第八章 7
『ミズナさん、聞こえてますこと』
亜里亜の声が届く。
『こちらは閉じ込められましたわ、もう少しもがいてみますけど抜けられそうにないですわ、ケイローンに気をつけて……』
閉じ込める……。ではケイローンは封印できるような創造を駆使する走破者だろうか? 大量の土砂とか、コンクリートなどを……。
「……大丈夫よ亜里亜、もう迷宮はクリアした。あとは演算力を手にするだけ」
『いえ、それでも気をつけて……何か妙ですわ。ケイローンは何も生み出していないのに、迷宮が、急に……』
何も生み出していない?
妙な話だが、確かにまだケイローンの能力は見ていない、警戒すべきだろう。
だがすでにゴールプレートは獲得寸前だ。ケイローンはまだ駆けつけていない……。
ど
そんな音がする。
「え……」
NPCであっても擬似的な人格があるのか、サラ夫人は短い声を漏らし、奇妙な顔をして脇腹のあたりを見る。
そこに刺さっていたのは、言うなれば透き通った矢。
その内部は空洞であり、薄桃色の液体で満たされている。それがごぼごぼ音を立てながらサラ夫人の体内と接続し、じわりと赤い血と混ざりあっている。
薄桃色の液体?
「まさか!?」
変容は急激に起こる。サラ夫人の顔が真っ赤に染まり、首元の血管が浮き出て激しく脈動する。舌が飛び出して目は白目をむき、喉の奥からかすれるような叫びを上げる。
「ネクタルの秘密を知った、と言いましたね、お嬢さん」
ケイローンが早駆けでやってくる。サラ夫人の叫びに呼応するようにこのドーム全体が震え、天井を埋め尽くす屋敷がずり落ちて落下してくる。
「くっ……!」
床の樫材にぶちあたって破片を撒き散らし、高速回転する石材やガラスが私たちの足元に突き刺さる。回避しようにも破片のすべては把握できない。
ケイローンは右方、まだプルートゥを封印している屋敷を一瞥して言う。
「それはネクタルの一面を見たに過ぎませんよ。苦痛を取り去る麻薬。精神を移動させる器。それは必ずしも正しくない。それでは神秘性には足りない」
サラ夫人の周囲から屋敷が打ち上がる。デザインも大きさも様々な数十もの屋敷。それが人形の家を投げるように投擲されているのだ。ゆっくりと回転する質量の狂気。このドームの天井まで打ち上がり、そのままの形で、あるいは万の破片に砕けながら落下してくる。
「ぐっ……龍哭!」
私は後方に龍哭を打つ。築かれる谷間の道。その上にさらに屋根のように岩を出現させる。しかし降り落ちる屋敷はとても耐えられる重量ではない。岩の道は私が駆け抜けた直後に圧壊する。
「面白い技です、持てる演算力を最大限に使えている。ですが。しょせんは自分の演算力を使っているに過ぎない」
ケイローンが腕を振り上げる。そこに出現するのは小型のボウガン、やはり透明な矢をつがえており、よく見れば先端部と矢柄で質感が違う。おそらく先端のみがガラスで矢柄はアクリルか何かだろう。刺されば先端が割れて、ネクタルと標的が触れあう原理か。
「ネクタルとは生体コンピュータなのですよ。入力されるパターンに応じて自己を変化させる特殊なタンパク構造なのです。それは接続された構造を模倣する。人間と接続されれば脳を模倣し、拡張世界においては薬効として作用する、このように」
矢を地面に打つ。樫材の床とネクタルが触れあい、その分厚い樫材が歪み、きしみ、水面が渦を巻くようにねじれ、そして板材が剥がれたかと思うと、それはジャングルジムのような立体構造となってあっという間に成長する。
「天塩創一氏の迷宮とは自動生成なのですよ。ひと握りの情報を種とし、それは自己を複雑化させつつ成長し、フィールドを生成する。しかし必ず人間が走れるように最適化されるのです」
ならば、ケイローンが操るものは迷宮そのものか。
この拡張世界の真理に肉薄し、構造を変異させるタイプの走破者、そんな存在がいたとは。
「ケイローン!」
私は彼に迫る。だが板材そのものが迷宮化し、その姿を覆い隠して近づけない。
「迷宮は矢を受けるごとに複雑さを増します。止める方法は簡単ですよ。サラ夫人に刺さった矢を抜けばいい。しかし貴女にそれができますか」
邸宅が噴き上がるという驚天動地の眺め、それは地面に突き刺さって砕け、あたりを瓦礫の山に変えていく。もはや走ることはおろかサラ夫人の姿すら見えなくなりつつある。
『ミズナさん! 床下から地面を掘って行きましょう。そこは屋根の上に増設されたドームです。おそらく下は屋敷の内部になっているはず』
「駄目よイカロ、ケイローンは足元の矢を引き抜いて樫材の防御を解除できる。アレイオンの足なら家をかい潜ってサラ夫人のところまで行ける。今はまだ私の妨害を警戒してるだけ」
『で、では、なんとか今の状態でサラ夫人のところまで行くしか……』
それは不可能だ。
落ちてくる家だけではない。足場が安定しない板材混じりの瓦礫の上を、左右から建材の破片が飛んでくる中を走るのは無理だ。空山龍哭で道を作ろうにも、降ってくる質量が大きすぎる。
だが。
「大丈夫よイカロ。もう道は見えてる」
『え……』
イカロがあぜんとした空気を放ち、ケイローンも無言ながら警戒の気配を見せた。
実に皮肉なことだ。最後のヒントをくれたのはケイローンなのだ。彼が床に打ち込んだネクタルの矢、あれが示唆だった。
私は床に手をつき、意識を統御する。
表層の意識と深層意識を切り離し、深層意識は心の奥底、原風景たる場所とリンクさせる。
迷宮世界。これは手持ちの演算力すべてに訴えかける技。一瞬でもあの威力だ。忘我の中で私の心は無に近くなり、心の奥底から沸き上がる言葉が舌先で踊る。
「山は無垢にして人影もなく、谷渡る雲は空龍の尾、龍は哭いて山々に響き、その背骨は山嶺となり……」
もし意識を深層と完全にリンクさせ、十数秒も演算力を励起したなら。
「空山龍哭の――」
そして迷宮のデータの隙間に、そのすべてを注ぎ込んだなら。
「――迷宮!」
瞬間。足元から広がる力の波動。
前後と言わず左右と言わず突き上がる岩、創造の瞬間だけは人を傷つけず、世界を書き換えていく迷宮の風。
これが私だけの迷宮、迷宮世界。
「な、に……」
一陣の風のあと、ケイローンはそこにいた。
彼の足元は土となり、周囲には車のように大きく打ち上がった石板。
私の周囲、半径百メートルあまりで迷宮が書き換えられている。岩と砂で構成された世界で、谷間を走る迷宮だ。床も消え瓦礫も消え、サラ夫人の足元のあたりまで書き換えられている。
私はすかさず走り、まだ悶え苦しむサラ夫人の脇腹から矢を抜いた。
「ぐっ……う」
黒衣の老夫人は脱力して私にもたれかかる。
サラ夫人の足元はまた樫材の床に変化していた。私が迷宮そのものに干渉できたのは一瞬だけだ。やがてまた元に戻ったのだろう。
「お見事……どうやら本当に私の負けのようです」
ケイローンはアレイオンから降り、その鼻面を撫でる。こちらに歩み寄る気配はない。まだゴールプレートは出現していないが、争う気が失せたということだろう。
「プルートゥ、もういい、あなたはログアウトしておくように」
「はい」
プルートゥの短い返事が聞こえたが、彼女が閉じ込められていた屋敷はそのままだ、いちおう警戒だけはしておこう。
「お嬢さん、いえ……ミズナさん。その技は何という名なのです? いったいどこでそれを?」
「……技の名は迷宮世界。教わったのは、ちょっと、ある人にね」
黙っていることを少しだけ心苦しく思うが、まだイカロがモニターしているはずだ。まず彼に説明するまで、誰かに明かすべきではないだろう。
「興味深い技です。その技をこの眼で見られたことは、赤文字クリアに匹敵する収穫でした」
「……」
彼もまだ、演算力のすべてを失った訳ではない。今日の戦いが禍根となることもあるだろう。あるいは彼なら、一度見た技などすぐに身に付けてしまうかも知れない。
……だけど、まあ、それでいい。
そのように思う。私しか使えない技で勝つなど、真なる勝利とは言えないのだから。
「その技は何といいますか……迷宮の根底に関わる技のような気がしますよ。世界の真実に肉薄している。言わば究極の技術。もはやあなたに走破できない迷宮は無いでしょう。それが何を意味するか、お分かりですね」
「……」
「最後の戦い。そこに立つ権利を得たということです。おそらくそう遠くはない。オリンピアの方々の潰し合いも始まる。間違いなくね」
「そうね……」
この戦いがどれぐらい前から続いているのか知らない。しかし永遠には続かない。それだけが確信としてある。
この戦いは、所詮は過程なのだと。
最後の一人を選ぶための試練。いわば蟲毒に過ぎない。それもまた真実だろう。
「できれば私も最後の場に立ちたいものです。目的のためというより、一介の走破者としてね」
私の肩から重さが取れる。サラ夫人が起き上がったようだ。目だけを向ければきょとんとした顔をしていて、何度かまばたきをしてから薄い笑みとなる。どうやらプログラムが正常に戻ったか。
「またお会いしましょう、ミス・ミズナ」
「ええ、ミスター」
ケイローンは消える。
すべては終わり、あとはゴールするだけだ。
サラ夫人がわずかに微笑む、するとその像が歪み、幽鬼のように手応えを失ったかと思うと、胴部の一点を中心として渦を巻く。ラテアートをかき回して渦に飲み込むような眺めだ。
一瞬後に現れるのは、黒一色のプレート。
私はそれを拾い。
――ぱり
と、音がする。
「……?」
何か、
違和感が。
ラップ音のようなノイズが聞こえる。そして異変は視覚にも起きた。世界に黒い線が走っている。
古い映画フィルムに見られる「雨」のように、地形を透かして降り注ぐ線。
そして迷宮が、滅びを迎える。
Tips 生体コンピュータ
ここでは演算素子として細胞などの生物由来の物質を用いたコンピュータのこと。タンパク質の複雑な酵素伝達を論理演算素子として利用する。
演算装置の小型化や省電力化が期待されているが、研究は2020年現在、ほぼ形になっていない。




