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迷宮世界のダイダロス  作者: MUMU
幕間 旋紫卍紅の花園
63/126

幕間 3



「左手をずっと壁につけたまま歩くというのは確かに有効だけど、ループ構造には対応できないわ」


淡い紫色のサマードレスを着た少女は言い。庭園の生け垣を見上げる。


「極端に言えば迷路が二重の円で構成されていた場合、内側の壁に手をついてスタートすれば、永遠に外側の壁に行けずにぐるぐると壁を回り続けることになるわ。これを防ぐには、歩きながら何か目印を置いていけばいい。自分の置いた目印を壁と見なして、ループを発見するのよ」

「そうですね。よくお気づきになりました。それがトレモー・アルゴリズムといわれる迷路の走破メソッドです」


家庭教師の男はそう言い、帽子を押さえて杖を突きながら歩く。家庭教師はいつも物静かに話し、足取りはゆるやかで所作の一つ一つが重い。外見はまだ若いようにも見えるが、内面に(おり)が溜まるように歳を取っている、少女はそのように思った。


その屋敷は丘の中腹にあり、広大な庭園を見下ろすように作られていた。屋敷に近い場所には噴水や花壇、動物の石像などのオーナメントが配置され、敷地をぐるりと取り囲むのは生け垣の庭園である。


「私はね、迷路を迷路たらしめるのはプログラミング的な美しさだと思っているの」

「はい」


家庭教師の男は曖昧に頷く。二人は庭園に配された白木のあずまやの中で、プログラミングに関する技術書を突き合わせて話している。


「迷路というのはいくつかの折れ曲がった線で表現することができるわ。長い直線を小さい範囲にきゅっと折り畳めば迷路となる。必ず走破できるという約束の上で構築される、複雑怪奇な迷路。そこには数学的な美しさがあるの。プログラムも同じでしょう? 必要な情報を、いかに短い構文の中に折り畳むことができるか、それが問われているの」

「その通りですね」


少女は年の頃なら10代前半、まだ世のけがれを知らぬような無垢な顔立ちと、世の全てを理性で解き明かすような叡知の瞳を持っていた。少女はこの庭園において万能であり、それゆえに世界に対して傲慢でもあった。


屋敷に対して庭園は遥かに広く、屋敷は大海原に浮かぶ笹舟のようだった。その中には廊下と言わず広間と言わずコードが這い、冷却装置の立てる低い駆動音と、サーバールームから聞こえるかちかちという電子音だけがひそやかに響く。


「お父様の推薦だけあって、あなたなかなか優秀ね。授業は分かりやすいし、何も見なくてもすらすら言葉が出てくるし」

「ありがとうございます」


家庭教師は少女に自然科学や歴史、数学や医学、修辞学や建築学、動物行動学や哲学まで幅広く教えていた。専門はプログラミングとのことで、少女もそれに興味を覚えるようになった。

いつしか屋敷にはサーバールームが置かれ、廊下を這うコードによっていくつかの部屋が関連付けられる。

屋敷には掃除夫に料理人、庭師に音楽家までおり、少女には外に出る以外で不自由は何もなかった。キーボードを軽快に叩きつつ、脇の家庭教師に言う。


「オンラインでいくらでも資料は見られるけれど、やはりサーバーマシンは実地で運用してみたいものよね。設置場所の物理的条件まで考慮したいもの」

「申し訳ありません。この屋敷から外に出ることは」

「お父様はそんなに不安なのかしら。英国の民話のように私がどこかの野原でトゲを踏んで、足の踵が膨らんで妖精を産むとでも言いたいの?」

「ここを出ていくには、条件を満たしさえすれば」


家庭教師はそうとだけ言い、窓の外を眺める。


「あの迷路でしょう? 意地の悪い話よね。あんなものまで作って」


欧州の庭園などには生け垣の迷路が見られる。それは庭園を散策するものに刺激と面白味を与え、どこか見知らぬ場所に迷い込んだ時のような異化効果を与えるという。

この屋敷の迷路、それは本当に広大なものだった。人の背丈ほどの生け垣に、土壁や煉瓦の壁もとり混ぜた混沌の迷宮。いくつかの丘を越えて風景の果てまで続いている。

色とりどりの花垣。よく手入れされた獣の形の植木。数多くの噴水に無数のあずまや、ローマ風の彫刻も、ギリシャ風の円柱やアーチもある。

仕掛けとしては内部が迷路になっている離宮、一方通行の扉、日の傾きによって移動する立体交差まで存在する。


「世界で最大の庭園迷路は中国にあるらしいけど、それは広さ35000平方メートル。あれは目視できる範囲だけでもその倍はあるわ。お父様の趣味らしいけど、お金をかけすぎじゃないの」


迷路を自分の足で出たなら、外の世界へ旅立つことを許す。

それが父の言葉であり、少女をこの屋敷に閉じ込めている戒めの言葉でもある。


学校へも行かせず、世間の目にも触れさせずに幽閉する、そんなことが不自然で無くなるほどには巨大な家名なのだと、少女はいつしか理解していた。


何度か出ようとしたことはある。

ランチバスケットを持ち、コンパスとタブレットPCを持って歩くこと数時間の冒険、最後はいつも庭師の誰かに助けられた。


「生け垣は定期的に植え替えられているし、庭師たちもほとんど住み込みだし、もしかしてゴールまで続く道が存在しないんじゃないの?」

「そんなことはありませんよ」


家庭教師は端的に言う。


「だとしても女の足で歩ける距離ではないもの、何か考えないといけないわ。ねえ、機械工学の本を取り寄せて」

「はい」


少女は機械工学に取り組み、そしてそれは少女の脳髄によく馴染んだ。基本設計から行い、全てのパーツを細かく発注して、蟻のような小さなロボットを作り出す。


「ねえ見て、これを繁栄(ベスタ)と名付けることにしたの」

「蟻ですか」

「ええ、空間電位差と大気熱から電力を取り出して稼働するのよ。しかもユニット状に組み合わさって、あらゆる機能を生み出すの」


少女は蟻たちに呼び掛け、黒い一団は鼠のような小動物になったり、鳥のように部屋の中を飛び回る。


「芸術的です」


家庭教師は短く称賛する。少女はもっと盛大な拍手を期待していたので正直なところ拍子抜けだったが、自らの仕事ぶりに満足したかのように深くうなずく。


「これで迷路を脱出しますか?」

「まだよ。あなたの授業をもう少し聞きたいもの」


庭園に囲まれた屋敷。ここに幽閉されて二年も過ぎる頃には、少女の興味はおもに家庭教師の語る講義に向けられていた。


「つまりプログラムの自己秩序化、それによって拡張世界の安定化が狙えるのね」

「そうです」


「演算力の集約と並列処理はもっと効率化できるはずよね。やはり最少演算素子にさかのぼって統制すべきかしら」

「そうです。その場合、チップ単位での演算性能をなるべく揃えるようなソートを……」


「全感覚投入における思考と感覚のラグって物理的限界を越えられないはずよね。最短距離のサーバーを経由させるしかないの?」

「いいえ、交感神経と脳内処理の限界速度は電子のそれより遅くなります。実際にはごくわずかに意図的なラグを生み出すわけですが、交通事故の瞬間などに見られるタキサイキア現象などを反映させる必要も……」


少女は確信していた。この家庭教師はおそらくは世界でも屈指の人物であると。

そして自分はプログラミングに向いており、彼の教示を受けられることは大いなる幸運であると思っていた。


「あなたってどんな企業に勤めてたの? それともフリーランスのエンジニアだったのかしら」

「私は何者でもありませんよ」


それは家庭教師の口癖でもあった。彼はまったく正体不明なところがあり、実年齢も不明なら人種も不明。東洋人のようにも見えるが、話す英語にまったく淀みがない。家族はいるのか、趣味はあるのか、それもはっきりとしない。


「専門は3Dマッピング? それともシステム管理?」

「求められれば何でも」

「おかしな人ね。いくら私がロッグフェル家の娘だからって、家庭教師ぐらいでそこまで報酬があるとも思えないわ。あなたはエンジニアとしての腕を売り込むべきよ。大企業の基幹システムでも、一国のインフラでも何でも作れるでしょう?」

「私には荷が重い仕事です」

「野心はないの?」

「さあ……あるのかどうか。多くを求めたことがありませんので……」

「ふうん」


そういう人間もいるとは理解している。優れた力を持ちながら、世の中に埋没している人間だ。

彼らがもっと力を振るえば、世界は変えられるはずなのに。

世界は今日も変わらず淀んでいるのだろうか。ラジオから流れるニュースは今日も昨日も変わらず、きっと明日も変わらない。


だから(・・・)私は(・・)


「……?」


今、自分は何を考えただろうか。

何か思い出しそうになったが、それは電車の窓を通りすぎる錆びた看板のように、一瞬の後にはかき消えてしまう短い言葉だった気がする。


「まあいいわ。家庭教師をやるならやるで、しっかり授業しなさい」

「はい」


さらに一年ほどが経ち、少女は少しずつ成長のきざしが見られた。肉体的にも、あるいは積み上げた知識が華開くという意味でも。


「完成したわ。私の作った拡張世界よ」


それは海底に沈む中世の城。床の割れ目から無限に気泡が生まれ続けることで生存空間が確保され、プレイヤーはひときわ高い七階建ての尖塔から入り、最下層を目指すことになる。


「プログラムはわずか2万4千行。処理は極めて軽く作ってあるわ。「海内殷宝(かいだいいんほう)水宮(すいきゅう)」と名付けたわ」

「見事な迷宮です」


家庭教師はそうとだけ言って佇むのみだった。少女は少なからず憤慨したが顔には出さず、澄ました顔でそっぽを向く。


「それと、お父様へ言っておいて、あの迷路はインチキよ」

「と、言われますと」

「ついてらっしゃい」


少女は家庭教師の手を引き、屋敷を出て、庭園の入り口まで至る。大理石のゲートの向こうは生け垣の迷路であり、遠くには庭師たちの働く姿が見える。


(ベスタ)でくまなく調べたもの。この迷路には出口がないわ。すべての通路は行き止まりになってる」

「そんなことは無いと思いますが」

「何度も確かめたもの。言っておくけど(ベスタ)はもう階段だって上れるし、扉も開けられるのよ。水路をボートで行く仕掛けも、生け垣がよく見ると扉になっている場所も気付いてるわ。それをすべて考慮しても出口は無いの」

「あります」


いつになくはっきりと断言するような口調に、少女はちょっと面食らう。目を見開きつつ口を尖らせる。


「なぜそう言えるの」

「それはですね、あなたが(・・・・)設計した迷路だからですよ」


またも驚きを顔に出し、少女は声をやや甲高くして言う。


「私が?」

「はい、覚えておられないかも知れません。しかしあなたはごく幼い頃から、迷宮の迷宮たりえる秩序を理解していた。走破できない迷宮があってはならないと体得しているのです。そしてお父様との約束通り、あなたの足で迷路を出たとき、あなたは自由を得られるでしょう」

「……信じられないわ。私がこの庭園を……」


家庭教師は黒の帽子を脱ぎ、それを自分の胸に当てて、うやうやしく頭を下げる。


「お嬢さま、迷路の出口をどこへ求めるか、それを考えてみることです」

「出口?」


「はい、目に見えるものが全てではなく、知ることのできる全てが情報ではない。ゴールとは目に見えるものとは限りません。それを見つけることです」

「それは何かのとんちなの? 例えばゴールとは私の将来とか進路の比喩で、私が将来的にやりたいことを見つければ、あなたがそれをお父様に報告して、ここから解放するとか」

「さあ……」


家庭教師は曖昧にうなずく。段々わかってきた。彼がこのような反応になるときは、例え何時間詰問しようと口を割らない時なのだと。


「……いいわ。じっくり考え直してみましょう。それと、私はもう出ていく決意を固めたから。籠の鳥のようにお嬢様と呼ばれたくないわ。ノーと呼びなさい」

「はい、ノーお嬢様」

「お嬢様はつけるのね、まあいいわ、職責との妥協点というものでしょう」


ノーは両腰に拳をあて、広大な庭園を見渡しつつ言う。


「名前がないと不便ね、名付けましょう」

「はい」


「そうね、旋紫卍紅(せんしばんこう)の花園、とでもしましょうか」
















Tips トレモー・アルゴリズム


迷路を解くためのアルゴリズムの一つ。トレモー法、拡張型左手法とも言われる。チョークの粉のような目印を置きながら歩き、行き止まりか、自分の残したチョークの跡にぶつかった場合は引き返す。あらゆる迷路を解くことができるアルゴリズムとして知られる。

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