第六章 7
「お見事……」
ゼウスが壁面にしがみついたまま言い、そこでスタジアムの動きが止まる。
スタジアムは駆動音とともにゆっくりと倒れていく。おそらく平面に戻るのだろうが、アベニューのアパートメントや車がどのぐらい潰れるかは想像が難しい。まあマトモに立てる程度の坂になればいいけど。
「どうやら腕は確かなようだ。次にケイローンが潜るとき、ともに戦おう」
「勘違いしないで、あなたと共闘するつもりはないわよ」
私はあえて突き放すように言う。ゼウスはたしか宗教団体の教祖だったか、人と人の壁を自然に無視するような語り方は宗教家に独特のものかも知れない。
「ケイローンとは戦う。あなたが参加したいなら好きにすればいいわ、それだけよ」
地面の角度がだいぶ戻ってきたあたりで、プレートを頭の上に掲げる。これも学んでいたことだが、ゴールした走破者は他の参加者を呼び寄せられる仕様だ。ゴールした者だけが使える魔法である。
私のそばに両腕を三角巾で吊った亜里亜が出現する。痛々しいけど、まあ現実に戻れば直る負傷だ。
包帯と黒ゴスロリで何だか芸術的なバランスになってる亜里亜は、痛みなど感じさせない気丈さで声を張る。
「ふん! あんな糸目に二度は負けませんわ! 今度こそコールド勝ちですわ!」
「そうか」
ゼウスは簡単に応じる。どうも彼は必要以上にリアクションを取らない性格らしい。
「では僕は現実世界から攻めよう」
「だから一般人を巻き込むのは……」
「人的被害は出さないよ。ケイローンの出してきた桃を分析して、彼が何を狙っているか探ろう。やっていることが犯罪を含むと分かれば攻めようもある」
まあ確かに。
というよりそちらの方がマトモな対応とも言える。迷宮で演算力を奪い合うというのは走破者の発想だ。あくまでケイローンが何か大それたことをたくらんでいる、という前提の上でだが。
「というか私はそのケイローンってヒト知らないからなあ、迷宮でちょっと話しただけだし。何かとんでもない悪人みたいに言ってるけど……」
「悪い人だよ、理想主義者であり根本的なモラルが欠けている。じっくり話せば分かるさ」
ゼウスはすべての事柄について当然のように話し、曖昧にしておくということがない。率直に言えばそうやって何でも白と黒に塗り分ける感覚のほうが危険に思えるが、それは言わないでおいた。
「まあ……貴方は好きにやればいいわ。私は……」
新しい技は手に入れた。迷宮での岩場の創造。
私の中に今まで登った岩の記憶、それが演算パターンとして処理され、自然な岩肌を……。
「……」
岩の……記憶?
待って……ってことは、全感覚投入……。Tジャック、桃……。
唐突な連想。部屋の壁が一瞬だけ顔に見えるような脳の反射的な動き、そして少しの寒気。
「直感はあらゆる演算に勝る」
ゼウスが唐突にそう言う。私が何か思いついたのを察したのか。
「演算力はひらめきや類推を苦手とするからね。もっとも走破者たちの争いに関しては、どうもダイダロスの力がセーブされてると感じる。ダイダロスで立てられた計画を、演算力で力づくで暴けないようになってるのだろう。こうなると走破者は弱い。大いなる演算力を行使する者は引き換えに己の思考力を失うからね。それはそうだろう。サジェストによって思考の連想を機械に預けてしまえば」
「ちょっと黙ってて」
ゼウスは妙に興が乗ったのか、そっぽを向いてまだ何か喋っていたが、私はまだ考えに沈んでいる。
「……イカロ、もうゼウスからの演算力の移動は終わったでしょ。手持ちは増えたはず。それだけあれば、動かせるお金もだいぶ増えたわよね」
『はい、演算力はオートであらゆる種類のトレードに介入し、確実な利益を得ます。必要ならばオンラインバンクの口座情報を書き換えることも……』
「そこまでは必要ないと思う。じゃあどこか、遺伝子研究のできる施設を買いましょ」
「ミズナさん、本格的に桃を調べますのね」
『いえ、ミズナさん』
と、イカロは少し考えるような沈黙の後、きっぱりとした口調でこう言った。
『大学でしたら作れます』
※
全世界の大学、公設の研究機関、そして世界的企業の数々。
それらにとっていま最もホットなテーマはもちろん桃だ。ケイローンが局長を務める新華基因研究所。そこは極めて協力的な態度を見せており、世界中の大学や研究所に惜しみなくデータを提供している。それを受けて商品への応用や、用途の開発が研究されているのだ。
応用範囲はスポーツに限らず、セラピーやメンタルヘルス、あるいは鎮痛治療にも広がっているとか。
「いやあ、我々も予想外でした。桃にそのような物質が含まれていたとは」
恰幅のいい大学教授はそのように答える。
「この人ってNPCなの?」
私は白衣を着ており、亜里亜は大人の姿になっている。ここは全感覚投入された世界の会議室、イカロの構築した拡張世界だ。
どうでもいいけど亜里亜、ゴスロリの上から白衣着るの? 大福?
『はい、おもだった生物工学の論文を記憶させ、人格を構築しています。簡単な受け答えもできますし、ホットな学会情報について彼以上に詳しい人間はいません』
いつぞやの、私のオリンピック出場について行われた議論を思い出す。演算力の増加に伴ってクオリティも上がっているようだ。
小柄で太鼓腹、禿げ上がった頭に銀縁眼鏡という姿はなんだかクラシックな研究者像である。奇妙なことには胸に大きく「生物工学」と書かれていた。
場所は円形の白い部屋。私と亜里亜がその場に立ち。NPCの教授が宙を示す。そこには桃の断面写真や電子顕微鏡写真、分子構造模型などが出現する。
「この桃に含まれる分子機械。これが舌の表面で味蕾に取り付き、痛みや苦痛を司る領域に空白の信号を放ちます。これにより苦痛が軽減され、副交感神経による体温の上昇なども軽減されるのです。『ネクタル』と呼ばれる物質ですね」
ネクタル、不死を与える神の酒だ。
そこまではケイローンも言っていたこと、問題はこの先だ。
「世界中の研究所では、それ以上の特徴は分かってるの?」
「品種によって濃度や分布に多少の差があることが分かっています。今はより多くネクタルを含む桃を探し、また分子機械のみを抽出する研究が行われています。しかしこの分子機械は桃の果肉を離れると活性が弱まるため、やはり果肉を舌に当てておくのが最も効率的ですな」
亜里亜は暇そうに白衣の裾をパタパタさせて言う。
「ミズナさん、いったい何をたくらんでるとお思いですの?」
「……Tジャックの全感覚投入って、機械からの電気的刺激を、延髄を流れる電気信号に偽装するシステムよね」
「そうですわ」
「それって五感だけなのかしら。例えば、私たちが拡張世界で何かをするとき、脳からの命令信号がTジャックから送り込まれてるわけだけど、その時に他の脳の働きは関係ないの? 大脳皮質で行われる思考、海馬にある記憶、視床下部で生み出される情動は?」
「? ええと、それは……」
ぶん、と空気が震える音がして、やや背の高い白衣の男が出現する。その人物の左胸には「脳生理学」と書かれていた。まるで子供向けの解説マンガのような絵面だ。
「これもNPC?」
イカロに問いかける。
『はい、ダイダロスにはすでに数百万冊の書籍を学習させ、映像資料やWEB上の書き込みなども学習させています。どのような専門家でも自由に出せます』
便利なものだ。もう検索する必要もない、教えてくれる人間まで出せるのか。
「その事象は指摘されていました」
『脳生理学』が言う。
「PF、フィジカルフィードバックという拡張世界の規格においては自由にものを出せますが。全感覚投入の間、ユーザーの脳領域全体が活性化することが分かっています。内部での活動に、運動を司る小脳以外の脳領域が関係してるのではないかと」
「PFなんてどこででも使われてるソフトですのに、そーいう妙な仕様を誰も疑問に思いませんの」
亜里亜の疑問に反応して『ソフトウェア開発者』が出てくる。スーツを着た男だ。
「一般的なPF環境においては、プリセットされたカタログから選んで物を出します。形状を指定して出そうとすると、素材不明なブロックのようなものが出てくるだけです。PFの仕様はあまりにも謎が多く、多くの特許とブラックボックスで守られていてまるで解析が追い付いていません。世界的なハッカーたちがソースコードの全容解明を試みていますが。商用流通しているものは全体の仕様のごく一部ではないか、一般的なPCではフル仕様を走らせることができず、限定的な仕様になっているのではないか、と噂されるのみです」
つまりダイダロスでなければフル仕様のPFは使用できない、というわけか。
「イカロ、仮に高濃度のネクタルを持つ桃が見つかったとして、それを悪意を持って利用する人を出せる?」
『はい、可能です』
そのものズバリ『悪人』が出てきた。黒いダッフルコートを着てコサック帽子を被った男だ。なんで悪人のイメージがロシア人っぽいのかはあまり追求しない方がいいだろう。
「ネクタルには痛みや苦痛を軽減する効果がある。こいつは傭兵やテロリストの育成に使えるだろうな。何しろ死に対する恐れや、罪悪感すらも低減する。爆弾を腹に巻いて要人の車両に突っ込むのも容易い」
『マフィア』も出てきた。ボルサリーノの中折れ帽を被ったイタリアンマフィアだ。イカロの見ている映画の影響だろうか。
「高濃度のネクタルを麻薬に利用できるかと思ったが、どうも難しいな。痛覚を感じなくなるといっても気分が安らぐわけでもない。だいたい桃では流通量が多すぎてブラックマーケット化できない」
『投資家』が出てくる。
「すでに桃の生産量は大幅に上振れしている。生産農家にはちょっとしたバブル景気が訪れているな。株を庭に植えたいという人間も多いが、まだ一ヶ月ほどだから大量生産は追い付いていない」
……
やはり、ぼんやりとしている。
イカロの分析でもたくらみが読めない。というよりどこか戯画的でチープなイメージしか返ってこない。これがダイダロスの制約だろうか。走破者のたくらみを、ダイダロスでは見破れないとかいう……。
それは亜里亜も同じだったのか。退屈そうに肩をすくめる。
「やっぱりこんなのじゃ分かりませんわ。本当に何も企んでいないのかも。話によると人間のアップデートが目的なのでしょう? スポーツでは新記録もどんどん出てますし、目的は果たしてると言えますわ」
確かにそうだ。しかし……。
「それに、拡張世界で物を出すとか、Tジャックの話とどう繋がりますの?」
「……」
私の、かぼそい糸のような直感。
それを確認することに恐れがある。あまりにも奇妙で、非現実的な妄想。だから最後までそれを確認することをためらった。
「イカロ……ネクタルを使用した人間が、どのような身体的変化を生むか、執拗なまでに厳密に調べているデータはない? その専門家は出せる?」
『やってみます、難しい指定ですが、何とか……』
そして、その人物は現れる。
『測定技師』との名札をつけた人物だ。がりがりに痩せており、ひどく度の強い眼鏡をかけた人物だった。
「私は基礎データ収集のため、あらゆる条件下でネクタルを使用したデータを集めていました。その中で、一つ奇妙なデータが見つかっています」
「それは何ですの?」
亜里亜が問うと、背後に実物大の桃の木と、その桃にかぶりつく姿の人間のマネキンが現れる。
「このように、木に生った状態の桃に噛みつき、舌を押し当てるという実験が行われました。よりフレッシュな状態ならば効果が高いと思われたのです。桃は新鮮なもののほうが良いとされており、熱を通したり、凍らせたりするとネクタルの分子機械も活性が落ちます」
そして、空いている空間に各種データも出現する。血圧や体温、脈拍に血液成分、筋肉成分。脳波などなど。
「この実験。つまり生木に生った状態でネクタルに触れた場合のみ、その身体データに奇妙な特徴が現れます。今のところ原因は不明であり、計測誤差かと思われていますが」
「どんな特徴ですの?」
亜里亜が先を促す言葉が、怖い。
このままでは崖下に落ちるという直感が、そのままの形で実現しようとするような……。
「体重が落ちるのです」
「およそ4分の3オンス、21グラムほど」
Tips 仮想人格
人間と対話できるAIのこと。このような研究はAI研究の初期からあり、1966年に開発されたチャットボット「ELIZA」が起源とされる。現在は第三次AIブームと言われ、企業のカスタマーサービスや個人のセラピー、エンターテイメントなどに幅広く利用されている。




