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迷宮世界のダイダロス  作者: MUMU
第二章 天網無尽の檻
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第二章 2


「特異症例……それって都市伝説じゃないの」


リップ・ヴァン・ウィンクルとは民話をベースとして執筆された短編小説であり、海外版浦島太郎とでも言うべき話だ。

ある男が山の奥に迷い込み、不思議な男たちと出会う。

その男たちとボウリングのような遊びをしたり、酒盛りをしたりして一夜を過ごす。起きた時には男たちの姿はなく、街に戻ると様子が一変しており、20年という時間が流れていたことを知る。という話だ。


特異症例RVW-s、リップ・ヴァン・ウィンクル・シンドロームとはその話に由来する症例だという。


「たしか……拡張世界での時間の流れを現実世界より早く設定すると、中で過ごした人間は年齢感覚に異常をきたして、アバターの外見年齢が変わってくるとかいう」


この話にはいくつか無理がある。

まず、PFのような拡張世界にあるアバターに成長要素など設定されていない。

そして、いくら拡張世界の時間を早めても、脳が知覚できる時流が早くなるわけではない。主観的には周りのものが高速で動く世界に見えるはずだ。

そして、リップ・ヴァン・ウィンクルにしろ浦島太郎にしろ、数日を過ごしたら故郷が何十年も経っていたという話だ。アバターが年を取るのでは逆だ。


私がそういう話をすると、イカロはソファーに浅めに腰掛けて、両手をへその前で組み合わせて言う。


「ミズナさんは映画などの早回し再生というのを知っていますか?」

「まあ知ってるけど……動画サイトでもあるわよね、動画を1.5倍とか、2倍とかで再生できる機能よね」

「そうです。最初は発音やものごとの挙動に違和感がありますが、長年、早回しで再生していると、通常速度に戻した時にひどくゆっくりと感じたり、会話の間のとり方などが冗長に思えると言います」

「脳が順応するって言いたいの? でもアバターまで成長しないはずよ」


そこで亜里亜が割って入る。彼女の黒のゴスロリ姿は視界の端でもよく目立つ。


「あなたがPFの何を知っていますの? 物理現象を完全にトレースするということは、人間に自然に起きる成長、怪我とその治癒、疾病や眠りまでトレースするということですわ」

「PFの中って眠れるの……?」


まあ考えてみれば眠れないほうが不自然か。


「でも成長は脳と関係ないでしょ。代謝とか、破骨細胞と骨芽細胞のせめぎあい……」

「そうかしらあ? 人間の脳が時間を、歳月を数えていないとなぜ言えますの? 体内時計のサイクルは? 自分がイメージしている自分自身の姿と、客観的な外見は完全に一致しますの?」

「亜里亜さんのご実家では、PFが実用化されるごく初期段階から、拡張世界の早回しクロックアップについて研究されていました」


私と亜里亜の議論は泥沼と感じたのか、イカロが話を進める。


「その目的は後継者の育成のためです。拡張世界の経過時間を5倍から8倍まで高めることで、効率的な学習を行うという」

「それで……運転技術を身に着けたってわけ?」

「あれは趣味ですわ」


私はソファーの上ですこしコケる。


「おもに習わされたのは礼儀作法ですわ。加えて琴に三味線に書道。会食マナー等々。良家の娘として育てられましたの」

「礼儀作法……」

「なにか?」

「ううん別に、でもTONEグループの令嬢なんでしょ、そんな立場でモータースポーツなんかやってる暇あるの?」

「利根家は絵に描いたような一族経営、ですけど総帥とも言える方が伏せってからは、後継者争いが熾烈でしたの」

「後継者争い?」

「ですので」


亜里亜は一度言葉を切り、牛乳をぐいと飲み干す。なるほど両手を添えて飲んでる。このへんが礼儀作法なのだろうか。


「わたくしは利根家の後継者争いなどに興味ありませんの。将来的に利根グループの経営にいっさい口を出さないという条件で、TONEモーターズ、TONEマリンレジャーなどの株式の10%を譲渡されましたの。今後はイカロさまとの愛に生きるつもりですわ」

「もうなんか色々すごいわねあんたも……」


すす、と亜里亜がイカロのほうにスライドする。イカロはこころもち逃げようとしたが、諦めたのか肩に亜里亜の頭を預けた。


「というわけでイカロさまのパートナーはわたくしと決まっていますの。お引き取りください」

「ダメよ」


私がきっぱりとそう言うので、亜里亜は猫のように髪を逆立てて怒る。


「きー! なんですの! 何が狙いですのこの雌狐!」

「どこでそんな言い方覚えるのよ……悪いけど私の目的もあるの。イカロにはお見通しなんでしょうけど」


イカロはずっと私を見ている。イカロの腕には亜里亜が抱きついており、イカロの目にすがるような悲哀が感じられたのは気のせいだろうか。


「そうですね……先日の「赤鏡伽藍の迷宮」で手に入れたマシンが125台相当、それまでに保有していたもの、そして今は亜里亜さんにお渡しした100台もありますから、これだけあれば可能です」


私は少し緊張して、言葉の先を待つ。


「ミズナさん、あなたのお母さんを治療することも」

「……」


その言葉が、部屋の天井にふわりと浮かぶような感覚。

あまり現実感はない。お医者さんにも何度も説明されたことだ。母の病気は治療法がなく、世界的にもまったく研究が進んでいない症例だという。遺伝子疾患だから根治はしない、どれほどお金を積んでも治らない……。


「パートナーについてはともかく、まずそれを為し遂げましょう」


イカロは立ち上がり、リビングのワードローブを開ける。そこには果たして例のホワイトボード「ダイダロス」が収められていた。

イカロはそれをセッティングして、いくつかの映像を投影する。まず出てきたのは電子カルテのようだ。


「カルテを拝見しましたが、ミズナさんのお母様、北不知きたしらず深佳みかさんの症例は一種の遺伝子疾患だそうです」

「当たり前のように見てるのね、まあ私のこと調査済みってことは分かってたけど」

「すいません。そしてお母様は一年ほど前から中枢神経系の衰弱による意識混濁、高血圧と頻脈、衰弱に腎機能低下などの症状が出ている。アメリカの研究機関が仮につけた名前はAFTD、Athlete Family Tree Disease アスリート系図病などと呼ばれてます」


皮肉にまみれた名前だ、と思う。


「なんですのそれ」

「ゲノム編集よ」


私が端的に言う。


「私の父と母はどちらもゲノム編集を受けていたの。遺伝子を受精卵の段階で編集し、よりアスリート向けの人材を育てるというプロジェクトよ」

「? でもそれって禁止されてるはずですわ、ドーピング扱いになるとか……」


亜里亜にもイカロと同じく子供らしい無遠慮な一面があるが、話が早いという点では助かる。


「そう、世界アンチ・ドーピング機関、WADAが定めた国際ルールで遺伝子を編集することもドーピングと同列に扱われてる。これは実際にゲノム編集が可能になるよりずっと以前、2003年に制定されたルールよ。でもこれは検出が非常に難しかった。当時は事実上不可能だったの」


遺伝子の中で、運動機能に関わるものは120から130ほどあるという。

たとえ話として、「good」と「bad」に分かれたスイッチが130個あるとする。これが何個「good」に倒れているかでその人間のアスリートとしての素質が決まる。本来はもっと複雑だが、大まかにはそういう話だ。

「good」になっているスイッチが90個や100個ある人間は確率論的には極めて不自然。しかし偶然生まれないとも限らない。そのため仮に血液検査から遺伝子コードを読み取られたとしても、遺伝子に編集が行われたのかどうか断定できないことになる。


しかし現在では研究が進み、絶対にありえない配列というものが分かってきた。たとえば56番のスイッチと57番のスイッチが両方「good」になる人間は存在しない。両親がアングロサクソンならば15番は必ず「good」になる、などなど……。


そんなわけで、私の両親はアスリートとして公式大会には出られなくなってしまった。受精卵の頃から決まっていた悲劇、それはもう仕方がない。

しかし不幸はそれだけではなかった。失踪した父のこともあるが、母が壮年期に至った頃、ゲノム編集が毒として作用したのだ。

そこまで聞いて、亜里亜は髪をかきあげて立ち上がる。興味を失ったのか、あるいは深く聞くべきでないと判断したのか。


「まあ何でもよろしいですけど、とっとと目的を果たして帰っていただきたいものですわ。私は気晴らしにスノーモービルでも走らせてきますわ」


今は夏休みも近い七月初旬である。PFでの話だろう。亜里亜は立ち上がって部屋を出ていく。


「トレーニングルームのダイダロスをお借りしますわ」





「気分を害されたなら申し訳ありません」


ダイダロスを操作しながらイカロが言う。


「なんで謝るの」

「それは、カルテを見たことですとか、亜里亜さんのことで」

「別に気にしてないわ」


私は子猫のような亜里亜のことを思い浮かべる。

怒る気になれなかったのは彼女があまりにも幼かったせいもあるが、それとは別に、彼女にまとわりつくひたむきさのようなもの。濃厚な人生を送っている人間が持つ独自の哲学のようなものが感じられたからだ。


経営に口を出さないという条件で、株式の一部を譲渡される。そういう話はありえるだろう。

問題は、そこにRVW-sがどう関係してくるかだ。


「怒る気になれないわ、悲しい話だったから」


イカロは少し驚いたような顔で振り向く。


「……な、なぜ、そのことを」

「分かるわよ。だいたい話がおかしいでしょ。彼女がPFの中で時間を早めてまで習っていたのは礼儀作法に音楽や芸術、そしてモータースポーツ」


モータースポーツについては達人の域だ、あれを習得するのに何年かかるのか。

そして、なぜ企業グループの後継者候補に一般教育、語学、政治経済を習わせない(・・・・・)のか。


拡張世界の中で過ぎた時間が架空のものではなく、実際に脳が歳月を数えるのだとしたら、いま亜里亜の脳は何歳なのか?


そして最もおかしなことがある。

特異症例RVW-s、それはある一瞬を境に出るものではあるまい。加速された時間の中で、少しずつ亜里亜は歳をとったはずだ。彼女に教育を施していた連中がそれに気づかないはずはない。


では結局のところ、彼女に何が起きていたのか。それは端的な言葉で表現できる。


「亜里亜は、監禁されていたのね」


イカロはまたダイダロスへと向き、静かにうなずく。


「……亜里亜さんは、利根家の総帥とも言える人物の実子です。愛人の子供でした。正妻との間には子がなかったため、血統で言うなら後継者に選ばれておかしくない立場だったのです。しかし亜里亜さんが三歳の頃、その人物が病に倒れ、数年の昏睡状態となったのです」

「絵に書いたような話ね。それで、亜里亜の存在が気に入らない正妻だとか、跡目を狙う親戚だとかが亜里亜を監禁したのね」

「英才教育という体裁でしたが、一年ののち、亜里亜さんの肉体年齢と拡張世界の年齢に、著しい齟齬が生まれていました。彼女は最も多感な時期である幼少期を拡張世界で過ごしたのです」


それがどのような意味を持つのか。

彼女を監禁した連中には分かっているのだろう。彼女はもはや企業体のトップを背負える人間ではなくなったことが。最も飲み込みのいい時期を学問に当てられなかった悲哀が。


そして捨て扶持のように株を分け与え、後継者争いから追放したわけだ。


頭上で、白灯がちかちかとまたたく。


「……?」


私は真上ではなく、真横を向いた。


「ねえイカロ、私たち以外に来客の予定ある?」

「? いえ、何もありませんが」


このタワーマンションで、玄関先まで来るセールスマンなどいるはずもない。


では、今聞こえた、エレベータが到着する音は。


私が一歩動いた瞬間。

ダイダロスを除く、すべての明かりが消えた。







Tips ゲノム編集


遺伝子の狙った部分を切断し、別の遺伝子を挿入したり特定の部分を不活性化させることで遺伝子を書き換える技術。従来の遺伝子工学に比べて応用性が高い。


受精卵にゲノム編集を行う、いわゆるデザイナーベビーは多くの国で禁止されている。

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