第五章 3
「……イカロ」
目眩がするような青天の霹靂。
世界の形が変わってしまったという実感を前にして、私はしかし、動揺してばかりはいられない。
「この後、質疑応答があるんでしょ、私たちの記者を送り込めない?」
「? ミズナさん何言ってますの? 私たちの記者なんていませんわよ」
「いいえ……」
私が亜里亜に答えんとするとき、すでにイカロの腕は動き出していた。演算力を駆使して方法を見つけ出し、実行する。ダイダロスと一体化するようなイカロの操作はとても真似できないが、画面はかろうじて目で追えた。
「あそこに並んでる記者がどこの誰かはすぐ調べられる。後頭部しか見えてなくてもね。そうすれば上司の顔も分かるし、メールアドレスも調べられる。記者の携帯に指示を入れるわ」
「もはや何でもありですわね……」
そして、そんな咄嗟の思い付きですらダイダロスは実現する。会場にいる記者が何人か割り出され、指示できる体制が整った。
質疑応答はすでに始まっており、豆苗が育つように次々と手が上がっている。
「BBC放送のドレッツォです、お聞きしたいのですが、そのような物質がなぜ今まで発見されなかったのでしょう」
「おそらく閾値の問題でしょう。これは桃の果肉を舌に張り付けるように数十秒置くことで効果が生まれます。また、苦痛を軽減するといっても人間の限界に迫るような極端な苦痛のみで、日常生活ではほとんど気付かないものです」
「ワシントンポストのフィラーです。マラソン選手がそのような苦痛の軽減を行った場合、過度の負担がかかっていることに気付かず、危険な状態に陥る可能性があるのでは?」
「もっともな疑問です。しかし人間の体にダメージを与えるのは、おもに副交感神経から送られるブレーキそのものなのです。もし苦痛が低減されるなら、心臓や手足の負担それ自体が低減すると予想されます。実際、先ほどフランスにて走りを見せた馬選手はゴール直後も快活な様子でした。これは心拍数が上がりきっていないからです。車も同じですが、限界を超えて性能を発揮しようとすると、心臓をはじめ各部の無駄が大きくなりすぎるのです」
「ミズナさん、次に指名されそうです、何か質問を」
「……そうね、こう聞いて」
私の言葉を、イカロがネットワークを経由して記者に飛ばす。
「えー、日本のニコヤカ動画の秋山です。お聞きしたいのですが、あなたのお仲間はこの仕事を承知しているのか……トップは知っているの、か……。一人でやっていることなのか……ええと、そのへんお聞かせください」
意味不明な質問に、当の記者も困惑ぎみである。きっと会社に帰ってから上司に怒られるだろう、申し訳ない。
だが景龍には意味が通じたようだ。口の端をわずかに吊り上げ、細い目に作り笑いを浮かべてマイクを取る。
「研究チームのリーダーは私ですので、リーダーは私ということになりますね。それ以外に何ら上の指示などはありません。協力してくれる心強い仲間たちはおります、彼らとともに走り抜けたいと思っております。それと」
一瞬、その目に氷のような冷たさが浮かぶ。その目がカメラの奥にいる私を見つけ出し、冷ややかに呼び掛けるような錯覚が襲う。
「ランナーは常に募っております。優秀な方々にご協力いただき、世界を変えていきたい、それが私の所存です」
まだ細かな質疑応答が続いているようだが、私たちが手を出せたのはそれが最後だった。
誰も気づかぬうちに、世界中に起きた変異。その変化がどんな意味を持つのか、私にはまだ、とても見通せず……。
※
それから数週間。
世界は激動に包まれていた。桃による苦痛の低減はプロスポーツだけでなく、激しい熱とGに晒されるモータースポーツにも、あるいはチェスや将棋のようなブレインスポーツの世界にも革命をもたらしていた。
その中国の研究所は、発見された物質に「ネクタル」と名付けた。神話に出てくる神の霊薬、不死を与える酒だ。ギリシア語だとnektar 英語だとnectar となる。この発見を「Revolution of nektar」
略してRONと呼称するのはあまりにも出来すぎだったが、世界は目まぐるしくそれに同調しつつあった。
では、このRONが私の目標に影響を与えるだろうか?
今のところそれはない、ネクタルの効能は苦痛の低減であって、短距離走にはあまり関係がないようだ。
それに根本的なことを言ってしまえば、私がそれに異を唱える資格があるだろうか。
世界は変わり、人は2時間の壁を破って、より高みへ上れるようになった。
それの何がいけない?
あるいはいっそ、正しい行いだとすら言える。
私も同じ、金メダルのために世界を変えようとしている。
目的のために世界すら巻き込む、それがあるがままに生きるべきという、走破者の矜持なのだろう。
……
しかし。
しかし何故だろう。
心のどこかに、不安の風が吹いているのは。
※
「イカロ、誰かいるわ」
私たちは迷宮の走破も続けねばならなかった。何度も潜れば、そこで他の走破者に出会うこともある。私たちより後に入った走破者はすぐにログアウトし、先に誰かがいると気づいた場合は私たちがログアウトする。互いに顔も見ない、思春期のすれ違いのような日々だ。
無理して演算力を奪うことはない、それが走破者の共通認識のようだ。
ここで一つ疑問がある。
先にゴールした人間が演算力を奪えるというルールだ。あらかじめゴール付近で待機しておき、誰かがログインしてから演算力を奪うことは可能か? という疑問。
これについても検証できた。私がゴール付近で待機して、15分後に亜里亜が入る、そこで演算力の奪取を試みたが、何も反応しなかった。ログインした時間に差がありすぎるとダメなのか、私と亜里亜の間では移譲できないのか、相手との距離の問題なのか。
おそらく、この疑問を解決できる概念がある。
それは、審判の存在だ。
あのプルートゥは言った、迷宮は私たちを見ている、迷宮には知性があると。
おそらく迷宮自体が様々な観点から走破者たちを評価し、正当に競いあいが行われたときだけ演算力が移動するのだろう。
フェアな仕様だが、天塩創一の迷宮を走った者ならば、彼がバランス感覚のある人物だとはとても思えない。
イカロには悪いが、彼は頭のネジが五、六本ぶっとんでるのだから、本当に。
……さて、それはともかく今日は先客がいるのか。
そこは一言で言うなら靴屋の眺め。
左右にずらりと並ぶのは色とりどりのランニングシューズ、トレッキングシューズ、革靴やサンダルまである。とにかく広い。ちょっとしたスーパーマーケットぐらいはある。
その人物は、店舗の中央あたりで待っていた。
「あなたは……」
中肉中背の黒人で、顔中に皺の寄った老人である。年は取っているものの背は伸びており、灰色のキャスケット帽を押さえながら振り向く。神さびた岩のような存在感のある人物だ。
「やあ、日本のお嬢さんか」
「……ハムード・アルズ」
そのステップは蝶の舞うようで、その一撃は象をも倒すと言われた伝説的なボクサーだ。畑違いの私でも知っている。世界最高のスポーツマンの一人……。
「あなたも走破者だったの?」
「ああ、オリンピアの一人として、プロメテウスなんて呼ばれたこともあったがね」
私は少し身構える。
ハムードは緊張をほぐそうとしてか、肩をすくめて笑ってみせた。
「もう違う。リーダーにはついて行けなくてな。それに、どうやら俺は戦いに生き残れそうにないからな」
見た目は矍鑠としているが、たしかハムードが世界チャンピオンだったのは40年以上前だ。拡張世界では疲労とは無縁だが、身体感覚の衰えは免れない。
「お嬢さん、気づいてるかい、一部の走破者が、ついに現実世界で活動を始めた」
「ええ……」
ハムードは壁面に並ぶ靴を見ながら歩き、私も何となくついていく。
どうも妙な靴だ。靴底が半透明のシリコンのようなものでできている。押すと柔らかく、スパイクなどは無い、室内履きにも見えないけれど。
「まともな対人戦が起きない状態が何年も続いてる。皆、月に一度ぐらい迷宮に潜って、わずかな演算力を漁るだけの日々だ。それも無理はない、対人戦で負ければ演算力を失うからな、そんなリスクは犯せないわけだ。アポロの小僧はときどき初心者を襲ってたようだがね」
「……対人戦、オリンピアの間では起きなかったの?」
「あまりな」
ハムードも靴の意味は分からないのか、いくつか手にとって、また棚に戻している。
「だが、俺はこう考えてる。これは「予選」なのだと。やがて一定量の演算力を持った走破者たちが出揃ったとき、ついに潰しあいが始まるのだとな。それはすなわち、迷宮が尽きる時だ」
「尽きる……」
「迷宮は、走破されるごとにワークステーション100台から500台相当の演算力を得られる。だが地球上に存在するコンピューターは有限だ、いつかは迷宮も演算力も尽きる。その時に走破者はどうなる? 30から40日以内に迷宮を走破しなければ演算力を失う。そのルールをどうやって守る?」
「戦わざるを得なくなる、ってことね」
「その通り、ケイローンの野郎が動き出したのはその兆候だろう。他の走破者にも影響が出てる。何人かが凄まじい速さで迷宮をクリアし始めたんだ。一日に二つ三つという速度でな。オリンピアの連中も戦々恐々だろうよ。迷宮がいつ尽きるかは誰にも分からんからな」
ケイローン……半人半馬の怪物、医学に通じた賢者だったか。私はそんなことを思い出しつつ、ハムードの様子をうかがう。
「人間の寿命を300年にする、それが俺の願いだったよ」
「……」
「だが間に合いそうにない、このままではな。だから一発逆転を狙いたいんだ。ここでケイローンを待つつもりだったが、お嬢さんが相手してくれるならそれでも構わんよ」
『ミズナさん、危険です。相手は元オリンピアです。その言動もどこまで信用できるか』
「いいえ、受けましょう、イカロ」
『……っ』
「これから走破者同士の潰し合いが始まるなら、必要なのは経験よ。最後まで待って、残った一人に勝利して演算力を独占、そんなうまい筋書きがあるはずがない。走破者と戦える数も限られている。ここで対人戦の経験が積めるなら、やらない手はないわ。負けても奪われるのは演算力の半分、私たちは8万台以上所有している。まだ余裕があるうちに戦うべきよ」
私の言葉に、イカロは無言で逡巡する。
だが、ほどなく同意の声が降り注いだ。
『わかりました……精一杯サポートします』
「ありがとう、イカロ」
油断はしない。ハムードがいかに高齢であってもオリンピアの一員だ。だが、私だって負けるつもりはない。
「さて、どうやら靴を選べってことらしいが……何なんだろうな、これは」
「イカロ、この靴分析できる?」
どん、と空港にあるようなX線検査装置と、CCDのようなスティックタイプのカメラが出てきた。何でも出せるもんだ。
私は靴を機械に通し、カメラで靴底を撮影する。映像はイカロに届いたようで、イカロがダイダロスを操作して分析する。
『それは……シリコンゴムで出来てますね。表面にくさび状の溝が無数に掘られています。踏み込むと靴底が床に密着するようです』
「何の意味があるの?」
『それとよく似た靴をスタンフォード大などが開発したことがあります。圧着することで分子間引力を発生させ、ゆっくりではありますが壁面を歩くことができたというシューズです』
ヤモリのような原理か。つまり、この迷宮では壁面を歩くことが必要になり、演算力を持たない走破者にも迷宮に挑めるような配慮なわけだ。
「お嬢ちゃん、こっちがスタートのようだぞ」
ハムードが言い、私もとりあえず合いそうな靴を選んでそちらに向かう。
シューズショップの一角、外への出口が開けており、その外には青空しか見えない。
ーーいや。
私はその出入り口の前で立ち止まる。
その外には陸地がない。ただ空漠たる青空が広がるだけだ。遠くになぜかマグリットの絵のような大岩が浮いている。
私はハムードに並び、いちおう彼の様子に気をつけながら足元を覗き込む。
そこは、断崖絶壁。
いや、岩肌ではない。下方に向けて真っ逆さまに、金属板で出来た垂直の道がある。その道はアミダのように入り組んだ形状となって、もはや目視の及ばない深みまで伸びている。
「老人に無茶させやがる」
いや老人がどうとかではないと思うけど。やっぱりネジ飛んでるわよ製作者。
私は、この迷宮の名前をぼんやりと思い出していた。
意味は確か、竜を仕留め、世界を滅ぼす巨大な武器。
―――屠龍滅界の剣―――
Tips 分子間引力
分子間や原子間に働く電磁気学的な力のこと。
生物の多くはツメや粘着物質によって壁面を登るが、ヤモリはその足に生えたマイクロメートルサイズの体毛、さらにその体毛を構成するナノメートルサイズの構造群によって分子間引力を得て壁を登る。この構造は壁面作業を行うロボットなどへの応用が期待されている。




