第十二章 4
牛頭人身、暴威と欲望の象徴、あるいは野生、獣性、人の世界とは隔絶した存在の象徴。
全身を覆う筋肉。それとは裏腹にシルエットをすっぽりと包み込むスーツ。その違和感に頭がくらくらする。
足元がふらつく。
「うっ……」
私は内股に構えて耐える。まだ車は動き続けているのだ、体幹の安定は保たなければならない。
上空を意識する。無数の殺戮バルーンが迫ってきているはずだ。
だがミノタウロスから目をそらすことができない。私の心臓は早鐘を打ち、上半身が熱を帯びて呼吸が早まる。視界が歪むのを奥歯を噛み締めて抑える。
動揺するな。
そう体に言いつけているのに、スタートラインにつく前の精神状態に持っていこうとしているのに。それでも震えが止まらない。
これが畏れなのか興奮なのかも分からない。自分がバラバラになりそうな感情の混乱が。
ぱし、と平手を打つような音がする。
ミノタウロスの右手に焦点を絞れば、そこには先端が三つに別れ、卍のような形に湾曲した武器が握られている。
あれは紀行番組で見たことがある、中央アフリカの投げナイフか。
投擲。
ぶおんと空を切る音が、耳に座布団を打ち付けられるように大きく響く。ナイフは激しく回転しながら飛び、複数の破裂音が。
そして立て続けに出現させつつ投げる。不安定な車の上、しかも複雑なカーブと傾斜で揺れ動く足場で凄まじい連投。迫り来るバルーンが根こそぎ打ち落とされる。弓の名人は二秒に三発の矢を射つというが、このスピードはおそらく二秒で七投以上。しかも破滅的な威力を込めている。流れ弾を食らった車のタイヤが裂けて道路から転落していく。
そして十秒も経たずバルーンは全滅。私たちの背後にはもうもうたる白煙と、何ヵ所かの多重衝突事故が残るのみだ。
「……ナイフが専門なの? 銃を出せばもっと簡単でしょう」
ようやく、それだけを言う。
発話してようやく分かるほど口の中が乾いている。舌がもつれかけた。
「……ンドは完成された武器だ」
ミノタウロスの手からそれが消える。
断片的に思い出す。あれはンドとかムダーとかクピンガとか呼ばれる投げナイフ。反りのある刃がついてるように見えるが、完全に刺突を目的とした武器で、どのような角度で当たっても獣に傷を負わせる。そして徒歩で数十キロを歩き続けられる人類にとって、獣に出血させればあとは血を追っていくだけでいいわけだ。
「……なぜ武器を消したの、私があなたに攻撃するかも」
「お前の力を借りたい」
ミノタウロスはふいに車を飛び降りる。
「!」
だが姿を追う必要はなかった。そこはすでに地面だったからだ。赤茶けた土が敷かれただけの大地に降りている。
「ここが最下層……」
私も飛び降りる。最下層があるということは、天地上下に無限に広がっている迷宮というわけでもないのか。
ここはだいぶ薄暗い、上空は車の密集した高架道路であり、道幅と車幅がほぼ等しい。車は特に速度を落とすこともなく、どこかから来て、どこへともなく流れてゆく。それは未来社会のようでもあるが、どこか生物的でグロテスクな眺めだ。
ミノタウロスは私の方に足先を向けて立つ。私は腹筋に力を入れて身構える。
「冥府の王をここで倒す」
濁った、糸電話のような声だ。その面相がまさか整形と言うわけでもないはずだが、その牛の頭が人語を話すたびに不気味さが漂う。何かとても冒涜的なものを見るような……。
「冥府の王……プルートゥのことね。どうして協力なんか……あなたは一度勝ってるでしょう」
「趣向による、というだけに過ぎない」
……そう、どの迷宮でも勝てる、というほどプルートゥは甘くない。
言葉も理解はしている。他の走破者が束になっても、まだプルートゥの不死身は打破できていないのだ。
プルートゥに勝てる可能性としては先にゴールしてしまうこと。または永遠に閉じ込め続け、その間に仲間にゴールしてもらうことだ。
「……あなたとは組めないわよ」
重いものを背負うような無意識からのプレッシャー、それに耐えつつ声を放つ。
「演算力で出せるものには個人差がある。私のそれは封印には向いていない。あなただって得意とは思えない。それにもう残された走破者は少ない。臨時同盟なんか組んでいる段階ではない……」
「冥府の王、あれは摂理を踏み越えている」
端的に、しかし重々しく言う。
「演算力を渡すことはできない」
「……? どういうこと、プルートゥの不死身の秘密が分かったっていうの」
ミノタウロスは暗がりの中でふいに斜め上を向き、指を鳴らす。
そして落ちてくるのはパネル状になった写真。
それはプルートゥだ。彼女はスーツ姿で籐の椅子に座っており、手足をだらりと流している。
もう一枚ある。額の部分のアップだ。髪でよく見えないが、前髪の髪の隙間から何か、縫合痕のようなものが……。
「……? 何これ」
「その一枚の分析が限界。そして推測が成った」
ミノタウロスは一拍置いて言葉を続ける。
「PFについては識っているか」
「ええ……フィジカルフィードバック。天塩氏の作った国際規格。ユーザーの身体能力がアバターに反映される独特の仕様、処理が大幅に軽くなるという特徴が……」
「処理が軽くなる、それはユーザーの脳を使用しているからだ」
脳を……。
「全感覚投入とは、脳と拡張世界の接続」
ミノタウロスは、それはやはり端的で最低限ではあったけど、彼らしくもなく長い台詞を話していた。私は言葉を補いつつ先を促す。
「脳の接続……そこまでは分かる。それが不死性にどう関わるの」
「死ではない、ログアウトだ」
「……それはまあ、拡張世界には死体が残ったりしないし、死ねばみんな消えてしまうけど、それは言葉の綾というか……」
「ログアウトとは、魂の往還」
……。
足元に、ひやりとした気配が。
何か、とても不吉なことが語られようとしている時の不穏な気配が。
「PFとは、魂の回廊」
「まさか……」
連想したくない。
それは、あまりに常軌を逸した思想。
だが、思い付いてしまう。脳がその連想をやめてくれない。今まで見てきたこと、考えていたこと、あのネクタルに関する実験。私の魂の一部が桃に閉じ込められ、戻れなくなるような感覚――。
「拡張世界に死はない。器へと還るだけだ。もし、帰るべき器が、命を失っていたなら」
「そんなことが……!」
死んでいるから?
プルートゥに肉体的な死がないのは、現実世界の体が死んでいるから、魂の帰る場所がないからログアウトが行われない……。
「迷宮に潜る間、肉体を死の状態に置き、ログアウトを防ぐ」
「でもそんなこと……たまにニュースにも出てくるけど、PFに潜っている時に肉体が死んだ人だっているはず。その時にそんな現象は起きていない……」
「ネクタルだ」
ミノタウロスが断定的に言う。
「あれは分子機械。数ミリグラムでも演算力を宿している。ごくわずかな断片であっても自我を持ち、自らの完全な姿を再生しようとする」
……。
つまり、プルートゥの不死とは肉体にネクタルを注射し、全身に演算力の断片を持つこと。
それを拡張世界で再現し、ほんの数ミリグラムでも演算力にアクセスできる仕組みを編み出した。
あとは肉体に死を与えることでログアウトを封じる……。
つまりプルートゥの不死とは、拡張世界の中で拡張世界にアクセスすること。魂を現実世界に戻さないこと……。
流れとしては理解はできる。しかし……。
「……ミノタウロス、その推測に何の意味があるの」
「……」
「推測が多すぎる。あなたのいう理屈はどれ一つとして実験で証明された訳でもない。それにたとえ、それが真実だとしても、それはプルートゥの不死が完全であることが明らかになっただけ。私があなたと協力する理由にならない……」
「ミズナ」
びくりと、身をすくめる。
落ち着け、胸に手をあてて呼吸を、ルーティーンを……。
「今は理由は言えない」
「……」
「だが決して、迷宮と走破者たちを悪いようにはしない。協力を望む」
「……う」
言葉を。
言葉を続けなければ。
「あ……あなたは何者なの。どこかの政府機関が送り込んだエージェント? それとも正義の味方だとでも言いたいの。プルートゥだって別に極悪人とも思えない。なぜ私が、あなたの味方を……」
「理由があってのことだ、ミズナ」
「勝手なことばかり言わないで!」
叫ぶ。私の理性とは器を満たす水のよう。激すれば理性がこぼれ落ちていく。しかし言葉を止められない。
「なぜ私にそれを言うの! あなたの正体はうすうす分かっている! あなただって察しているはず! その上で正体も明かさずに頼み事!? 私だって自分の目的のために、迷宮に、挑んで……」
「金メダルか」
その言葉が胸に刺さる。話がそこに踏み込むことも、分かっていたのに。
「それは、お前の本当の望みか」
「黙りなさい!」
声と同時に周囲に岩が打ち上がる。
迷宮世界。激するあまり無意識の領域が演算力に干渉している。それは拒絶の迷宮であり、私自身の迷いでもあるのか。
「本当の望みよ! 私は金メダルを取る! ゲノム編集者が大手を振って生きていける社会を作る! そのために走ってきた!」
「そして、すべてを壊れる前に戻すのか」
「……っ」
すべてを戻す。
壊れてしまった私の世界を、将来への希望を、家族のカタチを、元に戻す。
――できると思っているのか。
背後で囁くのは私の影。ずっと私の後をついてくる、青ざめた顔の幽鬼。
たとえ、演算力という魔法を使っても。
壊れてしまった私の世界、私の家族を、元に戻すことなど……。
「ミズナ、追い詰めたくはない」
ミノタウロスが、私のそばへと歩む。
「やめて……」
私よりも大きな体で、私のそばに立つのはやめて。
「――信じてくれ」
その、大きな手が。
私に。
私の、頭の上に。
その時、心が弾ける。
目の端から伝うのは私の心か、抑えきれぬ感情の発露か。
なぜなの。
許せない相手なのに――。
「……お父さん」
私は、その体温を感じる。
私の過去が、ゆるやかな流れのようになって流動的に見える。過去のことが、家族のことが……。
「協力してくれるな」
「……」
もう逆らうことはできない。
それは私の弱さだろうか。あるいは人間としての当たり前の反応なのか。
私は静かにうなずき、そして牛鬼は、踵を返して走り出す。
私は涙を強く拭う。
「……っ!」
そして走り出す。さらなる迷宮の深みへと。
Tips アフリカ式投げナイフ
卍のような形状をした投げナイフ。部族や地域によって形状は様々であり、アフリカ式投げナイフという言葉はTRPG界隈から生まれた包括的な呼び方。
投げると回転しながら飛んでいき、どんな角度で当たっても傷を負わせることができる。形状については狩猟用である事の他に、権力者の身分を表す装飾品であるためとも言われる。




