第八章 1
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さらに数日。
世間のネクタルによるフィーバーは続いている。多くの競技で世界新が生まれ、特に持久走の世界は熱狂の風が吹き荒れていた。やはり世界新の連発が盛り上がらないはずはない。
だがダイダロスの分析は芳しくない。ネット上の「言葉」を眺めれば、弱者をいたわる言葉、誰かの死を悼む言葉、病を恐れる言葉が減少している。
世界は少しずつ形を変えている。それは空の色が少しずつ変わるような、世界から少しずつ猫が減っていくような、どこか物悲しい変容だ。
それが私の問題……つまりゲノム編集者の受け入れに肯定的に作用しているのは、歯がゆいほど皮肉なことだった。
「桃はだいぶ高騰してますわ、興味本意で鉢植えを買う人も減ってるはずですわ」
亜里亜が今日も編み物をしながら言う。やはりセーターのようだが、赤と青の二着があり、袖が紐状のパーツで繋がってる。これは何だろう。囚人を二人一組で拘束する服かな。
それはともかく、亜里亜の言うように桃の相場はかなり高騰していて、今はキロ3500円ほどになっている。鉢植えを買うハードルが上がっただけでも好材料と言えるだろう。
この買い占めによって中国に好景気の風が吹いていることも皮肉だが、今はそこを考えている余裕はない。
「どう、イカロ」
「はい、順調です。鉢植えはかなり押さえられています。ひそかに確保したのが4万鉢ほどです」
世界中に手を伸ばし、あらゆる手段で桃の生木を押さえる。実際に動いている人間も数万人に及んでいる。並の人間なら百人いてもやれる事業ではないが、ダイダロスはいったいどのような働きをしているのか、イカロの指の動き一つが数百もの電子メールとなり、腕のひと振りで数隻の船が港を離れる。
「ですが……やはりすべての桃を抑えるのは難しいです」
やはりケイローンの妨害もあるのか。だが、それを察することもできない。
ダイダロス同士の戦いは自己の隠蔽から始まる。
相手が何をしているのか、誰がどの程度の演算力で介入しているのか察することができないのだ。演算力の魔法というだけでなく、ゼウスの言ってたようにダイダロス同士は互いの企みを看破できないのだろうか。
「……次にケイローンが潜るまでまだ時間がある、仮にそれで勝ったとしても演算力を全て奪うことはできないし……」
「仕方ありませんわ。次の戦いまでに少しでも演算力を稼ぐしかないですわ」
「……」
やはり持久戦しかないのか、世界がその戦いの間にどれだけ……。
ぴぴ、と音がする。
「? 何? そのアイコン……」
私の言葉にイカロも首を傾げる。
「見たことは……いえ、ミズナさん、これはダイダロスからの呼び出し音のようです」
「ダイダロスから?」
「これはダイダロスのシステムアイコンです。商品マークのようなものですが、このマークで呼び出しをかけてくるというのは……?」
イカロは少し警戒しつつも、そのアイコンを展開させる。
その時。
視界が闇に塗り潰される。
いや、ダイダロスの画面が暗転したのだ。扇型に並ぶ三台すべてが。
そして奥から文字が来る。
画面に衝突するほどの勢いで現れるのは太ゴシック体の赤文字。石で出来てるかのようにひび割れている。それが一文字ずつ。三画面いっぱいを使って並ぶ。
―――雷火蜂群の業邸―――
江戸文字のように互いの隙間を埋める密集した文字。帯電して火花が散っており、文字が震えてダイダロス全体を揺らすかに思える。あくまでゲーム的な演出であると言えなくもないが、これまでの淡々とした表現とは異質だ。
「……なに、これ?」
「なんですの……? こんなの見たことありませんわ。今までの演出と全然……」
私のスマホが鳴る。
番号を確認。普段なら無視したい相手だが、おそらく迷宮絡みだろう。私は電話に出た。
「――ゼウス、どうしたの」
「ダイダロスの前にいるかい? 赤文字の迷宮が出た」
赤文字の迷宮……ゼウスはこれのことを知っている?
「これは何なの?」
「簡単に言えば超高難度の迷宮だ。僕の知っている限り4回出た。これで5回目になる」
「初耳よ……」
「前に出現してから三年経っている。もう出ないかもと思っていた」
私はスマホをハンドフリーに切り替えてから話を続ける。
「普通の迷宮とどう違うの」
「クリアまでの手順は同じだ。一つだけ明確に違うのは、赤文字の迷宮は中にいる全員がリタイヤを宣言しても差し替えられない。差し替えられる条件は分かっていない。誰かがクリアするまで残り続ける可能性もある」
誰かがクリアするまで……。
ではもし、誰もクリアできなければ、クリアできないままに制限時間が来てしまえば、全員が演算力を失う……?
「過去に出現した赤文字は誰がクリアしたの」
「一つは僕が、もう一つはポセイドンがクリアした。あとの二つは誰がクリアしたのか分かっていない、いつのまにか差し替えられただけかも知れない」
「……他には? 例えば特別な報酬があるとか」
「何もない。いつもと同じで数百台分の演算力だけだ」
「何よそれ、理不尽というか……これだけ演出しといて」
「ある走破者はこう言っていた。走破者にとっては迷宮こそが報酬だと。本来は演算力の奪い合いなど二の次であり、より高く困難な課題を乗り越えることに歓びを見い出せと、そういうことかも知れないな」
ゼウスはどうでもいいようにそう言い、脱力した様子が伝わる。
「あなたも挑むの?」
「あまりやりたくない。赤文字の迷宮には良い思い出がないんだ。出現する度にオリンピアに激震が走って、メンバーの入れ替わりや脱落が起こったからね」
「前の迷宮ってどんなものだったの」
「僕が走破したのは「朱殷荒神の十王」 簡単に言うと戦場を走り抜ける迷宮だが、フィールドが……何と言えばいいのか、全体がピラミッド状になっていて、最初が三国志時代、下の層へ行くと500年刻みで時間が経過し、それが全10層あるんだ」
「? よ、よく分からないわ」
「三国志の時代を西暦200年とすると、次が700年ごろの唐の時代、次がモンゴル帝国時代、次が清代、次が2200年ごろの近未来だ。電磁レールガンやロボット戦闘機が実用化されている」
「そこから五層あるの?」
「そう……最後の何層かは人間の想像を超えている。作動原理も分からない超兵器が次から次と襲ってくるんだ。入った瞬間に電子レベルまで分解されるので、上の層から無数の戦術核を打って空間を確保してから降りる、そんな世界だ。すべて走破するまで18時間かかった。現実世界の肉体にカテーテルとかを……まあともかく大変だったよ」
「……」
天塩創一の迷宮がぶっ飛んでるのは毎回のことだが、聞くからに広大さ、殺意ともに群を抜いている。それほどの難易度ということか。
「他の迷宮も話してあげたいが、ポセイドンは全容を語らなかったからな、参考になるかどうか」
「……いいわ、要するにこの迷宮も走破すればいいんでしょ」
「ミズナさん、やりますのね」
ゼウスは私の挑戦の意志を聞いて、それならば、という雰囲気で話す。
「おそらくだが、ケイローンもこの迷宮を狙ってくると思う」
「どうして?」
「走破者にとって必要なのはカリスマ性だと考える者がいる。ケイローンは走破者を求めていると言ってただろう? 自分の派閥を作るつもりなら、赤文字クリアは使える道具になる」
「……」
「伝えておきたかったことはそれだけだ、挑むなら頑張ってくれ」
通話は終わる。
赤文字の迷宮……もしこの戦いに最終的な王者というものがいるのなら、赤文字クリアは通過儀礼として必要ということか。
それなら、私も無視するわけにはいかないだろう。
これは天塩創一からの挑戦状なのか。これまでもさんざんに無茶な迷宮を走らされてきたけれど、ついに極め付きのものが現れたということか。
「イカロ、迷宮に潜るわ。準備はいい?」
「はい」
「私も行きますわ」
私と亜里亜はビーズクッションに座った状態で体を安定させ、おもむろにTジャックを口に含む。
刹那の眠りと瞬間的な覚醒、視界が塗り替わり、私は立ち上がる。
「ここは……」
草原。
遠景には山もなく、どこまでも果てしなく広がるような草原である。空は曇天であり、特に暑くも寒くもない怠惰な風が流れている。
その一角に屋敷が建っている。白い壁と赤い三角屋根を構えたアメリカ風の民家。二階建てでそれなりに大きい……。
「なに、あれ……」
よく見れば、その屋敷の奥行きは異様だ。こちらから見えているのは屋敷の角の部分のようだが、その奥がまるで商店街のように複数の建物が連なっている。しかし路地のような隙間は見えず、すべての建物が有機的に繋がっているのだ。
よく見れば奥の方にはかなり高い部分も見える。木造なのに地上五階か六階か……もっとあるだろうか。モン・サン・ミシェルをぎゅっと縮めたような……いや、これは……。
「なんか雰囲気が……どっかで見たことあるわね、千葉のランドだったかな……」
「ミズナさんってランドとか行かないでしょう?」
「行くけど!?」
『あれは……ウィンフィールド邸ではないでしょうか』
イカロが言う。
『類似画像検索で見つかりました。アメリカ、カリフォルニア州に現存するウィンフィールドハウスを模した屋敷のようです。これは世界でもっとも巨大な幽霊屋敷と呼ばれ、千葉のランドにあるお化け屋敷のモチーフともなっています』
なるほど、取っておきの迷宮というだけあって、現実世界の有名どころをモチーフにしたのか。
ともかくここで立ち止まっていても仕方ない、私と亜里亜は正面にある玄関へ向かう。
「広そうな屋敷ですわ。プレートを探すとなると面倒そうですわね」
「そうね、すでに誰か入ってるかも知れない、慎重に……」
扉に手をかけ、引いて開ける。
がちゃり、という音が背後から。
「?」
背後を見れば、そこにあるのは無限の草原。
そこに人影が立っている。半透明で薄暗い印象の人影。みるみるうちにその数を増していく。
彼らはライフル銃を提げており、それだけは実体を持つようで鉄と木の質感がある。彼らは引き金の下にあるレバー状の部品に手をかけ、水平に構えて。
「! 走って!」
入ると同時に扉を閉め、奥に見えた壺置きの台座の影に飛び込む。
直後に遅い来る硝煙弾雨。木製のドアを粉々に吹き飛ばし、屋敷の中を荒れ狂って調度を破壊し、窓を砕き、柱と床を削ってまだ止まない。
「ぐっ……このお!!」
地に手を突く。私のイメージによって演算力が励起され、地面から突き上がる巨大な岩塊。床板を砕きつつ弾丸を受け止める。火花とともに安山岩の表面が削られる音がする。
「奥へ行くわよ!」
「あっちに階段がありますわ!」
廊下がいきなり複数に枝分かれしている。一階にいては水平射ちの流れ弾を食らうと考えて二階へ。
上がった先にはまた三叉に枝分かれする廊下だ。
船のような丸形の窓があったので、私は外の様子を伺う。
「な……!」
目を疑う。
そこには幽霊のような灰暗色の人影。奇妙なレバーのついたライフルを構えた人影がその数を増している。
およそ数えようもない、地平線の果てまで続く数万人もの影。
それが波を描くように、前列から順にライフルを構えた――。
Tips レバーアクションライフル
ライフルの形態の一つ。引き金の下部に突き出したレバー状の機構を前後させることにより、前の弾の薬莢を排除し、次弾を装填する。
様々な理由により軍事用の主力にはなれなかったが、民間用として広く普及した。




