第十一章 6
暗い。
闇の中に空調の音だけが響いている。
とてつもなく広いような、あるいは地下の玄室のような暗がり。
目が暗順応してくると、そこにあるのは簡素な寝台である。
「イカロ!」
まさしくそれは彼だ。薄緑色の病院着のようなものを着せられ、角ができるほど張り詰めた寝台に寝かされている。未発達の細腕、繊細そうな顔立ち、この世の苦難を受け止めるにはあまりに心細い胸板。
駆け寄ろうとした私は、すんでのところで足を止める。
「蟻が……」
鎖のように連なった蟻が周囲を取り巻いている。ベッドの周りに縦横無尽に線が引かれ、ちりちりと細かな金属音を鳴らしている。
「……ここまで来るとは、不躾な」
声とともに現れる……そのように見えたのはノー・クラートだ。黒衣だからというだけではなく、闇に溶け込むように気配のない人物である。本当に今その場に現れたかに思えた。
「ノー・クラート……! イカロに何をしてるの!」
『イ……ロさま! ……無事……回線が』
無線から亜里亜の声も届くが、地下深くのためかそれとも蟻の影響か、ほとんど意味ある言葉として聞こえない。申し訳ないが一時的にボリュームを落とす。
「迷宮がまもなく尽きる」
ノー・クラートが声を放つ。彼女の声は不思議な質感があり、距離や環境に影響されずに同じ大きさで届く気がする。
「尽きる……」
「天塩創一の生み出した迷宮はもはや走破され尽くし、難攻不落であるはずの赤文字の迷宮すらも走破された。やがて選別の宴は黄昏時を迎える。しかし迷宮はまだ足りないと叫んでいる。新たなる迷宮の創造を求めている」
私はイカロを見る。
眠っているように見えるが、その体には大小様々のコードが接続されている。その中には、彼の口に潜り込んでいるものも。
「イカロに迷宮を作らせてると言うの!」
「そのために生まれた」
一瞬、目の前が赤く染まる。
何かこれから、許しがたい言葉が世界に生まれようとしている予感が。
「天塩創一は創造者としては凡庸だった。成人までを安寧に生きたことが足枷となり、演算力との同化も不完全だった。生まれたその時から演算力に触れ、完全なる同化を成しうる人間が必要だった」
「イカロを道具に――」
「ちょっと待ってもらおう」
私が声を荒らげるのを押しとどめ、ゼウスが前に出る。
「ノー・クラート、なぜ迷宮が尽きていることが分かる?」
「私はゲームマスターだった」
ゼウスと対峙するとき、ノー・クラートの目は少しだけ吊り上がり、声が気色ばむように思える。二人の間にある因縁はオリンピアを潰したことのはずだが、それだけではないのか。あるいはそもそも相性の悪すぎる二人だったのか。
「迷宮を創造し、走破者を競わせることを考えたのは私。しかしあれから幾年が過ぎたのか、想像を遥かに超える早さで迷宮が呑み干された。本来は多くの脱落と、新たなる走破者の発掘が繰り返され、数十年かけて一人を選ぶはずだった」
「おあいにくだね。走破者を甘く見すぎた」
ゼウスは肩をすくめ、ノー・クラートの気当てをいなす。
「そしてもう迷宮も必要ない。最後に残る走破者は僕だし、脱落した者を含めて走破者は十分に優秀だ。僕はできるなら彼らと敵対したくないし、彼らにとってもどうすべきかは自明だろう。新たな世界で僕とともに弱き人々を助けるべきだ」
「ちょっとゼウス、何を勝手なこと」
「拘束蟻」
周囲の線が動く。
極細の鎖がゼウスを通りすぎるように水平移動し、その痩身に巻き付く。胴と言わず足と言わず無数に絡み付き、その全身を縛り上げようと。
「光鎧」
ゼウスの周囲にスパークが走る。絡み付かんとしていた鎖が崩れ、無数の枯れ枝のようなものになって床に落ちる。
「無駄だ。この狭い場所では繁栄を出せる数に限りがある。ジャミングで形象を崩される以上。僕を潰せるほどの質量は行使できない」
「……なぜ、この下層で電力を持てる。マイクロ波を受けられる環境下にないはず……」
……確かに、ゼウスの電磁波攻撃はかなりの出力が出ている。通常のバッテリーでは説明がつかない。
あるとすれば遠距離からマイクロ波を受け取っている可能性。しかし動いている航空機では充電が安定しないし、イージス艦に守られている海域で飛行船や船舶というのも不自然。しかも、何層もの隔壁の向こうにある船底で……。
「大したことじゃないさ」
ゼウスはやはり淡々としている。
「ゼウス……報恩を知らぬ男。あなたを助けたのは誰だと思っている」
「君が僕を助けたのは事実だが、それは君の意思じゃない」
……? ノー・クラートの意思ではない?
ゼウスは、この宗教家は何を言わんとしているのだろう。
「かつての共同生活。あそこでの僕たちの到達点とは、神の否定だった」
唐突にそんなことを言う。
「僕たちは生活をともにし、聖書を学び、そして神の不在を確認しあった。無神論とは違うよ。あれは神以外の価値観を思考の上位に置くものだ。僕たちは聖書を学ぶことで神の御座に目を凝らし、神の不在を確信するに至った。この世が人間という偶発的存在によって成り立つ泡沫に過ぎないことを悟った。人生に意味などなく、人間の存続にもさしたる意味はないとね」
「思春期に終えとくべき思想ね……」
私はぼそりと呟くが、ゼウスは空気のように無視する。
「だが、あの日、僕は悟った。僕以外の全てが死に絶えた世界で、僕は神ではない超越なるものの存在を識った。世界を統べる意思の存在を知覚したのさ。それは天の高みではなく。僕の内側にあった。つまりは人間さ。人間が崇めるべき超越なるもの。それは人間が産むのだと悟ったのだよ」
……。
それは、思想としては無くもない話だろう。
例えばポストヒューマン。
人間は永遠の支配者ではなく、進化の中途段階に過ぎない。ロボット工学か、あるいはバイオテクノロジーか、いつの日か人間より優れた種を産み、そこで役割を終えるのだと……。
「あの時に僕は宗教家ではなく、まったく別のものになった。だからノー・クラート、君を呼んだ」
呼んだ……。
いや、それは不自然だ。
ノー・クラートが異変を察知し、州兵まで動員されて集会所が破壊されるには数時間のタイムラグがあるはず。死因が窒息である以上、ゼウスだけがそんなに長く生き残るはずがない。
だが、ゼウスの中ではそれが真実だと言うのか。
生きようとする己の意思が、奇跡のような偶然を引き寄せたとでも……。
「その時に僕は僕を生かした。ノー・クラート、君も同じこと。僕たちは己の信ずる君臨者のために生きている。だが君は所詮、演算力が顕現するための儀式の祭司、そして僕は受肉するための器だ。僕だけがすべてを理解している。僕が最後にその場に至るために全ての舞台装置は動いている」
「傲慢が過ぎるぞ!」
ノー・クラートが腕を振る。背後に集まっていた数億の蟻が飛び出し、ひとかたまりの暗幕のようなものとなって、全体が捻れて硬化しながらゼウスに向かう。周辺の機械を少なからず破壊しながら、鋼鉄の槍となって。
「無駄だ」
激しい発光、衝撃、黒い霧が噴き出すような爆煙、そして皮膚がひきつるような静電気。
ゼウスが腕を突きだしている。
その閃光の中で、私は見た。
手首から下腕部、肘、上腕部、そして肩に至るまで、ずらりと並んだ円盤状の構造、それがゼウスの腕の中にあることを。
その腕の閃光が蟻を四散させ、生命なき泥に変えたのを見た。
「あ、あなた……」
「ちょっとした変圧装置だよ。全身に74個仕込んである。発電装置が体内にあるんだけど、そのままだと出力が大きすぎてね」
私は思い出す。あのとき、ゼウスの言っていた言葉。
――ガンマ線を感じる
ゼウスはガイガー・カウンターを身に付けている。
なぜ? 何かとんでもなく深読みした上での装備?
そんなはずはない。この船が原子力船であることをゼウスは想像もしていなかった。
ありえない。
それを体内に収まるほど小型化させるなんて、百年は未来の技術のはず。
ダイダロスなら。それも可能にするのか。
ではまさか、ゼウスの電力の源とは。
ノー・クラートが傍目にも分かるほどに歯噛みする。
「狂人め……!」
「君に言われる筋合いはないな、ノー・クラート。そこのイカロくんの母親にしては若すぎるじゃないか、いい魔女っぷりだよ」
「穿孔蟻!」
すさまじい音が響き渡る。例えるならチェーンソーの四重楽団。超高速振動で固いものを削り取るような音だ。
「ならばその力、海水の中で使えるか!」
まさか船底に穴を!? 正気なの!?
「ミズナくん」
ゼウスがふいに振り向き、私にだけ届く声で言う。
「ノー・クラートはここで始末する。君はそこの少年を連れて逃げるといい、もともと互いの目的は違うからね。迎えは呼べるだろう?」
「ええ、15分でヘリが来る……でもイージス艦が」
「すでに指示を出した。この船とイージス艦を繋ぐ蟻の架け橋、あれに上空のステルス機を体当たりさせる」
「なっ……」
「もちろんパイロットは脱出させるよ。同時に大量のチャフを撒く。それでイージス艦は沈黙させられるだろう。ヘリは目視で操縦させることだね」
話しつつもゼウスはハンドクラップを繰り出し、ノー・クラートの仕掛ける何らかの攻撃を打ち落とす。
「あなたはどうするの」
「自分で何とかするよ。心配してくれるのかい」
「……」
ゼウスは確かに狂人かも知れない。
その行動だって諸手を挙げて賛成できるものではない。
最後に勝ち残るのが彼であるべきとは思わない。
だが、それでも。
たとえ水が湯になるほどの短い邂逅だったとしても、彼と運命を共にしたのだ。
「心配よ」
私は言う。
「あなたのことが心配。ノー・クラートも、他の走破者も。ゼウス、迷宮は殺し合いの場ではないし、私たちは剣闘士じゃない。迷宮は走って競う場なのよ。けして誰も命を落とすべきじゃない」
「……そうだね、そうあればいいと思っているよ」
音が。
何かを削るような音が勢いを増し、それが水音を引き連れるかに思える。
私はイカロに駆け寄り、すべてのコードを引き抜いてその身を抱える。
「死なないでよゼウス!」
「死なないよ。死ぬつもりがないからね」
ゼウスは一歩、ノー・クラートへと近づく。その周囲で黒い凶悪な形をしたナイフがいくつも落ちて、崩れて砂となる。
「ゼウス……なぜそこまでする。肉体に考えうる限りの改造を施し、人の形を捨ててまで」
「ノー・クラート、君と僕とで決定的に違うことがある」
私は通路に出て、もと来た道に目を凝らす。
果たしてこの船にいたはずの兵士たちはどうなったのか、船を動かすための人員は。
まるで幽霊船のようだったこの場は蟻の猛威を受け、さらにゼウスの雷を受けて、まさか一人の犠牲者も出ていないと思うほど楽天家ではない。
「君は迷宮にかしずくだけだが」
こんな戦い方しかなかったのか。
迷宮という、地球よりも広く素晴らしい場所があるのに――。
「僕は迷宮と対等なのだよ。互いに深く分かり合い、通じあった……」
その声を最後に、私は駆け出す。
光速の閃光が私を追い抜いて通路を照らす。電撃の弾ける音。空気の焼けるオゾンの臭い。そして水音。
Tips ポストヒューマン
未来の社会や気候などを予測する未来学において、人類終焉のシナリオの一つとされる概念。次なる人類の意。
人類が遺伝子工学などで人間よりも優れた種を生み出し、人類がそれに滅ぼされる、あるいは長い時間の中で数を減らし衰亡するという考え方。
広義では人工知能によるロボットなどもこれに含まれる。




