第十章 1
蒼穹の中に黒月あり
いつしか天の御座にあり、世を睥睨する魔星なり
しかして世のすべて事もなし
君臨するのは聖か魔か
座す星すらも知る由もなし
※
私は迷宮の中にいる。
周囲は岩肌、乾燥しきった茶色の大地がひび割れて、ごろごろと白っぽい岩が転がっている。干上がった湖のような眺めだ。
岩場の中にはガソリンスタンドのような印象の構造物。矢印の形をした屋根と、コンクリートで補強された床。この迷宮のスタートとなる場所だ。
「オーケー、じゃあ始めて」
『了解です』
タケナカの声とともに出現するのは走破者たち。馬をひいた白衣の東洋人と、人種も体格も様々な数人の人物。カメラ映像をもとに再現したダミーなので、顔などのディテールは若干ぼやけている。浅黒い顔のテニスプレイヤーもいた。
「アポロもケイローン派に合流してたのね。そういえば先日の「赤文字」にもいたけど」
『合流時期は不明ですが、この迷宮ではパーティを組んでいたようですよ』
一度走破された迷宮は、他のプレイヤーも自由に潜ることができる。そのアクセス権はシンプルに「迷宮の名前」だ。
そんなわけで私と亜里亜はこの「倒載旱地の魔天」に潜り、走破者たちの戦いを間近に見ることにした。背中のバックパックから伸びたアームが大型ドローンに繋がり、あらかじめ設定したルートで飛行することになる。
ケイローンたちが何か話しているところに、割って入るように現れる人影がある。
それは牛面人身の怪物、ミノタウロス。
彼はほとんど動かぬ口で何か話しかけ、ケイローンたちはそれに応じる素振りを見せた。
「……改めて言うけど、世界のどこかにこういう存在が居るわけじゃないわよね」
「当たり前ですわ」
そう応じるのは亜里亜だ。彼女はと言うと黒スーツの女性、プルートゥの近くにいる。設定されたルートが少し違っており、私はミノタウロスを中心に、亜里亜は他の走破者をまんべんなく追いかけるルートを組んである。
「おそらく人工筋肉ですわ。わたくしもイカロ様とともに研究しましたけれど、ダイダロスなら完全な人工筋肉を創造するのは不可能ではありませんわ」
人工筋肉という言葉が意味する範囲は広いが、ミノタウロスのそれは単なる動作の補助や、特定の場面での高出力の活用にとどまらず、あらゆる点で人間以上の動きを実現するもののようだ。
その迷宮にあっても、まさに身体能力は超常の域だった。
天から降り注ぐのは船。
左右から櫂を伸ばしたガレー船、三本マストの帆船、戦艦、潜水艦、それらに共通するのは戦う船ということか。木片やロープ、鋳鉄大砲。甲板の装備品などが剥がれ落ちつつ落下してくる。
それは天の怒りなのか。天に挑んだ人間の末路とでも言うのか。奇妙な鈍さを感じさせて降り注ぐ巨船が、地面にぶち当たって砕け、あるいは爆発炎上する。地上はあっという間に終末の眺めとなり、走破者たちは装甲板を出現させて身を守るか、あるいは空を飛んで回避を図る。
そこを獣が走る。ミノタウロスの力強いストライドが大地を蹴立てて、降り注ぐ船が破砕片を散らす横をすり抜ける。俯瞰から急降下して側面に回り込めば、その太く頑健な脚が巨体を前に推し進め、すんでのところで直撃する大型艦船の真下を走り抜ける。
降り注ぐ船があまりに大きいため、地面に触れる寸前に奇妙に加速するように見える。視界の上端によぎった瞬間、一瞬でギロチンのごとく世界を切り取る鉄塊、ドローンで艦船を飛び越えるように移動すれば、ミノタウロスの背中ははるか先にある。
走破者たちも妨害にかかる。小型のドローンが編隊を組んで襲いかかり、あるいは長さ5メートルを越える鉄の槍が背後から襲う。あれは電磁誘導的に射出される質量兵器か。ぶち当たったガレー船が四散している。
だがミノタウロスの脚が止まらない。背中に眼があるかのように槍を避け、襲い来るドローンを一瞬の裏拳で叩き落とす。その動きは不規則であり、艦船を避けることと後方からの追撃をかわすことが両立している。
「この迷宮のゴールってどのぐらい先なの?」
「およそ14キロ先です。後半になるとすでに大量の艦船が落下してまして、下が通れなくなるようですね。ミノタウロスも船を乗り越えて走っています」
地面に突き刺さった船をノミのように跳ぶ。仰角40度はある甲板の坂を一気に駆け上り、舳先で一瞬で地形を把握、ふさわしい足場へと跳んでいく。彼の跳躍力が常人離れしていることも知っているが、この時は記憶のそれより数段上に思えた。
そこへキャタピラを装備した車が迫る。四輪それぞれを個別のキャタピラで包んだ装輪装甲車だ。木造船を踏み砕き、前部についた小口径の砲が砲炎を放つ。ミノタウロスは見もせずに回避して、救命ボートの背後に隠れる。
飛び出す影。スーツと日本刀を装備したプルートゥが、常と同じく全身から出血しつつ甲板に降りる。背中のジェットパックがばちんと外れて消える。重量のかさむものは使用のたびに出したほうが効率的だ。
ミノタウロスが姿を現す。体を低くし、クラウチングスタートか、あるいは肉食獣の突進に近い構えとなる。プルートゥは刀を青眼に構えて、その面を一刀のもとに叩き割らんとする。
ざり、とミノタウロスの脚に密着した革靴が甲板に食い込む。それはおそらく鋭く頑丈なスパイクを装備し、ゴムのように足に密着している靴に違いないが、傾斜した鉄板と革靴が火花を散らすような一瞬の錯覚。
そのスターティングはまさに紫電一閃。プルートゥも、装甲車の中にいた人物も反応できないほどの速度。
刀が地に落ちるより、いや、ミノタウロスの額を捉えるより早い。
一息で間合いを詰め、プルートゥの顔面に拳を叩き込む。コンクリート塊ですら粉砕されるほどの一撃。プルートゥの体が易々と吹き飛び、血と脳漿を散らしながらゼロ秒でフレームアウト、顔面が形容不可能なほどに砕けたことを察して眉をしかめる。
「速い――!」
踏み込み、そして右フックのような拳打。私でも目で追えなかった。ミノタウロスの巨体に一瞬だけ太刀筋が萎縮したこともあるが、プルートゥの反応もけして遅くはなかったのに。
ただ速いというだけではない。疾走から打撃の間に寸毫の空白もない、流れるような一撃。走り出したと思った瞬間には吹き飛ばされていた感覚だろう。
「今のパンチ……時速100キロは出てる。異常な数字よ」
「え? そんなものですの?」
吹き飛んでいったプルートゥを追って消える亜里亜、その声だけがインカムに届く。
「野球のピッチャーなら150キロとか投げますわ。それは腕がその速度に達してるからでしょう?」
「それはトップスピードに達するごく一瞬だけを切り取っての話。普通、ボクサーのパンチは時速40キロぐらい、軽量級の特に速い選手でも50キロ弱と言われてる。それでも秒速にすると10メートル以上。人間同士の戦いならこれで十分なのよ」
時速40キロと聞けばそんなものかと思うかもしれないが、相手との距離が1メートルとすれば、パンチが相手の顔面に届くまで0.1秒かからないことになる。人間の反射神経ではこの速度を回避することは不可能であり、相手の構えや気配から先読みして、ようやく対応が可能になる速度だ。
タケナカの声が降りてくる。
『計測してみましたよ。今のミノタウロスのパンチはおよそ124km/h、彼の重量はおよそ170キロです。パンチの重さは5トンに達します』
かのマイク・タイソンのパンチが1トンと言われてるので、ざっとその5倍、頭蓋骨などひとたまりもない。
しかも170キロもの重量か、格闘家が敏捷さを保っていられる限界が100キロだと聞いたことがあるが、その重量で動き回れるということは、ミノタウロスは膝周りや足首、股関節も人工筋肉で覆っているのだろう。何もかもが人間の枠を超えている。
装甲車の中にいた走破者は反応しようとしただろうか、おそらく吹き飛んだプルートゥを眼で追っただろう。
その一瞬でミノタウロスを見失ったのか、左右に振られる小口径砲に焦りが見られる。
そして既に車上にいたミノタウロスが天板を掴む。その全身にみなぎる膂力。おそらく数トンに達する強烈な背筋力がビスで止められた天板を引きちぎり、金属板を歪めてめりめりと引き剥がす。
そして内部にいたであろう、哀れな走破者に丸太のような腕が伸ばされる。
表現を控えたい惨状、そしてまた走り出す。
『この後でケイローンと会敵します。左後方から追ってきていますね』
ドローンに吊られつつ眼を向ければ、積み上がった舟を乗り越えつつ、ひとまたぎで数十メートルも走破する影。
あれはアレイオンか、この世界終焉のごとき眺めにも動じず走り続けている。
「アポロはどうしたの?」
『けっこう最初の方でタンカーに押しつぶされました』
なんかかわいそう。
「ケイローンが矢を射ちましたわ!」
私の体がドローンに運ばれ、目標とする地点の真上に。
『迷宮のマッピングプログラムに何が起こっているのかは観測不能です。カメラで撮影できた画像を元に再現しています』
矢はミノタウロスを飛び越えその向こう、灰皿に押し付けたタバコのようにひしゃげているバイキング船、いわゆるロングシップに着弾する。
瞬間。その船体が大きく膨らむかに見え、側面部分から別の舟が生え、甲板からは上下逆さになった別のバイキング船が突き出してくる。
この眺めは見たことがある。いつぞやの迷宮、「天網無尽の檻」だ。
「あれは迷宮が自動生成されるパターンの一つ……既存の3Dデータをネットワークのどこかから探してくるか、自分で作るかして、同じものを複製して組み合わせていくことで迷宮にするのね」
そしてもう一つ連想する。
イカロが作成したポルダリングの登攀シミュレートだ。
あの中では私を元にした3Dモジュールにランダムな動きをさせ、あらゆる動きを思考させることで踏破の可能性を見出していった。
これも同じこと。おそらくはダイダロスが世界中から集めている桁違いの演算力を駆使し、迷宮はそれ自体の複雑さを高めつつ、迷宮として自己の完成度を高めていく。走破者たちがどのように走るかのシミュレーションを行いつつ、自己を肥大させていくのだ。
『大筋ではその推測で間違いないと思いますが、天塩氏のプログラムはおそろしく洗練されてますね。迷宮の生成を分析してみましたがまったく無駄がありません。カルマン渦ですとかフィボナッチ数列ですとか、自然界に見られる数学的アルゴリズムのような美しさですよ』
時として樹木の成長や氷の結晶は迷宮のような機能美を備える。それはプログラムによって生まれる迷路も同じで、不自然な直線や、無駄に長い脇道などはあまり生まれない。
ミノタウロスの前方で巨大に成長し、左右に広がって立ち塞がらんとするロングシップの迷宮。
そこを前に、彼は一度膝に力をためて一気に跳躍。
およそ2メートル近い垂直跳び。横から突き出てきた帆柱を掴み、その上に躍り上がって更に上へ。舷側部を、舵輪を足場に次々と飛び上がる。
「飛び越えるつもり……」
あの巨体と重量を物ともしないパワーもさることながら、判断が凄まじく速い。
その動きを真下から追いかけるが、私ならば一瞬の躊躇がある判断を迷いなく行い、けして最適とは言えないまでも、腕力にものを言わせる一手で強引に進む。
そして17手。成長しきってタンブル・ウィードのようになった船の迷宮をまたぎ超えて、その向こうへ飛ぶ。アレイオンがその後から追いついてきたものの、迷宮に行く手を阻まれてしまい、さらに頭上からは大型の戦艦が――。
「……ここまでね、ログアウトしましょう」
私の意識が現実に戻ってきて、口からTジャックを引き抜く。目の前では亜里亜が同じようにしていた。
タケナカは少し離れた部屋で操作していたが、ダイダロスにその姿が浮かび上がる。
「えー、この後はゴールまで一直線でしたね。彼にとっては極めて有利な迷宮だったと言えるでしょう。アレイオンも、他の乗り物も全速を出すことができず、攻撃から身を隠せる遮蔽物も数多くあった。とにかく真っ先に走破を目指すという戦い方をすれば、不死身が持ち味であるプルートゥは強みを発揮しきれない。迷宮を生み出すというケイローンの能力は、逆に自身の足止めにもなってしまう、そういうわけです」
「……」
それは間違いではないが、やはり驚愕すべきはミノタウロスだろう。
プルートゥの斬撃は伝説的なボクサー、プロメテウスのジャブより速いのだ。その彼女を一撃で吹き飛ばし、ケイローンの生み出す迷宮を無力化する。相手に実力を発揮させないような、あるいは持ち味など歯牙にもかけぬような圧倒的な実力だ。
おそらくはどんな走破者が対峙しようと同じだろう。あの怪物を前に、小手先の能力では問題にならない、そんな気がする。
「いくら怪物でもガチの戦車より強いはずありませんわ! 10式戦車でも出せば勝てますわ!」
「……そうね。彼に対抗できるような、強力な車両は必要かもしれない。タケナカ、いくつか用意しといて。私も使うことになるかも」
「了解です」
しかし、あの怪物と本当に戦えるのか。
文明の粋を極めた兵器ですら、あの怪物にはたやすく蹂躙される、そんな気もする。
いつかは闘うことになるのだろうか。彼と……。
Tips 人工筋肉
筋肉の動きを模倣するような作動機械の総称。電気的、磁気的な力を受けて動くハードタイプのものから、バイオテクノロジーを活用した高分子素材を用い、生化学的なエネルギーで動くものまで幅広く存在する。
課題としては生物の筋肉組織に比較して摩耗や劣化が激しく寿命が短いこと、収縮率が小さいこと、エネルギー効率が高くないことなどが上げられる。
章題の読みは「きばこくげつのとりで」です
更新が遅れてすみません




