第六章 4
左右の手が岩を掴む。
このホールドの狭さと少なさにおいては、いかに体重を支えつつ次に向かえる体勢を作るかが重要。私は不可思議な姿勢になりながら、クレーンで自分の胴体を持ち上げるイメージを持つ。
第7ホールド、ここまでは安定している。第7ホールドはこの課題で一番大きく、腿を乗せて四割ほど体重を預けられる。私は腕をぷらぷらと振って疲労を回復させ、難易度が跳ね上がる後半戦に挑む。
第8、第9ホールド。頭の中でシミュレートしていた通りの負荷がかかる。
大丈夫、イメージできている。未知の負荷は肉体に恐怖を与える、それをイメージトレーニングで克服しておくのも技術だ。
そして第10ホールドを把持したまま第9ホールドに靴底を乗せる。いよいよ最後のジャンプ。
「ミズナさーん! あと少しですわよー」
「頑張ってください」
二人の応援も聞こえる。亜里亜はなぜかビデオカメラを構えていた。まあ別に撮影ぐらいいいけど。
大丈夫、無数にシミュレートしたアタックだ、行けるはず。
私は靴底に神経を集中し、壁と体の摩擦、指の形状まで意識して、跳ぶ。
狙いあやまたず、私の指が第11ホールドに。
「!」
指が外れる。
0.3秒ほどの無重力。全身の皮膚が総毛立って、無限の距離を滑落していく感覚はまさに胡蝶の夢。
瞬間、記憶にある下方のホールドを探る。腿を寝かせ、壁面に手のひらを這わせてざりざりと削りながらそれを探し。
そして体が止まる。
膝と腿からは出血が見られ、指先の皮膚も破れている。何より数十メートルを落下するような感覚に横隔膜が持ち上がり、過呼吸に陥りそうになる。
いくら第7ホールドが大きいとはいえ、1メートル近くも滑落して、ホールドに腿を置けたのは幸運としか言えない。
というよりアタック中の失敗で今のように踏ん張るのは絶対のタブーだ。うまくマットに落ちるために、壁を突き飛ばすように飛ぶのが当たり前。ホールドに激突したなら骨折してもおかしくなかった。
それなのに、いま私が踏ん張った理由は……。
「そこのあなた!」
背後を振り返る余裕はない。だがそこにいるだろうことは予想できている。私は彼に向かって呼び掛ける。
「あなた、知ってたの!? この岩がチッピングを受けてることを!」
「何ですって……」
最初に返るのは動揺するような亜里亜の声。そして、土を踏みしめて木立の奥から現れる気配。
「……知らないんだ」
それは清掃員の老人。来ているだろうとは思っていたが、やはりか。
「仮に行われたとしても、それはおそらく何十年も前だ。過去にただ一人、その怪物を攻略した男がいた。その男もその場所にあるホールドは人工的に削られたのではないかと疑っていた。だからそいつは攻略したものの誰にも報告せず、ここへも二度と戻らなかった」
だが、と老人は語気を強めて言う。
「俺の実力で登れる岩じゃない。そのホールドも下から見上げるだけだった。おそらくは、真に神秘の頂に迫りうる者しか、その違和感に気づけないんだ」
「……。イカロ、この岩の3Dデータ取ってるでしょ、第11ホールドが自然に出来うるものか計算できる?」
「……たった今計算しました。違和感を感じたのはおそらく指ざわりです。玄武岩質はざらざらとした感触を持ちますが、そのホールド内部は磨耗ではありえない滑らかな部分があります。おそらくヤスリをかけられたのです」
指の痛さを軽減するためにヤスリをかけることもタブーだ。それに、指をかけて分かった。この部分は予想していたよりも深く指がかかる。この人間を拒むような峻厳なる岩において、あまりにも甘すぎる部分がある。
「そうか、やはり、手が加えられているのか」
老人はイカロの言葉ではなく、私の確信から察したようだった。彼の悲痛な声が響く。
「悪かった。その岩はこの地で眠らせよう。数えきれない時間の後、雨風がその顔を削りきるほどの時間のあとには、こいつはまた違う怪物になるだろう。その時の後輩たちに託して……」
「何を勘違いしてるの?」
私の言葉に、老人がはたと足を止める気配がある。
「確かに最初に想定していたルートはもう登るわけにいかない。でもね、第11ホールドを使わないルートなら、一度ぐらい挑む価値はあるわ」
「なっ……何だと!?」
老人の声には驚愕しかない。それはそうだろう。第9、第10から第12へ一足とびに渡るようなルート、それは階段で言うなら間が8段ほどすっぽりと空白であり、無限の奈落が見えているような感覚だ。
「そんな馬鹿な……出来るわけがない」
「そうね、滑落で踏ん張った時点でもう真っ当なアタックとは言えない。でも登りながらルートを変えるのは当然あり得ることよ。そもそもクライミングなんて先の見えない崖を相手にする事もある。最初から全部のムーブを把握しておく方が、むしろ不自然なこと」
あるクライマーはこう言った。限界を越える負荷がかかったとき、肉体は必ず道を示してくれる。やるべき動きを教えてくれる、と。
筋肉は回復できていないが、気力は十分。
私は四肢の痛みをアドレナリンを分泌させて抑え、そして第7ホールドの真上、第9ホールドに手を伸ばす。それは丸っこく。しっかりしたホールドだ。
それを両手で把握し、私は左足を蹴り上げる。老人が鋭く声を飛ばす。
「! 何を!?」
蹴り上げた足は素足だ。すでにシューズは両足とも落としている。私はホールドと体幹を金串で突き刺すイメージを持ち、右足も振り上げ、そしてホールドを持ち上げながらその上に逆立ちに。
そしてさらに体を裏返し、岩に背中をつける形になる。無茶な体重移動に腋の下、前鉅筋周辺が悲鳴を上げる。
「ミズナさん何してますの!? それで登れるんですの!?」
さあね、何しろ初めてだから。
理屈としては、この第9ホールドを両手で把持し、第10、第11を使わずに足の親指を第12に引っかけるルート。イカロのシミュレートの中にあったルートだ。
だが、すでに登りはじめて8分は経過している。指も腕も疲労が蓄積し、何よりマットがあるとはいえ、逆立ちの体勢で落ちるのはかなり危険だ。
いや、雑念は無用。
私は岩のことだけを考える。記憶にある岩肌の形状。足を這わせてそれを探す。
両手は全力で力を込めつつ、体重を少しでも岩に逃がそうとする。もし左右に振れたらもう制動は効かない。崩れて落ちるだけだ。
集中しろ。岩を正確にイメージして、岩のふるえを抑えろ。
そして足の親指に感じる突起。私は上から親指を引っかける。理屈として壁から遠い方の足を引っかける無茶な姿勢になる。
そして深く何度も息をつく。こんなムーブはもちろん初体験。
私はぶるぶると震えだす腹筋を意識し、奥歯を噛んで気合いを入れる。
「ふっ!」
不安が襲うよりも早く、吊り下がりから頭を膝に付けるような腹筋運動。そして第12ホールドに指をかけると同時に足を解放。振り子状態となった足が真下に向かうより早く。第12ホールドに体を引き付けつつ、空いた腕を天に――。
※
「見事だったぜ、伝説」
老人は言って、制圧された岩を眺める。彼の顔は真っ赤に染まっていた。私以上に興奮していたのか。
「だが……チッピングは確かなようだな。挑戦者への注意書きが必要だろう、いればの話だが」
「そうね、残念だけど」
老人は岩の根本にひざまずき、戦友に祈るかのように目を伏せる。
「――尊き眠りを、偉大なる者よ」
「ところで、前に登った人がいたとか……」
調べてみたが、やはりこの岩はJFA(日本フリークライミング協会)のサイトにも、クライミング雑誌のバックナンバーにも載ってなかった。
完全な未登頂かと思っていたので、その事は少し残念だった。より厳密に言えば何十年も前にチッピングを行った人物もいるはずだが、それはもうどうでもいい。
「ああ、俺は三ノ須ができる前からこの土地に住んでたが、この岩は当時かなりの山奥にあってね。ある日、旅をしながらあちこち登ってるって男が来たから、こいつを教えてやったのさ」
老人もかつてはクライミングをやってたらしいが、この岩の南壁にはとても手が出なかったという。
「そして、その男は登った。登ってから、登録はやめとこうと言い出したのは残念だったよ。だが俺は削岩の確信が持てず、結局何十年もこの岩を守ることになった」
「あなたもソーゼツな人生送ってますわね……」
亜里亜がぽつねんと呟く。いったい老人はどれほどの長さを岩と過ごしたのか、私には想像もできない話だ。
「何となくこいつから離れがたくてね。別に後悔はない。三ノ須は給料もいいし、息子も、孫たちもこの岩の洗礼を受けて大きくなった」
「……というと、お子さんたちもクライマーになったんですの?」
「いや、息子は寿司職人で孫たちはサラリーマンだ、人生という山嶺に挑んでいるのさ」
「そろそろフツーに話してくださいます?」
まあ老人なりの人生観があるのだろう。
とにかく登り終えた充実感は味わえた。チャレンジは成果十分、と見ていいか。
――それに、あの感じ。
岩に張り付くあの感じ、あれは、もしかして拡張世界に……。
「そういえば、名前を伝えておこうか、お嬢さん」
「え? 名札は見えてるけど……忍足さんでしょ」
「いや、こいつの名前だ」
いつの間にか、岩には夕映えの日差しがかかっている。秋の日の暮れるのは早く、私たちの影は地の果てまで届くほど。
「最初に登った男は、登録はしなかったものの仮の名を付けた。これまで敗北を知らなかった偉大なる者。南の壁に張り付く挑戦者たちが、けして山並みの向こうを見られない険しき道、そのような意味を込めて」
「北不知と……」
「え……」
老人は皮肉げに笑う。
そうか、だから忍足老人はいつか私が来ると思っていたのだ。
この岩は三ノ須ができる前からあり、日本という国ができる前からあった。
それは今日このとき、この場所に劇的なものを与えるために在ったのか。そのために、この岩は何万年もここで待っていたのか……。
「お父さんが……」
彼の名は、北不知蓮二。
私の母、北不知深佳の夫であり、アスリートであり、クライマーであり、ゲノム編集者であった人物。
「お嬢さんの知り合いか、あるいは父親かと思ってたんだが」
「ええ、間違いないと思う」
老人はそうかい、と言って、そろそろ会話も終わるべきかと、なぜか亜里亜とハイタッチをして去っていった。
残された私は、あらためて岩を見上げる。本当に大きい。己が登ったことが信じられないほどだ。
「父さんが……ここに」
「あの……ミズナさん。実はお父様についてもそれとなく探してはいるのですが、まだ手がかりは掴めていません。おそらく海外にいるか、あるいは……」
「大丈夫よイカロ、父は自らの意思で失踪したの、帰るべき時が来れば、自分から帰ってくるでしょう」
――私が金メダルを取れば。
それだけではないが、それも目的の一つではある。私が金メダルを取れば、全てがうまく行き、全ては最初に戻る。家族も、過去にあったさまざまの悲劇も消えてなくなる。そのような想念が私を満たしている。
錯覚に過ぎないかも知れない。
でも、それでも私は、まだ走り続けている。
「さあイカロ、膝の手当てをしたら、また拡張世界に潜るわよ。一つだけ試しておきたいことがあるから……」
Tips 三ノ須の清掃業者
三ノ須においては生徒による清掃活動は初等部、中等部、高等部において各自の教室のみ行われ、部室については予算内で業者委託するか、自分たちで行うかを選ぶことができる。学内イントラネットのアルバイトも活用できる。
それ以外の範囲は専門業者に委託しており、三つの業者で総計80人あまり、出張所は学内に三ヶ所作られている。




