第二章 1
私は、恵まれている。
そう言って間違いはないだろう。
人よりは頑丈に生まれて、アスリートの両親から英才教育を受けた。
陸上に体操、水泳に格闘技、馬術に弓道まで学んだ。両親は私に万能のアスリートになってほしかったらしい。
私は両親の期待に応えるべく努力した。さいわいに才能があったのか、中学に上がる頃には並ぶものはいなくなっていた。
特に力を入れたのは陸上だ。両親、特に父は短距離走の華々しい世界に憧れのある人で、もっとも優れたアスリートが短距離走の世界に挑む、そんな世界観を持っていた。そう考えること自体は悪いことでもないし、私にとっても短距離走は向いていたと思う。
いくつかの中学生大会で結果を残し、注目を浴びる日々は悪くなかったし、両親の熱意を受けて成長していく自分を実感するのは喜びだった。
女子100メートルの中学生記録は11秒61、男子は10秒64。
私が13歳の頃、練習時に出したタイムは、非公式の手計測ながら10秒97というものだった。
父は喜んで私を抱き上げ、私も満面の笑みで父を抱き返した。母はまだ元気な頃で、同じく誇らしげに微笑んでいた。
思えば、なぜ喜んでいられたのか。
己に起こっていることに疑問を持たなかったのか。
父が失踪したのは、その翌月のことだった。
※
「みーずな、今日はバイトあるのー?」
教科書をカバンにしまっていると、サチが声をかけてくる。
「バイトはないけど、ちょっとヤボ用」
「そーなのー? 今日はコンビニでアイスでも食べつつ帰りたかったのに」
「それ私がいないとダメなの?」
「新発売なのよー、パリパリ君の抹茶みかん味とメープルトースト味、シェアしたかったのにー」
「ふつーにイヤだけど、アイスシェアするとか」
うわーん、とサチは大袈裟に泣く真似をして、なぜかくるりと回転する。
「しゃあなーい、また今度ねえ。あ、それと、敷地の北側は工事中らしくて、バスの時刻表変わってるってえ」
「そうなの? また新校舎でも作るのかな」
「この学園どんどんでっかくなるからねえ、来年度の受け入れも過去最高を更新だってさー」
統合教育計画、と銘打たれて始まった巨大教育施設の建設ラッシュ。それは既存の教育ビジネスとの軋轢を産みながらも推進され、この三ノ須学園はその最大のものの一つだ。
数多くの学生を一ヶ所に集め、幼年期から大学までの教育を行う。高等部から先は基本的に全寮制、21世紀に入って一気に進んだ変革らしいが、それによって社会は子育ての負担から一部解放された。
青少年が犯罪に巻き込まれる、あるいは反社会的傾向に走る割合も減少し、偏差値は高く、スポーツでも目覚ましい結果を残してきた。私はあまり成績優秀ではないけど。
そんなわけで、この三ノ須のような巨大校は大きな成功という糧を得て、ますます成長しているように思える。それは巨大資本ゆえのエネルギッシュなふるまいか、あるいは中に抱える学生たちの生み出す熱気ゆえか。いつのまにか新たな学舎が生まれ、背後に背負う山並みにも次々と新たな研究棟が建っていく。工事はいつも複数箇所で行われ、その全容を把握している人間は、本当に存在したのだろうか。
私は学生たちがバス停に向かう様を見下ろし、廊下を進む。
目指すは学食だった。
私はスポーツ特待なので何でもタダで食べられる。肉野菜炒め定食とオムライス定食を食べて、お茶を三杯飲んでから購買へ。
購買も大小あって、最大のものはデパートぐらいの広さがあるが、このときはコンビニ程度のお店へ。
明日の朝に食べようと思って食パンとイチゴジャム、そして玉子を1パック購入。
まだ少し明るかったので、空き教室に入って宿題を片付ける。家にいるとついテレビを見たりトレーニングを始めたりするので、できるときは学校で片付けるようにしていた。
そして宿題を終え、そろそろ暗くなりつつある外を眺めて、帰路につくために靴箱へ向かって。
「帰るなああああああああ!!!」
物影から出てきた人物は腹筋を震わせて怒鳴る。存在はだいぶ前から気づいてた。
「第三音楽室へ来いって言ったでしょうがああああああ!!!」
暗がりのため姿がよく見えない。なんだかヒラヒラした服装だが、まさか例のゴスロリ姿なのだろうか。確かに三ノ須において制服は義務ではないけど。
「いやあなんか面倒になって……イカロが話つけとくって言ってたからそれでいいかなと」
「あなた命取られそーになりましたのよ!! 何ですのそのボンヤリした感じはあああああ!!」
四股か地団駄か、どっちかを踏みつつ声を張る。見事なハスキーボイスだ。昨日もそうだったけど行動は無茶苦茶なのに女性らしいかわいげな声をしてい、て……。
「……え?」
目が馴れてきて、私は暗がりの中でその全体像を確認する。その背後から走ってくる影もあった、イカロだ。
「亜里亜やめて! ミズナさんには僕からお願いして手伝って頂いてるんだよ」
「イカロさま! 私というフィアンセがありながらなぜですの! こんな大年増の筋肉女のどこがいーんですの! イカロさま腹筋割れてるほうが好きとかそういうご趣味ですの!? 割ります! 亜里亜もがんばって割ります!」
「亜里亜、とにかく落ち着いて、パートナー解消について不満があるなら相談に乗るから……」
私はその痴話喧嘩なのか何なのか分からないものを、目を点にしながら眺めていた。
私が流れについていけなかったとして、仕方のない事だろう。
その亜里亜という人物は、イカロよりもさらに小さい、ほとんど10歳になるならずの、人形のような美少女だったのだから。
いや別に美はいらないかな、泣きまくって鼻水出てるし。
※
場所を移して、ここはマンションの一室。
マンションと言ってもワンフロアーが一部屋になっており、間取りはなんと14LDK、35階だというのに立派な日本庭園があり、高価そうな絨毯や壺などが何気なく並んでいる。テレビも映画館かと思うほどでかい。
「いまコーヒーをお持ちしますので、お待ちください」
「あ、私カフェインの入ってるもの飲めないの、ジュースある?」
「はい、お持ちします」
20畳はある巨大な部屋には応接用のクッションが円形に並び、私と亜里亜は向かい合って座る。目の前の亜里亜は仏頂面で、私は台所の方へ声を投げる。
「とゆーかイカロ……なんてとこ住んでんのよ。しかも分譲って、いくらすんのよココ……」
「すいません、セキュリティも気にしなくてはいけないので、こういう部屋の方が都合がよくて」
驚くなかれ、ここはイカロの学内邸である。
三ノ須の中には特に裕福な家庭に向けてタワーマンションが設けられており、ごく一部の生徒が住んでいる。イカロは最上階の35階、それに33階と34階を所有しているという。
「でもおかしくない? 天塩創一の遺産が5200億だったかしら、あなたが手に入れたのはその一部でしょ」
確か、私と会った時点でサーバーマシン14台相当。あの赤鏡伽藍の迷宮で新たに25台ぶんを獲得した、と言っていた。
「天塩創一の遺産って、サーバーマシン400万台ぶんで仮想通貨が5200億でしょ、一台あたりだと13万円……」
「はあああああまったく、あさはかな女ですことおおおおおお」
亜里亜はものすごく大袈裟な動作でため息をつき、小さい体ながら懸命に首をそらしてこちらを見下そうとする。本当に人形のような顔立ちだ。黙っていればさぞ美少女だろうに。
「私がイカロ様と活動していた時、サーバーマシンは134台相当まで掌握できましたの、イカロ様はそのうち100台を私にお預けになったのですわ」
「そうなの? ……ええと、それで?」
「サーバーマシンが100台もあれば財テクなど容易いことですわ。わずかな期間でイカロ様は手持ち資金を数十億に増やしたのですわ」
「運が良かっただけですよ」
飲み物を運んできたイカロが話に割って入る。イカロのは濃厚なコーヒー、私にはオレンジジュース、亜里亜のは牛乳のようだった。というか亜里亜は何も言ってなかったけど、自動的に牛乳出てくるの? そういう取り決めあるの?
「それに亜里亜が資金を融資してくれたお陰です。10の資金を100にしようと思ったら大変ですが、1000の資金を1100にするだけならローリスクで行えますから」
「1000の資金、って……」
亜里亜は少し色素の薄い髪を鷹揚にかきあげ、ゴスロリのスカートの下で足を組む。イカロが彼女の方を腕で示して言う。
「改めてご紹介します。彼女は利根 亜里亜、利根家のご令嬢です」
利根、という言葉でいくつか連想するものがある。
それは現代ではTONEというブランドで有名な企業群だ。いわくTONEハウジング、TONEホテル、TONEシネマズ、TONEミュージック・エンタテインメント……。
「マジで……?」
「ふん! 家のことなどどーでもいーのですわ! 私はイカロ様のパートナーにして手塩創一の迷宮に挑む走破者、亜里亜ですわ!」
イカロの挑んでいる天塩創一の迷宮、それが尋常ならざる存在なことは分かる。名家の令嬢が絡んでくることぐらいあるだろう。
だが、一つだけ、確認しておかねばならない。
「……聞きたいんだけど。あなた、迷宮では大人の姿だったでしょ。でも今は、どう見ても10歳かそこらよ、どういうことなの?」
PF、フィジカルフィードバックの世界においては肉体の性能、外見は本人が自覚している肉体に依存する、そこから大きく離れることはできないはずなのに。
イカロは亜里亜の方をちらりと見て、少しのためらいのあと、言った。
「ミズナさんはご存じですか。特異症例RVW-s、リップ・ヴァン・ウィンクル・シンドロームというものを……」
Tips 三ノ須における購買
学園内部には大小様々な購買部があり、その従業員の三割は学内アルバイトシステムにより従事する学生である。
食料品店や書店の他、服飾、家電、理髪店、学習塾など多岐にわたり、大学部の生徒たちにより運営される店舗もある。




