのだよ。世界で僕だけが人間を超えた。だから演算力に導かれた。これは当然の帰結なのだよ」
振りきっている。
彼の中にはもはや善とか悪という概念すら存在していない。世界には価値観は一つしかないのが当たり前で、他者は全て自己の一部だというのか。
あまりにも隔絶された善悪の彼岸。精神にすら怪物は住まうのか。ゼウスはいったいいつから怪物だったのか。世界にはこれほどの……。
【いいえ、まだ終わっていません】
声。
それは最初、心の中からの声かと思われた。記憶と符合するような声。それが私の琴線に触れる。
「……イカロ?」
「む……」
ゼウスが警戒する気配を見せる。
声はどこからともなく、まんべんなく世界に満ちるように聞こえる。それは音声というより、そのようなメッセージが送られたのだと無条件に把握できるような現象だ。
【ゼウス、この迷宮はあなたの勝利です。すでに演算力の移動は完了しています】
「介入するつもりかゲームマスター。だがそんなことはできないはずだ。ゲームマスターがプレイヤーの演算力を奪ったり、誰かに与えることはできない。走破者のいる状態で迷宮に手を加えることもできないはず」
ゼウスはあらかじめ用意していた言葉のように言う。
ごく最近までノー・クラートというゲームマスターが存在していた。ゲームマスターがどこまで介入できるかは当然調べているのか。
【その通り、迷宮は公平です。私からできることは迷宮の改変ではなく、追加のみ】
「追加だって」
それは、どことなくイカロですらないような印象だった。ずっと大人びて達観しているような。ひどく落ち着いた印象の……。
【ご案内しましょう。まぎれもなくこれが最終最後。全てが終わる迷宮へ】
暗転。
眠りのような気絶のような。あるいは五感の全てが遮断されるような断絶の一瞬。
「!」
私は身を起こす。
そこは一辺8メートルほどの部屋。目の前にはダイダロスがある。
「……ログアウトしたのね。イカロの言ってた最後の迷宮って……」
ホワイトボード型端末、ダイダロスはぼんやりと発光し、そこに迷宮の名称が浮かび上がっていた。
―――無相真宮世界―――
「……無相真宮世界……とでも読むのかな。これが迷宮の名前? 別に赤文字でもないし、これは……」
『ミズナさん、起きましたの?』
ダイダロスから声がする。亜里亜の通信だ。
「そうみたいね……次の迷宮は出てるけど」
『ともかく一度集まりましょう。私とタケナカは第四シェルターにおりますわ、そこまで来てください』
私は身を起こして、そこまで移動する。
時刻は夕暮れ時だ。生徒たちは授業を終えて部活に向かい、あるいはシャトルバスに乗って寮へと帰宅していく。
シェルターに至ると、中にいたのはタケナカと亜里亜。二人は同時に心配そうな視線を寄越す。
「ミズナさん、あの、お父様のこと……」
「……心配しないで」
私は、やはり疲れきった声であることを隠せていない、と思いつつ述べる。
「家族を捨てた男よ……。探していたのは確かだけど、憎んでたのも本当なの。演算力で見つけられない時点で、どこかで死んでいることは覚悟していた。だから、そこまで……」
眼の奥に痛みがある。
だめだ。
取り繕うような言葉を並べても、他人も私も騙せはしない。
「ミズナさん……」
「あ、亜里亜は強いわよね……。両親を亡くしてるのに、独りで、強く生きてる。私は、もう無理かも……。指先から力が抜けていくの。頑張りたいのに、踏ん張りが効かない。最後の迷宮だっていうのに、気力が、わ、沸いてこなく、て……」
ゼウス。
あの人智を超えた怪物の言葉はやはり正しいのか。
私には走破者として動機が足りない。父を見つけ出すためにがむしゃらに頑張ってきた。父の望みである金メダルを手に入れれば、全ての人生の傷が修復され、何もかも幸せなあの頃に戻るような気がした。
馬鹿みたいだ。戻るはずはない。
何かが失われれば、その時から世界は変容していく。
仮に取り返したとしても、変わってしまったものをすべて戻すだなんて、できるはずもないのだから……。
「いいえ、まだですよ、ミズナさん」
部屋に誰かが入ってくる気配がある。この声はアフロディーテか。
「アフロディーテ……」
「ともかく落ち着いてください。タケナカさん、何か温かい飲み物を」
彼女は私を抱き止め、大きめのクッションへと導く。おそろしく柔らかい体と、猫のような暖かさ。それに脳を弛緩させるようなゆるやかな声。
「ありがとうアフロディーテ、でも、私は……」
ああ、今ならアフロディーテの言葉の意味が分かる。
あれはもはや人ではない。関わりたくない。あまりにも恐ろしく、容赦がない。触れあえば人格を砕かれ、魂が地獄に落とされる、そんな気さえする。
ゼウスの言葉には感情がほとんどなかった。言葉は常に義務的で、行ったことの無い土地について語るような粗雑さがあった。私の人生が紙や藁のようにぞんざいに語られる。むしり取られていく。その事がたまらなく恐ろしい。
「ミズナさん、私はタケナカさんたちから迷宮での様子を聞いていました。あなたに起きたことも」
「う……」
彼女の声はあまりに優しく、何もかもを委ねてしまいたくなる。膝から力が抜けて、私は人前だというのに赤子のように彼女に抱きつく。
「私は、あなたのお父様が生きている可能性はあると考えます」
「……!」
身を起こす。
そこにあるのは紅い唇。鼻から下だけが見える。
「そんなことが……」
「いいですかミズナさん。ゼウスにとって、あなたのお父様を生かすも殺すも自由という状態の方が都合がいいはずなのです。いざというときに人質にもなります。ゼウスは目的のためにどんな手段でも取りますが、必ず、最も効率のいい手段を取ります。人間を一人確保しておくことなど造作もないことです。高位の走破者には作業リソースが無尽蔵にあるのですから」
「でも、イカロのお父さんは……」
「そう、彼だけは手にかけるしか無かった。彼だけが例外なのです。天塩創一だけは生殺与奪を握るという状況に置けない。世界であの人物だけは演算力で封印できないからです。例え地底の奥深くに封じ込めたとしても、何らかの手段で外部と連絡を取るかもしれない。お分かりですかミズナさん。ゼウスは怪物ではありますが、天才ではないのです。天才だけは彼の支配下に置けない。天の意思だけは操れないのです」
「そう……そうですわ、ミズナさん!」
亜里亜も私の背中に被さってくる。
「必ず生きていますわ! ゼウスをしばき倒して居場所を吐かせるんですわ!」
生きている。
父さんが。
「ミズナさん、私のような者が貴女にもの申すのも躊躇われるのですが」
タケナカが、ホットミルクを差し出しつつ言う。アフロディーテがそれを受け取り、さらに私へと手渡す。
「迷宮とは複雑怪奇です。どれほど準備して挑んでも、走ってみるまで分からないことがある。逆を言うなら、そこに踏み込んだ者だけが真実を知るのです」
「真実を……」
「ミズナさん、お父様の死を眼で見て確認したわけではないでしょう? 銃からは血痕が出ただけに過ぎない。あなたは最後まで追いかけるべきです。お父様を、そしてあなたの人生をも」
私の……。
指先から、温かい飲み物の熱が伝わる。
追いかけられるのだろうか、もう一度、父の背中を……。
「……分かった」
私の声で、皆がぱっと明るくなる気配がある。
そして気付く。
ああ、私はなんと恵まれていたのだろう。
家族がちりぢりになり、夢も掴みそこねて、地に落ちていたと思ったのに。
今は走破者としての仲間がいる、いくつもの出会いがあって、支えてくれる人もいる。
ならば、いつまでも倒れたままではいられない。
「走りましょう。最後の迷宮。イカロが作った迷宮を」
「それでこそミズナさんですわ! でもイカロ様は渡しませんからね!」
それは言っておくのか、と私は苦笑する。
人肌よりやや温かいホットミルクをぐいと飲み干して、決意を込めて口元を拭う。そしてタケナカの方を向く。
「タケナカ、ゼウスはもう潜ってるかも知れない、早速行くわ」
言われた方のタケナカは。
しかし、そこでなぜか少し困った顔になる。
「……ええっと、ですね。あの、実は先ほど、私の方で偵察がてら潜ろうとしたんですけど」
そのポケットから取り出されるのは、Tジャック用の器具、電極つきのガーゼだ。
「なんだか、潜れないんですよね……」
「潜れない……?」
この部屋のダイダロスを見る。無相真宮世界。タイトル画面が出たままだ。
「この端末の故障? それなら他のダイダロスを」
「いえ……他の端末も同じような状態です。ダイダロスとしての機能は普通に使えます。演算力へのアクセスも可能です」
「……」
……入るための資格。
それはありそうな話だ。最後の迷宮なのだから、ここまで演算力を維持している走破者だけが挑める……とか。
私はダイダロスからTジャックを引き出し、自分のガーゼを接続して、それを舌に当てる。
ぴり。と。
……来ない。
「どうしたんだろう……何も来ない。舌がしびれるような感覚とかが」
「迷宮もタイトル以外何も出てきませんわ。イカロ様ってばちゃんと作ったのかしら。いえもちろん疑ってはいませんけど」
……。
無相真宮世界。この名前は何だろう。
「タケナカ、無相って……仏教用語みたいなこと?」
「検索しましょう……そうですね。使われる状況や文脈によっていくつかの意味がありますが、形や特徴がないありさま……。定まった姿や形から解放された究極的な状態……。色相と言うと色があり形があり、眼で見て感じられる事を指し、無相は逆に形のないもの、言葉で推し量れない概念的なもの……」
「……」
色がなく、形がなく、形容することもできない。
人間はそれを知覚することもできない、究極的な状態……。
「まさか……」
私は拳を握って、深く心の中で念じる。
そして手を開いたとき。
そこにはカブトムシほどの、黒曜石のかけらが……。
「ここは、すでに迷宮の中……」
Tips ゲームマスター
ゲームを取り仕切り管理する役割の人物。テーブルトークRPGなどではマスターの裁定が明文化されたルールよりも上位に来ることもある。
オンラインゲームなどにおいてはマスター役はプログラムが務め、人物としてのマスターはシステムを維持管理する役割であることが多い。




