第九章 3
そして数日ののち。
私はクルーザーに揺られて海上にいた。亜里亜が株を持ってるTONEマリンスポーツの船だ。
左耳に装着したインカムからはタケナカの声が響く。
『まもなく目的の場所ですが、どうですかね、漁師も近づかない、速い海流が取り巻く島だそうですが』
「見えたわ、見たところ緑はあるけど」
その島は東京から南に千キロ、小笠原諸島は父島の西方40キロほどの距離にある。
案の定、イカロの育った島についての情報は見つからなかったが、逆転の発想で探すことができた。
日本に存在する島の数は4300とも6800とも言われているが、そのうち有人島は416、何らかの建物や港が整備されている無人島はさらに数百ある。
その無人島一つ一つを衛星により分析し、さらに登記を調べ、条件に合うものを探したのだ。
いわく、近くに陸地や有人島がないこと。ある程度の大きさの住居があること。所有者が存在していないか、追跡できないもの。
砂浜の手前で投錨し、ボートで上陸する。この島の広さは15000平方メートルほど、サッカー場を二つ並べた程度だ。
砂浜が一ヶ所あるだけで他の海岸線は岩場。島の中央部分には短めの芝が植えられ、ロボット掃除機のような形状の芝刈り機が動き回っている。ささやかな森があり果樹も豊かに実り、こんな小さな島だと言うのにこんこんと泉が湧き出し、小さな流れとなって海に続いていた。
動物もいる。種類はよく分からないが極彩色のオウム、金巻毛の大型犬、遠くでは馬が草を食んでいる。まるでどこかで聞いた楽園の眺めだ。
そして島の中央には、切り出した石のような四角い洋館。三階建ての立派な屋敷であり、屋根にはわざわざ土を盛って屋上緑化してある。さらに屋敷の周囲には黒土に黒っぽい芝を植え、館の影が目立たなくしている。
衛星から屋敷の存在を分かりにくくしているのだ。
実際、ダイダロスで画像を分析しなければ屋敷は見つけられなかっただろう。皮肉なことに、それがこの島が怪しいと思わせる結果になったのだが。
「芝が手入れされてるわ。ロボットがやってるみたいだけど、人間がいないとは思えない」
『衛星で見たときには船は無かったですよ。まあヘリという手段もありますか』
いちおう警戒はしている。ここに誰かがいるとして、私と敵対しないとは限らないからだ。
そして、私はその人物を見つける。
彼女はリンゴの木の下に立って、熟しきって真っ赤になったリンゴを手でもぎ取ると。小気味よい音とともにかじりついていた。
「……タケナカ、いま衛星で見てる?」
『はい、上陸の時点からリアルタイムで警戒してますよ』
「画像だけ切って。指示するまで音声のみでナビを」
『はい?』
「いいから切りなさい、あとで操作ログも見るからね」
『はあ、まあいいですが』
分解能20センチなら人間など点にしか見えないが、それでも見せるわけにはいかなかった。
「ようこそ、お客人」
その女性は、一糸まとわぬ姿だった。
「ええっと……」
さすがに少し硬直するが、気を取り直して発言する。
「あなた何者なの?」
「アフロディーテといいます」
その女性は口笛を吹いて馬を呼ぶと、軽快にまたがって並足で歩く。アフロディーテは一流モデルもかくやと思える美貌であり、空気に溶けるような柔らかな金髪。白磁のような染みひとつない肌。さらに暴力的なまでにせり出した胸と尻。女性から見れば異様なほどくびれた腰をしている。およそ生きてきて、芸能人でもこれほどの美々しさを持った人間は見たことがないと思える。
「なんでこんな島に……」
「愛人ですよ。この島の主に囲われてました。屋敷の合鍵も預かってましたので」
愛人……こんな超高級コールガールみたいな女性を囲うとは、さすがと言うべきか、意外と言うべきか。
私は馬から少し離れて歩く。女性は何となく眠たげな印象で、太陽に手をかざして言う。
「ときどきは乳母の真似事もしてました。イカロ様にミルクをあげたりも」
「え……愛人がイカロの世話してたの?」
第二夫人とかそういう感覚なのかな。どうも走破者たちを含めて日本人の感覚ではついていけない。
「ええ、恋人がお腹を痛めて生んだ子なら、私にとっても息子みたいなものです」
ん?
「あの、愛人ってノー・クラートのこと?」
「そうですよ」
アフロディーテは当然のことと言うより、どこか心外そうな響きをにじませて言う。
「北不知ミズナさん、あなたが走破者であり、イカロ様と行動を共にしてることは存じてました。しかしこんな島を訪ねてどうする気です?」
アフロディーテは食べ終わったリンゴの芯を放り投げる。そして馬と私は屋敷に至り、自動的に扉が開く。
「パートナーだもの、パートナーのことを知ろうとするのは自然なことでしょ」
「私はノー・クラート様のことなんか知りたくありませんけどね。あの方は底が知れませんから」
暗いところに入ると、アフロディーテはうっすらと草いきれを放つように思える。その肌は陽のほてりで赤みがさし、赤ん坊のような柔らかな足でぺたぺたと歩く。ぱんと手を叩くと明かりがつく、ここはリビングのような空間であり、外から直接入れる部屋のようだ。
私はどことなく不自然さを覚える。彼女が全裸で過ごしていることはどうでもいいが、この島にそれなりに長いこと滞在している様子だ。それなのに肌がまったく日に焼けていないし、土の上を素足で歩いていたのに踵が角質化していない。髪だけは潮風を受けてやや劣化しているが。
「……失礼だけど、ゲノム編集者?」
「そうですよ。私は美を追求するために作られました。とはいえ美しさだけです。免疫系がやや弱かったり、いろいろと偏見の目に晒されてきたので誰かに囲われて生きていましたが、あなたのおかげで社会に出る道が開いたかもしれませんね」
アフロディーテはさらに手を叩く。すると一人がけのソファーが二つ、床をすべるようにやってきて、どこからともなく静かなクラシックが流れ出す。
「どうぞ」
「ありがとう」
アフロディーテはどうやら私を歓迎しているようだ。低血圧ぎみなのか、いまいち体に力が入っていない。片足を腿に乗せて半跏趺坐の構えだ。
「あの、なんか着てくんない?」
「客人にそう言われたときのために、服はすべて焼き捨てました」
そこまでしなくても。
「イカロ様の話を聞きたいのでしょう?」
「その前にあなた本当に何者なの。アフロディーテと名乗るからには、元オリンピアなんでしょ」
アフロディーテは小振りな顔をついと傾け、うっすらと笑う。並の男なら骨抜きにされそうな笑みだ、たぶん。
「天塩創一という方はですね、別に超一流の人材を探し歩いて走破者にした、というわけでもないのです」
「そうなの?」
「身近な人間を選んだだけですよ。ノー・クラート様の周りにいた方がたまたま超一流だっただけです」
「あ、そう……」
アフロディーテの周りにはお菓子の皿を乗せたローテーブルだとか、ロボットアームを備えた台とかがやってくる。ロボットアームは何やら白いクリームを彼女の体にすり込んでいく。日焼け止めか何かだろうか。
「ノー・クラート様の愛人、よく意見を聞いていた宗教家、物資を届けていた海運商の友人、それと放牧していた馬の面倒を診ていた獣医。ほか色々です」
「獣医ってケイローンのこと? でも、それなら彼は一般人だったってことよね。世界を変えるなんて、そんな大それたこと……」
「ミズナさん、あなたに超能力があったらどうします? それで世の中を変えようとしたり、傲慢にも神になろうとしたり、時には他の超能力者と対立して互いに殺し合うでしょう。能力と人格は互いに影響し合うのです。オリンピアの方々は演算力という力を得て、まさに神のごとく超越した人格を得たのですよ」
「……」
そうかも知れない。
あるいは演算力を得ても、行使せずに平々凡々と生きる人間もいるかも知れない。しかし少なくとも私は違った。演算力で世界を変え、絶対に叶わないと思っていた願いを叶えようとしてる。世界のカタチを変えてまで……。
ゼウスを始め、オリンピアの連中はどこか並外れているけど、彼らも演算力など持たなければ平凡な一生を終えたのだろうか。ならばやはり、天塩創一を切っ掛けにして全てが歪んでしまったのか……。
「オリンピアも最初は団結していたのです。世界平和という理念を掲げてね。しかし段々と意見が合わなくなっていった。この件については聞いてますか?」
「ゼウスから聞いたわ。ひたすら弱い方に、正しいと思われる方に肩入れして人命を救うゼウスに対して、ケイローンは人間そのもののアップデートを望んだ」
「そう、ポセイドンなどはもっと大胆なことを言い出しました。彼は人間の交流そのものが軋轢を生むのだと考え、五大陸を切り離す、つまり人間から外洋航海能力を奪い、パナマ運河とスエズ運河を巨大な構造体で封鎖し、南北アメリカ大陸とヨーロッパ・アフリカ間の通行を遮断する計画を建てた。それで何がどうなるのか知りませんがね」
圧倒的過ぎる。まるで子供が考えるような計画だ。
問題なのは、ダイダロスならそれも可能にするということだが。
「……ロシアから北極を越えてカナダまで行けるでしょ」
「知りませんよ。そのぐらいの交流は認めるつもりだったんじゃないですか。あるいはミラー衛星で北極の氷を溶かすとか」
そんなことは話の本筋ではない、とばかりにアフロディーテは足を組み変える。
「私はオリンピアに所属している間はホテルを転々としていましたが、解散を機に走破者を辞めて、昔懐かしきこの島に戻ってきました。しかしイカロ様もいないし、ノー・クラート様からもお呼びがかからなくなったので、特に何もすることなく過ごしてましたよ。幸い、身の回りの世話をするロボットや、食料だけは潤沢にありましたからね」
「……なぜ辞めたの?」
「ゼウスと敵対できないからですよ」
さらりと言う。
「ポセイドンならまだしも、ゼウスには絶対に勝てないと分かりきっていますからね。やり合うだけ無駄です」
「……そうかしら? 小手調べみたいな勝負ではあったけど、私は一度勝ったけど」
「ゼウスは常に仲間を求めてますからね。ちょっとしたテストだったんじゃないですか? あるいはケイローン打倒のため、あなたに演算力を分け与えようとしたとか」
「……」
それもまた真実だろう。
あの迷宮……「載盆縫手の熱界」だったか、ゼウスが全力だったという気配はまるでなかった。
やはりオリンピアの元リーダー、まだまだ底があると考えるのが自然か。
「見てきたように言うのね……」
「オリンピアの全員とはそれなりに付き合いが長いですからね」
やはり勘は信じてみるものか。
この人物なら、私の問いに答えてくれる気がする。
「数日前、イカロが誘拐されたの、おそらくはノー・クラートに」
「ほう。イカロ様はノー様の実子ですけど、まあ誘拐という表現で何が起きたかはお察しします」
「なぜ誘拐されたか、察しがつく?」
アフロディーテは口の端で柔らかく笑い、いつの間にか横に来ていたウイスキーのロックを呷る。
「ノー様にはこの世に手に入らないものなど何ひとつありません。しかし、イカロ様だけはやはり特別なのでしょうね。かけがえのない息子ですから」
そして指を二本立てて私に向ける。
「重要なのは、イカロ様は二つの属性を持っているということです。一つはノー・クラート様の息子であるということ。やはりノー様も人の子。自分の息子をそばに置いておきたくなったという可能性がまずひとつ。しかしこれはタイミングがおかしい。別にイカロ様に危機が迫っていたのではないのでしょう?」
「そうね。イカロはどうも帰りたくなかったみたいだけど、いきなり誘拐までする必要はないと思う」
「それなら、もう一つの可能性。イカロ様は天塩創一の息子である、という点です」
「……」
「イカロ様は、天塩創一の遺伝子を受け継いでいる。それはつまり、天塩創一になれる可能性がある、とは思いませんか」
「どういうこと……」
アフロディーテはそこでソファから立ち上がり、私の前に来て膝に手を乗せる。彼女の豊かな胸が私の前で揺れ、唇とまなじりが歪み、何とも言えぬ絶妙な、魔性じみた迫力を秘めた笑みが浮かぶ。これが傾国の笑みというやつか。
彼女の鮮紅色の唇が私の唇に重なろうとしたので、私は額を突き出して防がんとする。
「ミズナさん、あなたの求めているのは言葉ですか? あなたはイカロ様を奪還したいと考えているのでは?」
「……無理よ、ノーは公海上にいて、イージス艦に守られてるのよ」
「いいえ、方法はあります。私がこの島にいる理由は、この島にはそれがあるからなのですよ」
彼女の息は果実のように甘い、アフロディーテはまさに挙体異香。その一挙手一投足が、存在にまつわる全てが美なのか。
「手にしたいとは思いませんか。ノー・クラート様にも届く斧、迷宮の両刃斧を……」
Tips 日本の島の数
日本にいくつの島があるのかは島の定義、数え方などによって異なるが、海上保安庁においては「周囲の長さが0.1km以上のもの」「桟橋や防波堤などで陸地とつながっている場合、それが細いものであれば島として扱う」「埋立地は除外」という基準によってカウントしている。
日本においては様々な理由により「島の定義」が明文化されていないため、海上保安庁のものは一つの基準に過ぎない。




