第十一章 7
数日後。
私の表の日常は変わらない。
部活に顔を出し、自主トレも欠かさない。
インタビューに答えたり、雑誌に寄稿したりとメディアの仕事もこなす。そして学生として授業にも出る。
桃については一応、現状を維持できている。鉢植えは全世界規模でこちらで押さえているし、鉢植えからのネクタルの吸収を一種のドラッグと捉えて禁止し、鉢植えの流通を禁止するような法整備を全世界で進める。現状ではこれが精一杯の対応だが、ネットワーク上での「言葉」の推移は落ち着きを見せている。
『ポセイドンが敗れました』
自室のノートPCにて、その報告を受けたのは夜の11時だ。タケナカはすでに帰宅しており自宅からの連絡だった。彼の背後にはマンションの一室が映っている。
「そう……相手は誰?」
『プルートゥです。20時間以上かけて七つの迷宮で戦い、その全てで彼女が勝利しました』
演算力を根こそぎ奪う手段としては、究極的にはデスマッチ、どちらかが倒れるまで戦い続けることになる。
おそらく二人とも、この戦いの終焉を感じていたのだろう。だから一対一の勝負を受けたわけだ。
噂で聞くだけだが、ポセイドンは大量の海水を操る走破者だったらしい。どのようなフィールドでも強引に海に変えて、ヨットを使って走破するのだとか。
それは演算力を食う戦い方である。初戦でプルートゥが勝てば、あとは彼女に有利になる一方だったろう。
その勝負について私たちに意味があるのは、迷宮がまた減ったということ。そしてプルートゥがより経験を積んだであろうことだ。
「ミノタウロス、ゼウス、ノー・クラートについては……」
『変化なし、所在を察知できません。ノー・クラートには巨大な表の顔がありますが、すべての業務がキャンセルされています。死亡説、あるいは重病説が流れてまして、マーケットに動揺が見られますね』
ダイダロスでその行方を追えないパターンは二つしかない。
死体も残さず死亡したか、あるいは演算力で自らを隠蔽しているかだ。
ゼウスとノー・クラート、あの二人が戦った海域には今は何もない。すべて海中に没してしまった。捜索は続けているが、潜水艇を含む調査船団からは何の報告も上がってこない。
あの怪物のような走破者が二人とも消えたとは考えにくいが、それだけ壮絶な戦いだったことも事実だ。
「捜索は続けて、あの海域だけじゃなく、世界の隅々まで」
『はい』
念には念をと、ゼウスが収容されていた海底施設も調査した。表向きは別の施設への移送という形で、ゼウスは世界のどこからも消えていた。
合衆国政府はゼウスの消失を把握しているのか。ニュージーランド沖に展開されたステルス機、攻撃型原潜、イージス艦などを米太平洋艦隊は把握していたのか。
あるいはもはや、レーダーも衛星も、街角の監視カメラの一つ一つ、人々の口コミすらも。
人類が有している耳と目の大部分がダイダロスに乗っ取られている、そんな気さえしてくる。
それはいつからだろう。
かつてのオリンピアが結成された時か。
この世に天塩創一という人物が生まれた時か。
だが、あるいは、もっと以前。
この世にコンピュータが生まれた時からではないか。最近はそんな風に思う。
人はそれを生み出したとき、脅威を予感しなかったのか。己では手の届かない計算を成し得る真空管の怪物。それを御しきれると思ったのか。やがて手に負えなくなるとは思わなかったのか。目や耳や、五感や思考すらも機械に預けることに不安はなかったのか……。
私は不定形な想念を払うように頭を振り、ノートPCの中のタケナカを見る。
「……それとタケナカ、亜里亜はどこに」
『今日もイカロさんに付きっきりですよ。第二地下シェルターにいます。三ノ須の寮へ帰るように勧めたのですが』
「これから行くわ」
夜の学園を歩き、無人移動車に乗り、地下通路をさらに歩いて秘密の場所へ。
イカロはそこにいた。頭の部分を少し起こした寝台にあって、亜里亜がその手を握っている。
彼の目はどこも見つめず、生体的な反射でまばたきをする以外に意志のある動作が見られない。亜里亜はそれは彼女の精神を守る鎧であるかのように、闇を連想させるゴシックな服をきっちりと着込んでいる。
「……亜里亜、もう日付が変わる頃よ。休んだほうがいいわ」
「大丈夫ですわ」
亜里亜はそう言うが、声に芯が入っていない。不安の色も見られる。
イカロの昏睡りは続いている。
肉体には何の異常も見られない。CTにもMRIにもおかしなところはなかった。
高名な医師を呼んで診てもらったが成果はなかった。何らかの精神的なショックによる虚脱状態、あるいは薬物による悪性症候群、うつ病、ほか様々な疾病の可能性についても調査した。しかし結局、原因ははっきりしないままだ。
だが私たちは、いや、正確にはそれを見たのは私だけだが、この症状には心当たりがある。
それは、魂の遊離。
魂の一部、あるいは大部分が別のものに移動するという概念。かつての実験で、私の魂の一部は桃の中に移動した。人の脳とは一種の演算機械であり、桃の生み出すネクタルは演算を行う分子機械である。その間を魂が移動するなら、では集積回路にも魂は移るのか。イカロにそれが起きているのではないか。
その仮説は、他の可能性を潰すごとに高まっていく。
「イカロさま……」
亜里亜はずっとイカロの世話を焼いている。体を拭き、褥瘡(床ずれ)ができないように定期的に体位を変え、服も着替えさせる。
嚥下ができないので点滴での栄養補給になり、ある程度は医師の手を借りねばならなかったが、亜里亜はとにかくずっとイカロのそばにいた。彼女自身が学校を休んでいることは気になっているが、そのかいがいしい様子を見ていると何も言えなくなってしまう。
イカロはまた少し痩せたような気がする。髪はガラス繊維のように細くなり、皮膚は血管の走行が感じられないほど白い。寝たきりだから仕方がないのか、それとも魂の大半が欠けたことが影響しているのか。
この状態を治す手段、なくはない。
イカロの魂を呼び戻すことだ。魂というものがもしあるなら、それはどこかの迷宮にいるという予感が私たちにはあった。
『ミズナさん、ちょっとよろしいですか』
「タケナカ? ええ、聞いてるけど」
画面の向こうから赤ん坊の鳴き声が聞こえる。タケナカは子持ちなのだ。
『イカロさんを探す方法ですが、手がかりはあるかも知れませんよ』
「そうなの?」
亜里亜もその言葉に気づいたのか、ちらと視線を上げる。
『こちらを』
部屋の片隅でダイダロスが発光する。スタンバイ状態だったものに外部から入力があったのだ。
映像として出現するのは岩だ。かつて私が登った、三ノ須のゴミ焼却場の近くにある大岩。
「この岩がどうしたの?」
『これはイカロさんが作成した拡張世界です。プログラムには作成者によって入力の癖といいますか、指紋のように特徴が残ります。そして天塩創一氏の迷宮はすべて同一のプログラム的特徴を有しておりまして、この大岩のある拡張世界とは異なるんです』
画面が切り替わる。いつか遊んだボウリング場の世界、亜里亜がバイクを試作していた世界……。
『つまり、ある迷宮について天塩創一氏が作ったのか、イカロさんが作ったものかは判別可能ということです』
「……なるほど」
イカロが作った迷宮が一つとは限らないが、見分けられるなら大きな手がかりになる。もしイカロの魂が迷宮に囚われているなら、魂だけを迷宮から連れ出すことも……。
亜里亜が口を開く。
「そういえば出現する迷宮ってランダムですの? それとも出現する順番があるんですの?」
『おそらくは順番ですね。これは複数の走破者から得た情報です』
タケナカが言う。
『かつてのデータではありますが、迷宮の中には他の特定の迷宮をクリアしていることが前提のものもありました。例えば西洋の城を走破する迷宮があり、その次の迷宮では180度反転した逆さの城を走る、というような事例です。他にもかつて走破した迷宮が水没していたり、毒性植物に覆われている、などの例もありました』
……。
「それは、つまり、イカロのいるであろう迷宮を出現させるには……」
『そうです。天塩創一氏の作った迷宮がすべて走破された後に出現するのではないか、そんな予感がしますよ。実際、先ほど言いましたプルートゥとポセイドンが戦った迷宮、それ以外にここ数日で観測している迷宮、すべて天塩創一氏の特徴を有する迷宮でしたね』
「でも迷宮はリタイアすることもできるはずですわ、今までリタイアされた迷宮はどうなりましたの」
『それについても走破者から情報を買いました。迷宮は走破者がリタイヤすれば先送りになりますが、それは最後尾に回るのではなく、多くても数十個ほど後回しにされるだけなのが分かっています。次々とリタイヤして迷宮を更新していく手段も考えられますが、リタイヤした人物が24時間ログイン不可能になることを考えると、この状況では現実的ではありません』
ノー・クラートは言っていた。やがて迷宮が尽きると。
イカロがずっとこのまま永らえる保証はない。点滴で栄養補給しているとは言え、全身が緩やかに衰弱している気配がある。魂を失った人間がどのぐらい永らえるかは未知数だ。
つまり、イカロの迷宮に行くためには、天塩創一の迷宮をすべて走破するしかない。
これから数日で、すべての迷宮を食らい尽くす。
他の誰でもない、私たちが終わらせるのだ。
「やりますわ」
亜里亜が言う。
「すぐに迷宮に潜りましょう。私が十でも百でも走破してやりますわ」
「ダメよ。今日は寝なさい。明日になったら私と一緒に潜りましょう」
「ミズナさん、私のことなら」
「ダメよ」
亜里亜の疲労は明らかだ。ここだけは譲れない。
「忘れないで。迷宮内で死ぬと強制ログアウトになって、次に潜れるようになるまで24時間が必要になる。わずかでも失敗する可能性は排除するべきよ。どんなに少しの疲労も残しておくべきじゃないの」
「……仕方ありませんわね」
「タケナカ、看護師を二名寄越して。イカロの面倒を見てもらう。私たちはこれから8時間の休憩に入る。そこからは交代で潜り続けるわ」
『分かりました。こちらもバックアップの準備をしておきます』
それと、とタケナカがついでのように言う。
『銃の分析も続けています。数日のうちに結論が出るかと』
「銃……そんなのもあったわね。まあ……続けておいて」
『けっこう画期的な方法をいくつも試してまして……無いに等しいほどの細胞片から断片化されたゲノム情報を得て、物理シミュレートによって受精卵を構築し、人種の特定を』
それは実はタケナカにとっては肝入りの事業らしいが、今は優先度の低い話になっている。
天塩創一を暗殺したのは誰か、イカロがずっと追い求めていたことだが、まさかイカロを拡張世界から連れ戻す役には立たないだろう。
「そんなことより、私のスケジュール調整とかも頼むわよ。明日から私も学校休まないといけないから」
『銃の分析……けっこうすごい技術なのですが……』
申し訳ないがタケナカの意気込みには構ってられない。
まもなく、迷宮が尽きる。
休みなく最後まで走破し続ける以上、他の走破者との衝突も免れない。
敵となるのは冥府の王プルートゥ、それに迷宮の怪物ミノタウロス。
……。
牛頭人身の怪物、はっきりと言おう、私は彼と戦うことが怖い。
だが、やるしかない。
戦いが、この私にとってどんな意味を持つとしても。ミノタウロスとの戦いに運命的なものが待っていたとしても。逃げるわけにはいかないのだ。
「イカロ……」
悲しい子だ。
ノー・クラートは、彼は迷宮を創造するために生まれたと言った。
生まれてすぐに演算力に触れ、あんな寂しい島で育って。
ようやく辿り着いたこの三ノ須でも、また迷宮に囚われるのか。
彼の人生は、能力は、誰かに利用されるためのものだったと言うのか。
「助けてみせるわ、王子様……」
たどり着いてみせる。
それは、かつての創造主の血を引く人物。
演算力との完全なる同化を果たしたと言う、迷宮に住まうもう一人の怪物。
迷宮世界の創造主。
Tips ゲノム復元と生命の復元
ゲノムアセンプリとも。寸断されたDNAサンプルをデータとして収集し、一つのDNAを復元すること。
現実的に、生命を復元するためには全ゲノム配列を知るだけでは不十分であり、それぞれのDNA領域でどのタンパク質が合成され、それがどのように生成を調整されているのかを知る必要がある。タンパク質の生成量の調整、生成後の安定を図る機構は極めて多種多様である。




