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迷宮世界のダイダロス  作者: MUMU
第七章 玉塔円転の魔境
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第七章 2



「何がありましたの?」


しばしの後。亜里亜の入れてくれたホットミルクを一口飲んで、私はようやく心を落ち着ける。


「……あまり詳細に話すと、本当に精神衛生に悪い話だから、ぼかして話すけど」


私は言葉を選びながら話す。


「桃に舌を押し当てたとき、「私」の一部が桃の中に入っていったの。中に入った「私」は光もない、天地もない、何の感覚もない場所にいた。そこは暗黒で、「私」だけが存在していた。それに実際は数秒だったのに、体感時間では20分以上あった気がする。「私」は激しい恐怖を覚えたけれど何もできない。まともな思考もできない。恐怖と死という感情だけがあった。そのとき激しい衝撃があって、「私」は体に戻ったの」


思い出した直後は恐慌状態に襲われたものの、ある程度時間が経つと経験がぼやけて行く気がする。その経験、あれが剥き出しにされた「死の恐怖」というものか。


「こういうことだと思う。桃の中には「私」がすべて入るほどのキャパシティがない。桃に入った「私」の一部は恐怖に襲われる。つまり「私」の意識の中で、恐怖を司る部分が桃に集まる。そして桃と私が離れれば、桃の中に「死の恐怖」にまつわる部分だけが残る。これによって人間は「死の恐怖」を桃の中に分離できる、そういう理屈……」

「なんだか突拍子もない話ですわ……」


亜里亜もさすがに半信半疑だったが、先程の私の様子を見ている以上、虚構とも決めつけられない、そんな様子だ。


「参考になるかは分かりませんが……類似の考えを探してみました」


イカロが言う。彼はダイダロスを操作して何かの研究データを表示している。同時に提示されるのは人間の脳の半分が機械になったイラスト。


「精神転送……精神アップロードなどとも呼ばれます。人の意識を機械に移そうとする考えです」


イカロの説明によれば、脳を模倣する機械を生み出し、それに人間の精神を転送させようとする発想は1950年代からあったという。それはSF作品にとどまらず、トランスヒューマニズムのように機械的に人間を進化させようとする宗教的思想や、近年では延命治療の可能性として検討されているという。

ただ、この場合は機械ではなく、有機物である桃に意識の一部を移すわけだ。


「たとえ話として、脳に小さな有機脳を貼り付けるような感覚でしょうか。脳機能の一部がそちらに移動し、移った時点で貼り付けた脳を切り離すわけですね」


コンピューターに意識を転送する場合、それがカット&ペーストであるのか、それともコピー&ペーストであるのかは重大な問題だった。

ある人間は「機械に意識をコピーして、それが本人のように振る舞ったとしても、それはコンピューターの前にいる人間と何の関係もない」と主張した。


だがこういう意見もある。「機械と人間が持続的に接続されており、機械が思考の大部分を担当していた場合、大脳は次第に働きを弱め、機械にその大部分を任せるようになる。これは移動であり、意識のアップロードと言えるのだ」と。


私の経験したことが正しい認識かはわからない、刹那の幻という可能性もあるだろう。

しかし、もはや放置はできない。この現象は恐ろしすぎる。人間を根底から別のものに変えてしまう可能性、それを放置はできない。


「次にケイローンが迷宮に潜るのは?」

「35日に一度ということですので……まだ20日近くあります」

「遠すぎる……それまでに何人が……」


今の私の体験を公開するべきか。マスコミも利用して再現実験をやって……。

だが、これはイカロが否定的な反応をする。


「おそらくケイローンのほうが所有している演算力は上です。情報戦になったら押し切られます」


やはり演算力が物を言う、悔しいがそれが走破者の戦いか。

それに、今の実験に再現性があるとは限らない。私の意識が体に戻れたのはあくまで偶然。

こちらが危険性を訴えれば、向こうも公開実験を行うだろう。そうすればいくらでも小細工はできる。


それに……そう、「死の恐怖」を捨てることが社会全体はともかく、一個人レベルで誰もが拒絶することとは限らない。何しろこの現象は主観で認識できないのだ。私のやったような特殊な実験をしない限り。

私が強固に反対しているのは、自らの経験あってのことだ。もし誰かに聞いた話なら、それも人間の進化と受け入れた可能性だって無いとは言えない。


「でも、止めるしかない」


あれを体験した以上、もう遅い。

これが健全な進化とはどうしても思えない。哲学を持ち出すつもりはないが、心の一部を切り捨てるような行為を、人々に気づかれずに行うことが善とは思えない。


「イカロ……ダイダロスで検討してみて、全世界の桃を全滅させるような病害虫を作り出せないか」

「なっ……」


あんぐりと口を開けるのは亜里亜だ。イカロは何も言わずに手を動かし始める。


「ミズナさん! それはいくらなんでもやりすぎですわ!」

「検討だけよ……あるいはケイローンのやったことを逆にたどる手もある。桃にネクタルを作り出さないような変異をさせる……そういうウイルスを撒く。でもケイローンはおそらく数年がかりで桃を変異させてる。元に戻すのは時間がかかる……」

「出ました。演算力を駆使しても、病害虫を一から開発して、全世界の桃を全滅させるには一年。変異のデータを解析し、それを逆にたどるようなウイルスの開発なら三年はかかるかと……」


それだって破格のスピードなのは間違いない。しかし時間がかかりすぎる。

イカロはおずおずと手を挙げ、付け加える。


「おそらくですが……ウイルス開発はワクチンの開発を同時に行うのがセオリーです。ケイローンが全世界の桃を変異させたなら、元に戻す方法を用意していると考えるのが自然かと……」

「そうね……持ってると仮定してだけど、ケイローンにそれを出させるしかない。そのためには何度も勝利して演算力を奪うか、あるいは演算力を大量に吐き出させた上で勝利する必要がある、でもそんなこと……」


「えーと、ちょっと提案なのですけど」


亜里亜がすいと手を挙げる。


「ようは桃の鉢植えを押さえればよいのでしょう? 全世界の桃を買い占めればよいのではなくて?」

「え――」


桃を、買い占める?

そんなことが……いくら走破者の持つ演算力でも。


「別に私たちだけで買い占める必要はありませんわ。ケイローンのたくらみを阻止したいのは他の走破者も同じ。走破者の仕業と見せた派手な買い占めを始めれば、他の走破者たちも意図が読めないながらも同調する可能性はありますわ」

「確かにそうかも……イカロ、桃ってどのぐらい作られてるの?」

「はい、それでしたら……」


ダイダロスに世界地図が表示され、いくつかの国から赤い柱が立ち上る。生産量を示した棒グラフだろう。


「桃の生産量が一位の国は中国です。およそ1450万トンで全世界の生産量の半分を占めています。順位としては次にイタリア、スペイン、アメリカ、ギリシャ。園芸用の鉢植えは中国や日本などで栽培されていますね」

「ということは、全世界で3000万トン……押さえられる?」

「ネクタルの騒動でかなり高騰していまして……缶詰用の安いものも含めて今は平均でキロ2000円です。それを3000万トンですので……」


現れた数字を見て、亜里亜が立ち上がる。


「60兆円!? 本当ですの!?」

「亜里亜、これはあくまでも単純な計算だよ。でも試算の段階でも全部の買い占めは到底無理だし、実際にやるとなると費用もどれだけかかるか……」


さすがに全量を押さえるのは現実的ではないか。私は唇を噛む。


「……だめね。本当にやったとしたら、一般の人の暮らしに影響がありすぎる……」

「やるとすれば鉢植えが市場に出回らない程度に桃が高騰し、出回った鉢植えもすべてこちらで押さえる形になるでしょう。その場合の試算をダイダロスにやらせます」


さすがにダイダロスでも手間のかかる作業なのか、様々なデータを収集し、排出したレポートをさらに自分自身で評価して選別していく。イカロが何の操作をしているのかもよく分からないが、どうやらデータが絞り込まれてきたらしい。


「出ました。およそ6兆円……それだけあれば鉢植えが出回る数をかなり減らせます」

「イカロ、いまこちらで自由にできる資産は?」

「三ノ須全体の購入を進めていまして、それと自立防衛にけっこう費用がかかっていて……流動資産は60億円ぐらいでしょうか」


最初に会ったとき、イカロの言っていた言葉を思い出す。もともとは5200億の仮想通貨を取引材料として私を勧誘したのだったか。もはや話が全世界規模に及びつつある中で、スケールの制御が効かなくなりつつある。


「はあ、仕方ないですわねえ」


亜里亜がまたぺたんとソファに座り、ゆったりと頬杖をついて言った。


「私が動くしかないようですわね」

「? 動くって、犯罪はダメよ」

「しませんわよ、というか鉢植えの買い占めだって結構グレーだと思いますわ……まあそんなことではありませんの」


では、何を……。

私の精神にはまだ混乱が残っている。亜里亜はそんな私の目を見て、静かに語りかける。


「いずれ、やらねばならなかった事ですわ。自由に生きようと思ってましたけど、その義務から逃れて生きられないことも分かっていたのですわ。本来は私が率いるべきことでしたもの」

「何の話……」


そして彼女は、にやりと笑う。



「利根家の総帥になりますわ」







そして彼女は迷宮にいる。


場所は地下鉄の構内のような眺め。天井がやや低い印象があり、周囲には無数の円柱がある。


「亜里亜、無理しないで、リタイアしてもいいんだから」

「少しでも演算力が欲しい時なのでしょう? それに、貴重な対戦相手に会えたのですもの」

「お姉さん、あまり見ない顔だけど新人の走破者?」


対戦相手は銀のレオタードを着た金髪の美少年、背筋がすらりと伸びていて、エメラルド色の目がぱっちりと開いている。あどけない顔つきだが少年だろうか。いや、そもそも性別がよく分からない。


お姉さん、とは大人の姿になってる亜里亜に言ったのだろう。彼女はいつものゴスロリ姿で、大型バイクをアイドリングさせている。私は今回はリタイアした状態だ。


「迷宮は長くありませんけど、バイク歴なら10年以上ですわ」

「ふーん、まあいいや、ボクも本格的な対戦は初めてだけど、まあ楽しくやろうね」


周囲には円柱型の柱。どうやら広大な空間のようであり、そこに無数の円柱が立っていて遠くが見通せない。360度そんな感じである。


ただしスタート地点には、大きく白い矢印が描かれている。この方向を目指せということか。


私は、この迷宮の名をぼんやりと思い出していた。





―――玉塔円転ぎょくとうえんてんの魔境―――










Tips 精神転移

ロボット工学を用いた肉体に精神をアップロードすることは、人工知能における最終的な目標の一つである。人間の意識を再現するにとどまらず、人間の意識を移動させることを意味する。倫理的、技術的問題から課題は多いが実際的に研究されている分野でもある。

SF作品においては脳の一部をスタックして有機体へ移植する、または無機ベースの脳に移植するなどの手法も提案されている。

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