第八章 4
「迷宮……世界?」
「そうです、あなたの国の言語ではメイキュウセカイ、とでも呼ぶといい」
ノーはこの石造りの地下室で、足元の何かをすくいとるような動作をする。
「この場はすべて、神の泥たる演算力にて構築されています。髪のひとすじ、一握の土くれさえも」
「まあね」
「私たちは部分的にこの世界に干渉する。猛き足による走破で、あるいは物質の創造で、わずかではあるけれど、それはこの世界を意思の力で書き換えるということ」
「……」
「しかし人間の想像力では、世界を限定的にしか書き換えられない。それは蛇口のようなもの。持てる演算力の一部しか注ぎ込むことができない」
「それはやり方によるでしょ、強力な爆発物を出すとか、大量に水を出して迷宮を水没させたやつもいたし」
ノーはわずかに首を振る。浮世離れした冷たさがあるが、本当に人形のように整った顔だ。彼女はいったい何歳なのだろう。イカロの母親のはずだから、30を過ぎているのだろうか。
あるかなしかの口元の動きが言葉を紡ぐ。
「あなたは物質を出すとき、それを目の奥に意識している」
「意識というか……イメージはしてるけど」
「迷宮世界とはすなわち、イメージの手綱を放すこと。何を創造し、何が起きるかを手持ちの演算力に委ねることです。脳の深奥にて直接に演算力を励起させ、モノではなく世界を呼び出す、それが迷宮世界の概念」
「ブルース・リーの話がしたいの? 考えるな、感じろっていう」
どうも言葉が強めになってしまう。いや、それ以前に私はこの人物に教えを乞うていいのかという疑問もあるけど。いつぞやは500億ドルで迷宮から手を引けと言ってきた人物なのに。
ノーは動じることなく、静かに私を見る。
「あなたの精神が、世界の呼び水となる」
「……」
「それは脳の構造そのものに似ている。莫大な演算力にて世界を呼び出すとき、それは情報の巨大さゆえに自己の重力で圧縮され、自分自身を内側に折りたたもうとする。しかし人間が干渉する前提である以上、必ず走破すべき道が生まれる。これが迷宮の創造。迷宮とはプログラムの自己自律という現象。それは世界の雛形」
「……半分も理解できないわ。あなたも理解させるつもりで話してないわよね。それで、どうしろって言うのよ」
ノーはかるく手を振る。現れるのは鎧を着た騎士の像だ。全身がにび色に輝き、槍を腰だめに構えている。フルフェイスの兜の奥には何もない。暗闇だけだ。
鎧は全身から金属音を奏でつつ、私の真正面まで来る。二メートルほどの槍がぴたりと私に向けられる。
「その騎士は、およそ60秒に四度、あなたを刺突する」
「ちょっと」
「演算力で盾を出して防ぎなさい。ただし、どのような物体も一秒以上持続させてはいけない」
その槍は太さ3センチほど。まっすぐ私の胸の中心を狙っている。心臓を直撃するかどうかは分からないが、イカロのサポートが切れている今、一撃を受ければログアウトは免れない。
「そしてあなたの原風景を想いなさい。心の最奥にある風景、長き歴程の最初の一枚。最も古い情動の記憶。それがあなたの迷宮。この世界に呼び出されるとき、名前が付与されることでしょう」
「……何のつもりなの。私を鍛えてケイローンと戦わせる、そこまでは分からなくもない、でもなぜイカロとの通信をジャミングするの。きっと心配されてるわ。迷子になったなんて何年ぶりか」
「イカロは、私の協力を拒むでしょう」
「……」
二人の間に何があったのか、ここで問い詰めておくべきだろうか。しかし素直に言うとも……。
瞬間、騎士の槍が迫る。私は胸の前に岩石を出現させ、槍に押されたそれが胸にずしんとめり込む。
「ぐっ……」
何とか防いだ。今度は地面から伸びる墓石のような岩にすべきか。
「こんなことしてるヒマあるの……? 走破者たちが続々と集まってきてるはず……」
「赤文字の迷宮は簡単には走破を許さない。しかし1時間。それだけの練磨で行使できないなら、おそらく生涯身につけることはない」
がき、と地面に杭のようなものが突き刺さる。ご丁寧なことに砂時計だ。大きめの瓢箪の中をさらさらと透明な粒が落ちている。
「期待しています」
そしてノーの姿が消える。
隠形の蟻を使ったようには見えなかった。ログアウトしたのだろう。言うだけ言ってあとは私に任せるつもりだろうか。彼女自身は走破も、ケイローンの撃破も目指さないと……。
それとも彼女は、走破者同士の戦いとか、迷宮の走破とは無関係な存在なのだろうか。そんな風にも思えたが、もはや確かめるすべもない。
「……こういう泥臭い特訓、嫌いじゃないけどさ」
槍の一撃。瞬時に生まれる板状の岩がそれを受ける。
「トレーニングなら効果とか原理とか、丁寧に説明するのが現代の常識だっての……」
私は足を肩幅に開いて腰を落とす。私の動きに反応したのか、鉄の騎士もわずかに槍を落とす。やはり心臓を狙っているのか。
「私の原風景……? それは、父さんと母さんに訓練を受けて……」
そう、両親は私をメダリストにしたかった。
だから短距離をはじめ、格闘技に水泳に、投擲や馬術まで教わったのだ。
生まれたときからやっていたのかと思うほど、子供の頃の記憶はそればかり。心地よい疲労と記録が伸びる達成感はあったけれど、深い感動というのとは少し違う気がする。
そして山歩きにも出かけた。まだ小さい体で巨大なザックを背負い、父と一緒に剣が峰を縦走した。思えばあれだけは私を鍛えるというより、父の趣味だったような気がする。
「っ!」
岩が槍を弾く。
危なかった。数秒だが思考に沈んでいたのか。
「というか……こんな状態で集中できるはずが……」
どうしろというのか。座禅でも組めと言うならまだ分かるが。
とにかくもう一度、私は子供の頃……。
※
「ミズナ、あれが不見キレットだ」
父はガイドストックで先を示す。
それは雲海に浮かぶ吊り橋のようなM字構造。二つの剣が峰の間に大ぶりの岩で構成された稜線があり、深く落ち窪んだ岩場となっている。そこは岩登りを要する最難関ポイント。大ぶりの岩は私の手足にはまだ辛い。父が先に立ち、慎重にルートを確認しつつ進む。
「難しくはないよ。慎重に、足を置いて岩が動くかどうか確認しながら歩くことだ」
岩を掴む紅葉のような手、足場を探る短い脚、岩にへばりつくようなおっかなびっくりの岩登りだ。真上にいた父がふと背中側を振り返る。
「ミズナ、谷がきれいだよ」
私も鎖をぎゅっと握って振り返る。
それは見事な谷間の風景。草地と岩場がマーブル模様を描いて流れ、数百メートル下がった谷間には雲が流れている。白い筋状の流れがとめどなく続いている。谷に強い風が吹いているのだ。向こう側の山並みには日が強く射し、緑を色濃く浮かび上がらせる。谷は西側に下りながら続き、そこに緑と白がぐんぐん吸い込まれていくように思える。
そして視線を上げれば、長々と連なる尾根の眺め。
あれは日本アルプスだったろうか、八ヶ岳だったろうか。
美しさもさることながら、私は数キロ先にあるその尾根が、ひとかたまりの生き物のように思えた。剣のような背びれをはやし、数万年前からその場で眠っていたのではないかと思える巨大な龍だ。
龍は眠るうちに石となり、苔や丈の短い草などを茂らせ、時の流れと無関係な存在となって永遠に眠るように思えた。そしてまだ現役の若い龍たちが、谷間を雲と風を引き連れて飛ぶ。そうだ、ここは龍の国なのだと、そんな子供っぽい想像が浮かぶ。
「ミズナは山が好きなんだな。山を見ているときのミズナは、目がキラキラしている」
うん、好きだよ。
そう、そのときの、父の顔は……。
※
石の床に血が流れる。
「ぐ、う……」
一度、1センチの深さまで槍の侵入を許した。反射で後方に飛んだものの、もろに槍を受けたのだ。出血は当然だろう。
内的な集中が、維持できない。
山の風景、鎖場の手触り、肌に触れる風、そういうことを思い出そうとすると槍への反応が遅れる。それは私の記憶のかなり深い場所にあり、片手間に思い出せるものではないのだ。
「む、無理って言葉、好きじゃないけど、こんなの……」
矛盾している。
深層心理の奥底まで潜る行為と、この槍への反応はまったく相反する仕事だ。
岩を出す時間は一秒以下、その枷を忘れてしまいたくなる。
あと少し。
そうだ、あと少しだ。それは見えている。
私の原風景はきっと登山なのだ。岩を出すという能力からもそれは分かっている。
そして人生で最も美しいと思った風景は、あの日、父との登山で見た不見キレットからの眺め、それも分かっている。
私はそこに何を見たのか、私の感動はどれほど深かったのか、父はどんな顔をしていたのか。
それは一瞬では思い出せない、ひと目では把握できない巨大な絵のようなもの。じっと心を沈めて、記憶の海に潜らねばならない。どうしても、数十秒かかる。
「片手間で考える……? 脳の右と左で別々のことを……いや、違う」
この訓練の目的は器用さとは違う。
ではあるいは、眠りのイメージだろうか。
意識から他のすべてをシャットアウトして、強く目を閉じて眠るように記憶に落ちていく。瞬時に。
いや、それも少し違う。
槍が突き出されるタイミングはまったくのランダム、一度受け止めてからすぐに記憶にダイブしたとして、その瞬間に槍が来ないという保証がどこにもない。
「それなら……」
答えは一つ。
槍への反応を、脳で行わない。
私は手を突き出す。まっすぐ80センチほど前、槍に触れる場所まで。
そして岩を生み出すイメージ、それを心臓の前に固める。
これはいわゆる脊髄反射。熱い湯に触れたとき、反射的に腕を引くあれだ。
あれは脳を経由していない。熱い、と感じた手の神経は脊髄にそれを運び、脊髄はすぐさま「筋肉を曲げる」という命令を返す。そして筋肉が屈曲することで腕が引かれる。
とっさに腕を引く、あるいは飛んできたものを跳ね除ける。
それを考えているのはいったい「誰」なのか。
意識しない自分、意識の外の自分、それに命を預ける。
外の自分と内の自分を、完全に切り離す。
そして私は目を閉じる。
光すらも邪魔。五感のすべてを追い出し、そしてあの日、あの谷に静かに潜っていく。
空間が広がる。
肌に触れる風を思い出す。陽の光を思い出す。鎖と岩の手触りを、足の疲労を、ザックの重みを……。
――ミズナ
そう、あの谷には。
――聞いててごらん、谷が
――哭くよ
龍が。
―――空山龍哭の迷宮―――
「!」
はっと目を開ける。
私の前には、岩が。
連続して打ち上がるかのような巨大な岩。節理により鋭く尖ったプリズム状の岩。
それは目の前にあったはずの騎士の像を粉砕し、この広い地下空間の端までも届き、周囲にも林立して砂時計も砕き、天井までをも砕いて土砂や板材を降り注がせている。
「この言葉……」
空山とは誰もいない寂しい山、そこに龍がいる。
谷間をとどろくその鳴き声はすなわち谷の険しさそのもの。それは数万丈も続く巨大な谷、両側にそびえ立つ峻厳なる岩場のイメージ。
「……これが迷宮世界」
『――ナさん、聞こえますか、ミズナさん』
イカロからの声が届く。どうやらジャミングの機構はこの部屋自体に仕掛けられていたようだ。私がそれを破壊したために解除されたのだろう。
「イカロ、ちょっと他の走破者の罠にかかって閉じ込められてたの、もう大丈夫、脱出したから」
『ミズナさん、出血されてるようですが、どこかケガを?』
「ええ、ちょっと心臓のあたり、でも浅いから、とりあえず埋め、て……」
手に鋭い痛みがある。
そこに槍で突かれた跡があった。精神衛生上、傷の詳細は語らないが、まあこれもイカロに塞いでもらおう。
私はその拳を一度ぎゅっと握り、その手に掴んだものを意識した。
「……お父さん」
そして思い出せてよかった。
それは本当に久々に思い出した、父の笑顔だったから。
Tips 脊髄反射
運動における反射行動のうち、反射中枢が脊髄内にあるもの。
一般的に意識の存在が認められる脊椎動物など高等な生物に使われ、認知や判断が介在しない現象である。代表的なもので膝の下の部分を叩くと足が上がる膝蓋腱反射などがある。




