第五章 4
「う……」
とてつもない高さだ、地上はあるようだが、もやに霞んで見えない。空気が薄いということはないが、これはおそらくそう設定されてるから。
……では、ここから真下まで走り抜けろというのか?
「イカロ、光学観測おねがい」
『はい、形状は剣のようです。両刃の剣で、遥か下方にて先端部分が地面に突き立っています。地上からミズナさんのいる場所まではおよそ8キロ。下方で何本かに枝分かれしていますが、全体としては直線的な構造です。枝分かれというより、刀身に溝が掘ってあると考えるべきかと』
そこに亜里亜の声も割り込む。
『ミズナさん、ヘリなら出せますわ、最近ハリアーも覚えましたのよ。そこは航空機で攻略した方が良くはなくて?』
「うん、そうかも……」
「そうかねえ」
会話を聞いていたハムードが、キャスケット帽を押さえつつ言う。
「嬢ちゃん覚えときな、レッスン1、迷宮は騙し討ちはしない」
「……」
「スタート地点が靴屋なら、ここは走破の迷宮で間違いない。もちろんどんな方法でクリアしたっていいんだが、おそらく飛行機やパラシュートで降下するってのは違うだろうな」
ハムードは入り口から首だけ出して上を振り向く。私もそれに習うと、上空には螺旋を描く塔のような構造体が見えた、剣の柄に似ている。
「あっちがゴールって線もない、このペタペタひっつく靴にそぐわないからな、この金属板の道を下って、切っ先まで行けばゴールなんだろうよ」
「でも、いくら靴が吸い付くっていっても、こんな靴じゃ走れないわよ、垂直の壁なんて……」
「レッスンその2は」
ハムードの体が沈む。
ぐらりと前に投げ出された体が、壁面に添って落ちていく一瞬、その体がスローに見える。
「!」
「案ずるより産むが易し、だな、東洋の諺だろ?」
その体は重力の腕に捕まれ、一瞬で降下していく。
「くそっ!」
一瞬、怖じけづく心を無理矢理に噛み砕く。
そして私も真下に。
蹴りのように足を突き出す。靴が壁面に吸い付いて強烈なグリップが生まれる。
しかしそれは一瞬だった。体はあっさりと壁面から離れ、私は足場を失って無重量状態となる。
「ぐっ……こ、これ自殺と何が違うのよ!」
どうする、パラシュートやウイングスーツなら出せるだろう。あるいは地上に向けてマットでもばらまくか。
目の端が接近してくる金属塊を捉え、私はとっさに体を丸める。肩が壁面にしたたかにぶつかる。
「痛うっ!」
体が刀身にぶつかった。では完全に垂直ではない? 真上からは垂直に見えたが、実は角度のきつい下り坂なのか?
『ミズナさん、これを!』
私の腕にロープが出現し、その先端はモーニングスターのような球体状の物体に接続されている。
瞬間、それが強烈な磁力を示して壁面に張り付き、ロープがぐんと張られ、鉄球は火花を上げつつ壁面にブレーキを効かせる。
『先端の球体に電磁石を内蔵してます。手元で磁力を調整できますので、それでゆっくり降りられます』
「ありがと、体が削れるところだったわ」
私は時速50キロほどの速さで降りる。
降りるほどに角度が浅くなってきた、今は仰角60度ぐらい、主観的にはまだほとんど垂直の壁だが、これならどうにかお尻で滑りつつ降りられる。
「ハムードはどこまで降りたかしら、高さ8000メートルなら、自由落下でも何分かは……」
『……み、ミズナさん』
イカロの震える声、彼がこういう声を出すときは、何かしら最悪なことが進行している時なのだ。
私は嫌な予感を顔に出さずに応じる。
「……どうしたの?」
『き、北側……ミズナさんから見て、右方を……』
私は言われた通り右方を見て、そしてずり落ちながら固まる。
そうする間にも足場は角度がゆるやかになり、今は45度ほどの坂になる。
それは、竜だ。
西洋の絵にあるようなトカゲ型の竜、途徹もなく大きい。あまりの大きさのためスケール感が掴めないが、おそらく、お尻で降りているこの金属板より、遥かに。
『あ、あれは生物のようですが、体高はおよそ12キロ! し、信じがたい大きさです。しかも歩いてます、こちらに向かって!』
その目玉だけでピラミッドほどの大きさがあり、足跡に摩周湖ほどの穴が開く巨竜、フィクションの世界でも出てこないような怪物。そして亜里亜の叫びも聞こえる。
『ミズナさん! 後ろを見るのですわ!』
そして見れば、背後には巨大な人影。
石か金属か、ともかく灰色の全身鎧に身を包んだ、中世の騎士のような姿の。
巨人が。
おそらくたった今出現したのだ。体高はこちらは10キロあまり、雲を突き抜ける巨体。そして足元の金属板は、もはや角度を失って水平に近くなっている。
「い、いかれてるわ……」
迷宮は嘘をつかない、騙したりしない。
では、この世界の名称、屠龍滅界の剣というのは、なんの誇張でも比喩でもなく、そのままの意味なのだとしたら。
「くそっ!」
私は立ち上がって走り出す。
およそマトモな迷宮ではないが、身構えていて対応できるタイプではない。少しでもゴールへ向かうべきだ。
巨人が剣を水平に構えてる間に走るしかない、それしかないと判断する。
先の方にハムードも見えた。水平での走りならやはり私の方が速い。
「ははっ、こいつはすげえな嬢ちゃん、常識ってやつを笑いたくなる」
ハムードはそう言うと、足をだんと金属板に叩きつける。すると足元で色が変わり、彼の周りだけがタータンに変化する。陸上競技用の、あの赤土色のトラックのことだ。あれは合成ゴムでできている。
そして駆ける。大きなストライドを取り、体を前に送り出すような力強い走り、年齢を感じさせないのもそうだが、足元のタータンがグリップを効かせている。
やがて道が別れている、左右にYの字に折れ曲がり、ハムードは右へ。
一瞬、迷ったが私は左へ行く。ハムードはおそらく足元を変化させる走破者だ。走りやすく変化させられた道を私も走れる利点はあるが、後方にいてはトラップを仕掛けられるおそれがある。
いかにもアスリートな私の前でタータンを出すとは、後ろをついてこいと言わんばかりだ。それには付き合わない。
そしてついに巨人が動く。剣を斜め上に振り上げ、私は足元に磁力球を設置し、コース上の溝に手をかけて耐える。
ハムードは何やら粘着質のゲルを敷き、そこに両ヒザと両手をついて張り付いた。
「こ、これ、振り下ろされたらGで死ぬわよ!」
さすがに人間と同じには動かない。あとで計算したが、身長10キロメートルの巨人が8キロメートルの剣を振り上げ、それを一秒で振り下ろしたなら、切っ先の速度はマッハ200を越える。Gどころか衝撃波で五体バラバラになるだろう。
そこまで速くはない……つまり巨人と竜の動きは客観的にはかなりスローに見えるが、それでも剣に乗った蟻にしてみれば天変地異である。私とハムードはGに振り回されつつ、ブラックアウトせぬよう腹に力を入れる。
ついに剣が振り下ろされる。絶望的なまでの急速降下。
「南無三!」
私は球体の磁力を解除する。そして自由落下に。
私の目の前で、いや実際にはそれは数キロ先の出来事だが、迫り来る竜の首に装飾のある宝剣が突き立ち、その皮膜と筋肉を裂いて、緑の血を大噴火のごとく噴出させつつ斬り抜く。
私はすでに時速150キロを越える自由落下の世界で、剣の生み出す気流に翻弄される。
私は風圧の中で目を見開き、その切っ先の至る先を追う。
「もう少し右……」
足元に四角い鉄塊を生み出す。これは私が生み出したもの、本当にただの鉄のサイコロだが、自由落下の世界なら足場には十分、私はそれを蹴って飛ぶ。そして鉄球を投擲。
先端が剣の側面に張り付く瞬間に磁力を最大に。鉄球はデロリアン号のように凄まじい火花を上げながら削れ、摩擦力を生み出し、ロープがピンと張られて肩が外れそうな衝撃。全身を剛直させて耐える。
そしてターザンの数倍の速度で、全身で剣の側面にぶち当たる。かなり気を張っていても失神しそうな衝撃だったが、どうやら成功だ。
ここは切っ先から数百メートルの地点。巨人によって振り下ろされた剣は斜めに近くなり、切っ先が地面すれすれの場所にある。私は巨人が次の動作を始める前に走る。かなりの下り坂を、跳ぶように。
自由落下からのショートカットははっきり言って無謀な作戦だったが、なんとか死なずにやり遂げたようだ。
そして。
「……まったく、無茶しやがる。まさか切っ先に向けて落ちるとはな」
「どんな角度で斬るつもりかは読めたからね……かなり幸運もあったけど」
ここは地上。
ゴールのプレートはやはり切っ先にあった。私がそれを回収したのを見て、ハムードもパラシュートで降りてきたのだ。
プレートを回収すると同時に巨人は動きを止めた。なるほど、ヘリでは地上までは行けても、プレートを回収できないわけか。
演算力の移動はつつがなく完了、初めてだったが特に難しくはなく感覚的に行えた。私もハムードも大して演算力を使ってないので、移動するのは持ち分の半分。
「やれやれ、仕方ねえな、また次の相手を待つか」
「次の迷宮に行くの?」
「ああ、死んでログアウトする以外なら何度でも挑めるからな」
「……」
そして、演算力が一万台を切れば現実世界で狙われる、というわけか。初心者ならともかく、元オリンピアのハムードは間違いなく襲われるだろう。
「お嬢ちゃん、いいことを教えてやろう」
「なに?」
「何人かの走破者が、ケイローンを襲う計画を立てている。迷宮の中での話だがな」
「襲う……」
「俺も誘われてるんだ。ケイローンは期限ぎりぎりの35日に一度、つまり五週間おきの日曜日、中国国内時間の17時に迷宮に潜っている、日本時間なら18時、だったかな」
「そこでゴールを阻止するっていうの?」
「そうだ、おそらく3日前後迷宮を占拠し続ければケイローンは演算力を失う、そういう公算だろう」
「そういうのって……成功したことあるの?」
「こんな本格的な阻止計画は初めてだな。迷宮のスタート付近を15秒おきに燃料気化爆弾で吹き飛ばし続けるらしい。しかし爆発物は演算力を食う。それを仕掛けた走破者がもし負けたなら、演算力を根こそぎ奪われるだろう」
凄まじい作戦だ。しかしそれは確かに、核を除けば人間の最大火力。そこまでやられれば迷宮を走破するどころではないはず……。
「……そこまでするの? 走破者ならみんな演算力があるんでしょう?」
「ああ、多少なりとな」
「おかしいでしょ……夢を叶えたいなら勝手に叶えればいいじゃないの。ケイローンのやってることがそんなに悪いことなの? 言ってみれば桃の品種改良じゃないの、それだけで……」
「一人だけなんだよ、嬢ちゃん」
ハムードの声が真剣味を帯び、私はぐっと押し黙る。
「これは迷宮の必然だ。最後に一人だけ走破者が残り、そいつが次の一手を選ぶ。そう決まってしまったのさ。人間をもっと進化させてもいいし、滅ぼしてもいい。嬢ちゃん、気づいてるかい、お嬢ちゃんももう候補者の一人、最後に生き残れば、お嬢ちゃんが選ばなければならない、その演算力で何をするのかを」
「……」
「走破者はみんな願望を持っている。最後に残った一人が叶える願い、それはどんなことでも叶い、それに合わせて世界はその姿を変える。これは世界をどのように変えるかを決める。そういう戦いなんだよ。嬢ちゃん、覚悟を持ちな。もう降りることは許されない。分かってるとは思うがね……」
ハムードは、そこでなぜか私の顔を見たまま眉値を寄せる。これは言うつもりはなかったが、という感情が感じられた。
「それに……俺に言わせれば、ケイローンの言っていること、どうも胡散臭いね」
「……それはまあ、冷たい目をしてるな、ぐらいは思ったけど」
「人間を進化させる。そう謡ってる走破者は何人かいるが、みんな宗教がかった抹香くさい連中だよ。それはそれで純朴な感じもするがね。……だがケイローンだ。あいつはそんな殊勝なタマじゃない。かつてはオリンピアの一員だったが、現実主義の冷たい男だったと思うんだが……あの桃で何を企んでやがる? ケイローン自身にどんな利があるってんだ」
「……」
「ともかく、ケイローン討伐に参加したかったら嬢ちゃんも来な。来週の日曜日だな。ケイローンはかなりの演算力を持ってる、もし奪えたなら参加者で山分けだとよ」
「……考えとくわ」
ハムードは私の肩を叩いて姿を消す。
私の左右には、世界を滅ぼすほどの竜と巨人。
その狭間にあって、ふと考えに沈む。
いよいよ動き出すのか、本格的な演算力の奪い合いが。
しかし、この不安は否定できない。
あの景龍の冷たい目。
あれの前には、どんな謀も看破される気がする。
そして走破者が、迷宮が。
あるいは世界が、あの冷たさに向かって傾斜していくような……。
Tips 屠龍
龍を殺すこと。屠龍之技とも。
荘子、列禦寇より、高い見返りを払って龍を殺す技を身に付けたが、龍がいないので役に立たなかったという故事から、世に比類ないほど優れた技、または特異すぎて役に立たない技のこと。
屠龍の剣、屠龍の刀という言葉は中国武侠小説などにもしばしば登場する。




