幕間 4
さらに数日が過ぎる。
「ねえ、もっと本を持ってきて」
ノーは本を片手に回廊を歩く。何年も過ごしてきた屋敷とは言え、まだ踏み入ったことのない部屋、開けたことのないワードローブ、覗き込んだことのない鏡などがあちこちにある。
ノーは本を片手で器用にめくりながら屋敷のあちこちを歩き、読み終わると適当なサイドボードの上に置いて、使用人などから別の本をもらってまた歩き出す。
「ノーお嬢様、本がお好きなのですね」
「時間を無駄にしたくないの。今は東洋の詩について学んでいるけど、なかなかに興味深いわ。桜梅桃李、柳暗花明。少ないものならわずか四字に様々な意味を格納できる。この美しい圧縮は迷宮にも通じるわね」
少女は地下道の存在を疑っていた。生け垣の迷路は真なる出口ではなく、屋敷のどこかにある地下道から外に出られるのではないかと。
そして数日後にそれは否定される。
「だめねえ。蟻を使って調べているけど、この屋敷に隠し部屋のたぐいは一つもないわ」
家庭教師は物静かに後ろをついて歩く。ノーの発言は家庭教師から何かを引き出さんとする気配があったが、男はその気配を感じ取ったのか沈黙で答える。
「地下道がないならどこかにヘリでも隠してあるのかしら。でもそんなはずないわね。自分の足で出て行けという命題に対して、迷宮の出口がヘリというのはあまりに興覚めだわ」
蟻はときに使用人たちに踏み潰されたり、ブリキのちり取りに掻き入れられたりしながらも数千匹が稼働を続け、屋敷の隅々まで、あるいは生け垣迷路の隅々まで調べている。
垣根を乗り越えたり、その上を飛び越えて外を調べることもあった。電波の限界により敷地の外までは行けなかったが、やはり相当に広い迷路のようだ。
「生け垣の一部が、敷地を大きく囲う範囲で輪になってる。それは植え替えられた痕跡がないのよね。つまりあの迷路は、できた当初から出口なんて無かったのね」
そう気づいてから庭師たちの動きを観察すると、見えてくることもある。
ある一定の距離より遠くで働いている庭師たちは、屋敷ではなく離宮へ戻って休む。それはそのほうが便利だからと言うだけでなく、そもそも屋敷に来ることができない庭師たちがいるのではないか、と思われた。
「物資なんかは生け垣越しに渡してるのよね」
屋敷に物資が届けられるとき、スチール製の歩道橋のような脚立が迅速に組まれ、北西方向に道が築かれる。運送業者などはそこを渡って来るようだ。
屋敷の使用人たちも出口など知らないようだ。生垣の向こうに行きたい場合は、割と粗雑に乗り越えている。
「閉じ込めるだけなら屋敷を塀で囲って、門に鍵でもかけておけばいいのに。迷路なんて回りくどい方法で私を閉じ込めたいの? 一度も会いに来ないし、誕生日の祝いも、クリスマスも生誕祭も祝うことはない……」
いつからだろう?
ふと、そんな疑問が浮かぶ。
「……ねえ。私はどうしてここで育てられているの? ロッグフェル家の娘なら学校へ行く必要はない、それは理解してもいい。でも、だとしたら遅すぎる。私はもう16歳よ。そろそろ経営について学ばねばならない頃だわ。それとも政略結婚にでも使う気なの」
「お答えしかねます」
家庭教師はそう答える。その答えに食らいつくかのようにノーの眼が鋭くなる。
答えられない、それは二つの可能性がある。言えないか、知らないかだ。
そして家庭教師はこう言った。あの庭園迷路を作ったのはノー自身だ、と。
「……私が?」
ノーは踵を返して回廊を戻り、自分の私物を納めた部屋へ行く。
荷物はノーの感覚ではさほど多くはなかった。ごく幼い子が着る服。積木とぬいぐるみ、そして棺桶のような長櫃に収められた大量の本だ。
「理由があるというの? 私が何故ここにいるのか……」
迷宮。
そんな言葉が頭に浮かぶ。
「私がここにいる理由を解き明かす、それが迷宮なのね」
少女は長櫃の本を漁る。絵本がいくつか、それに恋愛小説、売れ筋のファンタジー、歴史の本。科学の本、動物の図鑑。
しかし長櫃の底に敷き詰められているのは、宗教についての本だ。
「……これは?」
聖書とその解説本。宗教哲学の本。宗教美術の本。教会運営の本。聖人や福者に列せられるような人々の伝記。礼拝指南書。信仰問答。他にも無数に。
読んだ覚えがない。
しかもすべての本は紙がすり切れている。何百回も繰り返し読んだかのように。
物置からセロテープを持ち出し、本の表紙の指紋を取る。果たして、それは自分の親指と寸分違わないものだった。
「そんな……なぜ覚えていないの? 私が宗教に熱心だったと? だけど、これだけの本、何度も読み返すなら軽く数年はかかるはず、いったい……」
踏み込もうとしている。
そう感じる。これは間違いなく迷宮のゴールへ近づく道。
しかし、知ろうとすることが正しいのか。自分は何か恐ろしいことを知ろうとしてるのではないか、そのようにも感じる。
「……そう、これは迷宮。迷路ではなく迷宮なのね。ひとつながりの道を持つ、巡礼の道」
古代における迷宮とは、分岐や行き止まりを持たなかった。内部は完全な一本道であり、入り口から入って隘路をえんえんと歩き、やがて出口から出るだけの完全な一本道だったという。人は薄暗がりの中で長い道を歩むうち、瞑想に近い体験を得て、深い思索や神的体験を得るという。あるいはそれはハイウェイ・ヒプノシスのような一種の催眠装置であったのかもしれない。
ならば、これも同じなのか。
巡礼の道。この本をもう一度読めば。自分が幽閉された理由を知ることができるのか。幽閉された原因を再び起こすことになるのか。また迷宮を生み出し、自分自身を幽閉することになるのか。
いくつかの疑問に示唆が降りる。
あの生け垣迷路を自分が作ったのなら、自分からこの屋敷に引きこもったのではないか。両親が会いに来ないのは、自分が両親を拒んだからではないか。
突きつけられるのは過去という名の指。おぼろげに思い出しかけている何かを、脳が無意識の領域で打ち消そうとしている。
そうだ、打ち消したのだ。
記憶は制御できる。自分で自分の記憶を封じたことも理解する。
「……私に、閉ざした道をもう一度歩めというのね」
だが、もはや止めることはできない。坂を転がる石にも似て、抗いがたい過去への傾斜。運命の転機において人は手も足も持たない石ころに過ぎず、傾斜に抗うすべもない。
ノーの指が本の腹に触れ、ゆっくりと、最初の一冊を紐解き。
そして太陽が東から西へ至り、月が昇っては沈み、日々がストロボのように明滅したのち。
ぱたり。
と、本が閉じられる。
「ノーお嬢様」
「ゴールが分かったわ」
家庭教師は少し動きを止めるかに見えた。雛鳥が卵の殻を破るのを見つめる沈黙でもあり、裁判官の言葉を受け入れんとする罪人の覚悟のようにも見える。
「私は幼くしてあらゆる知識を学んだ。そしてこの世の全てに絶望した。この世があまりにも理路整然としていて、神の介在する余地はなく、観測不可能な領域に神の所在を求めるしかなかったから。そして世界はあまりにも不幸であり、偏っており、飢えていて、先行きが分かりきっていたから」
手にした書物は、サルトルの「存在と無」
思想界の巨人であり、高らかに神の不在を叫んだ最初の哲学者。最後に手に取ったのがそれなのは、きっと必然だったのだろう。
神の不在。
あまりにも明白で、誰もそれを疑わず、信仰心に溢れる者も、皆無な者も真なる意味でそれを受け止められないこの世の悲劇。自分はそれに抗おうとした。哀れがましいほどの無垢。あまりにも純粋な愚かさ。それに抵抗する手段が、この庭園とは。
そして、逃げた。
それが最後のピース。少女は、ノー・クラートはすべてを悟った目で家庭教師を呼ばわる。
「私は現実を放棄し、死の世界へと逃げ出した。そのまま永遠に眠れるはずだったものを、誰かが起こそうとしているのね」
「はい」
家庭教師は口中だけで完結するほどの声で肯定し、帽子を手にしてうつむく。
「あなたは若くして様々な事業を担う才女でした。しかしいつからか、神の不在を嘆き、この世の全てに絶望した。万の書籍を読みあさり、とある宗教団体の教祖と語り合い、それでも心の晴れることはなかった。まだ若い身でありながら、世の有限であることを受け入れられなかったのです」
「思い出すと心が張り裂けそうになるわ。私は自らの記憶を閉ざし、薬によって無の臨界に近づいた。おそらくは脳幹まで侵されるほどの深い眠り。でもTジャックなら、脳髄からの電気信号に偽装するシステムならばそんな状態の人間にも呼びかけられる可能性がある。これは治療なのね? 私を拡張世界の中で覚醒させ、脳を動かし続けるためのシステム」
「その通りです」
「私がこの迷宮を作ったというのはどういう意味。私は今でこそプログラムにも精通したけれど、眠りに入ったときには……」
「あなたの大脳皮質から原記憶を得て、加工することで迷宮を創造しました。あなたにとっては生まれ育った屋敷が世界の出発点だった。それは夢見の体験に似ています。この迷宮は一から十まであなたの想像の産物。迷路が行き止まりになっていたのも、あなたが外の世界に出たくなかったことの現れでしょう」
なるほど、だから非現実的なほど広大だったのか。
両親が会いに来ないのは、自分が身内すらも拒んでいたからか。
「でもあなたはNPCじゃないわ。私が知らないことを教えられる、それが想像の産物とは思えない。あなたは何者なの? なぜ私に何年も付き合っているの」
「私だけが、あなたに呼びかけられる可能性があったからです」
家庭教師は言い、黒の帽子を胸に当てる。
「あなたは数年の間、昏睡状態が続いています。原因は睡眠薬による自殺未遂のため。医学の粋を集めても、あなたの目を開かせることは出来なかった。あなたは生きることを忌むかのように眠り続けている。私は己の治療法をあなたの両親に売り込み、治療を買って出たのですよ」
「それを思い出させて、それで私を救ったことになるの? しょせん世界は有限であり、人口圧力といういかんともしがたい問題が我々を永遠にさいなむ。神は誰も救わない。救った瞬間にこれまでの無能を認めてしまう。私が永遠に拡張世界の中にいて、誰に何の不都合があるというの。ロッグフェル家の財力ならそのぐらいは何の負担でもないはず。お父様も私を疎んじていた。あまりにも私が他の子供達と違うから」
「いいえ、あなたは子供ですよ。愛されるべき子供です」
家庭教師は言い、ノーは強い目で彼を睨む。
「あなたは何がしたいの。私と私の両親に取り入って、ロッグフェル家の財産でも得ようというの? 言っておくけれど、貴方のような覇気のない男に踏み込める城ではないのよ。きっと後悔する羽目になるわ」
「財など無用です」
家庭教師は少女の腕を取り、その骨と皮ばかりになった手に体温を伝える。
「私が欲しかったのはあなたの頭脳です。そのあまりに非凡なる頭脳をこの世に呼び戻したかった。だから拡張世界で数年をあなたとともに過ごしたのです。あなたならば、きっと私の願いを叶えてくれる」
「願い」
「私の手掛けているプログラム。それは人類の生み出した演算力を一手に集約させるプログラムです。それをあなたに行使していただきたい。それは岩を打てば水が噴き出し、海にかざせば海を割る神の杖なのです。あなたならばきっとそれを有効に使ってくれる。人類の次なる道標を示し、脆弱なる我々を導いてくれると信じています」
「ふざけるな」
少女は弾かれたように上半身を起こし、目の前の人物の襟を掴む。
風景が一変している。
ここは広大な屋敷の一室ではなく、白く簡素な病室。自分は体に様々なコードを接続され、無数の機械によって管理されていたようだ。部屋の奥にはホワイトボードのようなものも見える。
目の前の男は黒衣の家庭教師ではなかった。同じ顔ではあるがワイシャツ姿のくたびれた中年男に過ぎない。この男はベッド脇に座り、日に何時間か拡張世界に潜り続けていたわけか。
男は目を開けると同時にTジャックを引き抜く。それを見て己も口腔内のTジャックを吐き捨てた。
男は動きを止めている。
ノーは男の襟首を掴み、その痩せ細った腕で力任せに引き寄せる。
その眼こそは無限の感情であった。測り知れぬ感情の極彩色。怒りと歓喜、理性と混沌、虚無と永遠。己ですら定義しきれぬ無限の色彩が渦巻いている。
「私が神にでも見えるの? 私はただの人間。この世から逃げ出した哀れな小娘に過ぎない。頭が少しばかり回るからと言って、世界を背負うようなエゴイズムなど持ち合わせていない。それに何よりも許しがたいのは、その眼よ」
「……」
「その眼は何なの? あなたの眼には何の親愛もない。あの場所で何年も共に過ごして、愛情の欠片も抱かぬはずがないのに。あの屋敷で過ごした数年の日々は、それが全てあなたの目的のためだというの? あなたにとって私はただの道具、そんなことは許さない。ロッグフェル家の家名にかけて、そして私の人間としての誇りにかけて許しはしない」
「……」
「この私の頭脳を、人生をあなたの目的に利用することは許さない。どうしても手に入れたいのなら、あなたも人生の一部を支払いなさい」
「……私に、何をしろと?」
その男は。
無限にも思える才能を宿していた男の眼には、わずかな困惑の色しか見えない。
この男を御するのは簡単ではないだろう。この男は何も求めてはいない、だから彼を制御するための手綱をかける場所がない。この男は財産にも、才能にも、コンピュータにも本当は関心などないのだ。自分が何をしたいのかすら知らないのだから。
その眼を正面から睨みつけ、ノーは言う。
「迷宮を創造りなさい」
「迷宮……」
「情報は一定のアルゴリズムを通すことで、自己整合性を持って自律する。莫大な情報を流し込めば、それが即座に迷宮に変わるようなプログラム。あなたが完全なものを作りなさい。あなたが人材を求めるなら、まずは試練を生み出さねばならない。それこそが迷宮。あたかも陰森凄幽の樹海や、永永無窮の城塞を創造することに近い。それはそれ自体が人間への試練となるはず。走破する者が心技体を、歩んできた人生のすべてを問われるような迷宮を生み出すのよ」
「……はい」
男はつぶやくように答える。
ノーはその眼の奥に灯火を見た。それはあたかも、この世の全てに絶望していた枯れ木のような男が、生まれて初めて見出した希望の灯台、意志の光であったように思える。
(戻ってきてしまった)
ノーはふと窓の外を見る。空の光、都会の町並み。当たり前のような現実の風景。
結局のところ、あの庭園にも神などいなかった。人に神など生み出せぬ道理か。人間の想像力で人間を超えたものは生み出せないのか。神を求めるならば、人間を超えねばならないのか。
(あるいは、自らが神に……)
その想像はあまりにも恐ろしく、尊大に過ぎる想像だった。
だからノーはその考えを心の奥底に沈め、それから一つ大きく息を吸い込むと、涙腺から涙を流し、男の胸に顔をうずめ、その服を引きちぎらんばかりに握りしめて泣いた。
それは生まれ落ちた赤子のような、最後の時を迎えた罪人のような。
あらゆるものを受け入れたがゆえの、あるいは全てを拒もうとした果ての、終わりのない号泣だった。
Tips 迷路と迷宮
はるか以前においては迷路と迷宮は区別されていた。
迷宮の定義としては全ての道がひと繋がりであること、構築される施設の面積すべてが使われることなどがある。時代が下るにつれて迷路と迷宮は混同されるようになり、一世紀ごろには同じような意味として扱われるようになった。




