第六章 3
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日々の雑事は噴水のように湧き出す。
授業と陸上部の練習はもちろん。雑誌のインタビューに答えたり、私の名前の入った運動靴が売り出されたり。有名なアスリートと対談を行ったりだ。
ダイダロスの計画としてはタレント的な露出は控えめにしたいらしいので、寄稿する雑誌は固いものばかりにして、CM出演などは断ることにした。目的のためならばメディアに消費されることも厭わないが、オリンピックまでは三年、まだそんな時期ではないだろう。
「イカロ様、小手すり上げ面のコツを掴みましたわ!」
亜里亜は剣道着で素振りに勤しむ。ここは拡張世界に構築した剣道場、竹林に囲まれてて実に涼しげだ。
イカロはというと私の身体能力をデジタル化し、例の岩への攻略に協力してくれている。迷宮の走破のためにも役立つデータだそうだ。
私は一日に2時間ほどはあの岩に挑んだ。そのうち一時間半は柔軟をやりながら登攀ルートをイメージし、チャレンジは二度までに留めておく。
あらためてこの岩は怪物だ。登るルートはいくつか見えてきたものの、どれも人間の限界ギリギリ、しかも7m先の頂上までに最低でも12手を要する。コイン一枚の厚みしかないホールドを指先で掴み、全く見えない次のホ-ルドに足を伸ばす。三点保持など夢のまた夢、ありえない体勢からの離れ業の連続。あらゆるスキルを総動員してもまだ足りない。
「うっ……」
ここまでか、私は体を放し、真下に敷いてあったマットの上に落ちる。
データを取っていたイカロが心配そうな声を出す。
「ミズナさん、怪我をしては大変です。よければ拡張世界にこの岩を再現しますが、そうすれば自宅でも挑めます」
「うーん……」
確かに、拡張世界の精度はもはや現実と差がない。イカロならミクロン単位で再現するだろう。私のこの挑戦をマスコミに見られる可能性もある……いや、見られても別に構わないが、どんな余波を生むかわからないことは避けたい。
「いえ、いいわ。現実だけで行く」
少し考えたが、そう言って断った。
拡張世界と現実世界で何が違うか。それは、やはり身体感覚だろう。
確かに拡張世界にも痛みはあるが、疲労はない。拡張世界では人は常に筋力の100%を行使できる。だからあのミノタウロスは迷宮を十数分も全力疾走できたわけだが……。
つまり拡張世界でクリアできても、それを現実には当てはめられない。ということだ。
V12を越える難度の岩は、そのポイントの少なさや小ささもさることながら、長丁場による疲労を加味されての難易度であることが多い。
この三ノ須の岩もまさに体力勝負の岩だ。腹筋や大腿筋を総動員する運動を数分続けねばならない。指先からインナーマッスルまで、一瞬たりと気の休まる暇はないのだ。
「最後の第11、第12ホールドが核心(特に難しい部分)なのよね。あるとすればジャンプムーブで取りに行く方法、このハイボルダー(比較的、高さのある課題)でやるのはかなりきつい……」
「ミズナさんの体力なら行けそうですが」
「そうね、まだそこまでたどり着いてないけど、やるとすれば第9ホールドに足を置き、体を思い切り持ち上げつつジャンプするムーブね、そのために第7で腿を置いて、右腕をシェイクさせてから踵を上に……」
また次の日。
「イカロさまー! これ取ったら200アップですわー!」
ゴスロリの上からボウリンググローブを装備した亜里亜が言う。使用するのは12ポンド球、投げ方はなんと十字固定式である。マニアックなことを。
見事なカーブを描くボールは1番ピンと3番ピンの間に吸い込まれ、ド派手なストライクを決める。
拡張世界でのボウリングはタダで遊べるのがいい。イカロの用意したボウリング場もなかなかの精度、左右に何百ものレーンが並んでいて果てが見えない。
「ところで、なんでボウリングなの?」
「何かの役に立つはずですわ!」
拡張世界では大人の姿とは言え、亜里亜の実年齢から考えると200アップは本当にすごい。元来センスは良いのだろうか。運動神経がなくてはバイクの曲乗りはできないだろうし。
拡張世界の利点はもう一つある。いくら投げ込んでも片腕だけ筋肉がついたりしないし、筋肉痛も無いということだ。私としては計算外の筋肉がつかないことがありがたい。
ちなみに私のスコアはアベレージ115だ。どうも私は器用さというものが足りないらしい。
そしてボウリングに付き合った後は、また岩に挑む。
「おおよそのルートは見えたわ。なんとか七日目のチャレンジまでには仕上がりそう」
第10ホールドまでなら登り方は体得した。問題はやはり第11、第12ホールド。
原理として、まず1.2メートル下の第10ホールドに靴底を置き、立ち上がるように一気に体を伸ばして第11ホールドに指をかける。第11ホールドは引き出しの取っ手ほどの大きさがあり、指三本までは引っ掛けられる。
そこから真横に1メートル、上に50センチほどの位置にあるのが第12ホールド、これは上面の面積が悲しくなるほど小さく、500円玉が壁面に半分突き刺さった程度しかない。腹筋を使って左足を持ち上げ、このホールドに踵を置き、体を持ち上げつつ30センチ上のトップを把持するのだ。
「問題は第11ホールドなの」
イカロはPCにデータを打ち込んでいた、私は彼に語るとも独り言ともつかない調子で言う。
「ホールドの形状はおおむね把握できてるけど、どのぐらい指が引っかかるかは実際に指を置いてみないと分からない。オープンハンドならまだいいけど、カチ持ちだったり、ほとんど窪みがない可能性も……」
つまり、ホールドの奥行きがどの程度あるのかという問題だ。
このルートはまさに人間のたどり着ける限界の世界。ホールドの奥行きが1ミリ狭いか広いかが勝敗を分ける。
と、そこでイカロがふいに顔を上げる。
「ミズナさん、余裕がありましたので、この岩の登頂ルートを自動生成させてみました」
「自動生成?」
「はい、この岩の南側部分、3D撮影ではホールドとして成立する部分は44個あります。登攀にはほとんど意味のないものもありますが……ともかく、ミズナさんの運動性能を再現したヒューマンモデルを作成し、登り方を遺伝的アルゴリズムで追求してみました」
ノートPCの画面の中では、私と同じ体型で顔のない人形が壁を登っている。16分割された画面が高速で表示され、無理なルートを選んだ者、うかつな体の使い方を選んだ者が落下し、その画面は暗転して、次々と切り替わっていく。
「これらのAIはランダムに次の一手を選び、最善の一手を模索しています。このような学習方式は昔から研究されていまして、テレビゲームをクリアさせたり、巡回セールスマン問題などへの応用も……」
やがて、一つのモデルがクリアに至る。やはり私の想像していたルートだ。これで間違いはない、ということだろうか。しかしまあ、やはりAIでは人間の疲労や指先の感覚を正確に模倣はできないだろうけど……。
画面がまだ続いている。
「? もう結果出たんじゃないの、何やってるのこれ」
「いえ、登頂したら終了という条件は入力していません。他にもっと有利なルートがないかを探している段階です。例えば手数を多くして楽に登れるルート、少ない手数で迅速に登れるルートなどを模索しています」
なるほど。確かに別ルートの存在はあり得る。左右のカンテ(角の部分)を使わないという条件なので、それさえ守っていればいいのだ。
ただイカロの設定が、どうもボルダリングの常識に則っていないのか、セオリーを無視したホールドの持ち方をしたり、一度下に降りてみたりとむちゃくちゃで……。
っ!
「イカロ、今の右下のやつ何?」
「はい? ああ、別ルートのクリアが出たようですね」
イカロが高速再生される画像を巻き戻し、クリアが出た動画を全画面で表示する。それはルートとしては先ほどとほとんど同じだが、最後の部分が……。
「何これ……こんな動き出来るわけが」
「まあダイダロスを使って、秒間240億パターンのランダム生成を行っていますので、こういうものも混ざるものと……」
「……」
今のルート、たしかに画期的だ。
だがそんなアクロバティックな動きに挑んでいる場合ではない。
まずは謙虚に、確実に登るべし。
真っ当な入試に受かってない私が、裏口を模索している場合ではない。
そして――挑戦の日。
「うーん、やはり液冷エンジンは無理がありますわ……ニトロを使うのも……」
亜里亜はというと、拡張世界で無数のバイクに囲まれていた。真っ白な世界の中でバイクがマイムマイムを描いて並んでいる。自動車よりも大きそうな怪物のようなバイクや、トランクにも入りそうなポケバイまで様々だ。
亜里亜の目の前には骨組みだけのバイクと、設計図らしきものが散乱している。
亜里亜は数日、顔を見せてなかった。少し心配になって学生寮の部屋を訪ねてみると、ダイダロスを前に全感覚投入していたので私も追ってきた次第である。
「バイク造るの?」
「一から作ろうと思ったのですけど。どうも難しいですわ。出力を上げると取り回しが犠牲になるし、より小さくしようとするとタイヤも細くなってグリップ力が足りない。というより日本のバイクメーカーすごいですわ。あのバランスの良さを超えるのはなかなか……」
ダイダロスの力を借りているとは言え、バイクの設計までできるのは亜里亜の知識あってのこと、と言うべきだろう。
「……ねえ亜里亜、そんなに勝ちたいの?」
「え? 急に何ですの?」
「だって、亜里亜の目的ってイカロと付き合うことでしょ、別にケイローンを相手にする必要ないじゃない。TONEグループの株だって持ってるし、資産だってもう随分あるんでしょう? このまんま離脱して、平和に暮らすことだってできるのに」
イカロの目的を手伝いたいとか、そんな理由なら分かるけれど、私の知る限り亜里亜がイカロにその質問をしていた形跡はない。どうも亜里亜もイカロの目的を知らないような気がする。
その亜里亜はまばたきを何度かして、そういえば、という風情で声を放つ。
「忘れてましたわ」
私は軽くコケる。すると亜里亜は少し慌てて言葉を継ぎ足す。
「いえそうではないのですわ。もちろんイカロ様との毎日はとても大事ですけども。ケイローンへのリベンジに燃えていたのですわ」
「別にリベンジするだけが手でもないのよ。他の走破者だって、元オリンピアの連中だっていつまでも放置はしないでしょう。私たちが戦わなくても誰かが……」
「でも、ミズナさん」
と、亜里亜は特に何の激情もない、今日の献立について話すような何気なさで言う。
「私たちが倒すべきでしょう?」
「……」
息を吐くように自然な言葉だった。
それは、ケイローンと少しは因縁があるという意味なのか。
あるいは、他の連中には任せておけないという意味か。
またあるいは、一種の傲慢さ。
世界には己一人であり、すべての強者は自分ただ一人の相手だと認識する。あるいはそれこそが走破者の資質なのだろうか。
迷宮世界で相手にすべきは本来は迷宮のみ。天塩創一の生み出した世界を自分だけが走破し、自分だけが味わい尽くしたいのか。そのような人物こそが次なる時代の導き手なのか……。
「亜里亜って、主人公してるよね……」
「なんですの皮肉ですの? なんだか不気味ですわねキモいですわ似合いませんわ」
「そんないっぱい言わなくても」
そう、亜里亜、あなたはもう自分の望みを叶えている。
家のしがらみから自由になり、愛すべき人も見つけた。その愛が人生を通して永続かどうかはさすがに分からないけれど、貴方は今の人生を存分に生きている。
あるいは、そう、あなたのような人が世界を変えるカギを手に入れるなら、こんなに素晴らしいことはないと思える。亜里亜が作る未来は、きっと私の想像しないものになるだろう。私のように己の望みのために、欲望で演算力を奪い合うよりは、よほどまっとうな世界になりそうだ。
私は、それは自分に対する皮肉にしかならないと分かっていたけれど、しばしそんな考えに沈んだ。
だがさほど長くはなかっただろう。私の中でも自覚は育っている。挑むべき課題、成し遂げるべき目的、それを一つずつ乗り越えるのみ。
そして私は岩に挑む。
岩の前で滑り止めのチョークをつけ。おもむろに第一ホールドに指をかけた。
Tips 遺伝的アルゴリズム
学習型AIにおけるアルゴリズムの一つ。ランダムで構築した一定数のルートを試行し、特に結果が有望ないくつかを残し、他のルートを切り捨てる。これを繰り返すことで少ない試行回数で目的の結果を得ることができる。
1975年に提唱された手法であり、機械学習のアルゴリズムで最も古いものの一つ。実際の運用ではさまざまな方法で効率化が行われる。




